生きていくなんてわけないよ

ディズニーファン向け娯楽ブログ

【東京ディズニーランド小説】エピローグ「迷子たちは花火を夢の国で見たかった」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

***

 

 夜風のないファンタジーランドで蒸し暑い空気に包まれながら、興奮して熱くなった体で、私は呆然と立ち尽くしていた。イッツ・ア・スモールワールドのシンボルである、建物の正面中央のスマイル・フェイスが、ゆらゆらと左右に首を揺らしている。夫が私のそばに寄って、私の方に手を置いた。

 

「美鈴ちゃん、追いかけなくていいの?」

「……うん、いい」

 

 わかってあげたいと思った。わかってあげられると思った。助けてあげたいと思った。助けてあげられると思った。でもこれは、大人のエゴだ。

 

 彼女が、ひよ莉ちゃんが望んだのは、問題の解決とか、保護とか、警察とか、治療とかじゃない。もっと単純な「じゃあ今日は、うちに泊まっていきなよ」という程度の、その場凌ぎの優しさだったんだ。家出少女の家出に手を貸す、という、正しい大人が選ばない方法を、彼女は望んでいた。解決すること自体が、彼女にとっての正解ではなかったんだ。私は、自分の何もできなさに打ちひしがれて、静かに泣いた。

 

「啓太くん」

「なに?」

「わかりあうって難しいね」

 

 夫は少しバツの悪そうな顔をして、私を胸に抱いた。ぎゅっと、ちょっと苦しいくらいに、強く抱きしめられる。ベビーカーで、息子がスヤスヤと寝ているのを、夫の腕に抱かれながら、私は横目で見て微笑んだ。

 

 私とひよ莉ちゃんは、違う人間なんだ。年齢が離れているというだけではない。違う人生を歩んで、違う経験を経て生きてきた、まったくの他人。私と夫の関係ですら、こんなにも分かり合えないのに、何をわかってあげられるつもりでいたんだろう。

 

 抱きしめられていたら、空に大きく花火が上がった。特にアナウンスも聞こえなかったし、BGMも相変わらず通常のものが流れていたのでびっくりしたが、私たちは空に打ち上がる彩り豊かな花火を眺めた。突然大きな音が鳴ったので、息子が目を覚まして、次の瞬間に泣き始めた。私たちは、抱き合っていたところをパッと離れ、ちょっとだけ照れ臭い顔ではにかんで、ベビーカーに駆け寄った。

 

 さようなら、ディズニーランドの妖精。

 素敵な出会いだったけど、ごめんね。ありがとう。また、どこかで。

 

***

 

「すごい、素敵な部屋!!お城が、真正面!!」

 

 妻が部屋に入るや否や、駆け出した。私も部屋に入り、電気をつける。妻の言うとおり、東京ディズニーランドが部屋の窓から真正面に臨めた。ベッドに腰を下ろして、ポロシャツの一番上のボタンを外し、それから帰りに自販機で買ったペットボトルの緑茶を飲んだ。緑茶のパッケージまでもがピーターパンに登場するティンカーベルのイラストで、こだわってるなぁとまじまじと見つめてしまった。

 部屋はレトロな感じのミッキーとミニーのイラストが壁に描かれている。ところどころ美女と野獣を思い起こすアートが飾ってあったり、テレビ台のてっぺんに顔がついていたが、なんのキャラクターかは私にはわからなかった。妻はバルコニーまで出て行って、パークを眺めている。

 部屋に入って数分後、部屋のチャイムが鳴った。ドアを開けると、キャストがワゴンを横に立っており、私と目が合うと一礼した。

 

「河口様。北川様より仰せつかっております。結美様へのバースデーケーキとフラワーアレンジメント、シャンパンのセットでございます」

「え、かえでのやつ、すごいな……ありがとう」

 

 ワゴンの上にミッキーの形をしたケーキと、オレンジ色の花を使ったフラワーアレンジメント、そしてハーフボトルのシャンパンが用意されていた。改めて、妻の誕生日を祝うこの場で、特になにも用意してこなかった自分の肩身が狭くなる。キャストは失礼しますと言ってワゴンを中に運び込んだ。妻が驚いて駆け寄る。

 

「えっ!すごい!素敵!なにこれ!」

「お誕生日おめでとうございます」

 

 私はテーブルに用意されるケーキのセットを眺めながら、帰ったらかえでにいくらか払おう、とか考えていた。妻が私にお父さん!と声をかけ、私を椅子に座らせる。

 

「写真お願いします」

 

 キャストがデジカメ、スマホの順でシャッターを押す。ちゃんといい笑顔で撮れただろうか。キャストが出て行った後、シャンパンを一口飲んで、はぁ、とため息をついた。今日は、多分、いい雰囲気で終わったけど、世の「理想的な」夫婦像を考えると、こういうことも、娘に任せっきりじゃなくて、私が率先してやらなきゃいけないよな、と思い、まだまだ考えるべきことがたくさんあるように感じた。

 

「きゃっ!!見て、花火!!写真、撮らなきゃ!」

 

 妻はそう言って、再びスマホを取り出した。ドドン、と音を立てて、遠く向こうで花火が咲く。私はふと思い立って、部屋の入り口まで行って、電気を消してみた。

 

「こっちの方が綺麗に見えるな」

 

 私はバルコニーに出る大きな窓に寄りかかって、妻の背中と、遠くに見えるシンデレラ城、そして花火を眺めた。

 

「ヨーホーヨーホー、ふふん、ふふん、ふふん……」

 

 また、思わず鼻歌を歌ってしまって、妻が振り返って、ニヤッとしたので私は少し照れた。

 

「お父さん、こっちに来て」

「うん、行くよ」

 

 私はバルコニーへゆっくりと歩いていき、妻の肩を抱いた。

 次の結婚記念日こそ、私の力で、何かをやろう。何をやるかはまだ、何も決めていないけれど。

 

***

 

 私たちはパークを出て、駐車場方面のタクシー乗り場へと向かっていた。

 

「愛ちゃんは、今日何が一番楽しかった?」

 

 姉が私に聞いてくるので、私はちょっとだけ今日乗ったアトラクションを思い返した。

 

「う〜ん。なんだろ、どれも楽しかったけどね」

 

 さすがに「ピーターパン空の旅」は一番だとは言えないし、そもそも乗ったこと自体も秘密だ。

 

「私はね、ホーンテッド・マンション」

「2回も乗ってたもんね」

 

 姉が不気味なお化け屋敷のアトラクションが好きになるなんて、今日一日で一番意外な出来事だった。

 

「川島さん、結婚するのかな」

「結婚するとしたら、お姉ちゃんの担当外れちゃうね」

「う、さみしいな」

 

 タクシー乗り場に着いて、ちょうど停まっていたタクシーに姉を乗り込ませる。車椅子は畳んでトランクへ。私も乗り込んで運転手に姉の障害者手帳を見せる。

 

「新浦安までお願いします」

「はいよ。お姉ちゃん、車椅子だけどアトラクションは乗れたの?」

 

 姉は何も答えなかった。人見知りだし、こういう、ぶっきらぼうな喋りの男性は姉は特に苦手だった。私が代わりに答える。

 

「乗れたり、乗れなかったりですね」

「そうか、そうだよねぇ。俺もさぁ、6、7年前に、家族で遊びに行こうってんでチケット買ってたんだけど、階段でこけて骨折しちゃってさぁ、松葉杖でディズニーランド回ったけど、大変だったよ」

「はぁ」

「まぁ、もう治って今はピンピンしてるけど。お姉ちゃんもいつか乗れたらいいなぁ」

「はぁ、あの、ちょっと車止めてください……。止めろ!!」

 

 私はタクシーの中で叫んだ。運転手は驚いた顔をして、すぐに道路の脇に車を停めた。私は明らかに不機嫌な形相で、さっき積んだばかりの車椅子を取り出し、姉をタクシーから降ろした。

 

「降ります。お金は払います。骨折、大変でしたね。でも……、姉の障がいと、一緒にすんな!」

 

 500円玉を座席に置いて、叫んだ勢いでドアをバンッ!と締めた。運転手が慌てて去って行くのを見送り、姉の顔を見た。

 

「……愛ちゃん、おつりもらってないし、まだディズニーから全然離れてないし」

「……そうだね、もったいないことした。明日のお昼ご飯抜くよ」

「でもね、私も言い返してやりたかったんだ、ありがとう愛ちゃん。お昼ご飯は食べて」

 

 ドドドド、と音がして、振り返ったら遠くの方で花火が上がっていた。ディズニーランドの花火だろう。しまった、これだと、パークで見たかったと姉が悲しむかなと思った。でも、恐る恐る姉の顔を見たら平然としていて、黙ってスマホのカメラで花火の写真を撮っていた。

 

「帰ろう?」

「う、うん」

 

 私はキョキョキョロと周りを見渡したが、近くにタクシーが止まりそうな雰囲気もなかったので、そのままディズニーシーの方まで車椅子を押しながら歩くことにした。

 

「あの運転手のおじさん、女と子供にだけは強くいけるタイプだと思うな」

「かもね」

「愛ちゃん、あんなに強く言い返せるんだね。知らなかった」

「……まぁ、私の仕事も、変な客が来ないこともないからね」

 

 私がそう言ったら、姉は少し黙った。

 

「……みんな、ノアさんとか川島さんみたいな優しい男の人だったらいいのにね」

「……あ、あと、かざぽん」

「お姉ちゃん、かざぽん好きだね」

「大好き、かっこいいし、おもしろい」

 

 男の人がすごく苦手なのに、かっこよくて優しい男の人と、ディズニーランドの話をするときは、姉はすごく活き活きする。私は笑いながら、姉が語る「かざぽん」のテレビでのディズニーうんちくの受け売りに耳を傾けていた。空を見上げると、ディズニーシーの火山とお城の間で、まだ花火が上がっていた。

 

***

 

 パークの喧騒から遠く離れ、しかしながら、こちらはこちらで、夕食を求めに来た若者やファミリーたちでそれなりに賑わっていた。イクスピアリのクアアイナに、僕はいる。今まさにテーブルへ届いたばかりのアボカドバーガーを、ケチャップとマスタードで味付けして、大きな口を開けて一口齧りつく。うまい。アボカドの熟れ具合がちょうどよく、柔らかくて甘みがあった。もぐもぐしながら一眼レフの写真をチェックしてはBluetoothでスマホに転送して、Instagramへとアップする手はずを整える。今日はウェンデルがよく撮れた。渋みがあり、どこか間抜けで、可愛らしい。

 

「あれっ、こんばんは!こんなところに!」

 

 どこかで聞いたことがある声がして顔を上げると、なんとなんとなんと、熊谷さんがそこにいた、僕は何か喋ろうとして喉が詰まりそうになり、慌ててコーラを飲んだら今度はしゃっくりが出てぐっと鼻と目が熱くなった。

 

「す、すみません……えーと」

「あ、こちらこそ、すみません、新津って、言います」

「新津さん。まさか、こんなところで会うなんて」

 

 僕は熊谷さんがもしや後ろに彼氏なんか連れてやいないだろうかとキョロキョロ周りを見渡すが、どうやら一人だったようで少しだけホッとした。

 

「お向かい座ってもいいですか?」

「え!本当ですか、どうぞどうぞ、僕なんかでよければ」

 

 僕はトレーを自分の側に引き寄せ、熊谷さんが僕の向かいに座るのを黙って見つめた。熊谷さんの服装は、上下黒のアディダスのジャージという、かなりスポーティな格好で、キャストのコスチューム姿の熊谷さんとはまた違った良さがあった。

 

「あ、服ですか?すみません私ズボラなんで、今日もギリギリまで寝てて、部屋着のままで、えいやって来ちゃいました」

「え、部屋着……すごく似合ってます」

「なんかそれ、褒めてる感じがしないです」

「いやいや!超褒めてます!あの、なんていうか、アスリートみたいです!」

 

 僕はそう言ってごまかして、ポテトをつまんだ。なんだろう、この展開。今日初めてパークで出会って、顔を覚えられて、偶然イクスピアリでも再会、しかも、どさくさに紛れて自己紹介までしてしまった。

 

「あ、そういえば、熊谷さんって最近入られたんですか?僕、休業前までは年パスでずっと通ってたんですけど、見たことなかったなって思って。ただ、それにしては、キャストとしてその……すごくしっかりしてらっしゃるなと思って」

 

 熊谷さんは自分の頼んだハンバーガーを貪りながら僕の話を聞いてくれていた。ハンバーガーのバンズの向こうで、長い睫毛がぱちっとまたたく。その度に、星がキラッと飛び出して僕の胸に突き刺さるような感覚に陥った。

 

「私、5年くらい海底二万マイルのキャストだったんです。休業明けてからしばらく運休だったので、最初はセンター・オブ・ジ・アースにクロス……ヘルプに行ってたんですけど、ちょっと気持ち切り替えたいなとも思ったんで、異動してカンベアに」

「5年……すみません、失礼じゃなかったら……いーや失礼か、やめときます」

「なんですか?もしかして年齢聞こうとしました?私、28歳です」

 

 うっ、僕よりも4歳年上だった。

 確かに、そこはかとない「お姉さん感」は感じていたが、決して老けては見えない容姿だったし同い年くらいかな、というのを少し期待していた。熊谷さんは僕の表情を見て、はぁ、とため息をついてから、笑顔で聞いた。

 

「新津さんはおいくつなんですか?」

「あ、24歳です」

「じゃあ、私の4歳下ですね」

「あ、はい、よければタメ口でも」

「じゃあ、遠慮なく。新津さん。歳は聞いてもいいけど、その後の反応が、私は嫌だったよ」

 

 ズバッ、と言われた。

 嫌。なんと、こんなにもあっさりと嫌われてしまうのか。

 

「私が歳上だと、何か不都合ある?」

「……いえ、ありません」

「顔に『うっ』っていう表情が浮かんでたよ」

「そんなまさか」

 

 僕の顔はそんなに正直なのか。恥じろ、僕。

 

「4歳上ってだけで、おばさんだとでも思った?」

 

 そう言って、熊谷さんはパクパクとポテトを頬張り始めた。明らかにさっきとスピードが違う。さっさと食べて、この場を離れるつもりだろうか。

 僕は弁解したかった。彼女の年齢に、戸惑ったのは本当だ、でも。

 

「……熊谷さん、違うんです。僕は」

「何が違うの?」

 

 熊谷さんはポテトを口にくわえながら、僕の顔を一心に見つめて言った。怒っても、美しい顔で、僕から目を逸らそうとしない。この真摯な眼差しに、応えなければ。

 

「あの、僕は、熊谷さんが、同い年だったらいいな、と思ってました。今日初めて出会って、カンベアが好きな僕に、たくさんお話をしてくれて……、ぼっちオタの僕にも優しくて……、すごく素敵な人だと」

「それで、年齢を聞いてがっかりした理由は?」

 

 だめだ、熊谷さんの目力に負ける。僕は思わず目を逸らした。

 

「はい、あの……、やっぱり、僕は女性慣れしてないというか……、年上の女性は僕なんか相手にしてくれないだろうな、っていう……そういう」

 

 熊谷さんはまたもや、はぁ、とため息をついた。

 

「そういう先入観はなくさないと、失礼だよね」

「……すみません」

「それに、4歳くらいの年齢が何?って感じ。現に、私は新津さんの年齢なんか知らなくても、声をかけたし、今まさに相手をしてる」

「そ、それは……キャストとゲストだからかな、と……」

「ただのキャストとゲストだったら、仕事終わりにわざわざ話しかけないよ」

 

 そう言って、熊谷さんはアイスティーの蓋を取ってシロップとミルクを入れた。透明な濃いオレンジ色の液体が、薄茶色へと変わっていく。僕はうつむきながら、次に熊谷さんにかける言葉を考えた。考えていたら、なんとなく熊谷さんの言葉が引っかかった。

 

 ちょっと待て、今の話の流れは、僕に興味を持っていたってことで、いいのか?

 

「へ?」

「へ?どうしたの?」

「あ、いや、頭がちょっとこんがらがって……へ?」

 

 熊谷さんは、またもやぱちぱちと、まばたきをした。どうにも不思議そうな顔をして僕を見ている。変な奴と思われたかもしれない。

 

「あ、すみません……」

 

 僕はまたもやうつむいて、アボカドバーガーをかじりながら、次の展開を考えた、何を話せばいい?というか、さっきの話はあれで終わりでいいのか?もう何が正解か全くわからなかった。

 

「新津くんはインスタやってる?」

「あ、はい、やってます」

「交換しようか」

 

 熊谷さんは、インスタのアプリでQRコードを表示した。僕はギョッとなりながら急いでスマホを向けて読み込み、熊谷さんのプライベート・アカウントにフォローリクエストを送る。

 

「すごい、新津さん、カンベアばっかり」

 

 熊谷さんが感嘆の声をあげ、僕は照れながらも少しだけ誇らしく思った。

 

「……生きがいなんで」

「もし次来るときは教えてね」

「え!あ、はい、すごくうれしいです。絶対連絡入れます」

 

 ギュイーン、と背筋が伸びる気持ちがした。心臓はドクドクと早いビートを刻んで全身の骨を響き渡っている。今ならベアバンドにもパーカッションで参加できそうだ。

 熊谷さんはアイスティーを片手に、空っぽになった残りのトレーは返却口に返して、「お先に」と声をかけて帰っていった。今目の前で起きた出来事が一瞬で理解できずにぼーっとしていたら店員さんに不安そうに声をかけられたので、慌てて店を出た。

 

 ああ、カントリーベアたちよ。君たちは縁結びの神だったか。七福神ならぬ、十八福神。熊に、感謝を。熊を、讃えよ。

 いや、よくよく考えたら何も進展していないのだが、少なくとも僕と熊谷さんは、顔見知り以上の存在には、なれた、はず。

 

 シネマイクスピアリ前を抜けてディズニーストア横のドアを出るとセレブレーションプラザという天井のないエリアになっている。そこで深呼吸して外の空気を吸ったら、ドドン、と花火が上がる音がした。花火、感染症禍で打ち上げをやめてから、いつのまに復活したんだろう。そういえば、花火を見るのもかなり久しぶりだなと思って、見ようと思ったがここからは見えなくて、体だけをカンベアの方角へ向けて、二拍手一礼をしたら、通りすがりのカップルに白い目で見られてしまった。

 

***

 

 私たちはフラペチーノを飲み干しても、まだダラダラと語り続けていた。晴華がふわぁ〜っと欠伸をして、私に聞く。

 

「次の勤務は、来週土曜?」

「明日は休み。水曜に単発でクローズ4時間入ってるけど、その日面接もあるから行きたくないなぁ」

「大変だね、あたしは水曜9時からだから代われないわ」

「うん。大変、でもやんなきゃ」

 

 晴華はフリーターだから、契約時間が私より長くて、一日の勤務時間も、日数も多い。それでも結構減らされた方だ。晴華はちょっと眠そうな顔で虚になって、突然話題を変えた。

 

「そういえば、こないだメッセした話。中学生の家出少女拾った話」

「晴華は色々拾うね、子猫とか」

「子猫は拾ったことない、アレルギーだから」

 

 晴華はスマホを眺めながら、少しだけ不安そうな顔をした。

 

「あの子、何かあったら連絡するって言ってたけど、大丈夫かな」

「ちゃんと家に帰ったんじゃない」

「だといいんだけどな。なんか、昔の自分思い出しちゃったわ」

 

 私は晴華の少し切長な目を見つめて、なんだか切なくなった。深くは追求したことがないけど、晴華が今の自由なフリーター生活に辿り着くまでに、それなりに大変な日々があったのだろうなと、時々思う。いつも元気いっぱいで、冗談の連続で私を楽しませてくれる晴華にも、辛い時があるんだろうか。大親友で、何でも知ってるつもりだったけど、まだまだ私の知らない晴華もいるんだろうな。平凡な人生を歩んできた私には想像もつかないような何かが。だからこそ、14歳の家出少女をほっとけないんだな。

 

 突然、シンデレラ城の向こう側で花火が上がった。私たちは驚いてそちらを見つめる。

 

「あれ、今日花火やるって言ってたっけ?」

「聞いてない聞いてない、間違えたか?」

「えー、間違えて花火打ち上げるかね。なんか不思議、ゲリラ花火かな」

 

 イクスピアリを歩く人たちは、花火に気づいていないかのように談笑したり、舞浜駅へと急いでいた。

 

「……働き始めた時は、仕事終わりによく一緒花火見てたね」

「懐かしいなぁ」

 

 予告なしの突然の花火を、私たちは心を奪われながら眺めていた。こんなモラトリアムな時間が、ずっと続けばいいのに。

 キャストになる前は、パークで働いてしまったら夢と現実の境目が曖昧になって苦しむんじゃないかと思ってたけど、就活を始めてみたら、現実の方がよっぽど厳しかった。私にとってはパークですら現実だけど、キャストの仕事と現実の仕事には、やっぱり超えられないような深い溝があるような気がする。いや単純に、アルバイトと正社員という違いなのかもしれないし、私はまだ「就活」の段階だけど。

 立ち上がって、伸びをする。私と晴華は二人で目を合わせて、何も言わずにスタバの空っぽのカップをイクスピアリのトラッシュカンに捨てた。私たちの舞台である王国に背を向けて、舞浜駅の改札をくぐった。

 

***

 

 蒸し暑い。髪の毛からポタポタと水滴を滴らせながら、あたしらはワールドバザールを歩く。いつメン4人での初めてのディズニー、いろいろあったけど楽しかったやんね。そして、きっと明日も楽しいやんね。なんかハム太郎的なこと言ってもた。へけっ。

 

「濡れたなぁ〜」

「明日の服どうしよ、乾くかな」

「シーに制服は合わんて。うちの勝手なイメージやけど」

「せやな、なんかおソロの服着る?」

「ワンチャン私服でええような気がしてきた」

 

 ショーウィンドーを眺めていたら、ディズニーキャラクターのカラフルな服たちが目に入って、どれも可愛くて着たいような、どれも着る人を選ぶような、不思議な気持ちになって、朝にカチューシャを選んでたときみたいにお店から出れへんくなるんちゃうかな、と思った。

 

「今日はホテル帰ろ、明日とりあえず私服でシー行って、そっから考えよ」

 

 あたしはスマホで時間を確認してから呟いた。三人とも特に反論はなさそうだし、顔から疲れが感じ取れた。

 パークを出て、歩いてたキャストのお兄さんにホテル行きのバスはどこから出るのか聞いたけど、パークからホテルへは直通のバスが出ていないらしくて、朝みたく歩いて帰るか、一旦モノレールで一駅移動してから、ホテル行きのバスに乗る必要があるらしい。もう歩くのしんどいよな、ってなって、時間もお金もかかるけどモノレール経由バス乗車でホテルまで帰ることに決めた。どうせ明日シーに行くしと思ってみんなで2日フリーきっぷを買って、水色のモノレールに乗った。モノレールの車両は窓もつり革もミッキーの形で、ソファでさえも黒、赤、黄色のミッキーカラーだったけど、疲れ果てていたあたしらは写真を撮る元気もなく、ただ駄弁ってた。

 

「明日シー楽しみやな。タワー・オブ・テラー乗りたい」

「うちあれ、なんやっけ。怪獣出て来るやつ」

 

 ホノカがつぶやいた。カスミもリサも、あたしも首を傾げた。

 

「怪獣?そんなんある?」

「インディ・ジョーンズ?海底二万マイル?」

「えっとな、海底二万マイルの近くにある、ジェットコースターみたいやねんけどな、はじめキラキラしててばり綺麗とか思ってたら、いきなり警報鳴って溶岩のなか突っ込んで行って、怪獣出てくるねん」

「ぜんぜんわからん」

「新しいやつ?」

「ちゃうって!多分やけど昔からあるって、火山のところのやつ。めっちゃ楽しいねんで。明日絶対乗ろな」

「あたし、ソアリンも乗りたい」

「トイ・ストーリーも」

「タワー・オブ・テラーと、ソアリンと、トイ・ストーリー・マニアとー、怪獣……おっけー、約束な」

 

 ベイサイドステーションという、ホテル最寄りの駅に着く。プシューと音がしてドアが開いて、モノレールを降りる。この駅からの景色は、大きなクレーンがいくつも突き出ていて、至る所で工事が行われているみたいだった。遠く向こうに、シンデレラ城がかすかに見える。

 

「めちゃくちゃ工事しとるやん」

「アナ雪作ってるらしいで」

「うそやん!マジ!?」

「ほんまやで、ニュースなっとった。シーがエリア増えるねんて。あ、あれ、シーの火山」

 

 カスミがシーの火山を指差す。すると、火山とシンデレラ城のちょうど中間くらいで、花火が上がるのが見えた。ドーン、と大きな音も聞こえる。

 

「アナ雪できたら、またみんなで来ような」

 

 リサが花火にスマホを向けて写真を撮りながら言った。あたしは頷く。

 

「約束やで」

「でも、もう喧嘩せんとこな」

「それも、約束な」

「またテリヤキチキン食べよな」

「それ、絶対な」

 

 工事現場の向こうに上がる花火に見とれながら、あたしはポケットの中のミッキーアイスキャンデーのバッグチャームをぎゅっと握りしめた。

 

***

 

 閉店間際のプラズマ・レイズ・ダイナーでグローブシェイプチキンパオを買ったおれは、ありがとうございます、と閉店作業をするキャストに声をかけて、駆け足で店を出た。

 店舗の前でキョロキョロと周りを見回すけど、芹那の姿はない。まだトイレから戻って来ていないみたいだった。高校生の頃に行った時は、まだこの店はプラザ・レストランという名前だったと思う。その頃も今と変わらず、トゥモローランドには似つかわしくないような気がする丼もののフードとかが売られていて、その頃もまた、おれはグローブシェイプチキンパオを買っていた。

 付け合わせのシュリンプサラダを一口つまんで食べていたら、芹那が戻って来た。

 

「龍之介くん、ごめんお待たせ。それが、例の?ミッキーシェイプチキンパオ?」

「グローブシェイプチキンパオ。ミッキーのグローブの形だからグローブシェイプ」

「あ、そうか。っていうかミッキーの手ってあれ、手袋してるんだね。写真撮ってもいい?」

 

 芹那はスマホを出してチキンパオを写真に収める。単体で撮った後は、おれがかぶりつこうとしてる瞬間を写真に撮りたいと言って、ちょっとした小芝居をさせられた。

 

「ステイステイ、おっけー。食べてもいいよ」

「おれは犬かよ」

「あはははは!ちょっと歩こうか。リンゴ食べていい?」

「いいよ。イチゴ嫌いだから、イチゴも食べてよ」

「え!イチゴ嫌いなの。人生損してるね〜〜〜」

 

 芹那は付け合わせのカットフルーツからイチゴをつまんでパクッと一口で食べた。おれはチキンパオにがぶっとかぶりつく。一気に半分になってしまって、昔もこんなに小さかったかな?と思い返した。

 シンデレラ城の前まで出て来て、芹那がスマホでパシャパシャと写真を撮る。おれは芹那のそばを離れて、トラッシュカンまで歩いて、食べ終えたチキンパオのゴミを捨てた。

 

「あの、写真撮ってもらっていいですか?」

 

 若いカップルに声をかけられた。内心ちょっとだけ戸惑いつつ、いいですよ、と返事をしてシンデレラ城をバックに二人を撮影する。スマホを返して、ありがとうございますと言われて、彼らがその場を離れる。おれは芹那の近くに戻った。

 

「芹那ちゃん」

「ん?」

「さっき、今日初めて知らない日本人に、日本語で話しかけられた」

 

 芹那はそれを聞いて、ぷっ、っと吹き出した後、咳払いした。

 

「ごめんごめん、笑うことじゃないよね」

「そうだね」

 

 おれは振り返って、さっきのカップルの向かった方を見た。どうやらもう、ワールドバザールの方までたどり着いていて、今ちらほらと見えている人影の、どれがさっきのカップルかはわからなかった。

 ドン、という大きな音と、明るい光を背後で感じて、おれは振り返えった。花火だ。昔ディズニーで花火を見た時は、事前にアナウンスが流れたり、ディズニー映画の曲がBGMで流れたりしていた気がするけど、今日の花火はなんだか唐突で、ちょっとだけ驚いた。

 

「わ、花火」

 

 不思議だった。周りにちらほらといるゲストは、ちっとも花火に気を止める様子もなく、まだ動いているアトラクションを探しに向かったり、ワールドバザールへ向かったり、シンデレラ城を写真に収めたりしている。まるで、おれたち二人にしかこの花火が見えていないかのようだった。この不思議な現象は一体なんなんだろう。

 

「花火、綺麗に撮れてる?」

「撮れてる撮れてる。あれ、なんでだろ、保存できてない」

「えっ」

 

 ちょっとだけ背筋がぞくっとした。おれたちだけしか気づいていない、写真に残らない花火。しかし、こんなに優しい、ラッキーな怪奇現象があるだろうか。おれはオホン、と咳払いをして、このことを芹那に伝えるのはやめておいた。

 そうだ、でも。他の人たちには見えていないこの花火を、おれたち二人だけが見えているというのは、もしかしたら、何かしらの神の啓示的なアレなのかもしれない。正直おれは無宗教だけど。心臓がドクドクと脈打ちながら、おれは震える唇で言葉を発した。

 

「芹那ちゃん、あのさ、おれたち付き合ってみない?」

 

 芹那がこちらを見て、スマホをかざす手を止めた。ちょっとぽかんとした顔で、おれを見つめた後、ゴクリと唾を飲んで、キリッと真面目な表情に切り替えて言った。

 

「その昔、偉い人は言いました。『やるか、やらぬかじゃ。やってみるなんてものはない』」

 

 それ、こんな感じの時に言うことか?おれは、自分の告白に変な汗をかきつつも、突如脳内に緑色の小さな宇宙人が登場してしまって、思わず吹き出した。それでも芹那は大真面目な表情を続けていた。おれも再び咳払いをして、表情を作り直す。

 

「ちゃんと言って」

「芹那ちゃん、おれと付き合ってください」

「いいよ」

 

 芹那はそう言うと、おれの腰に手を回して、胸にコツン、と頭を預けた。さっきと同じ、甘い、シャンプーの匂い。おれは不器用な手で芹那の肩と、頭を包み込んで抱きしめた。

 

「にゃはは、ディズニーランドの、シンデレラ城の前で告白。自慢できるわ〜」

「おれも、芹那ちゃん美人だから、超自慢できる」

「いいよ〜、どんどん自慢して」

 

 おれたちは手を繋いで、シンデレラ城へ向かって手を繋いで歩いた。おれたちにしか見えない花火は、二人の門出を祝福するかのように勢いを増して、けたたましく鳴り響いた。ディズニーランドの魔法か、幻か。奇妙で、本当に、不思議だ。

 だけど、ありがとう、きっかけをくれて。

 

***

 

 すっかり日が落ちていた。夜になっても涼しくなることはなく、まとわりつくようにじめじめと暑さが襲いかかってくる。朝は開園前から来ていたから、体力には自信がある僕も流石に疲れてきていた。ハチミツ味のポップコーンをつまみながら、隣を歩く恋人の顔をちらっと見て、僕は問いかける。

 

「僕らもそろそろ帰ろうか」

「そうだね。もうちょっとしたら。Do you wanna fly?」

「え、ノア?」

 

 この男の体力には底がないのだろうか。ノアはてくてくと軽快に歩いて、すっかり列の短くなった「空飛ぶダンボ」のアトラクションの前までやって来た。

 

「This is my favorite.」

「Nice, but this is the last one, OK? I'm exhausted.」

「Oh, fair enough.」

 

 昼間は子供達が多くて並ぶのをためらっていたけど、この時間帯は待つことなく乗れて、乗り込むライドも自分たちで選べた。ノアは「My color」と言って、ピンク色のダンボを選んで乗り込んだ。僕もそれに乗り込む。

 ゆっくりと、ライドが動き出し、反時計回りに旋回する。ノアがレバーを動かしてライドを上下に操作する。僕は浮遊感を感じた。周辺のカルーセルなどのアトラクションの灯りがキラキラと輝いていて、高いところからそれを眺めると、なお美しく見えるな、と僕は感じた。すると、背後で大きな音が鳴るのが聞こえた。

 

「Wow! It's fireworks!」

 

 ノアが興奮してフォーッ!と高い声を上げた。前のライドに乗っていた女子高生が振り返ってこちらを見る。それでもノアはお構いなしだった。僕はノアとともに旋回しながら、花火の方を見つめた。ゆっくりとスピードが落ちてライドは下降し、僕らも地面に降り立った。花火はもう終わったのだろうか。

 

「あー!楽しかった!It was amazing, wasn't it?」

 

 僕はニコッと笑って頷いた。ファンタジーランドはもう人がほとんど残っていなかった。「空飛ぶダンボ」のライドは次のゲストを乗せて、再びゆっくりと動き出す。まばらに残った、おそらく付き添いゲストたちも、そしてキャストも、空に舞い上がったダンボの機体に視線を向ける。僕はさりげなくノアの手を掴んで、彼の注意を引いた。ノアの美しい顔が僕の方を向いて、ブルーの瞳が僕を捉えた。この瞳で見つめられると、僕は、吸い込まれそうになる。

 

「どうしたの?はじめ……」

 

 僕は彼の質問には答えずに、そっと背伸びをしてノアの唇にキスをした。ゆっくりと、長い時間をかけて。掴んだ手をお互いしっかりと絡ませたら、もらったばかりの指輪同士がカチッと音を立てて触れた。視界の隅で、アトラクションの動きが止まるのを感じる。きっと、空の旅を楽しんだゲストたちが降りてくる。子供達もいるかもしれない。でも、僕にはもう、どうでもよかった。

 再び背後で大きな音がして、これまで以上の特大の花火が打ち上がった。僕ら男性二人のキスが、まばゆい光に照らされる。ノアがゆっくりと唇を離した。果たして、どれくらいの時間だったんだろう。とても長く感じた。

 

「……It IS amazing.」

 

 ノアがふふっと笑って言った。

 

「さぁ、帰ろう」

 

 ノアが頷く。僕たちは手を繋いだまま、ゆっくりと歩いて帰路に着いた。なんだか、いろんなことがあった一日だった。

 もう迷いはない、とは言い切れない。きっとこれからも、想像もつかないような困難が待っているんだろう。でも一つだけ、僕はノアと二人で幸せになると決めた。

 シンデレラ城をくぐり抜けて広場の真ん中で後ろを振り返った。グレーと水色の巨大な城が、闇の中でほのかな光に照らされながら、僕たちを見下ろしている。人々を惹きつける、圧倒的な力。存在感。きっとこの夢と魔法の王国では、どんな迷子たちも心を絆される。問題は解決しないかもしれない。それは逃避という安易な答えかもしれない。夢とか希望とか、耳障りのいいオブラートに包んでくれるだけの都合のいい優しさ。

 それでも僕らは、ここから一歩を踏み出すことができた。偽りの魔法の羽を使って、自分の力で羽ばたくことに決めたんだ。東京ディズニーランドでもらったこの勇気を、決意を、僕は次に、誰に分けてあげることができるだろうか。

 

 空を見上げると、パークの灯りのせいで紺色に見える夜空を、弱々しく月が輝いていた。乾いた鳴き声がして、カラスが群れをなして飛んでいく。僕はそれを目で追いかけて、固く結んでいた恋人の手を再び強く握った。

 

 

 

 

エピローグ「迷子たちは花火を夢の国で見たかった」おわり

Epilogue - Fireworks, Should We See It in the Dream or the Reality?

 

 

 

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』完

 

 

***

 

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』

 

 

【東京ディズニーランド小説】第10話「ミッキー・マウスをよろしく」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

 こちらの小説は作品投稿サイト NOVEL DAYS でもお読みいただけます。

 

***

 

 やってしまった。

 

 その日は完璧にしたくて、朝早く起きてパパとママの朝ごはんを準備したのに、メグミに邪魔された。パパは、あたしが用意したお味噌汁と目玉焼きと鮭の塩焼きを「美味しいよ、ありがとう」と言って食べてくれたけど、メグミは朝から魚を焼くなんて部屋が臭すぎると言ったり、味付けが濃すぎる、私を殺す気かとわめいて、あたしに鮭の塩焼きを投げつけた。あたしは怒りに任せてメグミに言い返して、粉々になった鮭の破片を払って家を飛び出した。もう制服を着てたのに。飛び出して、稲毛から二駅ほど電車で移動したところで、「やってしまった」という気持ちはすでにどこかに消えて、もう今日は学校いいかなと思って、サボることに決めた。

 普段あまり行かないところに行きたくて、柏まで出てきたら、駅に東京ディズニーリゾートのでっかい広告が出ていて、ああ、そういえばあたしの修学旅行はこの感染症禍で無くなってしまったなと思い出して、思いっきりお金を使いたい気分だったし、人生初めての東京ディズニーランドに行ってみる事に決めた。この間クラスメイトのりおんちゃんが自慢しながらお土産のクッキーをくれて、羨ましいなとずっと思ってたんだ。どうやってチケットを買うんだろうと思って、うろうろしてたら50歳くらいの知らないおじさんに付き纏われた。

 

「おねぇちゃん、どこいくの?学校は?サボり?家出?おじさん奢ってあげるからさ、一緒に遊ぼうよ。タピオカ飲む?」

「タピオカて」

「スタバでもいいよ」

「いやスタバて。タピオカてー」

 

 タピオカみたいな頭しやがって、と思ってスタスタ歩いてたらおじさんに前に回り込まれて、ぐっと睨みつけたところで、たまたま通りがかった親切なお姉さんに助けてもらえた。

 

「おっさん、うちの妹になんか用?しっしっ、瑠奈ちゃん、行こ行こ」

 

 あたしは瑠奈ではないけれど、うんと頷いてお姉さんに手を引かれ、少しひらけた所まで連れ出された。

 お姉さんは髪を明るすぎない程度に染めていて、背はあたしよりちょっとだけ高いくらい。ちょっとつり目で、唇が薄く、化粧は薄めだった。あたしのお姉ちゃんと嘘をついても、信じる人がそれなりにいそうな顔で、パーツと雰囲気があたしとよく似ていた。

 

「ありがとうございます」

「いーのいーの。変態が多いねぇ。感染症で滅びればいいのに」

「それ、ありよりのありですね」

「君もね、こんな時間から制服でウロウロしてたら、学校サボってますって言ってるようなもんよ。なんか上から羽織るもんないの?」

「ちょっと持ってないです、暑いし」

「……じゃあこれ貸してあげる」

 

 お姉さんはカバンの中からド派手な柄のカーディガンを取り出して、あたしに押し付けた。

 

「ええ、悪いです」

「私のセンスが受け入れらんねぇってか?」

「それも若干、ないことはないけど、でも悪いですぅ」

 

 お姉さんは呆れ顔でカーディガンを奪い取り、裏返して私に羽織らせた。カーディガンの裏地は真っ黒で、ロゴがひとつ入ってるだけだった。

 

「リバーシブルよ」

「あ、これなら、まぁ」

「君最悪だね。……で、こんなところで学校サボって何してんの?」

「えと、話せば長いんですけど、鮭の塩焼きが」

「シャケ?」

「簡潔に言うと家出みたいな感じです」

「家出かい」

 

 お姉さんはあたしの頭の先から爪先までをジロジロと眺めた。あたしは口元だけでヘラッと笑って見せる。

 

「ここへは、なんか目的があったの?」

「あ、えと、おしゃれな服屋さんとかあるかなって。あとディズニーのチケット買いたくて」

「服屋はあるけど、ディズニーのチケットは柏じゃ手に入らんなぁ、今はね。チケットブースやディズニーストアですら売ってないし」

「え、そうなんですか」

「今はネットだね。いつ行くの?」

「……今日?それか明日?」

「今日!?明日!?マジか、ないだろチケット」

「えぇ、ないんですかぁ」

「ないない、多分ない。探してあげてもいいけど。君、何か食べたん?」

「鮭の塩焼き……」

「それはもうええて。サイゼ、行く?ガストでもいいや」

「行きます」

 

 あたしはお姉さんに誘われるがまま、南口のサイゼリヤへと入った。ミラノ風ドリアと、オリーブアンチョビのマルゲリータピザ、プロシュートとソフトドリンクバーを注文して、ドリンクを注いで席につく。

 

「君、名前は?」

 

 お姉さんがストローを咥えてメロンソーダをすすりながら聞いてくる。

 

「ひよ莉です」

「ひよ莉ちゃん。かわいい名前」

「お姉さんは?」

「晴華」

「晴華ちゃん」

「ちゃんじゃねーわ、さんをつけろよデコ助野郎」

「お、金田だ」

「AKIRA知ってんの君、何歳よ」

「14歳。晴華ちゃんも世代じゃないよね」

「はいはい元カレの影響ですぅー。もう晴華ちゃんでもいいや……」

 

 晴華ちゃんはあたしのスマホをタンタンタンと叩きながらチケットを探してくれた。店員さんが料理を運んでくる。

 

「ランド?シー?」

「行ったことないから、ランドがいいかな」

「おっけー。……うん、今日はさすがに、もう無理。明日も……ない」

「えぇー、じゃあ、明後日は?」

「日曜日だからなぁ……おっ、ラッキーだね、あるよ」

「え、やったー!」

「いいけど君、クレジットカードとか持ってんの?」

 

 あたしは財布をごそごそして、パパに預けられていたチャージ式のクレジットカードを取り出す。

 

「いざという時のためにパパが2万円入れてくれてます」

「今がいざという時でいいのかい」

「今はここぞという時かな。ここぞという時にも使っていいんです」

「知らんわ、じゃ、これで買っちゃいな」

 

 晴華ちゃんはスマホを私に返して、カードの番号を入力させる。私はクレジットカードに書かれた番号を順番に入力した。

 

「君、ちょっとは人を疑ったりとかもしなよ」

「え、東京ディズニーリゾートって書いてあるし、晴華ちゃんは信頼できるよ」

 

 晴華ちゃんはピザを一切れ取って、プロシュートを一枚載せて一口かじった。その食べ方真似していいか聞いたら、あたしにも一切れくれた。あたしは決済を完了させて、QRコードを見せる。

 

「よくできました」

「晴華ちゃんありがとう」

「礼には及ばんよ。で、君は今日・明日どうするの?誰か頼れる人はいるん?」

「うーん、友達みんな親厳しいからなぁ……ネカフェとかかな?」

「ネカフェなんか、年齢確認されて夜には追い出されるよ。素直に謝って家に帰りな」

「えー。いや、だってあたし悪くないし。メグミが謝れば……」

「そのメグミってのは、ママ?」

 

  あたしは、ちょっと沈黙して、どう答えようか迷った。

 

「複雑なんです」

 

 あたしは視線を落として、うんうん頷きながら言った。ちらっと晴華ちゃんを見ると、晴華ちゃんは頬杖をついてあたしを見つめていた。晴華ちゃんは雰囲気は私に似てるけど、あたしはこんな風に人をじろじろ見れないかもしれない、と思った。

 

「そっか。私も家出常習犯だったからさ、君が本当に私のこと信頼してるなら、私の家泊まってもいいよ。でも親には友達の家にいるって連絡しときなよ」

「え、いいの」

「どうせ日曜は私も舞浜行くし」

「え、晴華ちゃんと一緒にディズニーランド回りたい」

「それは残念でした、私は仕事」

 

 晴華ちゃんは友達が経営してるという古着屋さんにちょっとだけ顔を出して、その後あたしを家まで案内してくれた。家は我孫子にあるちょっと新しめのアパートだった。晴華ちゃんとあたしは、年齢は8歳も離れていたけど、昔からの友達なんじゃないかっていうくらい気が合って、あたしは晴華ちゃんとお互いの過去やらを語り、映画版のAKIRAを観て、マリオパーティをして、ふた晩過ごした。晴華ちゃんの家はまだWiiが現役だった。晴華ちゃんは布団がないからと言って自分はソファーで寝て、あたしにベッドを譲ってくれた。

 夜中、あたしがいつも病院でもらってる薬を飲んでたら、晴華ちゃんが話しかけた。

 

「デパス?」

「知ってるの?」

「昔ちょっとね。辛い?」

「ううん、今は大丈夫。でも寝る前に飲まないといろいろ考えちゃって」

「考えちゃうよね。それが普通さ。考え事なしに寝れるやつは幸せもんよ」

「晴華ちゃん」

「なんだね」

「あたし、ずっとここにいちゃダメかな」

 

 カーテンの空いた窓から中途半端に欠けた月が見えていた。晴華ちゃんはふわ〜っと欠伸をする。

 

「そりゃ〜私も君みたいな妹がいたら、人生楽しいかもね。でも私の収入じゃ中学生の娘は養えないよ。自分の生活だけで精一杯さ。そんで、君の両親に出るとこ出られたら私は未成年誘拐の罪で逮捕だ」

「パパとママはそんなことしないよ」

「メグミは?」

「メグミは……メグミが何を考えてるのか誰もわからないから」

 

 滞在中、晴華ちゃんにはメグミの話もした。

 晴華ちゃんは、時間を確認するためか、スマホの画面を一瞬だけ点けて、それから消した。その一瞬であたしは、晴華ちゃんの左手首に赤紫の切り傷の跡があることに気づいた。昼間は見えなかったから、もしかしたら化粧で隠してるのかもしれない。

 

「寝よ寝よ、明日は早いんだから。ずっとここには置いとけないけど、たまに遊ぶ友達くらいにはなってあげる」

「明日……楽しみ」

「ひよ莉が楽しみなのが、私も楽しみさ」

 

 翌朝、6時に目が覚めたあたしは「7時半に家を出る」と言っていた晴華ちゃんを叩き起こして準備した。昨夜のマクドナルドのテイクアウトのゴミを片付けて、ほとんど食材のない冷蔵庫の中身をかき集めて中華風スープを作ったら、晴華ちゃんは感激して食べてくれた。

 

「今日は遊んだらまっすぐお家に帰りんさいよ」

「うん。でも何かあったら連絡してもいい?」

「安心しな、ディズニーランドは安全さ。信じろ!でも、うん。いいよ」

 

 舞浜駅の改札を出て、1階への階段を降りた。晴華ちゃんはあたしにハグをして、背中を叩いて手を振った。彼女はオリエンタルランド本社へと向かう。あたしときたら、本番はこれからなのに、なんかちょっともう、泣きそうだった。舞浜駅のコインロッカーに荷物を預けて、ひとり東京ディズニーランドへ向かった。

 

 どれに乗るべきか、あたしには何もわからなかった。それでもディズニー映画はそれなりに観ていたつもりだから、ひとまずモンスターズ・インクのアトラクションに乗った。そもそも、建物が映画に出てきたモンスターズ・インクの社屋だし、建物の中の待つところも映画の世界観を再現していた。アトラクション自体は、映画のその後の時間で、楽しいかくれんぼ遊びをモチーフにしたアトラクションだった。映画で見たモンスターの世界に入り込んで、会社だけでなく街に飛び出したり、映画に出てきたモンスターの寿司レストランが登場したり、映画のモンスターズ・インクが好きなあたしは、このアトラクションを楽しんだ。

 じゃあ今日は、ディズニー映画のアトラクションを中心に回ろうと決めて、次はスティッチ・エンカウンターというアトラクションに行ったけど、スティッチとおしゃべりしたい小さな子が手を挙げてスティッチに質問するアトラクションで、あたしは当てられないように隅の方で縮こまるだけで終わってしまった。バズ・ライトイヤーのアトラクションはシューティングで、映画を知らなくても楽しめそうだったけど、設定的には「トイ・ストーリー」のバズ・ライトイヤーじゃなくて、劇中のおもちゃの原作の方だった。

 バズ・ライトイヤーの建物を出たら、見覚えのある、アフロヘアーに黒い肌の男の人が歩いていて、思わず声をかけた。

 

「先生、男バスの先生」

「えっ」

 

 あたしの通う中学校に、夕方よくいる人だった。何の先生かは知らないけど、男子バスケ部を担当していることだけ知っていた。反応を見るに、先生はあたしの事を知らないのかもしれない。確かに、挨拶くらいしかしたことがなかった。

 

「開秀中学3年C組の高橋です。バドミントン部」

「ああ、びっくりした。おれ、先生じゃないんだ。コーチで行ってるだけで」

「あ、そうなんですか。知らなかった」

「3年生ってことは、英語の先生はノア?」

「あ、はい。ALTはミスター・レヴィットです」

「ははは、ミスター・レヴィットか。おれ、そいつと同じクラブチームでバスケしてて、開秀のコーチも紹介してもらったんだ」

「男バス、今日はお休みなんですね」

 

 あたしはチラッと隣にいるきれいでセクシーなお姉さんを見た。お姉さんはニコッとして手を振るので、あたしはぺこりとお辞儀をした。

 

「いや、おれが休みもらっただけだよ。バド部は?」

「う〜ん、バド部は結構自由参加っていうか、概念っていうか。あたしも、幽霊部員なんで」

「何この子、面白い」

 

 お姉さんがははは、と笑って言った。あたしは褒められたのか、からかわれたのかはわからなかったけど、とりあえずえへへ、と照れておいた。

 

「ひとりで来てるの?」

「はい。なんか面白いアトラクションありました?私、初めてで」

 

 連れのお姉さんはなんだか話が合いそうだなと思って何気なく聞いてみたんだけど、びっくりした顔で逆に質問してきた。

 

「え、本当に一人?一人で来る人、いるんだね。でも中学生でしょ?大丈夫?」

「え、多分大丈夫だと思うんですけど」

 

 私はきょろきょろと周りを見回してみる。一昨日のタピオカ頭みたいな、危なそうな奴は別にいないし。なんか、思わぬところを突っ込まれて、あたしも戸惑ってしまった。もしかして、世の人はひとりでディズニーランドに行くことはないのだろうか。っていうか、質問に答えてほしいな。

 

「ふーん。友達とかと来ようとは思わなかったの?」

「……芹那ちゃん」

「思わなかったですけど」

 

 芹那と呼ばれた女性が何を考えてるのか、あたしにはわからなかった。男バスの先生はちょっと心配そうな顔であたしをちらっと見て、一瞬だけ目を閉じた。

 

「お、おれも実は高校生の頃、ひとりでディズニーランド行ったことあるよ」

「え、龍之介くん、うそ!」

「え、先生、龍之介って名前なんですか」

 

 芹那さんは先生がひとりでディズニーランドに行っていたことにびっくりしてたけど、あたしは先生が日本の名前であることにびっくりしていた。

 

「おれ、いじめられてたし、友達少なかったし。思春期はいろいろあるんだよ、いいだろ」

「……そっか、ごめん」

「ひとりでディズニーランドに来ることは、変なことじゃないよ」

 

 あたしはこのタイミングでやっと、「ひとりでディズニーランドに来ること」がやっぱり世間的には「変なこと」だと思われているんだなと確信した。

 

「別に変だと思ってないから、大丈夫です」

 

 あたしは、大真面目にきっぱりと言って、ぺこっと頭を下げてその場を去ることにした。先生に気を遣わせるのも、芹那さんにからかわれるのも面倒だと思った。先生は、ひとりでディズニーランドに来ることは、変だと思われると知っていながら、ひとりで来ていたんだろうか。それってなんか、すごく悲しいことだな。あたしは、世間がどう思ってようと、あたしが変じゃないと思っていたらいいということにした。結局、おすすめのアトラクションは聞きそびれた。

 

 ファンタジーランドは、ディズニー・アニメーションの世界を舞台にしたアトラクションがたくさんあって、初めてディズニーランドに来た私でも、イメージがつきやすいものが多かった。プーさんのアトラクションに乗りたかったけど、ちょっと混み合っていたので後回しにして、ピノキオの冒険旅行、ミッキーのフィルハーマジック、白雪姫と七人の小びと、ピーター・パン空の旅の順番で乗った。ミッキーのフィルハーマジックだけは映画みたいな感じで、1回でいろんなアニメの話が見れてなんだかお得で、ドナルドが可愛かった。ピノキオ、白雪姫、ピーター・パンはどれも映画の物語をなぞったアトラクションだったけど、ピノキオと白雪姫がなんだかすごく古くて、それで怖いな、という印象。ピーター・パンはキラキラしててよかった。ピーター・パンを出て、メリーゴーランドと、ダンボがいっぱい空を飛んでるアトラクションを横目に歩く。っていうかダンボって、こんなにいっぱいいたっけ。

 歩いていたら、すごくかわいい、ふしぎの国のアリスのレストランを見つけて、そこに入った。店内もすごくかわいくて、映画の中のふしぎの国に迷い込んだみたいな気分になれた。チーズがハート形に切り取られた、チーズハンバーグのプレートに、パンとアップルティーソーダをつけた。アンバースデーケーキっていう、映画の中で3月うさぎと、いかれ帽子屋が「誕生日じゃない日」をお祝いするケーキが売ってて、なんと偶然、あたしも今日は「誕生日じゃない日」だったから、すごく食べたかったけど、やっぱりちょっとサイズが大きくて断念した。料理を注文したあと、アリスのキャラクターが描かれた、大きなステンドグラスが見える席に座って、スマホで写真を撮ってみた。かわいいな。それだけで嬉しい。

 

 席について、ごはんを食べていたら、ママからメッセージが来ていた。

 

『今日はどこにいるの?』

 

 ママからのメッセージに既読だけつけて、無視することにした。謝ってこないということは、メグミから話を聞いていないんだろうか。あたしはご飯を食べ終えて、ちょっとぼーっとした後にレストランを出て、ホーンテッド・マンションというお化け屋敷みたいなアトラクションに乗った。その後、プーさんのハニー・ハントに向かった。入り口付近で、ハチの柄がいっぱいのシャツに緑のパンツを履いた晴華ちゃんが、ゲストをベビーカー置き場に案内しているのが見えて、駆け寄った。

 

「晴華ちゃん」

「ひよ莉!どう、楽しんでる?」

「今のところ、アリスのレストランが優勝」

「あれは優勝するわ。あとね、我が家も最強だから、乗ってみ」

 

 晴華ちゃんは振り返って、背後の木々から頭だけ覗かせた、巨大な本を指差す。あたしは頷いて晴華ちゃんに手を振って、アトラクションの奥へと進んでいった。

 プーさんのハニー・ハントは今までの映画のストーリーを体験するアトラクションの中でも、格段にクオリティが高くて、ぬいぐるみのプーさんがすごくかわいくて、思わず拍手してしまったくらい、とても楽しかった。乗る前に親切なお兄さんが前の席を譲ってくれて、それも嬉しかった。

 

 気づいたら、ディズニーランドを半周して戻って来ていた。宇宙人のピザ屋さんの近くにあるトイレでちょっと一息ついて、個室を出たら隣の個室からうめき声が聞こえた。その直後に顔色が悪そうな制服の女の人が個室から飛び出して来て、手洗い場に両腕をついて、はぁとため息をつく。

 

「……っいたたたたた」

「えっ、大丈夫ですか?」

 

 女の人が手洗い場の下にうずくまったので、手を洗いながらびっくりしてしまい、話しかけた。

 

「……っ、ありがと。女の子の日、来ちゃって」

「うわ、つらみですね。あたし、ロキソニン持ってますよ。要ります?」

「ええの?」

「困った時はお互い様だから」

「ホンマありがとう」

 

 私はピルケースからロキソニンを2錠用意して、お姉さんに渡した。お姉さんはペットボトルで水を含んでロキソニンを流し込む。

 

「関西の人ですか?」

「大阪から来たよ」

「イントネーション違うと思った」

「なんかお礼したいんやけど……あ」

 

 お姉さんはカバンをゴソゴソして一枚の紙を取り出した。紙にはポップコーン引換券と書いてある。

 

「ポップコーンバケツ買った時にもらったやつ、いる?」

「え、まじほしいです。ポップコーン食べたい」

「はい、どうぞ……いてて、また来た。ロキソニンありがとうな」

「おおきに〜」

「ははは、それ、若い子はあんま使わんで……っててて」

 

 お姉さんはそう言って、またトイレの個室に戻った。あたしはロキソニン2錠とポップコーン引換券を物々交換して、わらしべ長者になった気分だった。どの味がいいかな、と考えながら歩いてたら甘い匂いがして、トゥモローランドにミルクチョコレート味というのがあったので、そこで交換して食べた。ポップコーンのレジのお姉さんがあたしに話しかけてくれる。

 

「今日は誰かキャラクターに会えました?」

「会えてないですねー」

 

 あたしはポップコーンをつまみながら答える。甘くてしっとりとした感触が舌の上に転がった。

 

「ミッキーに会いたいな」

「ミッキーなら、エントランスか、トゥーンタウンで会えるかもしれませんね」

「へぇ、トゥーンタウン……」

「はい。トゥーンタウンにはミッキーたちのお家があるんです」

「え、ミッキーって本当にディズニーランドに住んでるんですか」

 

 レジのお姉さんはあたしの言葉にちょっとだけ驚いた顔をして、そのあと笑顔で答えてくれた。

 

「はい。ミッキーもそうですし、ミニーたちも、トゥーンタウンにある自分たちの家に住んでるんですよ」

「お姉さんは?」

「……私?私たちキャストは……、お仕事を終えたらそれぞれのお家に帰ります」

「そうなんだ。ミッキーになったらディズニーランドに住めますね」

「ミッキーにな……そ、そうですね」

「ミッキーになりたいな」

 

 お姉さんはあたしの言葉に少し動揺していた。そんなつもりはなかったのだけど、動揺させてしまったことをちょっと反省して、あたしは頭を下げてその場を離れた。残り少なくなったポップコーンをガサガサと口の中に流し込み、ゴミ箱にポップコーンの箱を捨てる。

 そのままトゥモローランドを歩いていたら、ベンチで立ち上がろうとして、荷物を落としてしまった女の人がいた。腕には赤ちゃんを抱っこしていて、肩から大きな荷物を背負っていたけど、チャックが閉まっていなくて、中身が飛び出てしまったみたいだった。あたしは駆け寄って声をかけ、落ちた荷物を拾って手渡した。

 

「もう落ちてないですかね」

「うん、拾ってくれてありがとう」

 

 女の人はすごく綺麗で、あたしが言うなって感じだと思うけど、あどけない感じの、かわいい女の人だった。でも、目のクマがすごくて、きっとすごく疲れてるんだなと思った。

 

「今日は誰かと来たの?」

「あ、ひとりで……」

 

 言いかけて、さっきの芹那さんと先生との会話を思い出した。また、変だと思われるかな。気にしないって思ってたのに、気にしちゃった。

 

「よく一人で来るの?何歳?」

「えっと、初めて来ました。ひとりで初めて来たんじゃなくて、本当に初めて……あ、えっと、14歳です」

 

 女の人と少しだけ話をした。赤ちゃんは男の子で、遼くんという名前だった。遼くんは1歳でまだ喋れなくて、あうあう言いながら眠たそうにしていた。あたしにもこんな時期があったのかな、と思ったらちょっとだけママが恋しくなった。ママも、若い頃はこの人みたいに頑張っていたのだろうか。

 

「すごい、荷物いっぱいでしたね。赤ちゃん連れてお出かけって大変なんだ。おむつとかおやつとか、いっぱい入ってた。かばん、重くないですか?」

 

 あたしが遼くんから女の人に目線を戻すと、女の人が泣いていて、びっくりした。

 

「えっ、うわ、大丈夫ですか?」

「うん、びっくりさせてごめんね」

 

 女の人はハンカチで涙を拭って、泣きながら笑った。あたしの言葉が、この人の涙腺に刺さったのかな。それってなんだったのかな。あたしはそんなことを考えながら、目を赤くしている女の人をまじまじと見つめてしまった。

 

 女の人の名前は美鈴さんと言った。あたしは、もうちょっと美鈴さんと一緒にいたくて、昨日晴華ちゃんに教えてもらっていた、アドベンチャーランドにあるスティッチのアトラクションに一緒に行った。ハワイの鳥たちが歌うアトラクションで、スティッチの映画で流れる「ハワイアン・ローラーコースター・ライド」もアレンジされて流れていた。途中で、遼くんはどんな風に見てるのかな、とちらっと横を見ていたら、きゃっきゃっと笑っていて、ちょっとだけ嬉しかった。アトラクションは可愛かったけど、やっぱりプーさんが優勝かなと思った。

 

 アトラクションを終えて、建物の外に出たら、あたりはすっかり暗くなっていた。ひとつだけ、という約束だったし、あたしは美鈴さんに別れを告げた。

 

「楽しかったよ。美鈴さん、なんかママみたいだった。遼くんも元気でね。夫さんと、仲直りしてね」

 

 なんかママみたいだった、そう言った瞬間、ちょっとうるっと来てしまって、目を逸らしてあたしは美鈴さんの方を振り返ることなくウエスタンランドの方へ駆け出した。

 

「危ないので走らないでくださーい」

 

 人が、昼間よりたくさんいた。なんでだろうと思っていたら、これからパレードがやってくるらしくて、それを観たい人たちが集まって座り込んでいるらしかった。あたしはどこに行くのかも決めていないけど、この人だかりには何となく居たくなくて、ゲストとゲストの間に作られた動線をすり抜けるように進んだ。気づいたら、射的場と、ビッグサンダー・マウンテンの入口があって、行き止まりだった。

 

 ブルブルッと、スマホが振動する。またママからのメッセージだった。

 

 

『学校をサボったくせに

 2日も帰ってこないで

 今いったいどこにいるの?

 まだ遊んでるの?

 誰がご飯を作るの?

 誰が掃除・洗濯をするの?

 早く帰って来なさい

 私を餓え死にさせる気?

 早く

 帰ってこい

 帰ってこい

 帰ってこい

 でないと』

 

 

 違う。

 

 このメッセージはママじゃなかった。

 メグミからだ。『でないと』の先に続く言葉に、私は背筋がゾクッとした。今日は帰ったら、家にメグミがいる。

 

 後ろを振り返ったら、パレードがもう、すぐそこまできていた。正面はビッグサンダー・マウンテン、右手にはウッドクラフトのお店、左手にはカレー屋さんがいい匂いを漂わせている。どこか、抜け道があるんだろうか。なんだか四方を囲まれて、どこにも行けないような気がしてしまって、あたしは少しパニックになった。息が上がって、気持ち悪さが胸のところまで上がってくる。唾液が口の中でたくさん出てるのがわかる。喉が渇いた。膝に力が入らなくて、ガクッと落ち込みそうになって、慌てて踏ん張ったけど、結局両手をついて地面に突っ伏してしまった。

 

「だっ、大丈夫?」

 

 男の人に声をかけられた。薄めで目を開けると、すごく人の良さそうなイケメンがいた。

 

「……座れば、なんとか」

「そこ、ベンチあるよ!」

 

 男の人は声をかけるものの、ベビーカーと荷物で両手がふさがっていて、私の体を支えてはくれなかった。支えられてもちょっと困るような気はするけど、本当にしんどかったから、誰でもいいから支えて欲しかった。

 よろよろとベンチにたどり着いて座り込んだら、男の人はその横にベビーカーを置いて言った。

 

「お水買ってくるね!ちょっとベビーカー見てて!」

 

 男の人は上ずった声で私に言って、走り出す。数分で戻ってきてペットボトルの水を渡してくれた。

 

「……ごめんなさい」

「いや!いいんだよ、大丈夫?」

「……違う、蓋開けてほしい……力入らなくて」

「あああ!!ごめんごめ……うわ!」

 

 開けた勢いで、男の人はペットボトルの蓋を落とした。ペットボトルの方を私に握らせて、落とした蓋を地面を這いつくばって探していた。もう、可哀想だから全部飲み干してあげようと思った。私はピルケースに入れていたデパスを口に放り込んで、水で流し込んだ。

 

「お兄さん、ありがとうございます」

「え?いいんだよ、大丈夫?……っていうかおれ、急いでるんだった!!」

「……あ、足を止めちゃってごめんなさい」

「いやいや!ウエスタンリバー鉄道に行きたかったんだけど、曲がるところを一本間違えて、アドベンチャーランドに行けなくて。パレードも始まっちゃって動けないし……だいたいここのエリアは暗すぎるよ!!」

 

 男の人はなんだか一人で喚いていて、この人もパニックになってるなと思った。ウッドクラフトのお店の後ろの高架を、赤い蒸気機関車が音を立てて通り過ぎる。慌てふためいてる男の人を眺めていたら、逆に私の気持ちは大分落ち着いてきて、頭を抱えている男の人の服の袖を引っ張って言った。

 

「ありがとうございました。あたし、もう歩けます。一緒に行きましょうか、ウエスタンリバー鉄道」

「え!いいの?道、わかる?僕ガイドブックめちゃくちゃ読み込んだのに迷っちゃって」

「あたしは初めて来たし、マップ見ずにテキトーに歩いてる」

「大丈夫かなぁ、それ……歩き回っても倒れたりしない?」

「ベビーカーって何キロまで乗れますか?」

「って、おれが押すの?それ」

 

 あたしは荷物が山盛りに乗ったベビーカーをつんとつついて言った。

 

「冗談です。お兄さん、名前は?」

「え?いいよ、おれの名前なんて。君からしたらおじさんだよ」

 

 

「ううん、人はみんな名前を持ってるはずだし、呼ばれたいと思ってるんだ」

 

 

 ウエスタンリバー鉄道は、さっきの魅惑のチキルームのすぐ隣にあった。鉄道だけど駅は一ヶ所しかなくて、パークを半周してまた同じ駅に戻って来るらしい。男の人の名前は啓太さんと言った。啓太さんは入り口近くの植木のところにベビーカーを停めて、そわそわとしていた。

 しばらくすると駅から、赤ん坊を抱えた女の人が出て来て、啓太さんが駆け寄った。

 

「美鈴ちゃん!!本当にごめん!!おれ、遼を危ない目に……」

「啓太くん、ここは夢の国だよ。大騒ぎせずに黙ろうか」

 

 美鈴さんと遼くんだった。美鈴さんは啓太さんの口に人差し指を押し付けて黙らせた。あたしは、こんな偶然ってあるんだなと思いながら3人のやり取りを眺めていた。

 

「あれ?ひよ莉ちゃん?」

「え!美鈴ちゃんの知り合い?」

「あたしもびっくりです。でも、啓太さん見てたら、喧嘩したの絶対啓太さんのせいだなって確信しました」

 

 あたしはニヤッと笑った。美鈴さんもあはは、と笑う。

 

「私たちは帰ろうと思うけど、ひよ莉ちゃんはどうするの?」

「うーん、帰るつもりはあったんだけど。状況が悪化して」

「大丈夫?」

「あの、メグミ……お母さんが怒ってて、あたしは悪くないと思ってるんだけど」

 

 美鈴さんはちょっと困ったような、心配そうな顔をした。

 

「ひよ莉ちゃん、私、すごく都合のいいこと言うね。ちゃんと帰って、悔しいと思うけど、自分を曲げても謝って、許してもらったほうがいい。あなたは未成年で、お母さんは保護者なんだから。守ってくれる人のそばに……」

「……メグミは守ってなんかくれないよ」

 

 あたしは、美鈴さんの言葉を聞いて、ショックを受けていた。自分は啓太さんのことを「私は悪くない」って突っぱねていたのに。

 

「メグミは、あたしのことを都合のいい家政婦かなんかだと思ってる。ご飯をつくれ、掃除をしろ、洗濯をしろ……それをこなしたって、不満で、満足しなくて、言いがかりをつけてくるんだよ。一昨日も、あたしが焼いた鮭の塩焼き、味付けが濃すぎるってあたしに投げつけて……」

 

 言いながら、ぽろぽろと涙が溢れて来た。啓太さんがなんだか居心地の悪そうな顔をした。

 

「お父さんは?それを何も言わないの?」

「……パパは、美味しいって食べてくれる。いつもありがとう、って。でも仕事で忙しいから、メグミのことは知ってるけど、無視してる。ママも、たまに帰って来るけど、ママは優しくて、あたしにごめんねって……」

 

 美鈴さんも啓太さんも、困惑した表情で顔を見合わせた。ベビーカーに座らされた遼くんの、う〜んという呻き声が聞こえる。

 

「ちょ、ちょっと待って、メグミさんと、ママは、別の人?」

 

 啓太さんが聞く。あたしは、何を口にすべきかを迷った。

 

「……複雑なんです」

「話したくない?」

「それもある……けど」

 

 あたしは深呼吸をして、潤んだ目で美鈴さんと啓太さんを見た。

 

「ママ……うちの母は、あの、解離性同一症です」

 

 啓太さんがびっくりした表情で口を開けた。美鈴さんは、それが何かよくわかっていないみたいだった。

 

「つまり……、多重人格です。ママの名前はみゆき、ママのもう一つの、荒れた性格が、メグミです」

 

 突拍子も無い話だと思う。理解し難い話だと思う。だからこそ、人に話をするのは憚られる。世の中には、複数の人格を持ちながらも、人格同士がきちんと対話して、共存して、普通の生活をしている人もいる。私の話は、偏見を産んでしまうかもしれない。でも、少なくともあたしのママは、メグミは、そうじゃない。

 

「……そんなことって」

「信じられないですよね。メグミは23歳で。"メグミ"にしたら私はママの……"みゆき"の子供だから、他人なんです。メグミは嫌いだけど、ママは好きだから、支えたいんです。でもメグミは」

「お父さんは……」

「パパも嫌いじゃないけど……。何かあった時はって、スマホも、お金もくれてるし。あんまり顔合わせなくていいように、都内の私立に入れてくれたし。通学は面倒臭いんだけど。でも、さっき言った通り、メグミの存在は無視してます。あたしが怒鳴られてても、殴られてても知らないふり」

「殴られてる?」

 

 啓太さんが驚いて言った。あたしは、もう涙が出なかった。目をこすって、いつもどおりヘラっと、口だけで笑った。美鈴さんが駆け寄って、あたしを抱きしめる。

 

「帰らなくていい」

「そうかな」

「ごめん、ごめんね……帰らなくていい」

 

 美鈴さんは長いことあたしを抱きしめた。抱きしめる力はとても弱くて、細くてか弱い体なんだなと思った。去年、ママに抱きしめられた時のことを思い出す。メグミじゃなくて、みゆきに。あの時もママは、ごめんね、と繰り返していた。

 

 あたしはディズニーランドの中をうろうろと歩きながら、美鈴さん、啓太さん、遼くんらと、今後のことを話し合った。ゲストはだんだんと減っていて、特に絶叫系のアトラクションのないファンタジーランドは人もまばらだった。

 

「あたし、どうしたらいいかな」

「お父さん、お母さん以外に知り合いは?」

「千葉にはいない、どこに住んでるかはあんまりわかんない」

「昨日一昨日に泊めてくれた人は?」

「晴華ちゃんは、ただの友達。フリーターだから、ずっとは置いとけないって」

「そもそも、親戚でもなかったら、警察沙汰になるとマズイかも」

「逆に、こっちから警察に電話するべきじゃ?どこかに保護してもらって……」

 

 啓太さんが言った。私はびくっとして、足を止めて、啓太さんの顔を見るけど、美鈴さんもその意見に同調しているようだった。

 

「警察は……」

「ごめんね、お父さん好きなのはわかるけど、……でも、殴られてるのを無視してるっていうのは、正直……虐待の黙認で、保護者失格だと思う」

「……そ、そうですよね」

 

 大好きだった、パパとママを見捨てる。家に帰りたいわけじゃない。でも、パパとママはあたしの両親で、家族。ふたりが警察に連れていかれるのは、それはちょっと、あたしにとっては話が違う。そりゃあ、一緒に暮らしていても、メグミが全てをぶち壊してしまっていて、あたしの家族は、もう取り返しのつかない事態なのかもしれない、でも。

 

「あたしじゃ決められないよ」

 

 あたしが弱音を吐いたら、美鈴さんがあたしに目線を合わせて、肩を掴んで言った。

 

「ごめんね。ひよ莉ちゃんがSOS出せないなら、あたしたちが警察に相談する。それが、ひよ莉ちゃんに相談されたあたしたちの、大人の責任だから。あなたは虐待されてる。……もちろんお母さんも……わからないけど、適正な場所で……治療?されて、穏やかになって帰って来たら、普通に暮らせるはず。お父さんも、お母さんが怖いだけ。でも今はきっと、我慢しないといけない時。だから……」

 

 治療。治療で、メグミの人格は消えるのだろうか。そんな治療法が確立されているとでも思っているのだろうか。というか、ママが治療を受けたことがないとでも思ってるのだろうか。美鈴さんに、何かを言い返したい気持ちになるけど、無意味なんだろうな、とあたしは思った。あたしと美鈴さんは、15近く歳が離れているけど、この件に関しては、あたしの方が経験値が上で。だからと言って、あたしを心配してくれている美鈴さんに、何か文句を言うのも、申し訳ないし、変だという気持ちになった。でも、美鈴さんに勝手なことを言われ続けるのも、すごく癪だ。

 

 なら、もう。あたしができることは限られている。

 

 あたしは、ニコッと微笑んでみた。いつもは絶対しない笑い方。小学校の卒業アルバムの写真撮影の時、笑って、と言われた時にした笑い方。心のこもっていない、嘘の笑い方。美鈴さんが、私の笑顔を見て、何か悟ったように、話すのをやめた。

 

「ちょっとだけ考えてもいいかな。ちょっとだけ、ひとりにさせてほしい」

「ひよ莉ちゃん、ひとりはダメ……」

「ひとりでディズニーランドに行くことは、何にもおかしなことじゃない。あたしはおかしくない」

「そうじゃないの、ひよ莉ちゃん」

「美鈴さん、ごめん。どうしたらいいか、考えるね」

「ひよ莉ちゃん!」

「美鈴さん、今日会ったばっかりだけど、大好きだったよ」

「待って!!」

 

 あたしは、走ってその場から逃げた。

 あたし自身、どうしたいかなんて、わからなかった。正解は、どれだろう。あたしは、何をしたいんだろう。どうするのが正しいんだろう。ママが好き。パパが好き。美鈴さんも好き。遼くんも好き。啓太さんのことはあんまり知らない。晴華ちゃんが大好き。ママが怖い。パパが憎い。メグミが怖い。ママと離れたくない。パパとも、離れたくない。もう一度、仲良しの三人で、怖いものなしで暮らしたい。でも今は、怖い。

 

「おおかみなんかー、こわくないー!こわくないったら、こわくないー!」

 

 BGMで「オオカミなんかこわくない」が流れていて、周りの目も憚らず、無心で口ずさんでみた。幸いにも周りには大して人はいなくて、みんなあたしをチラッと見てすぐに目を逸らした。あたしは、いつの間にか、トゥーンタウンに迷い込んでいて、顔を上げてとぼとぼと歩いていたら、目の前に赤い屋根の黄色い家が現れた。

 

「ミッキーのお家の裏にある撮影小屋で、映画撮影中のミッキーとご挨拶できますよ!ただいまの時間、抽選なしでご案内しています!」

 

 トゥーンタウンにあるという、噂のミッキーの家がこれか。キャストが案内している声が聞こえる。

 

「ミッキーに会えるんですか?」

「はい、ミッキーが、忙しい撮影の合間をぬって、皆さんに会いに来てくれるんです!」

「え、すごい、スターなのに」

「はい!庶民的で誰にでも優しいスーパースターです!」

「すごい、さすがミッキー」

 

 あたしはぼーっとした頭で訳もわからず呟いて、誰も並んでいない待ち列の入り口に足を進めた。ぐるっと庭を歩いてから、世界的スーパースターのお家に入る。

 

「おじゃまします」

 

 アニメのキャラクターの、日常生活がそこにあった。トゥーンタウンの情報を伝えるラジオ、思い出の写真、読みかけの新聞。ちょっと硬そうで座り心地の良くなさそうなソファ。ガタガタと揺れる洗濯機。所々に残された手書きのメモ。

 歩いていると、建物の中なのに、裏庭があって、今は夜なのに昼間の明るさだった。プルートの犬小屋があって、ミッキーは庭で家庭菜園もしているっぽかった。ミッキーが育てているニンジンは、ビーバーみたいな動物、ジリスというのだろうか、よくわからない動物に時々盗まれていた。

 畑の右手には、赤色の小屋があって、白文字でMickey's Movie Barnと書かれていた。緑の看板が、この先でミッキー・マウスが映画の撮影をしている事を示している。

 古屋の中には、これまでミッキーが登場した、さまざまな映画の衣装や小道具が無造作に置かれていた。色塗り作業中の背景書割りや、ニワトリたちまでいた。そこを抜けると、部屋が暗くなっていて、ミッキーの短編の紹介映像と、グーフィーとドナルドのドタバタが見れた。あたしはその映像を見ながら、ぼーっと考え事をして、次の部屋に案内されるのを待った。

 

 家出して、ディズニーランドに来て、結局帰るところがなくなった。ピーターパンの映画では、迷子はピーターパンが隠れ家に住ませてくれるけど、そもそもディズニーランドからネバーランドへはどうやって行けるのだろう。ディズニーランドでは、迷子になると臓器売買に出されてしまうとか、イッツ・ア・スモールワールドの人形にされてしまうとか、そんな都市伝説も聞いたことがある。あと、ジャングル・クルーズの船長になるために育てられるとか。でも、それはそれで、悪くないかもなぁ、なんて。

 ポップコーン屋さんのレジのお姉さんと話したように、ミッキー・マウスになれば、トゥーンタウンの住人になれば、ディズニーランドに住むことができるかも。ミッキーにお願いしてみようかな。あたしをトゥーンタウンに住まわせてください、って。

 

 そんなの、全部妄想だってわかってる。もう中学二年生だ。それくらいの分別はつくよ。

 

 この王国は作り物で、ミッキー・マウスには「中の人」がいて、中の人もまた、ポップコーンのレジのお姉さんたちみたいに、どうせ仕事を終えたら家に帰るんだ。晴華ちゃんみたいに我孫子とか、船橋とか、新浦安のアパートやマンションに。いま東京ディズニーランドにいる人たちの中で、帰る家がないのは、きっと私だけ。

 

 暗い部屋の扉が開いて、フィルムとポスターだらけの小部屋に通される。もうあたしの後ろには誰も並んでいなくて、小部屋に通されたのもあたしだけだった。部屋にあるもう一つの扉の前で、キャストが喋り出した。

 

「この扉の向こうに、今まさにミッキーが映画を撮影中です!撮影の休憩時間に、お客様にご挨拶してくれますよ!いまの時間帯、お客様で独り占めですね!ご案内まで、カメラの準備をしてお待ちください!」

 

 あたしは、少しだけ息を飲んだ。扉の上の、「HOT SET」というサインが点滅している。1と書かれた星マークと、ミッキーの昔の映画のポスターが貼られた扉を見つめる。幻想だ。作り物だ。架空のもので、設定で、演技だ。

 

 でも、どうだろう。もし本当に、ミッキー・マウスがいたら。

 今日一日、いろんなアトラクションに乗って、楽しんだ思い出と同じように、本物だったら。悔しくて悲しかった思い出みたいにリアルだったら。本当の夢と魔法の王国だったら。

 あたしが、ミッキー・マウスになれたなら。

 住めるかな、東京ディズニーランドに。

 どうか、夢を見せて。

 この、しんどくて、わけがわからない、現実の世界に。

 

 キャストの案内とともに、扉が向かって奥側へと開いた。

 あたしは、この世界が夢か現実か確かめるべく、扉の向こうへと一歩踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

第10話「ミッキー・マウスをよろしく」おわり

Chapter 10 - Meet Mickey Mouse

 

***

 

 

次回予告

エピローグ「迷子たちは花火を夢の国で見たかった」

www.sun-ahhyo.info

 

 

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』

【東京ディズニーランド小説】第9話「脚のない亡霊」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

 こちらの小説は作品投稿サイト NOVEL DAYS でもお読みいただけます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 本章は交通事故の描写、自傷行為、および性暴力描写を含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

***

 

 23年ぶりの東京ディズニーランドだ。その頃は、父も母もまだ生きていて、愛はまだ産まれてなかった。

 ほとんど記憶には残っていないが、私が住む家にはその頃の写真がアルバムに綴じてあって、私は父と母と手を繋いで、イッツ・ア・スモールワールドの前で照れ臭そうに写真を撮っていた。母はその頃まだ20代で、今のわたしたちと同じくらいの年齢で、妹の愛によく似て美人だった。お腹はまだ大きくなっていないが、きっともうお腹の中に妹がいたのだろう。写真では、普段滅多につけていなかったブルーの宝石のネックレスを首から下げていて、この日のためにおめかしして来たんだろうなと思った。そのネックレスを家で見つけたのが3ヶ月前のこと。私は思い出のディズニーの写真と、このネックレスがピタッと結びついて、どうしてもこれをつけてディズニーランドに行かなくてはいけない気持ちになった。

 

 私はシルバーのカチューシャを手に、ピンクゴールドのカチューシャをつけて自撮りする妹の姿を見つめる。

 

 可愛い、ずるい。

 

 私は「今時の20代の女の子」を楽しんでいる妹を羨ましく思った。カチューシャをぎゅっと握ったらスパンコールの跡が手についた。

 

「やっぱり私がピンクにする」

「いいよ。かわいいもんね、ピンク」

 

 妹と、色違いのカチューシャを交換する。シルバーをつけても、やっぱり愛は可愛くて、私は観念して、黙ってピンクゴールドのカチューシャをつけた。妹は、可愛いくせに私よりずっと大人で、物分りが良くて、頼りになる。妹がいなければ私はのたれ死んでしまうだろう。それくらい、私は妹に依存している。私は胸元で輝くブルーの宝石をぎゅっと握りしめた。なんで素直になれないんだろう。なんでいい子でいられないんだろう。

 

 愛ちゃんが羨ましい。

 

 9年前の事故の日、私は妹がそこにいないのをいいことに、自分のわがままを両親にぶつけて、不貞腐れていた。

 高校2年生だった私は、自分で言うのもなんだが成績優秀で、学年主任からの推薦を受け、夏の生徒会選挙に副会長として立候補する予定だった。幼い頃から両親、特に父からは結構厳しく躾けられ、勉強だけはひたすらに詰め込まされてきた。私は私で真面目だったから、それにしっかりと応えていた。勉強しか取り柄がなかったから、スポーツも芸術もからっきしで、それでも字は丁寧に書けたからという理由で書道部に入ったけど、やはり上には上がいるし、書道もあるレベルを超えてくると上手いだけでは通用しなかった。ESS部にでも入ればよかったなと思いながら、それでも2年の夏には書道部の部長を任されるようになってしまった。

 ずっと勉強していた。遊びに行くことはほとんどなくて、部活の後には週3で塾に通っていたし、塾がない日は本を読んだり自宅学習。土日も自習室を借りて定期テストの対策をしていた。暇があれば英単語を覚えたし、学校の行き帰りはTOEICのリスニング教材を聴いていた。勉強は嫌いではなかったけど、苦に思わなかったかと言われると嘘になる。テストで98点を取ったら「じゃあ次は100点取れるように勉強しなさい」と言われ、褒められることはなかった。土日に遊びに行く同級生たちを見て、私はなんで勉強しているんだろうと落ち込む日もあった。

 でも父はなぜか、妹には勉強しなさいとは言わなかった。「優ちゃんがいるから」「優ちゃんが頑張ってくれるから」が口癖で、妹には「可愛いお嫁さんになりなさい」といつも言っていた。妹は中学生になると吹奏楽を始めた。弱小だった妹の中学の吹奏楽部は、妹の入部した年から顧問の先生が変わり、練習はそれはそれは厳しかったようだったけど、1年で関東大会まで行くほどに上達した。朝練のために早起きして、授業中に寝てしまい担任に怒られても、古文のテストが4点しか取れなくても、妹はなぜか怒られなかった。部活が忙しい割に、妹はしっかり遊んでもいて、中学生にして美容や化粧に興味を持ち始めた。私は化粧に憧れこそあれど、化粧をして遊びに行く所もなければ、それらに興味のある友達もほとんどいなかった。友達同士で「青春」をエンジョイして、日に日に美しくなる妹を見て、私は嫉妬の気持ちでいっぱいだった。

 

 ずるい。

 

 妹の吹奏楽部の関東大会。両親に連れられて茨城県の宇都宮まで鑑賞に行った私は、彼女たちの演奏に圧倒されると同時に、こんな風に自分たちの披露する「芸術」を評価されている姿を羨ましく思った。私がどれだけ頑張って勉強しても、結果は数字でしか表すことができない。その数字に、自分自身や両親以外に誰かを感動させる力はない。そう思うと自分のやっていることが虚しくなった。彼女たちの敗退の知らせを聞いた時、正直いうと私は少しほっとした。でも、妹が「関東大会まで行ったごほうび」に東京ディズニーランドへ行くと知って、私は帰りの車の中でイライラを爆発させて両親に当たってしまった。父と私の、激しい罵り合いの末、私は癇癪をおこして、後部座席から父の座るシートに思いっきり蹴りを入れた。父は私を叱ろうと一瞬振り返り、そのはずみでハンドルが右に逸れた。次の瞬間の記憶がなくて、気がつくと私は病院にいた。

 

 東京ディズニーランドは快晴だった。もう9月も半ばだというのに、秋めく心地よさよりも日本特有のジメジメとした暑さがまとわりつく。妹は私を「ゲストリレーションズ」という場所へ連れて行って、カウンターで障害者手帳と障害者割引のチケットをキャストに見せた。

 

「ディスアビリティサービスのご利用ですね」

「愛ちゃん、なにそれ」

「待ち列に並ばずに他のところで待てるんだって。私の高校の友達の瑠奈ちゃんが、プーさんのところのキャストでね、教えてくれたんだ」

「でも私、列に並びたい」

 

 妹は驚いた顔をした、キャストもちょっと困ったような笑顔で手を止めて、私たちの会話が終わるのを待っている。

 

「待つところにも、いろんな仕掛けがあったり、物語が感じられるって、YouTubeで見た」

「でも、待つの大変だよ」

「いいの」

 

 妹はキャストに声をかけてチケットを回収し、「インフォメーションブック」という冊子だけをもらって、ゲストリレーションズを出た。もらったばかりのインフォメーションブックを見ながら、どこに行こうか二人で考える。私はテレビで、好きなアイドルが言っていた情報を伝えてみた。

 

「かざぽんが、ディズニーは左周りで楽しむって言ってた」

「でも、オープンしたばっかりだからカリブの海賊はちょっと混んでる……イッツ・ア・スモールワールドと、あとホーンテッド・マンション、空いてるね」

「それ、どっちも行きたい。テレビで見たことある」

 

 妹に車椅子を押してもらいながら、私は初めてのディズニーランドの風景を楽しんだ。

 基本的に、検診の時以外はたいていずっと家にいる。家を出るのは大変だし、一人で出ると何かあった時に大変だから。ここ数ヶ月暇な時はずっとディズニーランドのYouTubeを見ていた。テレビで定期的にやっているディズニー特集も録画して、繰り返し見て、それなりに知識を詰め込んできた。ファンタジーランドにたどり着き、まずはイッツ・ア・スモールワールドへ、間にミッキーのフィルハーマジックを楽しんでからから、ファンタジーランドの奥地にあるホーンテッド・マンションの前までやってくる。

 

「お姉さんたちの服、かわいい」

「本当だねぇ。お姉ちゃん、これ大丈夫そう?怖くない?」

「お化け屋敷は初めてだけど、これは怖くなさそうだったよ」

 

 待ち時間は不吉な数字とかけた13分待ちだった。途中、ブツブツと呪文のような言葉を唱える40代くらいのゲストがいて、私はその男性がつぶやいている言葉が、もともとこの部屋で流れるアナウンスと同じものだと気付いた。私は妹の服の袖を引っ張り、ひそひそと話す。

 

「このセリフ、ここで流れてるんだよ。YouTubeで聞いたことある。すごいね、覚えてるんだね」

 

 ベルトコンベアの流れる乗り場までたどり着き、いよいよ次は私たちの番になった。妹が不安そうな声でキャストに尋ねる。

 

「これ、大丈夫ですか?車椅子なんですけど、乗れますか?」

「ベルトコンベアを止めますので、安心してください」

 

 キャストが言った通り、ベルトコンベアが止まり、車椅子からスムーズに乗り換えることができた。

 

『いたずら好きの亡霊が、また邪魔をしたようだな。諸君はそのまま座っていてほしい。すぐに動き始めるから』

 

 音楽も止まって、こんなアナウンスが流れた。私はクスクスと笑ってしまった。

 

「私、亡霊だって。アトラクション止めちゃった」

「面白いアナウンスだね」

 

 妹も、はははと笑って答えてくれた。音楽が再度流れ出し、ベルトコンベアがスタートする。妹が安全バーを引こうとしたら、またもやアナウンスが流れた。

 

『セーフティーバーに触ってはいけない。それを引くのは私の役目』

 

 ガタン、と音がして、自動的に安全バーが腰のところまで引き寄せられた。私たちは顔を見合わせてニヤニヤする。

 

「おばけ、いるね」

「おばけ、いるわ」

 

 薄暗い、不気味な壁紙の部屋を進みながら、ギシギシと音を立てて、姿を見せそうで見せない亡霊たちを、私は興味津々で眺めた。肖像画や胸像がずっとこちらを見つめている。埃にまみれたピアノは誰もいないのに鍵盤が沈み、音が鳴っている。でも、そこに誰かが座っているかのように影だけが床に落とされている。あの廊下は、どこまで続くのだろう。棺やドアは、隙間から手を伸ばしながら、はちきれそうにこちら側にせり出し、うめき声を上げている。

 

 英語で呪文を唱える声が聞こえる部屋にたどり着いた。楽器が宙を舞い、真ん中に水晶玉が置いてある。水晶玉には顔面蒼白の女性の顔が浮かんでいる。その部屋を抜けると、亡霊が突如姿を現わすようになった。舞踏会の部屋を過ぎると、乗り物は屋根裏へと進む。真っ暗な屋根裏になにがあるのかと目を凝らしていたら、物陰から突如幽霊が飛び出してきて、私はびっくりして妹の手を掴んだ。

 

「すごい、すごい、すごい、楽しかった」

「よかったねお姉ちゃん。すごい感激の声出てたよ」

「また乗りたいけど……もっといろいろ乗りたい。カリブの海賊行きたい」

「ちょっと遠いからなぁ……カントリーベアのショー見てから、カリブの海賊行こっか」

「それでもいいよ」

 

 私たちはカントリーベア・シアターでのショーを楽しんでから、再びアドベンチャーランドに戻ってきた。この時間のカリブの海賊はかなり空いていて乗り場まで直行だった。私はテレビ番組で好きなアイドルが言っていた、カリブの海賊の待ち列のことを思い出して、少しだけがっかりした。

 

「う、隣の部屋行けないんだ」

「え、すぐ乗れるんだからいいじゃん」

「かざぽんが前言ってたんだ。隣の部屋……『これからアトラクションを乗る人が楽しめる部屋』って。待つための部屋も見てみたかったな。今度は混んでる時に来ようよ」

「混んでる時……、お姉ちゃんの考えは……、独特だね」

 

 妹は、「変」とか「おかしい」とか、傷つけるような言葉を使わず、気を遣って私の発言を揶揄した。要は、面倒臭がられている。事故以来、気を遣われているなとか、面倒臭がられているなとか、よく感じる。

 ボートに乗り込んでアトラクションがスタートする。薄暗い、穏やかな入江をボートが進む。骸骨がボートに乗るゲストへ向けて語りかける。

 

『おめえ達は冒険が好きでこの海賊の海に来たんだな?そんならここはうってつけだ。だがぼんやりすんじゃねえぞ。しっかり捕まってろ。両方のお手てでな……。』

 

「きゃっ!!」

 

 私は妹の手を強く握った。YouTubeで何度も観た落下だ。何度も観たけど、実際に体験するとやっぱりちょっと怖かった。これで私たちのボートは海賊の世界へと飛び込んだ。

 

「お姉ちゃん大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 

 妹はかなり心配そうな声で私に聞く。大丈夫と返す声が、少し震えていた気がする。

 ボートは海賊たちの宝の眠る洞窟を抜けて、デイヴィ・ジョーンズの幻影が見える霧を抜けた、海賊船が街を襲っている。その海賊船にはキャプテン・バルボッサが乗っていた。海賊たちは次々に声をあげるけど、訛りがきつかったり、スペイン語だったりで、英語の得意な私でも聞き取るのは難しかった。私は、こっそりと海賊たちの様子を伺うジャック・スパロウを見て、安堵感を覚えてちょっと笑った。

 

「うっ」

 

 ボートが進むと、そこにオークション会場があった。動画で何度も観たつもりだったけど、細部までは見えてなかったみたいだ。そこは、女性たちが縄で繋がれていて、海賊たちの妻にあてがわれる「花嫁オークション」が行われているシーンだった。

 

『We wants Red Head!』

 

 「赤髪をよこせ!」と叫ぶ海賊たちの声がする。縄で繋がれた赤髪の女性は、他の女性たちと比べてまんざらでもなさそうな、すまし顔で立っている。私はちょっと頭がクラクラした。橋の下をくぐると、奥の屋敷の中で、幾人かの女性が海賊に追いかけ回されていた。一人の海賊は、逆に海賊の方を追いかけ回していたけど、私は到底笑えるような気分じゃなかった。電波の入らなくなった古いテレビの砂嵐みたいなめまいが起きて、私は目をつぶって妹の肩に頭を預ける。

 

「お姉ちゃん、どうしたの?」

「ちょっと……う……」

 

 妹の腕にしがみつく。胃から何かがこみあげるような気持ち悪さに襲われた。こんなところで吐くまいと、頭の中で楽しい思い出をたくさん浮かべた。それでも頭の中に響くのは、乱暴で、陽気な海賊たちの「ヨーホー、ヨーホー」という歌声だ。

 

 あの女性たちは、街を焼かれ、連れ去られた後、何をされてしまうんだろう。

 

 アトラクションを降りた後は、日焼けしそうな日差しを避けて、向かいのクレープ屋のパラソルの下に陣取った。結局吐くことはなかった。呼吸を整えて、明るいジャズのBGMに耳を傾ける。なんでもないから大丈夫と伝えたけど、妹はクレープ屋の窓口にドリンクを買いに行ってくれていた。

 

「素敵な宝石」

 

 優しそうな女性の声で話しかけられた。声のした方に顔を向けると、見たところ60代くらいの少しぽっちゃりとした可愛い女性がいた。

 

「突然話しかけてごめんね。顔色悪そうだけど大丈夫?」

「ちょっと……えと、ボートが落ちてびっくりしちゃいました」

「あら、カリブの海賊?私もさっき乗ったの。びっくりしたよね」

 

 女性はニコニコと笑った。もしかしたら、あまりに顔色が悪そうだったから、気を紛らわせてくれているのかもしれない。

 

「その宝石、もしかしてラピスラズリ?9月の誕生石だね、9月生まれ?私も今月誕生日なの」

「……いえ、これ亡くなった母のなんです。宝石の名前はちょっとわからないです。母は12月生まれで。」

「あ、そうだった。12月の誕生石もラピスラズリだった。お母様のなのね。綺麗だね」

「……あ、お誕生月、おめでとうございます」

 

 女性は驚いた表情で私を見て、それからあははと笑った。

 

「そういうつもりじゃなかったんだけど、ありがとう。嬉しい。私14年ぶりにディズニーランドに来たんだけど、どこか美味しいレストラン知ってたりする?」

 

 私も23年ぶりなんだけどな、と思いながら、ちょっと考えた。そういえばこの近くに、以前テレビで紹介されていたお洒落なレストランがあったはずだ。

 

「ええと、テレビで見ただけなんですけど。ブルーバイユー・レストランっていう、すごく素敵なレストランがこの近くにあるみたいなんです。カリブの海賊と中で繋がってて、アトラクションのボートを見ながら食べれるって」

「ええ!何それ、素敵!」

「高くて、私たちはちょっと手が出ないんですけど、いつか行きたいなぁと思ってて」

「行きたいわぁ。夫に言ってみる。教えてくれてありがとう」

 

 この女性の笑顔を見ていたら、だんだん気持ちが落ち着ついてきた。私もぎこちない顔でニコッとしてみる。

 

「足、悪いの?」

「……はい、ちょっと」

 

 たまにこういう風に、遠慮なく聞いてくる人がいるが、この女性の雰囲気は嫌な感じがしなかった。

 

「ラピスラズリの石言葉はね、『幸運』『健康』『成功』なの」

「そうなんですか」

 

 なんだか、私にはひとつも当てはまっていないような気がする。そう思いながら聞いていた。

 

「成功のために、神様は試練を与えるの。あなたはきっと乗りこえられる。お母様が守ってくださるわ」

「そう……そうだといいんですけど」

 

 私はニコッと笑ったが、ちょっと話が飛躍しすぎている気がする。

 「試練」か。

 いいな、普通に生活できる人は。私の過去も、気持ちも、何も知らないのに。平気でそんな言葉を投げかけることができるんだ。

 

「お姉ちゃん」

 

 妹が帰って来た。妹は女性に不思議そうな顔で女性に会釈する。

 

「ウーロン茶買って来たよ」

「愛ちゃんありがとう。……えーっと、お話ししてくれて、ちょっと気持ちがスッキリしました、ありがとうございます」

「こちらこそ、邪魔してごめんね。レストラン、行ってみるね」

 

 私は会釈して、車椅子を妹に押してもらいそこを離れた。女性はにこやかな笑顔で手を振って、そこに座っていた。嫌な感じでもないし、悪い人でもないのだろうけど、ちょっとお節介な人だなと思った。

 行くのかな、ブルーバイユー。テレビの受け売りだけど、行ってくれたら嬉しいな。

 

 ブルーバイユーのような高級レストランでコース料理を食べる余裕がない私たちは、ウエスタンランドの奥の方にあるキャンプ・ウッドチャック・キッチンというレストランで食事をした。そこのレストランで食事をしていたら私の担当ケースワーカーの川島さんと偶然鉢合わせてしまって、少し気まずい空気になってしまったが、彼の恋人のノアさんという人がとても素敵で、ディズニー映画に登場する王子様のような人で、私は心がときめいた。

 二人と別れた後は、私が以前来た時にはまだなかった、トゥーンタウンというエリアに行った。エリアをぐるっと一周して、ベンチでちょっと休憩してから、妹がトイレに行きたいと言った。丸っこくてかわいいガソリンスタンド風の建物の前にやってきて、妹はカチューシャを外す。

 

「持っててもらっていい?」

 

 妹は私を置いてトイレに入っていった。トゥーンタウンの建物たちは、アニメの中の世界を再現したようにぐにゃぐにゃで、可愛らしかった。

 

「お待たせー」

 

 男性トイレの入り口から細身の男の人が出てきて、建物にもたれかかって待っていた女の人に声をかけた。何気なくそちらを見ていたら、立ち去り際に向こうもこちらを見て、目が合った。その瞬間、私は背中がゾクっとするのを感じた。

 その人の顔は、9年前に私が憧れだった人に、とてもよく似ていた。私の心臓が高鳴った。急いで目を逸らして、震える手で車椅子を動かし、私の出せる全力で、その場から離れた。この時は、妹の事も忘れてしまっていた。

 他人の空似かもしれない。でも、怖い、怖い、怖い。

 

 

 

 事故から半年が経った頃のことだった。治療も、リハビリも終えた私は、これまでとは全く異なる生活ながらも、ひとまず入院の必要がなくなった。私は、真夏から真冬に季節の変わった学校に、結果的に1週間だけとなる復帰をした。行き帰りは叔母に車で送ってもらった。

 早く学校に戻りたかった。親を失ってもなお、私には勉強しかなかったから。大学へ行くのはもう絶望的かもしれない。でも、給付型奨学金をもらえれば、もしかしたら。

 私が立候補するはずだった生徒会選挙はとっくに終わっていて、生徒会長には森田くんという男子が、副会長には仁科さんという女子が選出されていた。私は、高校に入ってからずっと、森田くんに淡い憧れを抱いていた。成績優秀で、剣道部の新部長で、大学の第一志望は横浜国立大学だと言っていた。顔がアイドルみたいにかっこよくて、周囲の女子生徒からの人気も高かった。事故に遭う前は、私たちは付き合ってこそなかったが、けっこういい感じだったと思う。お互い成績優秀だったけど、森田くんはあまりノートを取らないタイプで、テスト期間前はよく私のノートを貸していた。私が真面目でしっかりとノートを取っていることと、自分の字が綺麗な事を、1番誇りに思う瞬間だった。

 副会長になった仁科さんは、私よりもずっと美人で、私ほどではないけど、成績もそれなりに良かった。テストこそ苦手だけど、英語はネイティブ並みで、英会話ならば私よりも得意だった。親が外資系の会社で働いているから、幼い頃から海外を転々としていた帰国子女で、高校卒業後はイギリスの大学に入学するらしかった。

 

 私が高校に戻って三日目、友達から、森田くんと仁科さんが付き合っているらしいという噂を聞いた。私はまたもや嫉妬に狂ってしまった。

 

 ずるい。副会長には、私がなるはずだったのに。私は事故にあって、脚を失ったのに。貴重な6ヶ月の高校生活も失ったのに。

 

 翌日の放課後、私は森田くんに声をかけられて、生徒会室で少し話をした。今更何を話すのかと思ったけど、私がいなかった間の6ヶ月の学校のこと、森田くん自身のこと、いろいろと教えてくれて、その後私の事故のことや体のことを、溜まった鬱憤やストレスをしっかりと聞いて受け止めてくれた。生徒会室にはそのほかの生徒会のメンバーが作業していたりもしたから、全てをぶつけることはできなかったけど、私はタイミングを見計らって、ちょっと泣きそうになりながら、さりげなく森田くんへの思いも、匂わす程度に伝えた。途中、生徒会室に仁科さんが入ってきて「有田さん、ひさしぶりー」とだけ声をかけて、何かのファイルを手に取って出て行った。なんだか勝ち誇った顔をされたような気がしたけど、それは私の憎悪が生み出した幻かもしれない。その日はお互いに近況報告のような形で終わったが、その日の晩にケータイにメッセージが届いて、週末に私は、なんと森田くんの家に行くことになった。

 

 森田くんの家は建ててから10年も経っていなさそうな綺麗な家だった。大きくはないけどスタイリッシュで、私もこんな家に住んでみたいなと、その時は思った。

 

「ようこそ、あがってよ」

 

 森田くんにそう声をかけられるけど、スタイリッシュな家は玄関からすでに段差が多くて、どう考えても車椅子で入れるような感じではなかった。森田くんは細い体で私を抱えて、1階のリビングのソファに座らせた。憧れだった森田くんと思いがけず密着して、私はドキドキしてしまって、顔が真っ赤な状態でちょこんと縮こまっていた。

 

「俺の部屋に行くのは難しいな、2階だから。まぁ、親はいないから気にしないでよ」

 

 なんで私を呼んだんだろう。家には二人きりだ。何か話があるんだろうか。ちょっと淡い期待をしながら、私は彼が何か話すのを待っていたけど、彼は紅茶を入れてくれた後、私の顔を見つめながらずっと黙っていた。私は顔を真っ赤にしながら見つめ返した。

 

「仁科さんと付き合ってるの?」

 

 沈黙をどうにか破りたくて、思い切って聞いてみた。心臓がドクドクと脈打つ。森田くんはちょっとだけ視線を落として、ティーカップを置いた。

 

「そうだよ」

 

 私の淡い期待が、ガラガラと崩れ落ちた。心の中は一度空っぽになって、虚しさが叫び声を上げている。その叫び声が、ふつふつと怒りとして燃え上がりそうになって、私は深呼吸して自分を抑えた。じゃあどうして。

 

「じゃあどうして私を呼んだの?」

 

 ちょっと口調が強かったかもしれない。森田くんは、少し驚いた顔をした。

 

「有田さん。この間話を聞いた時、俺のことが好きだと思ったんだけど、嬉しくなかった?」

「今は嬉しくない。なんで彼女がいるのに」

「なんで、って。彼女がいたって、別に女の子を誘ったっていいだろ。喜ぶ子はいっぱいいるよ」

「いっぱいいる?」

 

 こんなことをしょっちゅうやってるのか、この男は。私は怒りに蓋ができなくなりそうだったけど、次の瞬間、ソファーに押し倒されて身動きが取れなくなった。何が起きているのか、一瞬理解に苦しんだ。天井と、興奮した目で笑う森田くんが見えた。そもそも私は下半身が動かないんだ。腕を押さえ込まれたら、終わりだ。

 

「俺のこと好きだったんじゃないの?仁科はさ、かわいいし、大人とか海外のイケメンでも相手にできるから、ほんとは俺のこと眼中にないわけ。暇つぶしに付き合ってるみたいな感じらしくてさ、やらしてくれないんだよ」

「やら……」

 

 私はキスされて口を塞がれて、舌を入れられる。頭がぐるぐると回転してるような錯覚に陥って、心臓が張り裂けそうなくらい高鳴って、体はすごく熱い気がするのに、鳥肌が止まらなかった。

 

「っ……やだ」

「大丈夫。初めて?多分痛くないよ。俺優しいから」

 

 彼も服を脱ぎ始めた。私は上半身だけでバタバタして、そのままフローリングに転がり落ちたけど、森田くんはお構い無しに私の服を脱がせていった。薄い胸をまさぐられ、涙目で目を逸らしながら必死に抵抗してみせるけど、剣道部主将の力の強さに、半身不随の書道部の私は全く歯が立たなかった。

 痛いわけない。感じるわけない。

 でも、死んでしまいそうなほど痛くて、苦しくて、悲しかった。

 

「……くっせ!!」

 

 森田くんが、ばっとその場を離れた。私には下半身の感覚がない。排泄の感覚がない。ツンとした匂いのする部屋で、私は身包みを剥がされた状態のまま、静かに泣いていた。こんな羞恥があるだろうか。こんな屈辱があるだろうか。こんなに絶望的な初めてがあるだろうか。憧れだった人に、最悪の形で弄ばれ、最悪の形で終わった。いっそ死んでしまいたい。

 

 なんで私だけ。

 なんで私だけ。

 なんで私だけ。

 

 この件は、明るみになることはなかった。

 私はこのことを誰にも話さなかったし、話したくなかった。翌朝、私はお風呂場で盛大に手首を切って、叔母に見つかり、再び病院に運ばれた。週明け以降、私は学校に行くことがなくなった。

 考えることができても、言葉にするのが難しくなった。何か本を読んでも、頭に入れることが難しくなった。誰かと話をするのが苦手になった。

 生きていく意味とか、目的とか、目標とか、将来とか、もうすべてがどうでもよくなった。でも、一度手首を切って、長いこと忘れていた「痛い」という感情を思い出した。もう痛い思いはしたくない。そう考えると生きるのも、死ぬのも辛かった。

 

 

 混乱した頭のまま、シンデレラ城の陰に隠れて呼吸を整え、また全力で移動して次の建物の陰に隠れて、というのを繰り返して、気がついたら、私はイッツ・ア・スモールワールドの前にいた。ぎゅっと、ラピスラズリのブルーのネックレスを握りしめる。

 

 お母さん。優しかったお母さん。なんで私の人生はこうなんだろう。

 

 勉強しかできないのに、今はもう学ぶこともやめて、ただ消費するだけの生活を、妹に負担をかけながら生きている。私なんて、あの事故の時に死んでしまえば良かったんじゃないか。お母さんが巻き込まれて死ぬくらいなら、私が死ねば良かったんだ。もう嫌だ。人生を終わらせてしまいたい。

 私は号泣した。いつぶりかわからないくらいに、声を上げて泣いた。赤ん坊に戻ってしまったような気持ちで、泣いた。周囲のゲストが、私に気づいてこちらを見たり、逆に目を逸らしたりする。

 知るもんか。

 一度でいいから、私のわがままを聞いてくれ。

 望みを叶えてくれ。

 私を殺してくれ。

 

「……いた、優さん!」

 

 背の高い男性が駆け寄ってくるのがわかった。私はそれが誰か気づいた途端、その胸に飛び込みたくて身を乗り出したら、バランスを崩して車椅子から落ちてしまい両手をついて倒れ込んでしまった。

 

「優さん、大丈夫?」

「……ノアさん、っぐ、……っぐ」

 

 ノアさんは、細いのに大きな身体で私を抱き起こした。川島さんも、遅れてこちらに追いついた。ノアさんに抱きかかえられ、車椅子に戻る。涙はまだ止まらなかった。

 

「……優さん、大丈夫ですか?」

「……わ、私、もう死にます。生きていられない。悲しいことを思い出しちゃった。は、恥ずかしくて、苦しくて、……でも誰にも話せなくて、このまま生きていくのが辛い。他の人が羨ましくて、誰かに認められたくて、ずっとうまくいかなくて、みっともない。……愛にも迷惑をかけてる。川島さんにも、ノアさんにも迷惑をかけてる。いろんな人に迷惑をかけてる。いなくたって誰も困らないのに、いない方が誰も困らないのに」

 

 ノアさんが、私の肩を掴んだ。透き通ったブルーの瞳で、じっと目を見つめてくる。目の色が、ラピスラズリの色に似ている。

 

「悲しいことがあったんだね。とても辛かったね。でも、辛い気持ちを話してくれてありがとう。信頼してくれてありがとう。優さんの命や身体は、誰のものでもない、優さんのものだよ。優さんが決めたらいい。でも、もし優さんが死んでしまったら、僕はすごく悲しいな」

 

 ノアさんは、私の目をしっかりと見つめて言った。私の身体は、私のもの。川島さんが膝を落として、私に目線を合わせた。

 

「優さん、僕は今日、優さんと愛さんに偶然会わなかったら、ノアとの結婚を決めなかったかもしれない」

 

 川島さんが、細い目で優しく笑った。ノアさんが川島さんと肩を組む。

 

「優さんたちのおかげだよ。僕の人生を動かしてくれてありがとう。生きていたら、迷惑だってかけるかもしれない。それが生きることだよ。同じ分だけ、優さんは誰かにお返しできると思う。でも、そもそも、誰かのために生きなくてもいいんだ。自分のために、わがままに生きていいんだよ」

 

 私は鼻を啜って、深呼吸した。まだ目からうるうると涙が溢れそうになって、鼻がツンとする。それでも、気持ちはかなり落ち着いた。ノアさんが立ち上がって言う。

 

「でも、人はいつか死ぬんだよね。せっかくディズニーランドに来たんだ。もし今すぐ死ぬなら、僕なら死ぬ前に、何かアトラクションに乗って楽しんでからにしたいな。優さんは、何に乗りたい?」

 

 ノアさんの説得というか、励ましは、ポジティブにも聞こえるし、ネガティブにも聞こえる。何も言っていないようにも聞こえる。それでも、事態を深刻に捉えすぎず、私の気を紛らわせて、意識をアトラクションへと向けてくれた。私は、最後に一つアトラクションに乗るなら何がいいかな、と思案した。

 

「ホーンテッド・マンションに乗りたい」

「Holy Macaroni! ちゃんと死なずに帰ってこなきゃダメだよ!はじめ、愛さんに連絡しておいて」

「わかった」

 

 川島さんが妹に電話をかける。そういえばと思ってスマホを探したら、ミッキーのフィルハーマジックに入る前に電源を切ってからずっとそのままだった。カバンの中に、妹のシルバーのカチューシャが入っていることにも気づく。

 

「愛に謝らなくちゃ。私、先に愛のところに行きます」

「今は、わがままになる時だよ、優さん。ホーンテッド・マンション、乗ろう」

 

 ノアさんはゆっくりと車椅子を押してくれた。川島さんもついて来てくれる。乗り場で、このライドは三人乗りだと聞かされ、川島さんは気を遣って一人で乗ろうかと言ったけど、私は川島さんにも一緒に乗って欲しくて、ちょっと狭かったけど私たちは三人で乗った。乗り込む時にまた、例のアナウンスが流れる。

 

『いたずら好きの亡霊が、また邪魔をしたようだな。諸君はそのまま座っていてほしい。すぐに動き始めるから』

 

「私、このアナウンスが好きです」

「Why?」

「えっと、Because……I feel…… I became a part of this attraction when I hear it. When I come here, I become a ghost……, just a ghost without dissabilities. 」

 

 高校を辞めてから、英語の勉強も、英会話も一切やめていたけれど、ぎこちなかったし、文法も品詞も全くもって不安だけど、ゆっくりと伝えた。私の思いがどれだけ伝わったかはわからないけど、ノアさんはニコッと笑ってくれた。

 

「It must be special for you.」

 

 ライドがゆっくりと動き出した。おどろおどろしい音楽と、奇妙で、おかしくて、少し楽しくて少し怖い、屋敷のツアーが始まる

 

「きゃっ!」

 

 屋根裏の部屋で、朝と同じ、物陰から飛び出す亡霊にびっくりして、私はノアさんの腕にしがみついた。ノアさんはあはは、と笑って今度は川島さんにしがみついた。私たちは三人で笑った。

 屋根裏を抜け、墓場にたどり着くと、そこはゴーストだらけだ。いろんな顔の、いろんな服を着たゴーストたちが青白く光るのを私たちは楽しんだ。ヒッチハイクをするゴーストが、次の部屋で私たちのライドに乗り込んで、ノアさんに重なるように陣取って、3人で、Get out!と叫んで追い払おうとした。私たちは笑って、笑っていたら、悲しかった気持ちを少しだけ忘れた。 

 

 私は、世の中のほとんどの人が、羨ましくて、ちょっと憎らしい。私は普通の人の生活とは、ちょっと違った生き方しかできない。誰かに迷惑をかけて生きていくしかない。でも、私は多分、人が体験したことのないような、今後体験することのないような壮絶な人生を歩んでいる。心は散々、ズタズタに切り裂かれた。死んでしまいたいと何度も思って、それでも生きてきた。多分、死んでしまいたいと願いながら、本当は生きていたかったんだ。

 生きていたいと思うことは贅沢だろうか。許されないことだろうか。そもそも、許されなければ生きていけないのだろうか。

 私は、生きたい。勉強ができるという取り柄すら失っても。まともに歩くことができなくても、誰かに迷惑をかけてしまっても。アトラクションを止めてしまうような、「いたずら好きの亡霊」であっても。

 生きる、というわがままを、贅沢を、私は図太く、貫き通す。

 

 アトラクションを出たら、出口で妹が待っていた。ノアさんと川島さんのカップルに別れを告げ、私たちは家に帰ることにした。ワールドバザールが見えて来たところで、私は妹に言った。

 

「愛ちゃん」

「なに?」

「私、これからも生きるね。迷惑かけるから、よろしくね」

「私も……たまには迷惑かけていい?」

「愛ちゃん」

「何?」

「……ニキビできちゃった」

「いい洗顔貸してあげるね」

 

 妹はそう言って笑った。東京ディズニーランドはもう日が沈んで、ライトアップが始まっていた。ウォルト・ディズニーとミッキー・マウスが手を繋ぐ銅像が、黄金に輝くワールドバザールを指差していた。私は、車椅子を押す妹の手にそっと触れてみた。気のせいかもしれないけど、涙が手の甲に落ちたような気がして、私は気づかないふりで空を眺めた。

 

 

 

 

 

第9話「脚のない亡霊」おわり

Chapter 9 - The Lonely Legless Lady

***

 

あとがき

本作にて「カリブの海賊」というアトラクションを批判的に描いておりますが、

私自身大好きなアトラクションでもあります。

大好きだからこそ、あのアトラクションで苦しい気持ちになる人を無視したくはないな、とも思っています。

 

途中で出てくる女性は8話の結美です。

何かへの理解を求める人が、必ずしも別の何かに理解がある訳ではないし、

だからといって悪気があるわけでもないんです。

悪気がなければ傷つかないというわけでもないんです。

 

タイトル用画像提供:ウィリー(@HoratioSquare

 

 

次回予告

第10話「ミッキー・マウスをよろしく」

www.sun-ahhyo.info

 

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』

 

【東京ディズニーランド小説】第8話「写真と指先」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

 こちらの小説は作品投稿サイト NOVEL DAYS でもお読みいただけます。

 

***

 

 場違いな感じがする。

 私はペンを走らせ、チェックインの書類を書きながら思った。

 

「河口 総一郎様ですね。お調べしますのでお待ちください」

 

 キャストがカタカタとPCを叩く。

 ディズニーのホテルと聞いたものだから、もっと騒がしくて、原色がチカチカしたホテルなのかと思ったら、まるでディズニー映画のお城の中のような佇まいのホテルで、品があり、想像の数倍は落ち着いていて、逆に面食らってしまった。

 後ろを振り返り見上げると、5階分くらいの高さまでの吹き抜けに、見事なシャンデリアがぶら下がっていて、暖色の明かりを灯していた。明かりはツルツルに磨かれた石の床に反射し、壁紙の色もあいまって、ここにいる私たちもホテルの外観みたいに黄金の光に包まれたような気持ちになる。燕尾服やドレスを着た人たちが歩いていても違和感ない、とても高級そうなホテルなのに、いるのはTシャツ短パンにミッキー・マウスのカチューシャという格好の若者が多いのがアンバランスで、なんだか不思議な感じだ。ロビーラウンジの向こうではまだ朝の8時半だというのに青空が燦々と広がっているのがわかった。今日もどうやら暑そうだ。

 

「河口様……ご予約が見つからないのですが、他の方のお名前でご予約されていませんか?」

「ああ、すみません。娘の名前かもしれない。北川かえで……。ああほら、予約番号もある。pXRa113……」

 

 私はスマートフォンの画面を見せながら、娘から送られてきた予約完了のスクリーンショットの文字列を読み上げる。

 

「北川かえで様ですね……少々お待ちください」

 

 先日のことだ。妻の還暦のお祝いにと、娘夫婦が、私たち夫婦での東京ディズニーリゾート旅行をプレゼントしてくれた。

 東京ディズニーランドに家族で来るなんて、娘が中学生だった頃以来だから、かなり久しぶりだ。14、5年ぶりだろうか。妻とこんなふうに遠くへ出かけること自体も久しぶりなのに、それが東京ディズニーランドというのは、68歳になる私には気恥ずかしく、正直言うと来るのが億劫だった。だが、娘からこの計画を聞いた時の妻の、あまりにも嬉しそうな表情を見ると、水を差すようなことは言えなかった。

 

 私はフロント正面の絵画を見つめる。シンデレラ城の周囲の湖が凍っていて、その上でヴィクトリア時代らしき服装の人々がスケートを楽しんでいる。まるで1800年台からシンデレラ城が存在していたかのような絵だ。その頃の日本は、江戸時代もしくは明治時代なのだが。

 

「河口様、大変お待たせして申し訳ございません。北川様のお名前でご予約いただいておりました。本日は8階コンシェルジュ・バルコニールームのパークグランドビューのお部屋をご用意しております」

「はぁ」

「こちらのお部屋ですが、宿泊者専用ラウンジのマーセリンサロンで、お飲み物を飲みながらのチェックインのお手続きも可能ですが、どうされますか?」

「なんだって?」

 

 ラウンジ?てっきり普通の部屋の予約かと思っていて、直接フロントデスクに寄ってしまった。

 

「すぐお隣にありますので、そちらで寛ぎながらお話しさせていただけます。どうされますか?」

「ちょっと……わからない。妻を呼んできます」

 

 私はフロントデスクを離れて、ホテルのロビーにあるドールハウスを眺めていた妻に声をかけた。

 

「母さん、ちょっと」

「どうしたの?」

「なんか……かえでが、すごくいい部屋予約してくれてたみたいで、今からラウンジでチェックインできるらしい」

 

 妻の顔がきらっと輝いた。

 

「すごい!ラウンジ?私人生で一度も使ったことないわ!行きたい」

 

 私は嬉しそうな妻を連れてフロントに戻ると、キャストがラウンジに案内してくれた。ロビーよりもさらに人が少なく落ち着いた雰囲気の部屋に通され、ソファーに案内される。ウェルカムドリンクが提供されるとの事だったので、私はコーヒーを頼んだ。妻はオレンジジュースを注文する。

 

「あの……お部屋のお写真撮ってもいいですか?」

 

 妻が照れながら聞くと、キャストは笑顔で了承した。

 

「よろしければ、お二人で並んで撮られますか?」

「いやいや、そんな歳じゃないから、いいよ」

 

 私は苦笑いして答えた。ルームキーと、ディズニーリゾートを一周しているモノレールのフリーきっぷを貰い、荷物を預ける。翌朝の朝食がレストランで食べれることや、部屋に朝刊を届けるかどうか、などを聞かれた。部屋に入れるのは16時半以降との事だった。これからディズニーランドを1日歩き回ることを考えると、ここでもう少しゆっくりしたい気分ではあったが、妻が早くディズニーランドへ行きたがったので長居はしないことにした。

 

 ホテルを出て、モノレールの駅舎の下をくぐるところで手荷物検査があり、そこを抜けるとエントランスが広がっている。まだ開園時間には1時間もあるというのに、結構な人だかりだった。それでも、14年前の記憶の東京ディズニーランドよりもずっと人が少なく見える。

 

 14年ぶりの東京ディズニーランド……、いやよくよく考えたら、14年ぶりではないか。

 

「もう入れるみたい。どうしよう、楽しみだわ。お父さん、何乗りたい?」

 

 ゆっくりと列が前に進んでいく。私は思い巡らせるけど、パッと思いつくようなアトラクションはなかった。妻が私の手を握ろうと、人差し指を掴んだ。私はさっと手を払いのけて、頬っぺたを掻く。妻が残念そうな顔をしたので、気づかないふりで目を逸らす。

 

「いいよ、私は。母さんが乗りたいものに着いて行くから」

「かえでがね、『美女と野獣』に乗りたかったら、入場してからすぐ抽選しなくちゃいけないって」

「外れたら乗れないのか?」

「そうみたい」

 

 外れた時の事を考える。妻は今は興奮しているけど、外れてしまったらどんな表情をするのだろうか。なんだか面倒くさそうだ。

 ゲートにスマートフォンをかざし、入園する。妻はミッキーの形に花々を植えた花壇に、なつかしい!と興奮して一緒に写真を撮りたがった。私は気恥ずかしく、そして乗り気ではなかったので一緒に写るのは断り、妻と花壇を写真に収めた。

 

「抽選、してみる」

 

 妻が慣れない手つきでスマートフォンをいじり、東京ディズニーリゾートの公式アプリから抽選を行う。「エントリー受付」というのがそれのようだ。なんだかこの名前だと、受け付けた人はみんな乗れそうな雰囲気に聞こえるが。

 

「きゃっ」

 

 妻が軽く悲鳴をあげる。ダメだったかな、どうやって慰めよう。

 

「やった!取れたよお父さん!嬉しい!『美女と野獣』に乗れる!!」

「すごいね。『美女と野獣』って、あの映画のやつだな。乗ったことあるかな」

「何言ってるの、去年できたばっかりなんだから」

「へぇ、そうなの。そりゃ抽選にもなるわけだ」

「もう、ありがたみがわかってないんだから」

 

 30年近く前の映画な気がするが、今更アトラクションになることもあるんだな。妻は、私の感動の薄さに若干不機嫌になっていた。まぁ、抽選に外れて取り返しがつかなくなるよりはマシだろう。

 

「今から乗れるの?」

「16時にしたよ。まだあと6時間もある」

 

 まだあと6時間もある。妻の言葉を、心の中でそっくりそのまま繰り返した。すなわち6時間はホテルに帰らないというわけだ、そう思うとちょっと憂鬱な気持ちになった。

 68歳にはなるが、別に体力に不安があるわけではない。私は、人々が目を輝かせるこの夢の国に全くといって興味がないのと、年甲斐もなく興奮してはしゃいでいる妻に付き合うことが、気恥ずかしく、息苦しく、何より面倒くさかった。

 

「お父さん、行こう。何から乗ろうかな」

 

 妻はわくわくしながらアプリのマップを開いた。ひとまずジャングル・クルーズに乗ろうという話になり、パーク入って左手側のエリアへと向かう。ジャングル・クルーズは待ち時間はそれほど長くなく、朝早いこともあって10分ほど並んでボートに乗ることができた。ジャングル・クルーズは、14年前に乗った時とは雰囲気が大きく変わっていて、後半の洞窟のシーンでは今流行りのプロジェクションマッピングも導入されていてバージョンアップしている。それでも妻は懐かしい、懐かしいを繰り返していた。

 

「ポップコーン買いましょう。あ、あっちにチュロスもある!チュロスも食べたいわ」

 

 まるで子供だな。妻はカートでポップコーンとチョコレート味のチュロスを買って戻ってきた。私は妻に付き合ってベンチに腰掛け、一緒にポップコーンをつまむ。

 

「見て、お父さん。このチュロス、ミッキーの形」

「へ?すごいな、昔は普通の星形だったよね」

「すっごく可愛い。夢の国、すごいわ。さすがディズニー」

 

 キャストも妻のような客に来てもらえて嬉しいだろうなと思った。

 ポップコーンとチュロスを食べ終えた後は、カリブの海賊に乗る。ボートに乗ってすぐ、骸骨が話しかけて来たところで、懐かしの記憶が蘇った。

 当時は、ジョニー・デップの演じた実写版映画のバージョンにリニューアルしたばかりということもあり、3時間ほど並んで乗ったような気もする。本物そっくりのジョニー・デップのロボットが動いているのを、私は懐かしみながら眺めていた。

 

「母さん、ちょっとトイレに行って来るね」

 

 アトラクションを出てから、妻にそう告げて私はトイレへ向かった。小便器の前ではぁ、とため息をついて用を足していると、思わぬメロディが口をついて出た。

 

「ヨーホー、ヨーホー、ふふん、ふ、ふんふ、ふん……」

 

 全くディズニーに興味のない私に、乗ったばかりのアトラクションBGMを口ずさませるなんて、ちょっと凄すぎる。私はにやけそうになって、必死に堪えたら苦虫を噛み潰したような辛そうな顔になってしまった。手を洗っていたら、手洗い場の正面にに鏡がないことに気づいてキョロキョロと周りを探してしまった。すると、おむつ交換台の上で若い父親が子供のおむつを替えているのが目に入った。

 私が彼くらいの頃、娘のおむつを替えた事なんてあっただろうか……。

 自分は父親として、会社で一生懸命働いて、出来る限りの事をしてきたつもりだったけど、そういえば、8年前の私の還暦祝いは、アルマーニのネクタイとネクタイピンのセットだったな、と思い返す。ネクタイは派手なオレンジ色のストライプで、つけていくタイミングがわからず、結局もらってから一度も付けていない。もちろん、贈り物は金額ではない、気持ちが大事なんだとわかってはいても、やはり普段の娘に対する態度の差が、還暦祝いの内容にも反映されている気がする。鏡はトイレの入り口付近に設置してあった。

 

「母さん、おまたせ。どうした?」

 

 カリブの海賊の出口正面にあるクレープ屋の椅子に腰掛けていた妻は、アトラクション乗車後よりもずっとニコニコしていた。私がトイレに行っている間に何があったというんだろう。

 

「ううん、なんでもないの。ちょっと行きたいレストランがあって」

 

 妻のいうレストランはそこから程近く、すぐに見つかった。入り口にキャストが立っていて、予約の有無を聞かれる。予約していない事を告げると、今は空いているから席はすぐ用意できるとのことで、少しだけ待たされて中に案内された。

 

「ここから先は夜となっております。足下にお気をつけください」

 

 何を言ってるんだ?と思ったら、建物の中にも関わらず、そこは外で、真夜中だった。真っ暗な庭園のようなところにテーブルが並び、ランプが煌々と輝いている。虫の鳴き声がコロコロと鳴り響き、むしろ静寂を感じさせる。庭の向こうは入江になっていて、向こう岸には先ほど乗ったばかりのカリブの海賊の乗り場が見えた。

 

 すごい。

 

 さすがに心を奪われる気持ちになった。こんなところにレストランがあるのも驚きだし、ついさっき乗り場側でこちらを見て、よく出来たセットだな、と思っていたのだ。まさか、実際に訪れる事が出来るなんて思ってもみなかった。まるで自分が映画の登場人物の一員になったような気分だ。

 

「なんか、秘密の隠れ家に来たみたいだ」

「ね、空いててよかったね。普段は人気で予約がないとなかなか入れないらしいの」

 

 へぇ、人気なのか。私は全くもって存在を知らなかったから、みんなよく調べて遊びに来るんだなぁ、と感心しながら席に着いた。東京ディズニーランドの食事といえばファストフードやカレー、チュロスにポップコーンのイメージだったから、こんなにしっかりとしたコース料理が食べれるなんて思いもしなかった。この店の料理はニューオーリンズ名物のクレオール料理が楽しめるらしい。ルイジアナ州ニューオーリンズなんて行ったこともないが、このお店だけでなく周囲の建物もニューオーリンズ風なのだと妻は教えてくれた。私はローストビーフと鶏のグリエを交互に口に運びながら、私がディズニーランドに抱いていた偏見が覆されていくのを感じた。次々と提供される料理は、高級レストランの料理に劣らない驚きがあった。

 私はデザートの皿に残ったソースまで丁寧にフォークですくって口に入れて堪能した。感嘆のため息をついた後、食後のコーヒーを啜る。思えば、妻と長らく出掛けていないから、こういう食事もかなり久しぶりだったのだ。

 

「ごちそうさま」

「ごちそうさま。本当に美味しかった」

 

 店を出て空を見上げたら9月の太陽が容赦なく照り付けていた。眩しくて目を細めながら、妻に次の目的地を聞く。

 

「なんだかお腹いっぱいだから、アトラクションはいいかな。ショー何か、座って見れるものがいいかも」

 

 私は頷いた。少し歩いたところの、ロボットの鳥たちが歌うショーを見て、その後、西部劇のエリアのシアターへと向かった。シアター入り口で、女性キャストがゲストに何やら謝っていて、彼女は私たちが近づくなり頭を下げた。

 

「こんにちは。すみません、ただいまこのアトラクションは主演の熊たちが休憩中で、運営していないんです」

「え、やってないのか。故障?」

「諸般の事情により、運営を休止しています。詳しくはお伝えできないんです。彼らの準備が整い次第再開する予定ですが、場合によっては本日中の再開はないかもしれません」

「母さん、どうする?」

 

 妻は少し迷った後、女性キャストを見つめて言った。

 

「お姉さんのオススメはなにかある?」

 

 女性キャストは先ほどの謝罪モードからさっと笑顔に表情を変えた。その眩しさに一瞬、ハッと心を奪われる。

 

「私個人のオススメでもよろしいでしょうか?そうですねぇ、ウエスタンランドを楽しむのであれば、マークトウェイン号という蒸気船に乗っていただきたいですね。アメリカ川を一周する優雅なクルーズが楽しめますよ。それから、もし激しい、スピード感のある乗り物が苦手でなければ、西部一の暴れん坊、ビッグ・サンダー・マウンテンにも是非!」

 

 マニュアルっぽい内容だ、でもしっかり抑揚もあり感情が込められていて、嘘っぽくは聞こえない。自分の担当エリア以外のアトラクションを紹介しないのは世界観を守るためだろうか。

 

「どうする?その、蒸気船……なんだっけ?」

「マークトウェイン号です」

「それ。それ乗るか?」

 

 絶叫系の苦手な妻のことだ。まさか、ビッグ・サンダー・マウンテンには乗るまいと、勝手に思っていた。

 

「私、ビッグ・サンダー・マウンテンに乗りたい」

 

 私は目を丸くして、その後でちょっと笑って言った。

 

「ははは、大丈夫か?ジェットコースターなんて乗ったことないだろう」

「ないからいいんじゃない。60歳は新しい事を始める歳にしたいの」

「いい歳して、強がらなくてもいいのに」

「いえ、素敵です!!」

 

 女性キャストが笑顔で割って入って来る。

 

「口を挟んでしまい、すみません。60歳から始める挑戦、とても素敵だと思います!スタートに年齢なんか関係ありませんよ!いつが誕生日だったんですか?」

「あ、えと、9月5日なんです」

「あら!ついこの間じゃないですか!それに、プルートと同じ誕生日ですね!ミッキーの飼い犬の可愛いワンちゃん、ご存知ですか?ちょっと待っててくださいね」

 

 女性キャストは何やらゴソゴソとポーチを弄り、直径5センチほどの丸いシールを取り出した。

 

「私から、お誕生日シールをプレゼントしたいのですが、お差し支えなければ、お名前お伺いしてもよろしいですか?」

「いいんですか?嬉しい!」

「そんな、いい歳して恥ずかしくないか?」

「いえいえ、ここは夢と魔法の王国ですので、時間も年齢も忘れて楽しめるんですよ」

「そうよ、お父さん。楽しもうとしてるんだから、冷やかさないで。えっと、名前は結美です」

 

 女性キャストの徹底ぶりに面食らう。妻もすっかり夢の国の住人になってしまったみたいだ。目をきらきらと輝かせながら、キャストが用意してくれているシールを見つめる。女性キャストは丸いシールの真ん中に可愛くひらがなで「ゆみ」と書いて、妻の誕生日を添え書いた。

 

「どうぞ!ハッピーバースデー!!」

「わーい!ありがとうございます、ええと、熊谷さん」

 

 妻がちらっと女性キャストの名札を見て言った。ディズニーのキャストというのは、みんなこれほどまでに徹底しているのだろうか。

 

「結美さんの、記念すべき思い出作りに参加できて幸せです!よかったら感想、聞かせてくださいね!」

 

 熊谷というキャストの手厚い待遇に感謝しながら、妻と私はシアターを出た。

 ビッグ・サンダー・マウンテンは普段ならば2〜3時間待ちは当たり前のアトラクションとのことだが、感染症禍のためか、この日は60分待ちと、比較的短い待ち時間になっていた。金塊の採掘場を再現したような待ち列の建物の中で、妻は見るからに興奮しながらアプリのアトラクション説明や注意事項を何度も読み上げてはソワソワしていた。

 

「鉱山列車が、荒野を急旋回、急降下して大暴走。だって、どうしよう、緊張してきた」

 

 さっきからこれの繰り返しだ。そんなに不安ならやめたら、と言っても絶対に乗ると聞かない。本当に子供になってしまったかのようだ。時折すれ違うアトラクションキャストに、ハッピーバースデーと声をかけられてると、妻はうふふ、と照れ臭そうに手を振った。その姿に私の方が恥ずかしくなる。

 乗り場に辿り着き、いよいよ順番が次に迫り、興奮覚めやらぬまま降りていくゲストを横目に、妻は大きく深呼吸をした。ライドに乗り込み、安全バーを下ろす。ライドがカタカタと音を立てながら出発する。

 

「お父さん、手を握ってて」

「いや、安全バーを握ってた方が怖くないよ」

 

 私は妻の手を安全バーに握らせる。少し泣きそうになりながら、妻は恨めしそうに私を見た。お前が乗ろうと言ったんじゃないか。

 久々に乗るジェットコースターは、爽快で楽しかった。いわゆる他の遊園地にあるような絶叫系のアトラクションほど、スピードも、上がり下がりも大きくはない。比較的初心者向けのコースターだ。それでも数年ぶりに体感するには充分スリリングだった。

 そして何より、荒野を駆け巡るあの感覚。ところどころで顔を出す動物たち、炭鉱の薄暗さと静けさ、水の音、恐竜の化石。ただレールの上を走るというだけではない、そこにストーリーがあり、背景を考えさせるような奥行きがこのジェットコースターにはあるのだと、私は気づいた。

 再び乗り場に辿り着き、ライドが停止する。妻はふらふらした足取りでライドを降りて、出口に向かった。

 

「大丈夫か?」

「うん。すっごく怖かったけど、すっごく楽しかった!また乗りたいくらい」

「ははは、よかったな。私も、昔かえでと乗ったのを思い出したよ」

 

 妻の足が止まった。ぽかんとした表情で、私の顔を見つめる。

 

「かえでと?乗ってないでしょ?」

 

 妻は眉をひそめる。私も首を傾げるが、あの独特な赤茶の山を駆け抜ける感覚は、確かに記憶にあったのだ。

 

「いや、乗ったと思うんだけど。母さんは怖くて乗らなかったんだろうけど、私は乗った記憶があるよ」

「かえで、ジェットコースターに乗れるようになったのは、大学の友達とUSJに行った時って言ってたよ」

「そんなはず……」

 

 言いかけて、ぎくりとした。私は慌てて訂正する。

 

「もしかしたら、この間テレビで見たのかも、ほら、昼によくやってるだろ。だから記憶にあったのかも」

「ふーん、ほんとは誰かと間違えてるんじゃない」

 

 血の気がサーっと引いていくのがわかった。妻は急に不機嫌そうな表情をして、シンデレラ城が見える方向へひとりスタスタと歩き出した。

 

 図星だった。

 

 10年ほど前だ。私は、取引先の20代後半の女性に誘われて、1度だけ東京ディズニーランドに遊びに来た事がある。

 当時その取引先は経営がうまくいっておらず、私の会社との取引も契約解消寸前だった。取引継続を求める接待を何度か重ねたうちの、そのうちのひとつが「東京ディズニーランド」だった。

 これが非常にまずかった。日々接待に呼び出されていた私は、毎晩酔って帰ってきたり、休みの日も二日酔いで寝ているか、朝からゴルフに出かけたりしていたうえ、家族サービスできていない理由を「これも仕事のうちだから」と言い訳していた。そして東京ディズニーランドである。さすがに、妻子持ちの私が、若い女性と二人で東京ディズニーランドに遊びに行くというのは、理性の箍が外れていたと思う。

 誓って言うが、彼女と私とは、肉体関係は一切ない。ないが、正直かなり危ういところまでいったのも確かだし、私に下心がなかったかというと嘘になる。

 そして悪いことに、この「接待」の大半が「若い女性と二人で飲み歩くもの」であったことが、そのうち家族に明るみになった。ある日その取引先の女性と行った、ちょっと雰囲気のいいバーで、かえでの同級生の母親が働いていたのだ。

 その頃の私の外出っぷりや、家族への態度のつれなさを考えれば、浮気とみられても仕方がなく、結果的に「誤解」として表面上は丸く収まったものの、会社や取引先も巻き込んでの、それはそれは、心が折れるくらいには大きな問題になり、夫婦関係は長きに渡ってギクシャクし、私は外で飲んだり遊び歩いたりするのを一切やめたが、この一件以来、娘は私に対して冷たい態度を取るようになった。

 

 16時が近づいていた。私は時計を見て、早足に行こうとする妻に追いついて、機嫌をとるべく声をかける。

 

「なぁ、次は『美女と野獣』か?楽しみだね」

「そうですね」

 

 明らかに怒っていますという声が妻から発せられた。妻のこのテンションを、どう盛り返していけばいいか、私には到底わからない。

 

「ハッピーバースデー!」

「ありがとう」

 

 道ゆくキャストが声をかける。こんな気分でも、妻はキャストにはしっかりと笑顔で返していた。

 お城の前を通り過ぎて、ブルーに彩られた宇宙エリアを抜けると、途中から『美女と野獣』のエリアになっていた。酒場風のレストランやショップを過ぎると、紫色の不思議な佇まいの、巨大な城が見えた。美しく荘厳で、だがおどろおどろしくもある。流れるBGMや霧深さが余計に不気味さを漂わせていた。妻がスマートフォンで、抽選で勝ち取ったQRコードをキャストに見せ、列に並ぶ。

 建物の中に入ると、さすがの妻も気分が高揚したようで、待ち列の所々で映画のキャラクターが出てくると、名前を教えてくれた。私は安堵してその説明をうんうんと聞いていた。

 途中、中央に階段のある部屋に通され、『美女と野獣』のあらすじを聞く。ステンドグラスがスクリーンになっていて、物語を紡いでくれる。ぼーっとステンドグラスを見つめていたら、妻が黙って私の服の裾を引っ張った。私が妻を見ると、妻が右上方を指差す。

 

「わっ」

 

 小さな声だったが、びっくりして思わず声を漏らしてしまった。野獣がいる。しかも、昼間に見たカリブの海賊や、歌う鳥たちのロボットとは、クオリティが全然違う。そして、女性の声がして、反対側を見ると、映画でプリンセスになる女性がいた。まるで生きた人間がそこにいるかのようだ。

 

「驚いたな、本物がいるかと思った」

 

 部屋を出され、乗り場へと続く道をさらに進んでいるときに、私は妻に言った。妻はもう、私が口を滑らせた「記憶」のことは忘れてしまったかのようにご機嫌だった。

 乗り場にたどり着き、巨大なティーカップ型のライドに乗り込む。運良く前方の席に座ることができた。思っていたよりも早い勢いで、ティーカップが前進する。

 耳馴染みのいい音楽とともに、ロボットに見えないロボットたちが物語を紡いでいく。プロジェクションマッピングで彩られ、目まぐるしく部屋を移動して、ダイジェストに映画のシーンを展開した。野獣が人間の姿に戻るシーンは、実に不思議なギミックで、私は目を疑った。そして、舞踏会のシーン。クライマックスだ。さすがの私でもこのシーンの曲は聞き覚えがあった。美しい天井画の部屋に鳴り響く、分厚く重ねられたコーラスの、あの有名なテーマソング。体の芯に、ジーンと響き渡るような気がして私は心が震えた。

 

 ライドが終わった。これが、東京ディズニーランドの最新アトラクション。良質なエンターテイメントと、技術を感じさせない高過ぎる技術力を感じる。なるほど、贅沢だ。

 

「楽しかったな、母さん」

 

 横を見ると、妻は静かに泣いていた。私はその涙を茶化すことができなかった。それくらい、私も圧倒される何かをこのアトラクションに感じていた。私は妻の肩を抱いてライドから降ろす。キャストが心配して駆け寄るのを、私は笑いながら制止した。

 

「よかったぁ、ちょっとさすがに恥ずかしいわ。泣いちゃった」

「私も泣いてしまうかと思うくらい、よかったよ」

 

 『美女と野獣』のライドを降りて、近くのレストランでコーヒーを買い、ベンチに座りながら妻と話した。感動で泣いてしまうなんてこと、私はここ数年経験していない。ライドに乗って泣く妻を見て、本当に楽しみにしていたんだな、と私は感じた。それ以外にも、ビッグ・サンダー・マウンテンに怯えながら挑戦する姿も、ハッピーバースデーの声に照れながら答える声も、普段の退屈な日常では見ることができない、妻の姿だった。

 思い返せば、今日の日を楽しみにしていた妻に対して、私は冷やかしのような言葉しかかけることが出来ていない。妻の笑顔に水を差すまいと思って付いてきたはずなのに。妻が繋ごうとした手を払いのけて、写真も断った。しかも、1度ではない。そう思うと途端にバツが悪くなって、ぐいっとコーヒーを飲み干して立ち上がった。

 

「何か乗りに行くか」

「……ちょっと待って、バースデーシールがない」

 

 妻の表情がまた曇り始める。周囲を探すが、落ちている気配はなく、美女と野獣の出口を逆走しようとしたらキャストに止められた。

 

「バースデーシールがないんです、並んでいるときか、乗っているときに落としたのかも」

「お探しすることはできますが、見つかるかどうか……よろしければ新しいのをご用意しますよ」

「あれがいいんです、すごく素敵なキャストさんに書いてもらったから」

 

 キャストが捜索してくれて、数分後にバースデーシールは妻の手元に戻ってきた。しかし、幾人かに踏まれてしまったのだろう、正円だったシールは齧られたように破け、足跡で汚れてしまっていた。

 

「ありがとうございます」

「あの、本当に書き直さなくて大丈夫ですか?」

「いいんです、ありがとう」

 

 妻は破れて汚れたバースデーシールを紙ナプキンで包み、大事にバッグにしまった。熊谷という、今日たまたま出会い、ちょっと話しただけのキャストが、妻にとって今日の大切な思い出の一つになっている。それに対して私は、妻の60歳・還暦の記念に、一体何をしてあげられただろうか。冷やかしと、気まずい空気を作り出す以外に。

 

 もう照れくささを感じている場合ではなかった。私は、落ち込んでいる妻の手を、ぎゅっと握りしめて言う。

 

「熊谷さんに会いに行こう。ビッグ・サンダー・マウンテンの感想を伝えるはずだったよね」

「……そうだった。あのショーも、もしかしたら再開してるかも」

 

 私は頷いて、早足でパークを横断した。妻の手を握りながら。

 

 西部エリアのシアターに着くと、熊谷さんはまだそこにいた。ちょうどゲストを誘導した後で、すぐにこちらに気づいた。

 

「ハウディー!結美さん!また会えて嬉しいです!」

「私も!熊谷さんに会いたくて来たの」

「おかげさまで熊たちも元気になりました。ビッグ・サンダー・マウンテン、どうでした?」

「サイコーだったよ!怖かったけど、もう一回乗りたいくらい!オススメしてくれてありがとう」

 

 熊谷さんと顔を合わせて、妻はさっきまでの曇り顔がすっかり晴れやかになった。やはりすごいキャストだ、熊谷さんは。

 

「この後数分で、カントリーベア・シアター本日の最終公演が始まるんです。見て行かれませんか?」

「ぜひ。再開してたらいいなと思ってたから」

「母さん、先に席を取っててくれないか。ちょっとトイレに行ってから行くよ」

「はいはい、じゃ、熊谷さんまたね」

 

 妻が先にシアター内に入る。私は妻の後ろ姿が見えなくなるのを待って、熊谷さんに話しかける。

 

「熊谷さん、私にバースデーシールを書かせてくれませんか」

 

 

 カントリーベア・シアターは、古き良きディズニーアトラクションといった感じで、昼間に見た、鳥たちが歌うアトラクションと雰囲気もよく似ていた。大勢の熊のロボットが次々にカントリーミュージックを披露する。それが、同じ回にいた外国人ゲストや高校生ゲストのおかげか、大盛り上がりの楽しいショーとなった。妻も慣れない手つきながら、笑顔で手拍子をしていた。

 

「なんだか懐かしい雰囲気だったね」

「楽しかったな」

「あ、熊谷さん」

 

 出口に、熊谷さんが待機してくれていた。先ほど同じショーを見ていた外国人ゲストに英語で話しかけている。話が終わり、こちらに気づくと、笑顔で駆け寄って来た。私の心臓が高鳴る。

 

「熊谷さん〜!楽しかったわ〜!ありがとう!」

「どういたしまして!そして、結美さん!心の準備はいいですか?」

「えっ、準備?」

 

 妻がキョロキョロと周りを見回す。私と妻を中心に、カントリーベア・シアターのキャストが私たちを囲んでいた。私は高鳴る心臓を押さえつけ、妻の顔を見て言う。

 

「結美っ、誕生日おめでとう!せ〜のっ!」

 

「ハッピ・バースデー・トゥー・ユー、ハッピ・バースデー・トゥー・ユー、ハッピ・バースデー・ディア・結美さ〜〜ん!ハッピ・バースデー・トゥー・ユー!!」

 

 カントリーベアのキャスト総出でバースデーソングを歌ってくれた。もちろん私も、そして、たまたま近くにいた外国人と日本人の男性二人組も、一緒になって手拍子で参加してくれた。

 

「きゃぁ〜〜〜!!恥ずかしい、でも……嬉しい!!」

「……はい、これバースデーシール。熊谷さんから」

 

 私はポケットからバースデーシールを取り出す。それを聞いた熊谷さんがすぐに訂正した。

 

「違います、なに照れるんですか!旦那様が書いてくださったんですよ」

「いやでも、熊谷さんがアドバイスをくれて、すごく可愛い縁取りをしてくれてさ」

 

 妻は私の顔を見て、既にうるうるしていた目を、更にうるうると滲ませた。私は照れくさくなって頭の後ろを掻いた。

 

「結美、今日はつまらんことをいっぱい言ってしまってごめん。今日は本当に楽しかったよ」

 

 私は熊谷さんの方に向き直り、感謝の気持ちを述べる。

 

「今日は妻の最高のお祝いに……最高の1日になりました。熊谷さんのおかげです。本当にありがとうございました」

「いえいえ、お客様のお誕生日にはまたお待ちしていますね」

「そんな歳じゃ……違うか、年齢を忘れるんだったよね、夢の国では」

「はい。『夢と魔法の王国』です。誰もが子供時代に戻って楽しめるものを作る、それがウォルト・ディズニーの信念です。映画も、パークも」

「実感したよ。ありがとう」

 

 私と妻はキャストに別れを告げてシアターを後にした。ふと思い立って、妻の手を引く。

 

「シンデレラ城の前で、写真撮ろうか。二人で」

「どういう風の吹き回し?」

「ディズニーの魔法にかけられてしまったかな」

「やっぱり、ディズニーはすごい。見て、パレードだ」

 

 ブルーの灯りで照らされたパレードの山車が遠くを通り過ぎていくのが見える。妻と誕生日が同じだと言うプルートもそこにいた。それがパレードの最後の山車だったようで、ファンタジーランドの奥へと消えていく。

 

「総一郎さん」

「ん?」

「なんでもない」

 

 久しぶりに名前を呼ばれた気がした。そういえば今日は、久しぶりに名前を呼んだ気がした。

 東京ディズニーランドで、大人は子供に戻り、夫婦は恋人同士に戻るのだ。私は妻の手を握り、夜の東京ディズニーランドをゆっくりと歩く。私が、妻や娘に費やすべきだった時間は、この数時間では到底返せない。それでも、もしかしたら、小さな言葉や行動から変えていくことができるかもしれない。ここは始まりだ。68歳だが、何かを始めるのに遅すぎることはない。全くディズニーに興味のなかった私が、今日1日でこんなにも心を動かされているのだから。情熱と、意思があれば、きっと。

 

 シンデレラ城に向かって歩きながら後ろを振り向くと、反対側には赤茶けた岩肌の山が、こちらもライトに照らされてそびえ立っていた。遠くでゲストの楽しそうな声が聞こえる。私はお城へ向かう橋を渡りながら、ぎゅっと妻の手を握りしめた。

 

 

 

 

第8話『写真と指先』おわり

Chapter 8 - Bittersweet and Strange

***

 

あとがき

遠方組ディズニーファンの僕が、あまりディズニー興味ない人と遊びに来ると、結美と総一郎みたいな温度差が出てしまうんです。

ほぼアドベンチャーランドとウエスタンランドにしかいませんが、書いてない時間帯に遊びにいっていると思ってください。

熊谷さんをもう一度、どうしても出したかった。

ずっと1万字前後で書いてたのですが、これだけかなり長くなってしまいました。

ちょっと反省してます。

 

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次回予告

第9話「脚のない亡霊」

 

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』

【東京ディズニーランド小説】第7話「いつメンディズニー最強物語」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 登場人物がパークおよび周辺施設の利用についてモラルに反する行為を行なっていますが、本文はそれらを推奨する意図は一切ありません。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

 こちらの小説は作品投稿サイト NOVEL DAYS でもお読みいただけます。

 

***

 

 大阪梅田発、東京ディズニーリゾート行きの夜行バスに乗って、あたしら4人はやって来た。

 バイト先のいつメンの、カスミとリサとホノカとあたし。緊急事態宣言で遅番出勤丸々カットされて店長にブチギレて、4人で24時間営業のスーパーのバイトに応募して、バリバリに稼いでたのが先月まで。

 ちょま働きすぎやて、ちょっと息抜きしよて。

そんなノリで9月は毎週末遊びに行くことに4人で決めて、1週目は六甲山でバーベキュー、2週目は下呂温泉行って、3週目が今、ディズニー。もう4週目は海外行くしかないやろってテンションやったけど、普通にまだまだ感染症対策で出入国できへんし、そもそもあたしら誰もパスポート持ってなかった。お金も尽きてきたし、たぶん4週目はスイパラ行ってスポッチャやって焼肉行ってカラオケしたら終わる。でも超幸せな9月。

 

 5時半に着いて、オフィシャルのホテルに荷物を預けて、ホテルのトイレでメイク。

 あたしら4人はバラバラの高校やったけど、制服ディズニーしようやってことで、それぞれのお古の高校の制服を引っ張り出して今回のためにクリーニングして来た。制服着るには年齢的にはもう詐欺っていうか、コスプレって感じでホンマごめんって感じやけど、これもホテルのトイレで順番で着替えた。

 そんなこんなで朝イチディズニーキメたんねんって張り切って飛び出したのが6時半。9月やし、昼間の気温は高いけど、朝は流石に寒くて。朝イチディズニーって張り切って来た心がソッコーで折られて。ほんで、まさかの10時オープンとかで全然人が並んでへんくて、結局駅前のBECKSでモーニングすることにした。BECKSは大阪で見たことないから初めてやったけど、ほぼドトール。ウトウトした頭で今日どれ乗る?全部やろ!じゃあどっから攻める?みたいな話でちょっと盛り上がって、ちょっと睡魔に負けて気絶してたら9時になってて、NEWDAYSでおにぎりとお茶買ってから並びに行ったらエントランスはもうアホみたいな列になってて、出鼻挫かれまくったね。でも朝からメチャ背高い白人イケメン見つけて目の保養だった。人生捨てたもんじゃないね。人はメチャ並んでたけどほんの15分くらいでパークの中入れて、中入れたら意外と空いてた。こんなに空いてるディズニー生まれて初めてってくらい。

 

「ミヒロ、写真撮ろや!」

 

 ミヒロっていうのはあたしの名前。「瑞々しい潤い」って書いて「瑞潤」。でも漢字で書く機会はあんまない。カスミとリサとホノカも、あたしの名前を漢字で書けへんと思う。あたしだってこの子らの名前を漢字で書けへんし。

 それでも、友達。親友。

 

「はーい、じゃあ撮りますねー!せーの、はいミッキー!」

 

 入園してすぐミッキー・マウスの花壇の前でキャストさんに写真撮ってもらった。はい、ミッキー!なんて掛け声初めて聞いた。今日のカメラ担当はリサ。理由はiPhoneが12Pro Maxだから。画質超いいでしょて単純な理由。

 とりまグランド・エンポーリアム?ってお店でお揃のカチューシャ買お!ってなった。

 

「シェリーメイのないん?」

「あれはダッフィーの友達やから、シーにしかないで」

「このミニーのんで良くない?キラキラのやつ色チで。うちピンク」

「ハロウィンぽいのは?」

「スパンコールのやつがいい」

「101匹わんちゃんのやつもあんで。めっちゃかわいい」

「全部可愛ない?うちら、選べんくて一生ここから出れへんのちゃう?」

「それやばぁ」

 

 結局誰一人意見合わんで、オソロのはずがみんなで違うカチューシャ買うことなった。ほんまあたしら性格バラバラよねて笑う。

 カスミは超気が強くてリーダー的存在、めっちゃ食う。フードファイターかってくらい食う。それは嘘やけど。リサは根暗でアイドルオタクやけど、可愛くてめちゃくちゃ美容頑張っててお肌超綺麗、超ガリガリで全然食わへん。ホノカは天然癒し系、マイペース、空気読めへん、めっちゃ食う。あたしは自分ってのがあんまなくて周りに合わせがち、気弱カメレオン系、あたしも、めっちゃ食う。そんなんやから、4人揃うと4分の3が大食いで、いつの間にか食べ歩きになってる。

 居酒屋のバイトでこの4人のうち2人はだいたい出勤してて、土日祝は結構な頻度で4人揃う。夜勤明け朝マックで駄弁り散らして帰るのを定期的にやってたら、いつの間にか大親友になってた。カスミが26歳、ホノカとあたしが25歳で、リサはまだ23歳。性格も趣味も年齢もバラバラな仲良し4人組。

 

 ビッグサンダー・マウンテンとスプラッシュ・マウンテンに立て続けに乗って。そしたらカスミがお腹すいたねーって言って、食べ歩きスタート。テリヤキチキンレッグとバーベキューポップコーン、シーフードピザとブラックペッパーてりやきチキンロールを順々に、3個づつ買って食べ歩いた。テリヤキチキン被ってるやん。カスミもホノカも、絶対自分の分は一人で食べよるから、リサはあたしのを一口貰って、それだけで満足してた。

 

 お昼過ぎ、ホーンテッド・マンション行ったら、なんか独り言をぶつぶつ言ってる男の人がいて、ちょっとだけ気味悪かった。小さな子供とかではなくて、40代くらいの男の人やったから余計に。

 

「この不思議な気配を、諸君は感じただろうか。部屋がのびているのか、それとも諸君の目の錯覚なのか、よぉく見るがいい……」

 

 ホノカとカスミがクスクス笑うのから、あたしもつられて笑ってしまったけど、その人がどういうアレでこんなことになってるのかわからんし、なんか事情があるかもやし、スルーしとくべきやったよなって、後になって笑ったのんを後悔して、凹んだ。

 

「キモっ」

 

 部屋を出て乗り場に向かう廊下で、カスミがぼそって呟いた。カスミは気が強いから、こういうキツイ一言を平気でいう時がある。あたしはその度に、注意できひん弱さと罪悪感を抱えて、ちょっとしんどい。

 その後はプーさんと、抽選で当たった美女と野獣も乗れた。マジ泣き案件。その後スペース・マウンテン乗って涙が吹き飛んだ。ほんで、インスタで見てからずっと行きたかったクリスタルパレス・レストランのスイーツビュッフェにやっと行けた。普段めったに調べごとなんかせんけど、これだけは前もって調べて予約もしっかり取った。予約はリサが取ってくれた。クリパレの入り口、ガラスの天井からキラキラ光が差してて、今日晴れてよかったね、暑すぎやけどって幸せな気持ちになった。

 

「可愛い〜〜〜!!」

 

 4人が4人、可愛い可愛い言ってて、この時だけ意気投合してたと思う。可愛すぎて写真撮りまくり、スイーツ食べまくり。

 ランドだけじゃなくて、シーのうきわまんとかもあって、甘いのだけじゃないのもちょっとあって良かった。リトルグリーンまん何個食べれるかみんなで競争したけど、他のも食べつつやったし、あたしは4個でギブした。一番食べたのはホノカで12個。尊敬に値する。ほんでお腹いっぱいになって出て来て、カリブの海賊乗って、出て来たらカスミがまた、なんか食べよって言い出すから馬鹿みたいにずっと笑ってた。

 飲み物だけ買って、コンビニで買ったおにぎり食べよってなって、カスミがビール買おうとしたら制服着てるから売れませんって断られてて今日イチ笑ったわ。免許証見せて26歳ですって言っても売ってくれなかった。

 座席に座って、ソフトドリンクで乾杯する。そしたらカスミがさっきホーンテッド・マンションにいた独り言おじさんの話題を出した。

 

「さっきのオタク、ヤバなかった?」

「ああ、ホーンテッド・マンションの時のん?」

「めっちゃ一人でぶつぶつ呟いてたよな」

「なんか、諸君の目の錯覚なのかとかどうたら!」

「きゃはははは!」

 

 カスミとホノカが2人で盛り上がって笑ってた。あたしはリサを見る。リサは視線を落としてネイルを確認していた。あたしの視線に気づいて目をパチパチさせる。羨ましい。こんな顔になりたい。

 

「ほんま、あたしひとりでディズニーくる奴マジで信じられへんねんけど」

「意外とおるからビビるよなー」

 

 カスミがカバンからおにぎりを出して頬張り始める。本音を言うと友達に注意する勇気はないけど、あたしは人の悪口は苦手。なんとか話題を変えたくてスマホのアプリでパークマップを開いて言った。

 

「めっちゃ空いとるし、もう乗りたいの全部乗れたな」

「いえーい、ディズニー制覇〜〜」

 

 ホノカが両手を上げてディズニー制覇を宣言する。いや、多分半分も乗ってへんねんけど。

 

「これ行ってへんで、カントリーベア・シアター」

 

 リサが言った。あたしはどんなアトラクションだったか記憶を辿るけど、あんまり思い出せなかった。あたしの代わりにホノカが答える。

 

「それ多分昔行ったことある、寝てて覚えてへんけど」

「つまらんよなー!」

 

 おにぎりを食べ終えたカスミが話に乗っかってくる。今度はアトラクションの悪口が始まる。まぁ、人の悪口よりは、ましかな。

 

「客ほとんどおらんやろ?これ無くしてもっと面白いの作ったらええのに」

「なぁ、もっかいスペース・マウンテンいこー」

「ええやん、いこいこ」

 

 話が終わった。あたしらはおにぎりの食べ終わりのゴミもそのままに席を立った。移動するときホノカがカチューシャを忘れて近くの席の男の人に声かけられてた。

 

 パークは空いてるって言っても、午後から人が増えてスペース・マウンテンは安定のちょい混み60分待ち。なんか消毒作業が入るとかで、しばらく列は動きませんって並んでる途中にキャストから声かけがあった。

 

「무슨 일이 있어요? What happen?」

「あ、え〜っと……」

 

 列は折り返し折り返し、ぐるぐると移動する形になっていて、キャストがスピールしようとしたら近くのカップルがキャストに話しかけてしまった。顔だけでは判別できないけど、きっと韓国人。カスミもそのカップルに気づいたみたいで、ボソッと呟いた。

 

「ガイジン、日本語勉強してから来いや」

 

 そんな風に言うんだ。

 

 グサッと胸のあたりが痛むような気がした。あたしがシュンとなって視線を落としてたら、リサがそのカップルに気づいて、ロープから身を乗り出すようにして、声をかけた。

 

「え〜っと、소독을 위해、기다리다、60분!

「あ〜!OK、OK。감사합니다

 

 突然、リサが韓国語を話すから、あたしらマジビックリして、ちょっと固まった。

 

「すご〜〜!!リサ、何語?中国語?」

「いつから喋れるようになったん?」

 

 カスミとホノカは興奮して、リサを褒め称えてた。リサはドヤ顔でピースして、でもちょっと緊張したんやろな、顔はちょっと赤くなって目が潤んでた。もともと可愛い顔がもっと可愛くなってた。

 

「韓国語やで。緊急事態宣言でシフト減ったやん?あたしBTSとかBlack Pink好きやからインタビュー動画とかめっちゃ見て勉強してん」

「すご〜!まずBTSがわからん、うち」

「リサおったら韓国旅行いけるやん、まじヤバ〜」

「え〜!マジ行きたい!エステ行ってパック爆買いしよ、Mediheal!」

「内緒で韓国語勉強して〜ペラペラやのに黙ってるなんて、いつメンとしてあるまじき行為やな」

「ペラペラちゃうて」

「もう秘密はなしやで、リサ。ほんで、来年は韓国旅行確定な」

 

 そんなこんなで盛り上がってたけど、あたしはちょっとこの輪に入る気になれへんかった。

 

 というのも、あたしは、ある重大な、あたしにとっては重大な、この4人にも秘密にしている、秘密があるから。

 

 列が動き出して建物の中に入ってからはほぼほぼ止まることも待つこともなくなって、20分くらいでスペース・マウンテンに乗れた。スペース・マウンテンを降りると、カスミが鈍いうめき声をあげた。表情がかなりゆがんでいる。

 

「お腹痛……ちょ、トイレ」

「大丈夫?食べ過ぎ?」

「う〜ん、普段の1.2倍くらいは確かに食べとるケド……」

「トイレ、あっち」

 

 モンスターズ・インクの向かいのトイレ近くまで4人で歩いて行ってから、カスミがトイレへと消えた。待ってるね、と言ったはずのホノカは、10秒だけスマホをいじって顔をあげ、ニヤッと笑った。

 

「うち、ちょいお土産見てくる。おつかい頼まれててん。またLINEするな!待ってて」

 

 そう言って、ワールド・バザールの方へと消えて行った。10秒しか待ってへんやんけ!

 

 そんなこんなで、あたしとリサの2人きり。

 性格バラバラの4人やけど、基本はカスミとホノカが我が強くて、あたしとリサが流されちゃうほう。だから、結構リサとは気が合う。でもあたしと違ってリサは頭が良くて、流されつつもきっと何か自分の意見はあるんだろうなって、あたしはいつも思ってる。

 

 リサは、多分理解がある。リサになら、秘密を打ち明けられるかもしれない。

 

「みっひー、カスミちゃんのことどう思う?」

 

 打ち明ける勇気が出ずにうずうずしてたら、先にリサに話しかけられた。

 

「どゆ意味?」

「カスミちゃん、言い方キツイよね」

 

 あたしはリサの顔を見る、可愛らしいリサの顔に、冷たい表情が浮かんでた。

 

「さっきの韓国人のときも、日本語勉強してから来いや、って。そのあとにあたしが韓国語喋れるってなったら、韓国旅行行こーって。ブーメランやん」

「……そやなぁ」

「みっひーが我慢してんの、あたし知っとるんよ。人の悪口とか言うのも聞くのも好きちゃうよね。カスミちゃんが悪口で盛り上がってても、みっひー結構黙ってるもん」

「よう見てるんやな」

「あたしも黙ってるんよ。で、ホノちゃんに聞いてん。カスミちゃんのことどう思ってるか。やっぱり、ホノちゃんも意見合わせてるだけみたい」

「へ、へぇ〜」

 

 突然すぎて、あたしはこんな気の抜けた相槌しか言えへんかった。カスミの言い方は確かにキツイ。ちょっとグサッとなることが度々ある。でも、今まさにリサが他のみんなの前で普段見せない顔を見せていることの方が、あたしにはよっぽど怖かった。カスミは、ある意味で裏表がないってところは、信頼できるんだ。でも今のリサは。

 

「今回の旅行もね、ホノちゃんが言い出したのに、カスミちゃんの予定にみんな合わせたやん。いつの間にかあの子がリーダーになってるけど、あたしはあの子、わがままなだけやと思う」

「……あたし、あたしはー、優柔不断やから、決めてもらえた方が助かる時もあるなーて……」

「優柔不断なとこも大事やで。自分一人で決めるんじゃなくて、みんなの意見をまとめる優しさこそがリーダーやん。カスミちゃんのは、独裁」

「はは、独裁って、ちょい、大げさ」

「ううん、リーダーに一番ふさわしいんは、みっひーやで。間違いない。あたし思うねん、もうそろそろ、カスミちゃんはいつメンから外すタイミングなんちゃうかなって」

 

 背筋が凍る、っていう表現は、こういう時に使うんやろか。背中がザワーっと痺れたような感覚が一瞬走って、心臓がドクドク、早く脈打ち出した。いつメンと過ごす、最高に幸せだった9月が、ここ東京ディズニーランドでこんな危機を迎えるなんて。

 リサの言う、カスミの悪口ぐせやわがままっぷりには、確かにあたしらも振り回されてきた。それでも、あたしは自分の確固たる意志みたいなんがなくて、その振り回される感じをしっかり楽しんでた。悪口も良くないと思いつつ、笑ってしまう時もあったし、そもそもやっぱり大阪人って基本口悪くて、そういう環境で育ってきてるから、言い訳やけど「悪口」と「ツッコミ」の境目って、結構曖昧やねん。

 でもさ、リサのはこれは陰口やで?あたしもホノカも、カスミに注意できてへんから、人のこと言えへんけど、陰口だってよくないで?どっちが悪いとかちゃう。けど、リサの考えが正しいとは、あたしは思えへん。

 

 って、あたしもリサに直接言えずに、心の中で思ってるだけ。

 あたしはやっぱり行動できひん。リーダーなんか向いてへんよ。

 

「カスミちゃん、帰ってきた。この話、カスミちゃんには内緒ね」

 

 カスミがゆっくりと歩いてくる。表情はさっきよりマシにはなってるけど、やっぱり疲れた表情だった。カスミはペットボトルのお茶を一口含んだ。

 

「ごめ〜ん。アレ来ちゃった、ジェットコースターはちょっと無理かも」

「カスミちゃん大丈夫?ナプキン、持って来てる?」

「トイレに自販機あったからそこで買えたよ。あとホテルに預けた荷物に入ってる」

「薬は?」

「ロキソ飲んだ」

 

 カスミは辺りをきょろきょろ見渡した。

 

「あれ?ホノカは?」

「お土産見るって」

「あ〜、じゃ、そっち合流しよ。ちょっとアトラクは休憩」

 

 そう言って、あたしら3人はワールド・バザールの方へ向かった。朝イチのばちくそ高かったテンションは、ものの見事に落ち着いてしまって、もう3人とも黙ってパークを歩いてた。ワールド・バザールはエリアがほぼお土産屋やったから、ホノカを探すのにちょい手間取った。グッズじゃなくてお菓子だけ並ぶお店で、ホノカは何か探してた。

 

「ホノちゃん」

「あ、みんな。カスミ、大丈夫?」

「うん、何探してんの?」

「101匹わんちゃんのチョコチップクッキー。めちゃ美味いねんて。おねえが買ってきてって」

「目の前にあるやん」

 

 ホノカが見つめている目と鼻の先に、大量に101匹わんちゃんのパッケージが並んでいた。ホノカはぎゃははと笑い声をあげてそれを6袋も手に取る。

 

「まったく気づかんかった。なんか勝手に缶に入ってると思い込んでたわ」

「そんなに買うん?」

「うん、ちょ、お金払ってくる」

 

 ホノカの会計を待つ間、あたしらも商品を見て回った。ホノカが会計を終えたら、その後は4人で撮影会がスタートした。もう日も落ちてきて、暗くなりかけ。でもライトアップも始まってこれぞディズニー!って感じの雰囲気がしっかり出てきた。

 

「お城の前で写真撮ろやー!」

 

 カスミの掛け声で、みんなでぎゅっと顔を寄せ合う。シンデレラ城をバックにリサのスマホで自撮り。もうあたしらはお互いに化粧がつくのも気にしないくらい、ピタっとくっついている。

 こんなに仲良し。

 こんなに仲良しなのに、心の中であたしらは、実はお互いを嫌いあって、愚痴りあって、陰で悪口を言っている?

 あたしはあたしで、自分の中に秘密を抱えていて、3人の誰にも言ってない。「カスミに嫌気がさしている」っていう秘密を抱えたリサやホノカとあたし、どこがどう違う?

 

「さいっこーの思い出やね」

 

 リサがLINEで写真を送ってくれながら言う。

 リサ、その言葉はどこまで本当?

 

「写真撮ってもらっていいですか?」

 

 お城の前で白髪混じりのおじさんに声をかけられた。あたしはいいですよーと返事して、ちょっと旧式のニコンのコンパクトデジカメを受け取る。おじさんはシンデレラ城を背景に、奥さんらしき女の人の肩を抱きながら、笑顔でこちらを向いた。奥さんも笑顔。あたしはタテヨコで2枚づつ写真を撮った。

 

「ありがとう」

「いえいえ」

 

 カメラを返す時に、奥さんがiPhoneを持ってるのに気づいた。

 

「それでも撮りましょうか?」

「いいの?」

「あたしスマホの方が得意なんで」

 

 奥さんのは古いタイプのiPhone SEやけど、タッチでピントを合わせられるしデジカメより楽。パシャパシャパシャっと何枚か撮って返す。

 

「すごい。綺麗に撮れるのね」

「えへへ、どういたしまして」

「ありがとう」

「ミヒロー、行くよー」

 

 カスミに声をかけられる。あたしはそっちを振り向いて手を上げた。

 

「友達呼んでるんで、じゃ」

「あらごめんね、ありがとう」

「いつでもどうぞっす」

 

 そう言ってあたしはおじさんとおばさんのところを離れた。カスミたちはお城の裏手に白雪姫の像がある滝を見つけていて、そこに向かおうとしていた。振り返ると、おじさんとおばさんが手を繋いでワールド・バザール方面に向かっていた。可愛い夫婦やな。

 

「おじさんとおばさんの写真撮ってた」

「あの人らやろ?いい歳して手ぇつないでディズニーて、恥ずくないんかな」

「あたしは可愛いと思うよ」

 

 やってもうた。

 

 ついつい思ったことが口に出てしまった。あたしの「やってもうた」の気持ちのわりに、カスミは聞こえてへんかったんか、何一つ気に留めてなさそうやった。リサの顔を見ると、驚いた表情で目をパチパチさせてた。

 

 もしかして、もしかすると。あたしらがお互いのわだかまりを絆すタイミングって、今なのかもしれない。カスミは気に留めてない。気に留めてないってことは、多分また繰り返す。あたしらの関係は、きっと捻れたまんま。ホノカも、嫌々調子を合わせたりする。リサは多分言わないけど、また陰口叩いたりするんだ。

 あたしが、多分、なんとかしないと。

 普段何もできないけど。流されることしかできないけど。でもこの3人が好きだから。バラバラになるのは嫌だから。

 

「カスミ。あたしはさ、あのおじさんとおばさん、可愛いと思うねん。いつか……あたしなんかが結婚できるかどうか知らんけど。結婚して歳とっても、あんな感じで仲良くディズニーとか行きたいなって思うねんな」

「どしたん急に」

「あたし、カスミはちょっと口悪いと思う」

 

 言ってしまった。カスミは目を大きく見開いて、驚いた表情をしていた。普段ボケっとしているホノカですら、こっちを見て真剣に聞いている。リサがちょっと歪んだ顔を見せる。彼女は彼女なりに、計画があったと思う。ごめん、でもカスミを仲間外れにはしたくない。

 

「急にこんなん言ってごめんな。楽しいディズニー旅行台無しにしてごめんな。あたし……ちょっと我慢してた。カスミが人を傷つける事いう時いつも、あたしが言われる立場やったらどうやろ、って思うねん。キモいとか、カスミ平気で言うやん?あと、今日。韓国の人にひどいこと言ったよね。秘密にしててごめん……あたし実は」

 

 あたしは息を飲んだ。

 

「あたし実は在日コリアンの三世なんよ」

 

 カスミもリサもホノカも、何も言わなかった。ディズニーの可愛いBGMと、滝の音だけが優しく聞こえている。

 

「あたしホントの名前は 임 서윤(イム・ソユン)。じーちゃんばーちゃんが韓国の釜山出身。あたしは生まれも育ちも日本の、日本国籍やけど」

 

 周りに他のゲストが誰もいなくてよかった、と思った。

 

「いつメンは秘密禁止よね。ごめん、ずっと黙ってて。中学の時周りに馴染めんくて、高校からずっと日本人のフリしててん。仲間外れにされたらと思ったら怖かった。言い出せへんかった。ほんとごめん」

 

 こんなことを言われるなんて、思ってもみなかったと思う。カスミは今にも泣きそうな顔をしていた。カスミは俯いて、小さい声で何かをボソボソ言った。ホノカがカスミを後ろからハグして、あたしに向かってニコッと微笑んだ。

 

「あ〜、カスミだけじゃないよね。ごめん、ミヒロ。うちも悪口言ってたね。ね、ね、カスミ。一緒に謝ろ」

「……ミヒロごめん。あたし、無神経やった」

「ごめんね、ミヒロ」

 

 カスミとホノカが、しっかりと頭を下げた。顔を上げた時、カスミは泣いていた。

 

「あたしが韓国人でも、いつメンでいてくれる?」

 

 あたしはカスミに尋ねる。カスミはうん、と頷き、泣きながらごめんを繰り返した。顔を上げて、リサを見ると、リサはちょっと困ったような顔をしていた。

 

「ほんでさ、イム・ソユ……?て、どこが名前?」

 

 ホノカがいつもの調子で聞いた。

 

「イムが苗字でソユンが名前。漢字で書いたら 林 瑞潤」

「へぇ〜、名前が二つあるってかっこいい。韓国語喋れるん?」

「小学校の頃は、土日に韓国人学校で勉強してたから、簡単な会話くらいは」

「すご!リサとミヒロがいたらあたしらの韓国旅行最強やん」

 

 話を振られ、リサはニコっと、ぎこちない顔で微笑んだ。ホノカは先ほど買ったお土産袋をごそごそと漁った。

 

「もう、なんかタイミング逃したけど……ええのがあるよ」

 

 取り出したのは、ディズニーのフードの形をしたのバッグチャームセットだった。

 

「じゃーん。大食いのあたしらにこれピッタリやろ。1個ずつ選んでカバンにつけよ!」

「いいん?」

「うちからのプレゼント。うちらの友情の証」

 

 そう言われて、あたしはミッキーのアイスキャンデーの形をしたチャームを手に取る。こういうので、カスミじゃなくてあたしが先に何かを選ぶのは、もしかしたら初めてかもしれない。

 

「リサ、どれがいい?」

「あ、……えっと、これ」

 

 リサはリトルグリーンまんのチャームを取った。ホノカはうきわまんを選ぶ。

 

「ほんなら、カスミにはこの余り物のミッキーワッフルを授けよう」

 

 カスミは涙をぬぐいながら笑った。

 

「あんたら、あたしが絶対これ選ぶって知っとったやろ」

「そりゃ〜、いつメンやからな、あたしら」

 

 受け取りながら、カスミはもう一度泣いた。ホノカがカスミをぎゅっと抱きしめるのを見て、あたしも泣いた。

 

「よし、チョコチップクッキー一袋開けようや。おねぇ、ごめん、いただきます。カスミ、お腹どんな感じ?」

「痛くない。おさまっとる」

「とりま、もっかいスプラッシュ・マウンテン行く?」

「この時間に濡れたら乾かへんのちゃうかな〜」

「そんときはそん時やろ。カスミのメイクが全落ちするまで濡れるで!」

 

 あたしらはクリッター・カントリーへと歩き出した。途中、リサがあたしの側に寄ってきてボソッとつぶやいた。

 

「やっぱり、みっひーがリーダーやね。あたしの目に間違いはなかった」

「もうカスミをいつメンから外すとか、言わんといてね」

「ごめん。でも、さっきのことは内緒にしてて欲しい」

「いいよ」

 

 あたりはすっかり暗くなってて、ウエスタン・ランドは灯りが少なくて、離れて歩いてたらすぐ迷子になりそうだった。あたしもカスミとリサの肩を抱いて、あたしら4人は、周りの迷惑も顧みず横並びで歩き出した。

 

 居酒屋バイトのいつメンの、カスミとリサとホノカとあたし。あたしの名前はイム・ソユン。性格も趣味も年齢もバラバラな仲良し4人組。いつメンは秘密禁止。でもぶっちゃけそれはやっぱり無理だし、アホなこともいっぱいやる。今後も多分、誰かが悪口・陰口繰り返すと思う。でもね、その都度こうやってぶつかってさ、泣いたりしながらやっていけばええんちゃうかな。だってあたしら、こんなに仲良し。いつメンの友情は、崩れない。

 

 

 

第7話「いつメンディズニー最強物語」おわり

Chapter 7 - The Squad's Parfect Journey

 

***

 

あとがき

悪口を言う人を悪として何話か書きましたが、

彼女らに悪を押し付けてる僕は悪口言ってるのととそんな変わらないのではと思って

彼女らも彼女らで救われたらいいなと思って急遽この話を作りました。

僕は関西人なんですが、やっぱり文章に起こすと胡散臭くなるよね。若者言葉も難しくて年齢の超えられない壁を感じました。

いつメンしか勝たん。

 

 

次回予告

第8話「写真と指先」

www.sun-ahhyo.info

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』

【東京ディズニーランド小説】第6話「君との時間に憧れて」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 本作におけるキャストの描写は筆者の想像による創作が多く含まれます。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

 こちらの小説は作品投稿サイト NOVEL DAYS でもお読みいただけます。

 

***

 

 こんにちはー。何名様でしょうか?2名様。足元番号1番でお待ちください。こんにちはー。何名様でしょうか?2名様。足元番号2番でお待ちください。こんにちは。何名様でしょうか?お子様入れて3名様ですね。足元番号4番でお待ちください。こんにちはー。何名様でしょうか?5名様ですね。足元番号5番と6番で2名と3名に分かれてお待ちください。こんにちはー。あ、はい2名様で。3番の足元番号でお待ちください。はい、4名様ですね、次回のご案内になりますのでもうしばらくお待ちください……。

 

 まるで工場のベルトコンベアだ。

 流れてくる人々を的確に、瞬時に振り分けてライドへ箱詰めしていく。本当のベルトコンベアのほうが、言葉を発する必要もなく、きっと効率的だろうけど。未来のテーマパークではそういった、自動ライド振り分けのシステムも開発されて、もしかすると私が今やっている仕事もなくなっているのかもしれない。さよなら、私の労働。その頃には、私はもうここでは働いてないと思うけど。

 実際のところは「プーさんのハニーハント」はベルトコンベア式でなければレールもない。通称「トラックレスライド」といい、プログラミングによってレールやベルトコンベアなしにツルツルの床面を、複数のライドがぶつかることなく、決まった動きで複雑に移動してくれるのだ。今でこそ「美女と野獣 魔法のものがたり」や東京ディズニーシーの「アクアトピア」で取り入れられ、その数は着実に増えているが、「プーさんのハニーハント」導入時は世界のディズニーパークでもかなり画期的なシステムだったらしい。私は3年前の採用時にトレーナーが熱く語るのをポカンとした顔で聞いていた。

 

 当時憧れだった東京ディズニーランドでのアルバイトも、3年も働けば飽きる。マンネリ化する。特に今年は就活と卒論との兼ね合いで非常に忙しく、一方こちらでのアルバイトは感染症の影響で入場者数が制限され、それまでの繁忙が嘘みたいに消えてなくなったこともあり、だらけた気持ちが抜けなくなって、メリハリのないまま仕事をしていた。そりゃ、消毒の案内だとか、ソーシャルディスタンスに関するスピールだとか、今まで存在しなかったお仕事も増えていたけど。契約更新の時期に週の契約時間も減らされたが、そもそも人員削減のため契約終了となった友人もいる中、今なお勤務を続けられていることは幸運だったかもしれない。仕事において、暇すぎたり楽すぎることも、決していいことではないみたいだ。

 

 ライドの安全バーの確認に入る。出発の掛け声が上がり、私たちキャストが手を振るのに合わせて、ゲストも手を振り返す。2台目のハニーポットに座る赤ん坊が、抱かれている母親に手を振らされ、キャッキャとかわいらしい声をあげている。その隣に座る、顔はいいけどどこか間の抜けていそうな父親は、なんとなくどこかで見覚えがあるような気がする。でも、他人の空似かな。1日に何千、日によっては何万のゲストを捌くのだ、たとえ2、3周していてもさすがに覚えていない。

 

「西田さん、交代です」

 

 名前を呼ばれた方を見てうなずく。腕時計を見ると11時55分を指していた。8時からの4時間勤務が終了する。同僚キャストとポジションを交代して、私はバックステージに戻る。上司から終礼を受けて12時、退勤。

 

「桐山さん、就職決まったって」

 

 ブレイクルームでは同僚たちが別の同僚の就活の話題で盛り上がっていた。桐山とは私と同い年のハニーハントの男性キャストである。

 

「あの有名な総合商社?年収いくらになんの?」

「そもそも桐山さん、青学だからね。商社に行く人なんてゴロゴロいるんじゃない。住む世界が違うよね」

「瑠奈ちゃんお疲れ様」

 

 部屋に入りづらい雰囲気だったけど、声をかけられて微笑み、すっと部屋に入った。同僚たちは桐山くんの話題をぴたっとやめる。みんな私の就職活動がうまくいっていないことを知っているのだ。私はあえて桐山くんの話に戻して、何でもないように振る舞うことにした。

 

「お疲れ~。桐山くんうらやましいなぁ。さすがさすが」

「西田さんも、一応1本決まってるんですよね?」

 

 後輩が励ますように聞いてきた。私はにこっとして答える。

 

「おかげさまで2本、決まったよ。第一志望じゃないけどねー……みんな名前も知らない、無名にもほどがあるって言うか」

「決まってるだけですごいですよ。今年かなり厳しいって聞きますもん」

 

 後輩の慰めの言葉が、沁みる。

 私の就活は34戦、32敗、2勝。もう9月だというのに、まだ選考途中のちいさな会社が18社ある。

 志望していた大手の化粧品メーカーも、医薬品メーカーも、食品、おもちゃ、アパレル、イベント会社、地方銀行、クレジットカード会社、WEBベンチャー企業と、ことごとく不採用を食らっていた。大手ほど早々に募集を締め切り、早々に選考が進む。これだけ選考があると、ESを書いても書いても追いつかない。その間にSPI、一般常識、TOEIC、日商簿記3級、ITパスポート。第二言語が中国語だったから、漢語水平考試の1級も受けてみたけど、残念ながら準備不足で落ちた。气死我了!不採用が重なり就活の期間が延びるにつれ、どんどん募集枠も減っていき、会社の規模も知名度も小さくなって、私の焦りは次第に大きくなっていった。それでも、たった30社、俺なんか50社受けたよ、私なんか100社、なんてこという同ゼミの子もいて、ますます焦りが募っていく。

 現時点で採用が決まっているのは、栃木のかまぼこ工場の経理財務、もしくは都内のチェーンレストランの店長候補だ。これらも、11月末までにどちらに就職するのか決めて、返事をしなければいけない。どちらも、スーツ勤務のOLではなく、かまぼこ工場ではツナギの制服を着て諸々の事務作業なんかもやると聞いているし、レストランは集合研修のあと、半年は配属先でアルバイトと一緒に現場の業務をするとのことだった。名の知れたチェーンのレストランではあるが、本社ではなくてフランチャイズで運営している別企業である。以前友達に自虐的にそれを言ったら「そんなこと言ったら東京ディズニーランドもある意味フランチャイズでしょ」と謎の励ましをされたけど、規模感が全然違う。

 自分で話を続けて、勝手に自分が惨めになってきたところで、後輩が励ましの言葉をかけてくれる。

 

「名前を知ってるか知らないかじゃなくて、そこでどんな仕事をして、どんな価値を生み出すかが重要ですよ」

「おっ、カッコいいこと言うじゃん。あー俺らも来年は就活か~やっぱしんどいっすよね」

「そうだね、クッソしんどいよ」

 

 質問してきた後輩の目をしっかりと見ながら、私は親指を立てて自信満々に言った。ブレイクルームに中途半端な笑い声がモヤッと起きてしまい、ちょっとスベった感じになった。なんか痛いな、私。

 

 お疲れ、と新たな声がして女の子が入ってくる。晴華だ。

 

「お、瑠奈りん。あたしあと2時間で終わりだからさ、この後ピアリのスタバいかん?もうハロウィーンの新作やってるらしいよ」

 

 私を誘ってくれた晴華は、私と同期入社だった。同い年だけど高卒のフリーター。いつも遊びに誘ってくれて、就活の相談も、晴華にだけは臆さずすることができた。

 

「ごめん、あたし今日人と会う予定あるんだ」

「なにさ、デート?」

「デートかも」

 

 晴華はきゃあーと声をあげながら私に抱きついた。さり気なく胸を揉んできたので笑いながらデコピンを食らわせる。

 デートかもしれないし、デートじゃないかもしれない。

 今日私は久しぶりに、高校の時に片思いをしていた2歳上の部活の先輩と会う。男子ラグビー部のマネージャーだった私は、部活のエースで、ウイングポジションだった先輩に憧れていた。校内で1番、陸上部よりも足が早く、元々弱小だった母校の高校ラグビー部を県大会にまで押し上げた。先輩は高校全日本チームの補欠に名前が上がるほどの脚力とパワフルさを持っていた。有名私立大学にスポーツ推薦をもらい進学しし、私も2年後に同じ大学を受験したが結果は不合格。そこから長いこと会うことがなかったが、2年前に部活の集まりで再び会い、二次会でLINEを交換した。

 そして数日前、先輩から突然LINEで連絡が来て、私が就活で悩んでいることを打ち明けると、息抜きに今度遊びに行こうという話になった。私がディズニーランドで働いていることを知ると「是非案内してよ」といわれ、少なからず下心のあった私は、この就活の慌ただしい中ではあるが、喜んで承諾した。

 

「うへぇ〜。瑠奈にとうとう彼氏ができるのか。親友の私を裏切って?」

「う〜ん、晴華は都合のいい女ってことで」

「ひど〜い。どこかで電話するから途中経過聞かせてね。エッチの最中でも出てね」

「ばかたれ」

 

 まだ20代前半なのに、なぜか私たち二人が揃うと、おじさんみたいな会話になってしまう。

 私はみんなにお疲れ様と声をかけて、更衣室へと急いだ。コスチュームを返却してオリエンタルランド本社を後にする。

 

 感染症による休業を経て以降、厳しいゲストの人数規制がなされているということもあり、本来購入できたキャスト向け割引パスも一時的に販売を停止しており、一般ゲストと同じ方法・同じ値段でチケットを買う必要があった。私はスマホアプリで電子チケットをいつでも表示できるように準備する。待ち合わせはペデストリアン・デッキのクーポラ付近。

 ミントグリーンのクーポラの下に100㎏はありそうなガタイのいい男性が立っていた。現役時にはこの巨体で、100m走を11秒台で走っていたのだから驚く。

 

「塚本先輩」

「瑠奈ちゃん、久しぶり。元気だった?仕事終わりにごめんね」

「いえ。久しぶりに会えて嬉しいです」

 

 私の高校時代の憧れ、塚本先輩。2年前に会った時は先輩もまだ大学生で、確かeコマース系のベンチャー企業に就職が決まったと言っていた。学生当時伸ばしていた髪は清潔感たっぷりに短くされ、ワックスで固められている。肌は浅黒く、耳元にはピアスが両耳に2つずつ光っていた。

 

「俺、ディズニー久しぶりだよ。変わってない?」

「変わったり変わらなかったりですね。いつぶりですか?」

「大学2年の学祭の代休で行った以来かな。ハロウィーンだったよ」

「まぁ、パンデミックの影響で、ゲスト少ないんで、その時よりはサクサク並べると思いますよ」

 

 ペデストリアンデッキの緩やかなスロープを降りて、東京ディズニーランドのエントランスへと向かう。感染症による休業、チケットの販売制限などもあったので、私自身パークに遊びに来るのは久しぶりだった。エントランスも大規模工事によって雰囲気が様変わりしており、毎週2回働きに来ていながらも、初めて見る景色になっていた。大量のゲストを効率的に受け入れるためのエントランスのリニューアルも、チケット販売制限に伴うアテンダンスの低下の結果、閑散とした雰囲気が漂っていて寂しさが増している。とはいえ、時刻はもう13時だ。おそらくパークの中は多少なりに人で賑わっているのだろう。

 

 入園後は先輩の好きなスリルライドから順番に制覇して、「バズ・ライトイヤーのアストロブラスター」で得点を競った。スター・ウォーズが好きな先輩は「スター・ツアーズ」を大いに気に入り、2周連続で乗り、1回目とパターンが異なることに気づいてさらに興奮していた。抽選では美女と野獣ライドは外れてしまったが、「ベイマックスのハッピーライド」の権利を手に入れた。

 

「すごい、楽しいな。ディズニーランド。そんで、大学の時に行ったの、多分ランドじゃなくてシーだわ」

「え、それに今まで気づかなかったんですか?」

「うん、なんかトイ・ストーリーのシューティングとか、エレベーターで落ちるやつとかにのった記憶はあるんだ」

「あー、間違いなくシーですね」

「でもさっき乗ったバズ・ライトイヤーもトイ・ストーリーのキャラじゃん?紛らわしいよね」

 

 私は笑いながらも驚いた。一般の、ディズニーにさほど興味がない人たちにとっては、ランドとシーの区別もつかない、記憶が混濁してどっちだったか覚えていないという事がよくあるとは聞くが、実際に知り合いでお目にかかったのは初めてだ。先輩は、グーフィーとプルートの区別もつかないし、チップとデールがどちらか片方しかいなくても「チップとデール」と呼びがちである。ベイマックスは存在すら知らなかった。スター・ウォーズは好きと言いつつも、冒頭に登場したカイロ・レンをダース・ベイダーと呼ぶほどには、色々と広く浅く「好き」と言ってしまうタイプなんだなと思った。

 

「瑠奈ちゃんはどこで働いてるんだっけ?」

「私ですか?プーさんのアトラクションですよ」

「プーさん!俺好きだなぁ。それ乗りに行こうよ」

 

 私はあんまり気乗りがしなかった。今の時間はギリギリ晴華も働いてるかもしれなくて、なんだか噂のネタにされそうで。

 

「人気なんでちょっと混むんですよ。またパレードの時間とかなら空きますよ、それくらいに行きます?」

「パレード!パレードも好きだなぁ」

 

 パークに入って2時間経ってないくらいだけど、もう2万回は先輩の「好き」を聞いた気がする。私は、あんなに憧れていた先輩が発する「好き」という言葉が、こんなにも軽々しく連発されることに、少しばかり失望感を感じていた。もしこのデートがうまくいって、先輩と私が付き合うことになったとして、先輩の「好き」の重さは果たして変わるのだろうか。先輩が私のことを「好き」と言ってくれたとして、その「好き」は本当の「好き」になり得るのだろうか。他の女の子たちにも、軽々しく「好き」と言ったりしないだろうか。考えれば考えるほど、私自身の先輩に対する思いも揺らいでいく。

 私は『魔法にかけられて』のジゼルの気持ちで、デートを経て冷静になっていく恋心を実感していた。

 

「ちょっとコーヒーでも飲まない?」

 

 先輩のその一言で、私たちはトゥモローランド・テラスでお茶することになった。私はホットの紅茶に砂糖とミルクを入れ、ティーバッグを揺らす。マドラーの頭にはミッキーマウスの顔がついていて、先輩はそれにも興奮していた。

 

「就活はどう?」

 

 先輩の質問に、一瞬顔がこわばる。スポーツ推薦とはいえ、有名大学に入学して今はベンチャーで働いている先輩だ。もしかしたら、就活に関して良いアドバイスを貰えるかもしれない。それ以上に、誰でもいいから私に優しい言葉をかけてほしい、労ってほしいという、甘えたい気持ちがあった。

 

「ボロボロです。30社受けて決まったのは2社だけで、他は全部ダメで。決まっているところも、やっぱり自分のやりたいこととはちょっと違うし、まだ選考続いているところも何個かあるんですけど、どれも微妙で」

「瑠奈ちゃんのやりたいことって何なの?」

「……最初は商品作りに携わりたいなって思って、メーカーばっかり受けてました。化粧品関係の仕事に就きたくて。でも私商学部だし、化粧品って理系だし。蓋あけてみるとやっぱり「作る側」にはどうしても回れなくて。もう大学の学部選択の時点から……ううん。高校の文理選択の時点から間違ってたんだなって思って凹んで。不採用になればなるほど、もうなりふり構ってられなくなって、今は募集しているところに片っ端から応募してるみたいな感じ」

「やりたいことが叶えられないって、辛いよね。空回る気持ち、わかるなぁ」

「先輩はどうして今の会社に入ったんですか?」

 

 先輩はごくっとコーヒーを飲んでから真剣な眼差しで私を見た。私も紅茶をすする。

 

「俺、親が呉服屋やっててさ。俺一人っ子だから、子供の頃からずっと、お前はうちの跡取りだぞって言われ続けてさ。でも呉服屋なんて今の状態のまま細々と続けても絶対苦しくなるだけじゃん。自分の力で世界に対抗できるコネクションを身につけてからじゃないと太刀打ちできないなと思ったの。あとは親に対する反抗心」

「コネクション……反抗心……」

「そうそう。俺がバカやれるのは、親が収入が安定してるっていうバックボーンがあるから、まぁ恵まれてはいるんだけど。それでも親に貰った会社と金とで暮らすような男にはなりたくなかったわけ。だからさ、元々は大学の先輩が立ち上げた企業なんだけど、ここなら自分の名前を売れるぞって思って入ったの。収入は最初はショボかったけど、頑張れば頑張るほど給料多くなる会社だったから、必死で頑張ったね。今では業績が会社内で2位。外車も新車で買えるし、多分呉服屋継ぐよりも貰えてるんじゃないかな」

 

 どうしよう。全く参考にならない。それどころか、就活の相談のつもりだったのに、何だか先輩の自慢話になってきている。

 

「瑠奈ちゃんも、今決まってるところも微妙って言ってるけど。やっぱりやりたい仕事か、そうじゃなくてもお金がしっかりもらえて安定してる仕事か、どちらかが重要になってくると思うんだよね。仕事ってやっぱり歳取るまでずっとやり続けることだから。どちらもないと厳しいよね」

「確かに、やりたかった仕事ではないし、お給料もそんなに良くないです」

「今の俺の仕事は、決してやりたかったことじゃない。俺はずっとラグビーで生きていくつもりだったし。でも、今の仕事は、割り切れるだけのお金はもらえて、余暇にラグビーもできる、贅沢もできる。だから頑張れてるよ」

「羨ましいです」

「ちなみに、正社員も募集してるよ。新卒求人サイトとかには載ってないけどね。面接とかは普通にしなくちゃいけないけど、俺の紹介なら、多分採用される」

 

 話が急展開した。先輩の紹介で、先輩の会社に入る?こんな都合のいいことって、本当にあるだろうか?「最初はしんどいけど、努力して業績を伸ばせばそのリターンは確実にある」いろんな会社の会社説明会で、こういった言葉は何度も聞いてきた。どの会社であっても、実際にそういう部分も少なからずあるだろうし、盛っている部分もあるだろう。「努力して業績を伸ばせば」の基準も、困難さも、まだ働いていない私には全くピンとこない。でも、他の会社説明会と大きく違うのは、「先輩の紹介」というハンデを貰えるかもしれないというところだ。

 でも、いや。

 慎重になるべきなんじゃないだろうか。先輩の手首から金のヴェルサーチの時計が、誘惑するようにちらっと顔を覗かせる。

 

「どういうお仕事なんですか?」

 

 私が思い切って聞いてみると、先輩はにっこり笑った。高価そうな名刺入れから、先輩の名前入りの名刺が出てくる。

 

合同会社 ボンドコネクション

 

「うちの会社はさ、人々の固い絆にこそ商品価値があると思ってるんだよ。単純にいえばネット通販の会社なんだけど、Amazonや楽天みたいな、無数の企業が出店しているマーケットみたいなものではなくて、おれたち会社側が厳選した、審査を通過した質の保証されてる商品と事業主だけが参入できるようになってる。購入できるのも、所在を明らかにしてる正式な会員のみで、転売とか不正とかが一切起きないようになってるんだ。そういうお互いの信頼のもとで生まれた絆を大事にしてる」

「えーっと……」

「俺たちの仕事は、出店企業と絆を結んで、信頼のおける商品を提供すること、そして商品をしっかり宣伝して会員を増やして、お客さんに買ってもらうこと。お客さんも、信頼あるいい商品が買えるってことで、他の人にオススメする。そうして会員を増やしていく。会員紹介制度を導入していて、紹介人数に準じたインセンティブもある。こうやって、絆は広がっていく。絆だよ、大事なのは。入社試験の第一歩はプレミアム会員として応募して書類選考、そこから半年かけて300人のプレミアム会員を紹介できれば、見事、正社員になれる。正社員になれなくても、お客さんと同じで紹介した人たちの購入金額に応じてちゃんとインセンティブが支払われるから、就職活動しながらお金も貯めれるんだ。俺の紹介なら、書類選考は間違いなく通過できるよ」

「それは……すごい、画期的ですね」

「絆の力はすごいからね」

 

 先輩への憧れが、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのがわかった。

 どうやら私はマルチの勧誘を受けている。

 「絆」というポジティブな言葉がここまで禍々しく、胡散臭く聞こえるようになるとは思いもよらなかった。次に絆と聞いたら吐いてしまうかも。この人は自分で言ってて虚しくならないのだろうか。

 私は血の気が引いてふらっと倒れそうになるのを必死にこらえながら、引き続き熱く語る先輩の表情を死んだ目で見つめていた。この勧誘を周りに聞かれていやしないかと恥ずかしくも思う。「数年ぶりに憧れの高校の先輩とディズニーランドに遊びに行ったらマルチに勧誘された話」としてnoteに書き綴ったらバズりそうな展開だ。それでもこの虚無感は、そんな面白展開を楽しむ余裕は与えてくれず、時間が過ぎるほどに悲しみだけを募らせていく。感染症禍で娯楽は制限される。就活はうまくいかない。気晴らしのつもりで行ったデートでマルチに勧誘される。

 もう、最悪だ。男って最低だ。全員地獄に堕ちてほしい。

 

 ガタガタガタっ、と大きな音がして、少し向こうのテーブルで女性が男性に怒りをぶつけているのが見えた。赤ん坊が泣き出す。

 

「あなた、10ヶ月も父親やってて、乳児に蜂蜜がダメなことも知らなかったの?まだ食べさせてないよね?病気になって、死ぬかもしれないんだよ?」

 

 女性は、呆然としている男性をそのままに、赤ん坊とバッグを抱えて店を飛び出した。今朝、私が退勤直前にハニーハントで見送った一家だ。父親らしき男性は、口をポカンとあけたまま動けなくなっていた。

 

「瑠奈ちゃん、瑠奈ちゃん。おーい」

「あ、ごめんなさい。違うこと考えてた」

 

 視線を先輩に戻す。朝に出会った時には格好良く見えていた先輩も、今となってはもう何か気持ち悪い大きなタンパク質の塊に見える。体はでかいけど、口から吐く言葉の全てが、風に吹かれて飛ばされそうなくらい薄っぺらい。風の日おめでとう先輩。こんな人に憧れていたなんて。

 

「ちゃんと聞いてよぉ。ちょっと俺、トイレ行ってくるね。その間によかったら採用、考えてみてね」

 

 先輩が席を立つ。これが私と先輩の、最後の別れの瞬間だった。

 心の中で先輩に中指を立てて、LINEもインスタもFacebookもブロックをした。さよなら、憧れの塚本先輩。間違えてたのは文理選択だけじゃなかったんだ。

 

 私は紅茶をがぶっと飲み干したあと、カバンから鏡を取り出してリップ塗り直し、店を出ることにした。立ち上がって、先ほど女性に怒鳴られていた男性の前を通る。そういえば、見覚えのある顔なんだよな、この人。

 

「あ……」

 

 思わず足を止めてしまった。

 見覚えは確かにあった。確実に私は、この人と顔を合わせている。いや、正確には面と向かっては顔を合わせていないが、画面越しに。私が最終選考まで進んでいて、そして見事不採用となった製薬会社の、8月の最終WEB面接で、私を面接した面接官の一人だ。そういえば、私が東京ディズニーランドで働いているということに、やたらと喰いついて来たのを覚えている。

 私が不自然に男性の前で立ち止まってしまったため、男性は私の顔をわけもわからず見つめていた。口はポカンと開いたままだ。この人は私のことなど覚えていないのだろうな。

 でも、先ほど聞こえた女性の怒鳴り声の流れからすれば、悪いのは確実にこの男性だろう。こんな男性でも採用される会社で、不採用になる私。なんだかムカムカしてきた。いつだって、我慢したり、しんどい思いをするのは女の人だ。私は顔もよく覚えていない、この男性の妻に同情する。詳細な経緯はわからないけど、きっとどこかで腹を立てたり、泣いたりしている女性のために、何か言わなきゃいけないような気持ちになった。

 

「追いかけて、謝らなくていいんですか」

 

 緊張で声が震えそうだったけど、押し殺して、でもしっかりと怒りを込めて言ったら、自分でもびっくりするくらい怖い声が出た。10歳は離れているであろう小娘にこんなことを言われるのは、この男性には屈辱かもしれない。

 男の人は慌てて広げていた荷物を整理し、バタバタと店を出て行った。

 ちらっと隣の席を見ると、また別の親子が座っていて、親の方は私と目を合わせないように視線を逸らしたが、5歳くらいの子供の方はボーッと私の顔を見つめていた。言いたいことを言ってスッキリした気持ちと、言ってしまったという後悔と半分半分だった。

 

 トゥモローランド・テラスを出て、外の空気を吸う。9月ってまだこんなに暑いんだな。スマホのバイブが鳴って確認すると、晴華からの電話だった。

 

「そんでそんで、デートは失敗だったのかい瑠奈りん」

「はるりん、あんたエスパーかい」

 

 電話の向こうで晴華がケッケッケと笑った。

 

「いや〜、上手くいってたら電話は出ないでしょうよ〜。そうかそうか、ダメだったか」

「今どこ?一人?」

「ピアリにいるよ、ストアの前。木村くんと橋田さんとグズマンでご飯食べて、いましがた一人になったところさ」

「そこで待ってな、いますぐ行くぜ」

「きゃん」

 

 私は電話を切って、急ぎ足でパークを出た。イクスピアリのディズニーストア前で落ち合った私たちはスターバックスでハロウィーンの新作メニューのフラペチーノを買う。店内は感染症対策で間引きされており座るところがなく、外で食べることにした。

 エントリープラザの柵にもたれ、走るリゾートラインを見ながらパンプキン風味のクリームを頬張る。冷たさと甘さが体に染み渡り、今日の疲れが少し癒されたような気持ちになった。

 

「晴華はキャスト続けるの?」

「んー……辞める理由がねぇなぁ。他にやりたいこともないしなぁ。給料は低いし社員はウザいけど、楽しいっちゃ楽しいじゃん?」

「まぁね」

「瑠奈も就活なんか辞めちゃって、フリーターとしてTDRで働くがよい」

「待て待て、奨学金の返済とか、どうすんのさ」

「うう〜、若干22歳にして借金漬けの学生、世知辛い〜」

 

 私はため息をつく。いい大学を卒業して、いい会社に勤める。そんな理想を抱いていたはずなのに。どうしてこうなってしまったんだろう。なんだか、自由な生き方をしている晴華が羨ましいとすら思えてきてしまった。

 

「TDRだって、パンデミックがおさまったらまた、過酷な日々が待ってるさ」

「つまらない仕事と薄給と、重労働の未来しか見えないのが悲しい」

「結婚して子供産んだら専業主婦なんて時代でもないしね」

「専業主婦とか、無賃重労働の極みじゃん」

「新たな地獄だよね」

 

 私ははぁっとため息をついた。

 来年の春、私は一体何をしている人になっているのだろう。もう、自分の夢を追いかけるフェーズは終わってしまったかもしれない。ただ粛々と、やりたくない仕事を続けて疲弊していくのだろうか。

 

「本音言うと、私も何にもしたくないね。ただこうやって瑠奈とだらだらと崇高なフラペチーノタイムを満喫していたい」

「それサイコーだね」

「もう優勝でしょ」

「国民栄誉賞だね」

「ゴールデングローブ賞でしょ」

「ゴールデングローブ賞って野球の賞?」

「知らないけどキャッチャーがうまい人みたいな響きはあるね」

 

 くだらない会話が延々と止まらない。私は再びフラペチーノをスプーンで口まで運ぶ。甘くておいしい。スパイスがほろ苦い。

 

「ねぇ、晴華」

「なんだね」

「私がいなくなってもここに来て、何にもしないってことをしてくれるかい?」

 

 晴華は突然私の方を見て、私の手をフラペチーノで冷えた右手でぎゅっと握った。

 

「何にもしないは一人だと寂しいんだわ。ずっと一緒にいようよ」

 

 それだけ言って、晴華は手を離して振り返り、私に背を向けながら黙々とフラペチーノの続きを食べ始めた。晴華なら、プーのものまねで答えてくれるかなと期待したけど、意外な反応だった。私ひとりが将来について悩んでいて、うまくいかない現実に絶望して寂しいんだと思ってたけど、そうじゃなかったんだな、多分。

 あたりはすっかり暗くなっていた。遠くに小さく見えるシンデレラ城とワールドバザールのキラキラと光る灯りを見つめながら、私はちょっとだけ泣いた。

 

 

第6話「君との時間に憧れて」おわり

Chapter 6 - Busy Doing Nothing With You

 

***

 

あとがき

本当は瑠奈と啓太の話になるはずでしたが、

書いているうちに話の方向性が変わって

いろいろ考えてこういう形に落ち着きました。

僕は就活に失敗して大学中退し、高卒フリーターだった時期があるので、

瑠奈も晴華も愛おしいのです。

 

 

 

 

次回予告

第7話「いつメンディズニー最強物語」

www.sun-ahhyo.info

 

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』

【東京ディズニーランド小説】第5話「バッド・ドリーム・レクイエム」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

 こちらの小説は作品投稿サイト NOVEL DAYS でもお読みいただけます。

 

***

 

 9年ぶりの東京ディズニーランドだ。私は車椅子に座る姉を連れ、ワールドバザールのショップにいた。今時の女の子がつけそうな大きなリボンがついたピンクゴールドのカチューシャを手に取り、姉に渡す。

 

「お姉ちゃん、ほらこのカチューシャどう?」

「ん……」

 

 姉はカチューシャを受け取りはするが、つける様子はない。私は色違いのシルバーのカチューシャを手に取り、自分の頭につける。鏡に向かって、顔の向きを変えながら、似合う角度を探る。

 

「私はこれにしようかな」

「私、それがいい」

「これ?シルバー?」

「そう」

 

 姉はピンクゴールドのカチューシャを私の手に押し付け、シルバーのを奪った。

 

「お揃いにする?」

「ううん、愛はピンクを付けて」

「わかった」

 

 正直、東京ディズニーランドなんて滅多に来るような場所ではない。ここでしか付けられない、付けることのないカチューシャをわざわざ買うのは、もちろん「記念だから」とか「思い出づくりのためだから」という意見もあるだろうが、私たちにとっては無駄だし、非常に痛い出費だ。

 私はレジでピンクゴールドとシルバーのカチューシャをひとつづつ購入した。タグを切ってもらい、シルバーを姉に渡す。私がピンクゴールドをつけて自撮りすると、姉は私の服の裾を引っ張って言った。

 

「やっぱり私がピンクにする」

「いいよ。かわいいもんね、ピンク」

 

 姉とカチューシャを交換する。店を出てゆっくり車椅子を押しながら、どのアトラクションならば姉でも体験できるのか考えながら歩いた。

 

 姉が車椅子生活を強いられるようになったのは、あの事故がきっかけだ。

 忘れもしない中学1年の冬。吹奏楽部の部員だった私は、バスクラリネットの奏者として関東大会に臨んだ。私たちの住む木更津から遠く離れた宇都宮にあるコンサートホール。結果は1回戦落ち。私たち吹奏楽部は「関東大会まで頑張ったご褒美」として、半日だけ、部活動のメンバー全員で東京ディズニーランドに遊びに行くことが許された。

 事故の報せを聞いたのは、私が部活の仲良しグループの友達と「ピーター・パン空の旅」に並んでいる時だった。当時はまだギリギリガラケーが主流だった。バイブの音が響き、電話にでると顧問の先生が今すぐ集合場所に戻るように言った。私にだけ。

 白と赤のコカコーラ色のレストランの、外のベンチで座っていた先生は私にこう言った。有田さん、あなたのお父さん、お母さん、お姉さんが乗った車が、トラックに衝突して事故にあった。いま病院で治療を受けているから、私と今すぐ行こう、と。

 両親と姉は、私の関東大会を観に宇都宮まで来ていた。大会のあと一泊して帰る途中で事故に巻き込まれたらしい。私は顧問の先生とともに家族が治療を受けている病院へと向かった。だが、私が病院へ着く前に、父はもう亡くなっていた。

 結果的に生き延びたのは後部座席に座っていた姉だけだった。その姉も、衝突した弾みで脊髄をひどく損傷し、下半身が全く動かない後遺症を患うこととなった。

 

 それまでは、姉は学校のクラスのリーダー的存在で、次年度の生徒会長候補に名前が挙がるほど、同学年の生徒からの信頼が厚い生徒だった。社交的で、うまく周りを取りまとめることができ、校内のヤンチャな不良グループからも一目置かれるような存在だった。当時同じく生徒会長候補に名前が挙がっていた美男子かつ成績優秀な男の子がいて、学内では彼と交際しているという噂が広まっていた。実際はそんなこともなかったようだが。それが、事故以来、姉はがらっと性格が変わってしまった。

 

 学校に行かなくなり、成績は落ち込んだ。人と話すことが極端に減り、話す内容も稚拙で中身のないことや、感情を爆発させるようなことが増えた。わがままが多くなり、私がいないと何もできない人間になってしまった。半身不随なのだ、もちろん少なからず誰かのサポートが必要だろう。でもそれ以上に精神的に、姉は私に依存するようになった。

 

 でも、そもそもの原因は、私だ。

 9年前、東京ディズニーランドから病院に行くタクシーの中で、私は自分を責めて泣き続けた。私が吹奏楽を始めたりしなかったら。関東大会に出場しなかったら。両親と姉がわざわざ鑑賞に来なかったら。あの事故は起きなかったのだ。姉は今でも健常者で、両親がこの世を去ることもなかったのだ。

 姉の依存は、重い。身体的にも精神的にも負担がかかる。それでも、私が姉を支える義務が、そして使命がある。

 

 東京ディズニーランドは9年前と大きく変わった部分もあるが、所々で同じ景色を見せてくれていた。それはつまり、9年前のあの事故と電話を、いやでも思い出させていた。友人と遊んで楽しかったきらきらと輝く瞬間、それが一瞬で恐怖と不安に変わったあの電話。私は少し身震いして、呼吸を整えた。

 東京ディズニーランドのアトラクションは比較的バリアフリー化が進んでおり、かなり多くのアトラクションを脚の動かない姉でも体験することができた。身体障がい者やサポートが必要なゲスト向けに「インフォメーションブック」という冊子が用意されており、それぞれのアトラクションの利用基準が記されていた。

 

「あ、あれ行きたい」

 

 イッツ・ア・スモールワールドを出て、ファンタジーランドをゆっくり歩いていると、姉がとあるアトラクションを指差した。私は心臓がギュッと掴まれるような衝撃が走って鼓動が早くなるのがわかった。「ピーター・パン空の旅」だ。私は深呼吸を繰り返し、動揺が気づかれないようにインフォメーションブックに目を落とした。「ピーター・パン空の旅」の項目に『自力歩行が必要』の文字を見つけて、ほっと一息つく。

 

「あれはまた今度だね。もっと楽しいのがあるよ」

「う。でも行きたい」

「うん。お姉ちゃんピーター・パン好きだもんね。じゃあピーター・パンのグッズ、何か探そうか」

 

 姉が癇癪を起こさないよう「ダメ」という言葉を使わないように配慮しながら、なるべく姉の注意をそらす。たまたま入ったショップでキャストにピーター・パンのグッズがあるかと尋ねると、ついでに「ミッキーのフィルハー・マジック」というアトラクションにピーター・パンのシーンがあることも教えてくれた。シアター形式なので、車椅子からの乗り換えも必要なく、楽に姉のピーター・パン欲を満たすことができた。

 そういえば、私自身も9年前、「ピーター・パン空の旅」に乗れずに終わっているんだな、ということを思い出した。きっと、もう2度と乗れないだろうな、とも。

 そもそも、私が「東京ディズニーランドに来る」という事自体、かなりの葛藤があった。私自身トラウマを抱えながら、身体の不自由な姉を気遣いながら、楽しめる気が全くしなかった。

 

 今年の7月頃のことだった。ある日私が仕事から帰ると、姉は朝8時のニュース番組を観ていた。私の仕事はいわゆる「ガールズバー」というやつで、夕方に出勤して男性客と会話をしてしこたまお酒を飲ませて朝方に帰宅する。私が成人するまでは祖母が頻繁に家に来て姉の介護をしてくれていたが、今は私が働きながら世話をしている。

 

「おかえり」

「ただいま。ちゃんと規則正しく起きて偉いね。パンツ替えよっか」

 

 姉は頷いて、自分でベッドの上にオムツ替えシートを広げ、器用にベッドの上に横になった。半身不随のため、排泄の感覚がなく基本は垂れ流しになっているため、姉はオムツを履いている。帰宅後、仮眠を取るまでの間にオムツ替えをしてあげるのは私の役目だ。

 

「CMのあとは、あの人気お笑い芸人とディズニー大好きアイドルが東京ディズニーリゾートの最新情報をお伝えします!通ならではの楽しみ方と今だからこそ楽しめるポイントを一挙公開!お見逃しなく!」

 

 テレビは報道からワイドショー的な内容に切り替わっていた。私はテレビを消そうとするが、姉がその手を制止する。

 

「愛ちゃん、私これ観たい」

 

 私は仕方なくチャンネルをそのままにした。CMが明けると東京ディズニーリゾート 特集が始まる。ディズニーにやたらと詳しい人気男性アイドルが進行をつとめ、事あるごとにお笑い芸人がボケを披露する。姉はお笑い芸人のボケに反応して、珍しく声を出して笑っていた。

 

「ディズニーランド行ってみたい」

 

 ぽつり、と姉が呟いた。私は動揺を隠しながら汚れたオムツを黒い消臭ビニール袋へと入れる。

 

「行ったことあるよね。私が生まれる前」

「2歳の頃のこととか覚えてないよ」

 

 そりゃそうだ。と思いながら、私はこの危機をどう乗り越えようか考えあぐねていた。ニュース番組のディズニー特集が終わると、姉はHDDを起動し、録画した昼の情報番組を再生した。こちらにも、先ほどのディズニー通男性アイドルが映っている。

 

「昨日、この時間寝てたでしょ。録っておいたよ」

「ありがとう。頼んでないけど」

「ねぇねぇ。ディズニーランド行こう?」

 

 オムツを替え終わった私は台所で手を洗った。シンクに向かってため息をついた後、姉の方に向き合って、尋ねる。

 

「ちょっと先でもいい?9月とか。今仕事が忙しい時期だから休み取れなくて」

 

 姉は久々に嬉しそうな顔を見せ、うんうん頷いた。

 私は口元だけにっこり微笑んで、インスタグラムで高校の同級生にメッセージを送る。

 

『瑠奈ちゃん、久しぶり。まだディズニーで働いてる?うちのお姉ちゃんが行きたいって言ってるんだけど、今ってチケットってどうやって取るのかな?』

 

 私は顔を上げて、ちょっと目を閉じた。とりあえず今日は今から昼まで寝よう。そして、明日考えよう。

 すべては、姉のためだ。

 

 

 そうしてこうして、私たちは今東京ディズニーランドにいる。姉は初めての東京ディズニーランドを満喫していた。車椅子のゲストが待ち列に並ぶことなく、待ち時間を他の場所で過ごすことができるようなサービスもあるにはあったが、姉は待ち列のプロップスを見て回りたいのだ、どうせ待つ時間は変わらないのだからと言い張って、そのサービスを使うことは拒否した。

 カントリーベア・シアターでは絶妙にリズムを狂わせながらも楽しそうに手拍子をしていた。元吹奏楽部の私としては、きちんと叩いて欲しかったけど。

 ホーンテッド・マンションでは、乗り場にたどり着くまでの部屋で、なにやらぶつぶつと呪文のような言葉をつぶやいている男性ゲストを見つけた。周囲の女性ゲストにクスクスと笑われている。連れがいる気配はない。彼もまた、精神に何かを抱えているのだろうか。姉は私の袖を引っ張り注意を引くと、耳を近づけるように言って囁いた。

 

「このセリフ、ここで流れてるんだよ。YouTubeで聞いたことある。すごいね、覚えてるんだね」

 

 というのも、パンデミックにより一時的にこの部屋は素通りする仕様に変わっているが、本来ゲストはこの部屋に閉じ込められて、このアトラクションのストーリーを補足するショーを見ることになっているらしい。彼がつぶやいていたのは、その時のナレーションだそうだ。

 発達障害を抱えている人は、複数のことを同時に処理するのは得意ではなくても、何かを丸暗記する事だったり、単純作業を猛スピードでこなすことだったりは得意であると聞いたことがある。彼が発達障害の類であるかどうかは私にはわからないけど。あの女性グループのように「変な人だ」と決めつけてクスクス笑うのではなく、姉のように「すごい」と評価できるようになるのは大切かもしれないと思った。人は見かけだけではわからない。ライドに乗り、動き出すと、姉はいちいち「ひゃあ」と声を上げながらも、身を乗り出すようにゴースト達を眺めており楽しそうだった。

 カリブの海賊では最初のドロップの存在を知らずに大きな悲鳴をあげ、後半はずっと私にしがみついていた。そのせいか、姉はカリブの海賊を出た後は急にテンションが落ち込み、黙るようになった。

 

「どうしたの?」

「なんでもない」

 

 一応、利用制限としてはビッグサンダー・マウンテン以外の絶叫系は、車椅子のゲストでも乗り換えができれば可能となっているけど、この様子だと無理だろうなと私は思った。あのたった1回のドロップでこの表情なのだから、スプラッシュ・マウンテンに乗ったら死んでしまうかもしれない。

 

 14時ごろになると、お腹もすいてきたので、周辺で空いているレストランを探した。奥まったところにあって、2階席があり比較的空いていたキャンプ・ウッドチャック・キッチンというレストランでお昼ご飯を食べてたら、なんとそこでばったり姉のケースワーカーに出会ってしまった。

 

「川島さん?」

 

 私は明らかに気まずそうな顔をした担当ケースワーカーに声をかける。気まずいのはこっちだ。川島さんは高身長で黒髪の、優しいけどちょっと暗く見えるケースワーカーだ。親身になって話を聞いてくれるが、仕事として折れることができない部分は絶対に折れない芯の強いところがある人だった。

 

「この、今日遊びに来たのは、たまたま友人からチケットをもらって。本当に贅沢はしていないので……」

 

 余計な一言だったかもしれない。チケットを取るのに友人の助けは借りたが、お金は私の給料から出した。だからこれは嘘だ。生活保護をもらっていながらディズニーランドに遊びにきていることを咎められるかと思ったが、そんなことはなかった。

 川島さんはノアさんという、川島さんよりももっと背の高い、白人男性と一緒に遊びに来ていた。後々わかったことだが、彼らはなんと同性ながらも交際中で、私たちはディズニーランドで川島さんが彼にプロポーズし、結ばれるところを目撃することとなった。

 

 川島さん、ノアさんのカップルと別れた後の姉は、カリブの海賊で落ち込んだ気持ちもずいぶん回復したようで、上機嫌だった。ノアさんにプリンセスのような扱いを受けてお姫様抱っこしてもらい、さらには目の前で素敵なプロポーズを見せられ、確かに私も自分がドラマの中にいるような気持ちになっていた。

 

「ノアさん、すごく格好よかった」

 

 トゥーン・タウンにあるベンチで休憩していると、姉は繰り返しそう言っていた。私も本当にね、と相槌を打つ。ベンチから立ち上がり、周囲をキョロキョロと見回し、トイレを探す。

 

「ちょっとトイレ行きたい」

 

 私はそう言って、姉を連れてトイレ前まで移動した。ここで待っててね、と言ってから、姉を置いて女性用トイレに入る。女性トイレの入り口前にはやたらとボインな女性アニメキャラクターの看板が出ていた。ディズニーにもこんなキャラクターがいるんだな。個室に入って、ほっと溜息をついた。何だか色んなことが起こる日だと思った。用を足し、メイクを直し、トイレを出る。

 

「お姉ちゃん?」

 

 姉が居なくなっていた。トゥーン・タウンは色々なギミックのある公園のような場所になっているので、そこらへんで遊んでいるのかと思ったが、見当たらない。ショップにも行ってみたが姿はなかった。「ロジャー・ラビットのカートゥーン・スピン」というアトラクションのキャストに聞いてみると、基本的に車椅子のゲストは同伴者がいない場合、乗車を断っているそうで、アトラクションには居なさそうだ。迷子センターは基本的に小学生以下が対象ではあるが、サポートが必要なゲストに関してはその限りではないということだったので、キャストが迷子センターとセキュリティに連絡してくれた。

 

「すみません、園内放送とかはできないんですが、私たち無線で連絡を取り合っているので、きっと見つかりますよ」

「ご迷惑をおかけします。すみません」

 

 私は、川島さんにも念のため連絡を入れた。キャストには特徴こそ伝えているが、川島さんは姉をよく知ってくれている。助けになるかもしれない。なかなか繋がらなかったが、ちょうど今スプラッシュ・マウンテンを乗り終わった後で、折り返し連絡をくれた。川島さんがクリッター・カントリー、ファンタジーランド、ウエスタンランド周辺。私がトゥーンタウン、ニュー・ファンタジーランド、トゥモローランド周辺を探すことになった。そんなに長い時間トイレにいたわけではないので、アドベンチャーランドまで行けるとは思わない。誰かに車椅子を押されて連れて行かれていたら、別だけど。

 

 本当に、色んなことが起こる日だ。

 

 15分後、川島さんから連絡が来た。

 

「優さん居ましたよ。ファンタジーランドです。ちょっと元気なさそうだけど」

「すみません、ご迷惑を……今すぐ行きます」

「はい。だけど、彼女、ホーンテッド・マンションに行きたいって言ってるので、今から3人で並びます。愛さん、気が気じゃなかったでしょう。心を落ち着けてゆっくり来てください」

「そんな……ありがとうございます」

 

 川島さんの声は非常に落ち着いていて、私の心も少しは休まった。

 一体何だったんだ。なんで迷子なんかに。

 私は近くのキャストを捕まえ、姉が見つかったことを迷子センターとセキュリティに伝えてもらうように依頼した。その直後、どっと疲れが押し寄せて、近くのベンチに座る。

 

 生きててよかった。

 

 涙が大量に溢れ出すのがわかった。私は少し咳き込む。

 まさか。ただ迷子になっただけだ。それでも、私にとっては唯一の家族で、姉だ。離れ離れになる不安が、今更ながら押し寄せた。生きててよかった。生きててよかった。

 

 子供の頃、まだ両親が元気だった頃のことを思い出した。まだ4歳くらいの頃だろうか。実家から少し離れたところにある巨大なショッピングモールに家族みんなで行って、私が迷子になった。私は迷子になりながらも、ショッピングモールの様々なお店を大冒険する気持ちで楽しみ、喜び、笑っていた。迷子センターに保護され、両親と姉と再会した時、私はニコニコ顔だったが、当時7歳だった姉は私が迷子になったことを心配してずっと号泣していた。そんなこともあったな。仕返しを食らったのかもしれない。

 

 私はゆっくりと立ち上がって深呼吸をした。鼻をすすり、涙を拭いた。髪をかきあげると、朝購入したシルバーのカチューシャがなくなっていることに気づいた。

 もういい。きっと縁がなかったのだ。

 私と東京ディズニーランドは、おそらく大変相性が悪くて、私が愛そうとしても、ディズニーランドが私を受け入れようとしても、どこかで躓いてしまって、うまくいかないのだ。きっとこういう運命の巡り合わせの元にいるのだ。

 姉と合流したら、もう帰ることにしよう。今日は朝からよく遊んだし、明日からはまた仕事が始まる。

 

 ファンタジーランドへ向かうと、あたりは暗くなり始めて照明がつき始めていた。それはさながらイルミネーションのようで、美しくはあるが、足元を照らすにはいささか物足りない。ふと顔を上げると、またしても私は「ピーター・パン空の旅」の目の前にいた。

 私はもう2度と東京ディズニーランドには来ないかもしれない。今後彼氏ができても、結婚して子供ができても。

 夢を見ることの大切さを説くのであれば、現実世界の悪夢にもきちんと向き合わなくては、それはただの現実逃避だ。

 死んだ人は帰って来ないし、脚を失った姉はもう2度と自分の脚で歩くことができない。自分の意思で排泄することすらもかなわない。

 それら現実をうやむやにして、夢に浸るというには、ディズニーランドの力は私には弱すぎる。

 

「並んでますか?」

 

 ぼーっと「ピーター・パン空の旅」の看板を眺めていたら、女子高生グループに声をかけられた。思わず、あっはいと答えてしまい、列に並んでしまった。

 

 どうしよう。

 

 私は深呼吸をした。吊り下げ式の海賊船のようなライドが目の前に迫る。キャストの「何名様ですか?」という言葉に人差し指1本で答える。今にも携帯が鳴り出さないか、心臓はバクバクと高い鼓動を打っていた。ベルトコンベアでライドのところまで運ばれる。ライドに座り、安全バーが下ろされると、眩暈に襲われるような感覚に陥ったけど、大きく深呼吸して堪えた。物語がスタートする。

 

 子供部屋からロンドン市街の夜景へ、そしてネバーランドへ。想像していた10倍は美しい光景が広がっていた。吊り下げられることで、本当に空を飛んでいる感覚になる。「君もとべるよ」の聞き覚えのあるメロディが流れている。「ピーター・パン」の映画を大胆なダイジェストで切り取り、ライドは元いた入り口に戻って来た。

 

 あっけない。これが私が9年間呪い続けてきたアトラクションか。

 

 凶悪さもなければ、どんでん返しもクライマックスもない。ただただキャラクターの可愛らしさと、照明演出の美しさだけが際立つアトラクションだった。心の中で、私に地獄のような現実を引き寄せた、諸悪の根源のように思い込んでいた私が馬鹿馬鹿しくなった。

 ぼーっとしていたらキャストに降車を急かされてしまった。

 

 ふしぎの国のアリスのレストランの入り口付近で、私は川島さん、ノアさん、そして迷子になっていた姉と落ち合った。

 姉は、その昔迷子になった私と同じようにニコニコしている。

 

「ノアさんと遊んでもらえてよかったね」

「優さん、ホーンテッド・マンションとっても楽しそうでした」

 

 ノアさんが言う。ノアさんは声を低くして、ホーンテッド・マンションのテーマ曲を歌い出した。姉がきゃっきゃと笑う。

 

「ご迷惑おかけしました」

 

 私は川島さんに言う。川島さんはみんなに聞こえないように言った。

 

「お手洗いを待ってる間に、何かあったみたいですね。すごくショックを受けていたので。ノアの顔を見たら、ちょっと元気出てましたけど」

 

 ありがとうございます、と頭を下げ、私はかがんで姉の手を握り、目を見ながら問いかける。

 

「おねえちゃん、大丈夫?」

「うん?うん」

 

 私は姉が何かキラキラしているものを小脇に抱えていることに気づいた。

 

「あっ、カチューシャ」

「愛ちゃん、トイレ行く前に私に渡したよ」

「あ、えっ、そうだったっけ」

 

 失くしたと思い込んでいたが勘違いだったらしい。よくよく思い返すと、確かに姉に持っててと渡したような気もする。

 

「いろいろ迷惑かけてごめん。頑張って準備してくれてありがとう。今日は楽しかった」

 

 姉はそう言ってにっこり笑った。私もつられて微笑んだ。私はシルバーのカチューシャをつけ、川島さんとノアさんにお礼を言って、車椅子を押しながらエントランスへ向かった。

 失くしたと思ったカチューシャも戻ってきた。居なくなったと思った姉も帰ってきた。

 もちろん、帰って来ない人たちもいるかもしれない。でもそれはディズニーランドのせいではない。私のせいでもない。私と東京ディズニーランドは、相性が悪い。でも、もしかしたら、それはただの考え過ぎかも。現実の悪夢には、甘い甘い夢の世界は太刀打ちできないけど、本来それが当然だ。私は、ディズニーランドに何もかも背負わせすぎた。私自身も、残酷な運命を背負いすぎた。

 

 今日一人で乗った「ピーター・パン空の旅」で、私と東京ディズニーランドは和解した。凝り固まった私の9年間呪いは、あのあっけない3分間であっさりと、解かれた。

 

 問題を全てを解決するための夢じゃない。忘れさせるための夢じゃない。辛く残酷な現実に、向き合うための活力としての夢。息抜きとしての夢。

 

 暗くなり、照明のせいで弱々しく光る浦安の星空を見つめながら私は口ずさんだ。

 

 考えてみよう、楽しいことを。

 

 

 

 

 

第5話「バッド・ドリーム・レクイエム」おわり

Chapter 5 - Requiem For The Bad Dream

 

***

 

肯定的にであれ、否定的にであれ、

ディズニーランドがすべての現実を救ってくれる

(そうあるべき)と思っている人は苦手です。

重たい話ですみません。

 

 

次回予告

第6話「君との時間に憧れて」

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東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』

【東京ディズニーランド小説】第4話「熊劇場神話体系」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

 こちらの小説は作品投稿サイト NOVEL DAYS でもお読みいただけます。

 

***

 

 ロビー。総勢18頭の熊たちのポートレートと、彼らの愛らしい小物や栄光の歴史が並ぶ部屋。建物は木製で、古き良き南部アメリカ開拓時代の趣。それでいて、最先端の空調設備が9月の厳しい残暑を和らげてくれており心地よく、多少のアンバランスさには目を瞑ろうと思わせる。

 僕は屋内のベンチに腰掛けて初回の開演を待つ。時刻は正午を5分ほど過ぎた頃。ゲストは僕と、赤ん坊を連れた若い夫婦しかいない。キャストが注意事項を告げるとシアターのドアが開き、会場への案内が始まった。

 

 カントリーベア・シアター。それが僕の、1番好きなアトラクションだ。

 そして僕はいわゆる、「カンベアオタク」というやつだ。

 

 年間パスポートを持っていた時は、仕事終わりに毎日のように東京ディズニーランドへ足を運んでいた。

 未曾有の新型ウイルスのパンデミックによる、パークの休園、そして年間パスポートの廃止。数量を制限された1デーパスの販売や、僕自身の仕事の量の減少による収入不安などもあり、パークは行くのはなかなか困難になっていった。年間パスポート所有者向けの、実質無料の抽選入園などもあったが、僕はことごとく落選し、湧き上がる当選した同類たちを羨望の目で見ていた。年間パスポートも払い戻しがされたが、残存期間も少なかった為に、日割り計算された払い戻し額は大した金額にはならなかった。

 パークを、そしてこのアトラクション、歌い踊る熊たちを心の拠り所としていた僕には、辛くもどかしい日々が続いていた。

 

 本日、実に1年半ぶりに、僕はパークへと帰ってきた。そしてここ、カントリーベア・シアターに。

 この日の初回公演のゲストは僕と、先ほどの親子ら、そして呼び込みの成果か、ちらほらと数組がシアター内へと入ってきた。僕の斜め後ろあたりに、ペアルックで少々ケバい雰囲気のカップルが陣取る。

 

「これどういうアトラクション?」

「なんか歌うやつだよ、ミッキーとかミニーとかのロボットがいっぱい出てくるやつ、多分。めっちゃ古いやつ」

 

 まことに残念ながら、ミッキーもミニーも出てこない。おそらく、かつてファンタジーランドに存在していた「ミッキー・マウス・レビュー」と混同している。ミッキーやミニーというネームバリューによって上がった期待値に、僕の大好きな熊たちは果たして応えることができるだろうか。

 

「それでは、カントリーミュージックのリズムに合わせて、手拍子・足拍子をご一緒に!どうぞごゆっくりとお楽しみください!」

 

 キャストがショーの始まりを告げる。時刻は正午を15分過ぎたところ。僕の本当の1日の始まりだ。

 

 客電が落ち、スポットライトが壁の、とある部分を照らす。巨大な生きた剥製たち、マックス・バフ・メルビンの3頭がライトに照らされ、開演待ちの悪態をつきはじめると、突然赤子の泣き叫ぶ声が聞こえた。先ほどロビーで共に開演を待っていた若い夫婦の子供だ。

 記念すべき1年半ぶりのカントリーベアたちとの再会公演が、ゲストの子どもの泣き声により台無しになってしまったことを、ヤレヤレと思わないこともない。ないが、こんなタイミングで我が子が泣き出してしまった子育て夫婦への同情心もあるし、オタクとしての弁えもある。ここはひとつ、おおらかな気持ちで受け入れるべきだと悟った。観客席は真っ暗。当人たちにはいっさい気付かれないだろうと、わかってはいても、彼らの申し訳ない気持ちを少しは和らげてあげたいと思った僕は、満面の笑みで若い夫婦の方を見る。夫婦はバタバタとキャストに声をかけシアターを後にした。気づけばヘンリーも、ゴーマーも、ファイブ・ベア・ラグズも登場していた。しまった、登場シーンを見逃してしまった。次こそは。

 

 初回公演を終え、僕は再びカントリーベアシアターのロビーに居た。すぐ次回公演が始まるわけではないと分かっていつつも、久々にカンベアのエネルギーを浴びて、そして不完全燃焼に終わった初回公演を経て、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。どこかに寄り道している場合ではない。あの建物を、あの空間を、空気感をいち早く堪能したい。先ほどとまったく同じロビーのベンチで深く深呼吸をする。

 

「あら!またお会いしましたね!」

 

 女性キャストが微笑みかけてくれる。常連のオタクにもやさしい、眩しい笑顔だ。恋に落ちそうなくらいの気さくさで声をかけてくれるが、僕はオタクだから弁えている。彼女はお仕事を全力でしているだけだ。決して僕に気があるわけではない。ないんだってば。

 そんなことを考えながら、返事をしようとしたらフニャッとした変な声が出てしまった。顔が引き攣ったのもバレたと思う。

 

「あの、えっと。1年半ぶりなんです。それまで年パで」

「あら!それは特別ですね!満足いくまでいっぱい観てあげてください!ヘンリーたちもきっと喜んでますよ!」

 

 初めて会うキャストだった。いやらしく感じられないように配慮しながら、さりげなく名札に目をやる。

 

 KUMAGAI

 

「あっ、えっ、熊谷さんって名前なんですか?」

「はい!熊谷です!ベア・バレーで熊谷です!この劇場にぴったりでしょう?」

「あ、あの。すごいです!僕あの、カンベア超好きで」

「伝わってますよ〜〜!2回連続ですもん」

 

 この感覚、久しぶりだ。新型ウィルスの感染症が流行する以前、年間パスポートで通いつめていた時も、僕は一人でTDLにインパークしていた。だから、他のゲストとのコミュニケーションは全くと言っていいほどなく、こういう風にキャストが話しかけてくれることで、パークでも言葉を発することができていた。いわゆる「ぼっちイン」は、レストランなどを使用しなければ、1日言葉を発さずに終わることだってある。

 思い入れのある場所で、そこで働く人と他愛のない話をする。その瞬間の心の豊かさは何にも代え難い。日常を忘れ、日々の業務と上司からの怒声を忘れるひととき。そしてその共有。もちろん、絶叫系コースターアトラクションで叫ぶのも好きだ。それでもこのゆったりとした空間の暖かさとキャストとのコミュニケーションは、どのアトラクションでも味わえるわけではない。

 

 シアターの扉が開き、案内が始まる。今回も、シアター案内時点でのゲストは僕とその他1組。めちゃくちゃガタイのいい黒人男性とセクシーなへそ出しの日本人女性カップルだった。

 僕は一眼レフの準備をする。1回目はしっかりと目に焼き付けたかったので、カメラは使わなかった。フラッシュライトや液晶は厳禁なので、光らないように設定を行う。念には念を、ということで液晶には手製のカバーをかけた。

 本来9月のこの時期はカントリーベア・シアターの夏季バージョン「バケーション・ジャンボリー」が開催されていた時期だ。それが休園を経て、季節公演が復活しないまま現在に至っている。僕個人としては、1年半ぶりの再会であるからして、見慣れたスタンダードなバージョンでも全く文句はないし、ここから僕のカンベアオタク活動を再会できたのは嬉しくもある。

 

「それでは、カントリーミュージックのリズムに合わせて、手拍子・足拍子をご一緒に!どうぞごゆっくりとお楽しみください!」

 

 結局この回は全然ゲストが入らず、僕ら2組だけだった。ショーが始まり、手拍子の鳴り響く中、僕は順調にシャッターを押していく。バフ、マックス、メルビン、ヘンリー、ゴーマー、ジグ、テッド、フレッド、テネシー、オスカー、ウェンデル、またヘンリー、リバーリップス、またウェンデル、そしてヘンリー、トリキシー。

 ふと写真を撮りながら気づいてしまったことがあり、シャッターを押す手が止まる。ファインダーから目を離し、ステージ上の熊たちを凝視する。テッドが動いていない。

 テッドはファイブ・ベア・ラグズの空き瓶吹きの担当だ。バンドメンバーの中でも後列にいるし、空き瓶吹きというキャラクターの性質上、動いていなくてもあまり目立たない。「ベア・バンド・セレナーデ」の時は確かに動いていたし「Pretty Little Devilish Mary」で突然起きた不具合なのだろう。僕はきょろきょろと周りを見渡し、誰か気づいていないか、キャストが止めに入らないか確認するが、キャストも気づいている様子はなかった。ゲストは僕以外にオタクとは思えないカップル1組。気づいているとは思えない。

 そうこうしているうちにシェイカーの出番になっていた。呆然とした気持ちでステージを見つめる。テッド以外はしっかり動いていたし、ショーは何事もなかったかのように平常運転で続けられていった。アーネストの登場まで待つ、そこで何が起きるか。

 ヴァイオリン弾きのアーネストが現れ「If Ya Can't Bite, Don't Growl」の演奏が始まる。ファイブ・ベア・ラグズも再び登場する。僕はテッドに釘付けになった。

 

 動いている。

 

 ショーが終わり、僕はまたロビーのベンチで呆然としていた。あれは一体、何だったんだろう。僕だけが見た幻だったのだろうか。

 

「3回目!楽しんでくれてますね!」

 

 キャストの熊谷さんにまたもや声をかけられる。突然すぎて返事ができないでいると、心配そうな顔をした。

 

「大丈夫ですか?何かありました?」

「あ、いや、何でも……多分勘違いかな」

「シアター内、今から消毒作業に入りますので、ちょっと長い時間20分くらいお待ちいただきますね」

 

 そう言うと、熊谷さんは僕から離れて、眠っている小さな女の子を抱きかかえた母親ゲストの元へ駆け寄ってなにやら声をかけていた。ロビーの外では音楽が鳴り響き、今年の春にやっと復活したパレード「ドリーミング・アップ!」がスタートしていた。

 キャラクターの動きがフリーズしている不具合は、これまで何度もカンベアに足を運んできたけど、生まれて初めての体験だった。結局先ほどの回は途中までしか写真も撮れていない。くそう、次こそは。

 

 3回目はパレード終了直後という事もあって賑わっていた。めちゃくちゃ混雑しているというわけでもないが、ここはひとつワンデーにいい席を譲るのがオタクとしての弁えだと思い、比較的端っこの席に座っていると、ちょうど車椅子エリアの真横だったようで、隣に車椅子の女性ゲストがやってきてその姉妹らしい女性が座った。

 

「それでは、カントリーミュージックのリズムに合わせて、手拍子・足拍子をご一緒に!どうぞごゆっくりとお楽しみください!」

 

 客電が落ちる。果たして、テッドはしっかりと動いてくれているのだろうか。音楽が鳴り、手拍子が始まる。ゲストが多く入っている分、先ほどよりも迫力がある。すぐ近くの車椅子の女性が、思いっきりズレたテンポで手拍子しているのが少し気になるが、何度も言う。僕は、弁えている。

 

 そして3回目で確信した。やはりテッドは動いていない。しかも「Pretty Little Devilish Mary」のシーンだけで。僕はもう写真を撮るということも忘れ、3回も立て続けに観ながらも、一度として完璧な形で観ることができていないこの状態を恨んだ。

 

「ハウディー!4回目のご来場ありがとうございます!」

「テッド動いてないです」

「え?」

 

 3回目の後、ロビーに入るやいなや熊谷さんを見つけて声をかけた。我ながら、鬼の形相だったと思う。

 

「「Pretty Little Devilish Mary」のシーンで、テッドだけ動いてないです、他の熊たちは動いてるけど、テッドだけ。他の曲ではちゃんと動いてるけど」

 

 熊谷さんはきちんと、真面目な表情でうんうん頷きながら僕の話を聞いてくれた。

 

「さっきの回ですか?」

「2回目も、3回目も。1回目はわからなかったけど、多分動いてたと思います」

「上長に確認してきますね」

 

 熊谷さんはそう言って姿を消した。僕はそわそわとロビーで熊たちのポートレートを眺めたりしていた。もうシアターへの案内は始まっている。開始はすぐだ。

 

 熊谷さんが戻ってくると、ちょっと困ったような顔で微笑みかけてくれた。

 

「テッドの様子見もかねて、次のショーは開催されます。もし私たちがテッドの異変に気づいたら、次のショーはベアバンドたち休憩に入るかもしれないです」

 

 熊谷さんは故障とも、動作不良とも、メンテナンスとも言わず、彼らが生きたキャラクターであることを尊重した上で的確に話してくれた。僕はうん、と頷いて、もごもごと「ありがとうございます」と言って、シアターに入った。

 

「それでは、カントリーミュージックのリズムに合わせて、手拍子・足拍子をご一緒に!どうぞごゆっくりとお楽しみください……」

 

 

 

 5回目以降のショーは一時的に中止となり、カントリーベア・シアターはシステム調整に入った。シアターの最終ショーは18時。果たしてそれまでに復帰できるのか。

 僕はチャイナボイジャーで注文したブラックペッパーポーク麺を汁まで飲み干して空を見上げていた。愛するベアバンドたちとの、記念すべき再会。だったはずなのに。

 大きくため息をつく。お腹がまだ膨れていない。豚角煮ライスを追加しておくべきだった。ふと目を閉じると、熊谷さんの笑顔が浮かんだ。素敵な人だったな、オタクにも、あんなに優しくて……。

 

「さっきのオタク、ヤバなかった?」

 

 女子高生らしき制服の4人組が近くの席に座った。いや、顔はしっかりとメイクが施され、本当に女子高生なのかは怪しい。よく見ると制服もバラバラだった。

 

「ああ、ホーンテッドマンションの時のん?」

「めっちゃ一人でぶつぶつ呟いてたよな」

「なんか、諸君の目の錯覚なのかとかどうたら!」

「きゃはははは!」

 

 エセ女子高生たちは関西弁で喋りながら、カバンの中から舞浜駅前のNEWDAYSで買ったらしいおにぎりを取り出して貪った。ルール違反。これはオタクとして、パークを愛する者として、注意すべき案件だ。

 

「ほんま、あたしひとりでディズニーくる奴マジで信じられへんねんけど」

「意外とおるからビビるよなー」

 

 オタクへの偏見、差別、暴言。もう、慣れっこだ。

 どれだけこちらが弁えて、慎ましやかに行動しようとも、こういう輩には僕らの配慮や、熱意なんてのは全く通用しない。彼女たちにだって、何か周りが見えなくなるほど熱中できるものがあるはずなのに。……いや、ないのかも。

 だがどんなに僕のようなオタクを貶そうとも、僕は君たちがTDRのルールに違反しているという「弱み」を握っている。僕の方が、優位にいる。

 

「めっちゃ空いとるし、もう乗りたいのん全部乗れたな」

「いえーい、ディズニー制覇〜〜」

「これ行ってへんで、カントリーベア・シアター」

 

 エセ女子高生の一人がスマホのアプリを指差しながら言う。マジで来なくていい。マジで来なくていいから。いや、どうせ今は休止中だけど。

 

「それ、多分昔行ったことある、寝てて覚えてへんけど」

「つまらんよなー!」

「お客さんほとんどおらんやろ?これ無くしてもっと面白いの作ったらええのに」

「なぁ、もっかいスペース・マウンテンいこー」

「ええやん、いこいこ」

 

 カンベアがつまらない?何を言ってるんだ?やるか?

 おにぎりを食べ終わった彼女たちは、トレーもそのままに、立ち上がった。おにぎりのゴミを隠す様子もない。怒りをあらわにするなら、今だ。

 

「椅子、重っ!!」

「キャハハ!思ってた100倍重かった」

 

 彼女たちが立ち去ろうとする。今だ、さぁ行け。

 

「あの!!お姉さんたち!」

 

 エセ女子高生4人組が振り返る。声が裏返っていたかもしれない。

 

「あの、カチューシャ忘れてますよ!!」

 

 

 彼女たちを注意するようなことは何も会えなかった。結局、オタクは慎ましやかに生きるしかないのだ。リア充様に歯向かおうなんて考えないほうがいい。すべきなのはせいぜい、忘れ物のカチューシャに気づかせて、ぼっちオタもたまには役に立つのだということを示して、彼らの潜在意識を変えるということくらいだ。僕みたいなのは、世の中のはみ出し者なのだから。

 

「つまらない」

 

 さきほどのエセ女子高生の言葉が、胸に刺さる。

 僕個人の意見だが、一般的にテーマパークのアトラクションの主力はどうしても絶叫系になってしまうと思う。仕方のないことだ。東京ディズニーランドならば、スペース・マウンテン、ビッグサンダー・マウンテン、そしてスプラッシュ・マウンテン。人によるが、スターツアーズなんかのシュミレーションライドもそれに含まれるかもしれない。

 次点はディズニーならではのダークライド。美女と野獣 魔法のものがたり、カリブの海賊、ホーンテッド・マンション、イッツ・ア・スモールワールド、プーさんのハニーハント、ピーター・パン空の旅、モンスターズ・インク:ライド・アンド・ゴー・シーク、ロジャー・ラビットのカートゥーン・スピン。

 僕の大好きなカントリーベア・シアターはそのどちらでもない、シアター形式のアトラクションである。

 シアターアトラクションの演者は、映像、もしくは制御されたロボット。つまりはオーディオアニマトロニクスだ。ライブキャラクターやダンサーが活躍する、大人気のシアターショーとは異なる。そして、同じシアターアトラクションでも、フィルハーマジックにはミッキー・マウスらが、スティッチ・エンカウンターと魅惑のチキルームにはスティッチがといった、映画やアニメで人気のキャラクターが登場している。その一方で、カントリーベア・シアターに登場するキャラクターたちは、アトラクションオリジナルの熊たちだ。

 

 カントリーベア・シアターは確かに閑散としているかもしれない。ネームバリューもないかもしれない。それでも僕にとっては唯一無二のアトラクションであり、通い詰める価値のあるものだ。それを、奴らはわかっていないんだ。

 悔しい。好きなものを貶されて、悔しい。

 

 

「こんにちは。何名様ですか?」

 

 カンベアが休止し、腹ごしらえも終わり、やることのなくなった僕はうろうろとアトラクションを巡っていた。熊違いだけど、休業前ならばなかなかお目にかかれない30分待ちの「プーさんのハニーハント」で、僕はもう乗り場の寸前まで来ていた。指を一本だけ立てて、人数を示す。キャストだけは、ひとりでも嫌な顔をしない。

 

「足元3番でどうぞ!」

 

 3番。ハニーポットの前列。後ろにゲストが座るからちょっと居心地の悪い席だ。そう思っていたら、後ろの席もお一人様だった。白いブラウスにスカートの、中学生くらいに見える少女だった。

 

「もしよかったら、前と後ろ変わりますか?」

 

 年端もいかぬ女の子をおいて、自分が前をぶんどるのはいささか気が引けて、思わず声をかけてみた。女の子はニヤッと笑った。

 

「いいんですか、嬉しい」

「いいんですよ、いいんですよ」

「ん?RAD WIMPS?」

「!?!?……あ、いやそんなつもりはないです」

 

 なんか変な空気になってしまい、しまったという気持ちになった。けどこれは、僕が悪いんじゃないだろ。女の子はぺこりとお辞儀をして、なんと鼻歌でRAD WIMPSの「いいんですか」を歌い始めた。強い。

 

 ハニーポットがやって来て、乗り込む。ライドが動いている間じゅう、彼女は常に新鮮な驚きを声に出していた。うわぁ、きゃあ。そうやって楽しむ少女の姿は、なんだか初めて東京ディズニーランドを訪れた時の自分を思い出すようで、非常に眩しく見えた。最後の部屋でライドが停止する。巨大な絵本が置いてある部屋だ。本来はここで、開いている絵本が閉じる演出があるのだが、不具合が多く閉じたままで止まっていることが多い。今日もそうだった。ナレーションだけが流れ、ライドは再び動き出し、降り場へと向かう。すると、突然彼女は大きく拍手をした。

 

「お兄さん、席変わってくれてありがとう。これ初めて乗ったけど凄かった」

「あ、いえいえ」

 

 少女はぺこりと頭を下げて立ち去る。なんだかすごくいいことをした気分になった。昼間のエセ女子高生たちが忘れていったカチューシャを知らせた時には、微塵も感じなかったのに。

 あの子が観た「プーさんのハニーハント」は完璧なバージョンじゃない。でも、そんなことは知らず、おかまいなしに楽しかった気持ちを表現してくれた。その気持ちに嘘はない。

 僕は知り過ぎてしまっているんだ。だからこそ純粋な楽しみを忘れてしまっている。「つまらない」と言われて悔しかったくせに、「完璧」に固執して、今日はまだカンベアの公演を純粋に楽しんでいない。「完璧」がなんだっていうんだ。コンサートだぞ?ハプニングだって起きるさ。

 気がつくと時刻は17時すぎだった。アプリを確認すると、休止中だったカントリーベア・シアターが再開している。

 

「行ってみるか」

 

 暗くなりはじめたファンタジーランドを、僕は早足でウエスタンランドへと向かった。

 シアターのロビーにつくと、まだ熊谷さんがいた。僕を見つけて、にっこり微笑んでくれる。

 

「来てくれた!あのあと1時間くらいで再開したんですけど、戻って来られなかったので心配してたんです!」

「あ、マジすか」

 

 熊谷さんはまたにっこりと笑う。

 

「1年半ぶりですもん。完璧なショーが観たいですよね!」

 

 涙が出そうになるほど、僕の心は痺れた。来てくれた、だって。心配してくれた、だって。僕のことを。僕の会話を、1年半ぶりというところまで覚えていてくれていた。見透かされたように、僕の気持ちまで。

 

「私たちよりも早くテッドの不調に気づいてくれて、ありがとうございます!ベアバンドたち専属のお医者さんになってほしいくらいです」

「あ、いやぁ。でも僕、文系なんで工学とかさっぱりですし、えへ」

「工学?はて、どういうことかしら?」

 

 熊谷さんはとぼけた顔で言った。僕も思わず笑ってしまう。

 

 

 18時。本日の最終公演。ゲストは僕と、バカでかい高身長白人男性と同じくバカでかい日本人男性の2人組、4歳くらいの男の子を3人ほど連れた若いお母さんグループ、60〜70代くらいの白髪混じりのご夫婦、そして高校生カップル。計5組。やはりひとりで来ているのは僕だけだった。

 

「それでは、カントリーミュージックのリズムに合わせて、手拍子・足拍子をご一緒に!どうぞごゆっくりとお楽しみください!」

 

 ショーが始まる。バフが悪態をつく。ヘンリーが登場し、ゴーマーがピアノを弾き、「ベアバンドセレナーデ」が演奏される。

 手拍子は、小さな子供たちもいるから、ちぐはぐだ。それでもいい。子供達の笑い声が聞こえる。それでもいい。白人男性が興奮で「フォーッ!」と声をあげた。それにつられた高校生カップルの男の子も真似をする。子供達の笑い声が響く。

 「完璧」の定義は人それぞれで違うかもしれない。「楽しい」「面白い」の定義もそう。予想された通りに、予想された動きだけが完璧なのであれば、この盛り上がりや興奮ですらも否定することとなる。でも、違う。わからない人にはわからなくたっていい。こうやって観客で作る空気感だって、楽しめる一つの方法だろう。僕は「フォーッ」とか言えないけど、誰よりも的確に、大きな音で手拍子をしたいと思った。

 

 運命の「Pretty Little Devilish Mary」のシーンがやってくる。テッドが、ちゃんと動いている。その後も止まることはなく、きちんと動いてくれていた。

 

 シェーカーが腰を振る。バニー、バブルス、ビューラーがかわいいダンスを披露する。アーネストがヴァイオリンテクを見せる。天井からテディ・バラが美しい音色で歌い上げる。ビッグ・アルの間の抜けたギターの音が響く。ヘンリーとサミーが「デイビー・クロケット」を歌い出せば、ショーはクライマックスだ。

 

 コンサートが終わると、僕はめいっぱい拍手をした。他のゲストも一緒に拍手をしてくれた。馬鹿でかい白人男性は指笛を鳴らしていた。

 5回目にして僕は、やっと完璧なカントリーベア・ジャンボリーを堪能できた。いや、ここにいるゲストで作った、完璧以上のショーだった。

 

「今日は楽しめましたか?」

 

 帰り際に熊谷さんに声をかけられた。

 

「あ、おかげさまで。ありがとうございます。また来ます」

「当然ですよね!最後の回、すごく盛り上がりましたね。またテッドの様子も見に来てあげてください」

 

 そう言って、手を振って僕らは別れた。熊谷さんは先ほどの高身長白人男性ゲストに英語で話しかけている。「完璧」があるとすれば、彼女のような人を言うのかもしれないと僕は思った。

 

 僕はカンベアオタクだ。世の人が、なるべくいろんな種類のアトラクションに乗ろうと努力する中、僕はひとり延々と繰り返すカントリーミュージックのループへと身を埋める。予定調和の安心感に浸るため?それも一理あるかもしれない。だけど実際は、ショーは毎回異なるのだ。ベアバンドたちだけではなく、ゲストやキャスト共に作るものだから。ぼっちインの僕でも、ここに来れば誰かと繋がれる気がするから。ずっと観ているからこそ、違いを感じることもできるから。最高の1回を探し求めて、僕はループに飛び込んでいく。

 シアターを出ると目の前をナイトフォール・グロウのフロートが過ぎて行った。明日からまた現実に戻る。

 熊たちよ、また会う日まで。

 

 ほっ、と軽めのため息をつくと、ぐるぐると大きくお腹が鳴ってしまった。やっぱり豚角煮ライスを追加しておくべきだった。

 

 

第4話「熊劇場神話体系」おわり

Chapter 4 - The Coun'-Bear Galaxy

 

***

あとがき

弁えているつもりでも、弁えれていないこともあって、

それに自分に気づけた主人公は偉いと思うんです。

ついぞ出す機会がありませんでしたが

主人公の名前は光輝(こうき)という設定があります。

 

 

 

次回予告

第5話「バッド・ドリーム・レクイエム」

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カンベアドベント

あんなにラジオで「もう卒業した」って言ってたのにやるんかい!というツッコミ待ちでした。誰もツッコんでくれませんでした。ぴえん。

というわけでカンベアドベント14日目の記事でした。

今年も無事年を越せそうです。

ユーキャンさん( @yuucanium )ありがとうございます。

 

ラジオもまたやりたいですね。

adventar.org

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』

【東京ディズニーランド小説】第3話「世界はせまい、世界はおなじ」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

 こちらの小説は作品投稿サイト NOVEL DAYS でもお読みいただけます。

 

***

 

 9月某日。舞浜駅。1週間に渡り降り続いた雨がようやく上がり、昨日から夏を思い出したような、湿度の高い暑さと晴れがぶり返していた。まだ朝の10時だというのに太陽はすでに全力の照りつけを見せている。Tシャツの内側で、汗が背中を伝うのを感じる。サングラスをかけて、きょろきょろと辺りを見回していると背中に何かがぶつかる衝撃を感じた。

 

「うわっ、すいません」

 

 大学生くらいの男女グループの男の子がよそ見をしてぶつかって来たのだ。おれの顔を見てギョッとした表情を見せる。おれはやれやれという気持ちになって、できる限りの優しい声色で言った。

 

「気をつけてね」

 

 男の子は深くお辞儀をして、グループのみんなと走ってイクスピアリの方へ向かったが、後からギャハハと笑う声が聞こえた。おれはため息をつく。あと5分待って来なかったらベックスコーヒーで一服しよう、とお店の方を眺めていたら、視界の端にへそだしのイエローのトップスに白いカーディガンを羽織りジーンズを履いた女性が目に入った。足元はスニーカーだが、比較的底が厚く、身長175cmのおれとあまり変わらない背丈になっていた。茶色に染めた長い髪を風になびかせながら、颯爽とこちらに向かってくる。

 

「おっはよー、龍之介くん。ごめんね、乗り換え手間取っちゃって」

「おっす芹那ちゃん」

「ほんと、ディズニー久しぶりだわ。アトラクションとか、何が好き?」

「なんだろなー。スプラッシュ・マウンテンとか」

「なんだっけ?ああ、筏に乗って落ちるやつか。9月だけど、まだ全然暑いから昼間のうちならありかもね」

 

 おれたち二人はペデストリアンデッキを歩きながらディズニーランドの方面へ向かった。歴代のディズニー映画の楽曲が、BGMとなって流れているのが聞こえる。芹那はそれを鼻歌で口ずさんでいた。

 

「ふふふん、だいじな、ゲスト〜」

「シチューに!スフレー!プリンにー!ソルベ!」

「あはは!すご!めっちゃ覚えてるじゃん」

 

 芹那が中途半端に歌うのに合わせて、ちょっとおおげさに歌ってみたら、ウケたのでよかった。

 

 

 芹那と出会ったのは2ヶ月ほど前のことだ。おれの働くお茶ノ水のレコードショップで、マイナーなインディーズバンドのCDを買いに来た芹那が、自分から話しかけてきた。

 

「ゆーふらてす、好きなんですか?」

 

 店舗では、私服の上にエプロンの着用が基本となっていて、エプロンには名札の他にそれぞれが思い思いの缶バッジなどで自分の音楽の趣味をアピールするのが流行となっている。おれのエプロンについていた缶バッジを指差し、当時まだ名前も知らなかった芹那が半笑いで聞いてきた。おれは芹那が持ってきたCDをレジに読み込みながら答える。

 

「友達のバンドなんです。今パンデミックで大変だから、応援しようと思ってグッズ買ってつけてるんですよ」

 

 ゆーふらてすは、高校の同級生の女の子が結成したバンドだ。その子は、高校生の時こそHi-STANDARDやGO!GO!7188のコピーバンドをやっていたが、今ではすっかり落ち着き、カホンとアコーディオンのメンバーを加え、本人はアコースティックギターを弾きながら、NHK教育でも十分流せそうな優しい音楽を奏でている。

 

「あたし、下北沢のユーロ・キッチンで、2回くらいライブ観ましたよ。可愛い曲やってますよね」

 

 俺はCDを袋詰めし、口の部分にテープを貼った。「どうぞ」と手渡したが、話し足りないのか、芹那の口は止まらなかった。

 

「お兄さん、見た目ゴツいから、ゆーふらてす聴いてたら可愛いなと思いました。日本語上手ですね、どこ出身ですか?」

 

 見た目に関して何かを言われるのは慣れているが、こうもあからさまに「ゴツい」と表現されるのは久しぶりだった。

 

「こう見えて、生まれも育ちも千代田区ですよ」

「えーー、嘘。そうなんだ」

 

 おれが出身を語ると、よく驚かれる。というか、こうやって働いていなければ、街中をうろうろしているときは、日本語を話すだけで驚かれる。

 おれは、誰がどこからどうみても黒人だからだ。

 母が日本人、父がナミビア人のいわゆるハーフだ。 JICA職員としてナミビアに渡った母が、父と出会いそのまま日本へ連れて来てしまった。父は俺が4歳くらいまでは一緒に住んでいたが、母とは籍を入れておらず、働き口が見つからないという状況が数年続き、父はひとりナミビアに帰ってしまった。英語こそ多少は話すことができたが、第一言語はアフリカーンス語とドイツ語が混ざったような土着語で、英語を用いてもコミュニケーションを取るのはなかなか困難だったらしく、それが仕事得るための大きな障害となっていたらしい。おれは父の顔をほとんど覚えていなければ、ナミビアを訪れるどころか、28年間日本を一歩も出たことがない。JICA職員として世界を渡り歩き、数カ国語を操る母とは相反するように、おれはこの「どこからどう見ても黒人」の見た目ながら、日本語しか話すことができなかった。母の仕事が忙しく、祖母に預けられることも多かったし、母の仕事が多様な価値観に触れるものだったためか、ある種、放任主義的な部分もあり、子供の頃から勉強や進学に関しては、全く何も言われなかったこともあって、からっきし勉強してこなかった。高校卒業後はスポーツトレーナーになるために専門学校へ行ったが、結局スポーツトレーナーになることはなく、気がつけばギリギリ暮らせる程度の収入しかない28歳独身フリーター・レコード店勤務、見た目:黒人が完成していた。

 

「ホワイトさん?」

 

 芹那がおれの名札を見て言う。

 

「これは、店長がEarth, Wind & Fireが好きだから、お遊びで付けられた名前。本名は大澤です」

「ホワイトって曲があるんですか?」

「バンドのボーカルがモーリス・ホワイト。そんで黒人」

「へ〜。有名なバンド?知る人ぞ知る?」

「いや、めっちゃCMで流れてる」

 

 おれはSeptemberのコーラスフレーズを口ずさむ。芹那は「あ!知ってる」と言って手を叩いた。その日はおれの退勤時間が迫っていて、その直後くらいにさよならしたが、芹那はそれから頻繁に顔を出すようになった。彼女は御茶ノ水の食品メーカーで経理の仕事をしているらしい。平日も仕事終わりにたまに来るらしいが、おれの退勤時間が16時半であることを伝えると、それ以降は毎週土曜日の15時に来て声をかけてくるようになった。自宅は水道橋付近にあり、元々レコードショップには週一ペースで通っていたらしいが、行きつけのお店が潰れてしまったためこちらに足を運ぶようになったとの事だった。自分たちが同年代と分かった途端、芹那との会話はタメ口になった。

 

「ライブハウスとかよく行くの?」

「最近はこんな事情だから、めっきり行ってないけど、去年頭くらいまでは」

「今度一緒に行こうよ。あたし、一昨年親友が結婚してから、一緒に行く人いなくなっちゃって。一人でも行くときは行くけどさ、行ったら誰かしら知り合いもいるし」

 

 芹那ははぁ〜っと深いため息をつく。

 

「ライブ自体も少なくなっちゃったし、ライブに行ってもお客さんも少なくなったし、行ったら行ったで緊急事態宣言でお酒出さない日もあったりして、パンデミックのせいで変わったわ〜。あたしの楽しかった日々」

「たしかに、仕事だけは毎日あって、ストレス発散が減ったよね。お金は多少貯まるけど」

 

 嘘だ。そもそも収入が少ないので貯金はほぼできていない。時計を見ると16時半を指していた。伸びをして片付けに入る。

 

「そろそろ退勤」

「今日もお疲れ様でした。バスケ?」

「そ。今日はクラブチームのほう」

 

 16時半退勤なのは、いわゆるもう一つのアルバイトのためで、そのもう一つのアルバイトとは中学校の男子バスケ部の外部指導員、つまりはコーチをしているからだ。とはいえそれは主に平日と日曜で、毎週土曜日は基本的に自分のクラブチームの練習に行っている。御茶ノ水エミューズ。御茶ノ水とは縁もゆかりもなさそうなエミューという鳥をチーム名に取り入れたのは、結成当時のチームリーダーが若き日にオーストラリアにワーホリに行っていたかららしい。中学校の男子バスケ部のコーチの仕事も、エミューズのチームメイトで、英語教師をしている友人に「仕事に困ってるなら」と紹介してもらった。おかげで昼は音楽、夕方からバスケと、収入は少ないながらも好きなことだけを仕事にして生きることができている。

 

 芹那に「東京ディズニーランドに行こう」と言われたのは、出会ってから1ヶ月後のことだった。

 出会いのないおれにとって、女性に遊びに誘われることはそんなに多くはない。結局、あれからライブハウスにも行っておらず、ただの口約束だと思っていたところに、東京ディズニーランドだ。これがデートでなければ嘘だと思う。脈、あるだろ。日曜日は普段はバスケ部のコーチに行っているが、この日は休ませてもらう事にした。

 

「その、親友とはいつ会うの?」

「その子たちはもう遊んでるらしいから、すぐ済むよ」

 

 芹那がディズニーランドに行こうと言ったきっかけは、昔よく一緒にライブハウスに行っていたという親友が、昨年産まれた子供を連れて遊びに来るからだという。

 

 その親友一家は、ワールドバザール左手にあるワッフル店の屋外席に座っていた。芹那を見て手を振り、その後をついてくるおれを見て、目を丸くする。

 

「美鈴!ひっさしぶり〜!」

「芹那も、久しぶり!元気だった?遼くん、芹那おばちゃんだよ〜〜」

「ぎゃ!おばちゃんは結構くるわ!かわいい〜遼くん〜〜!はじめまして〜!」

 

 美鈴と呼ばれた女性は、活動的な芹那とは真反対のタイプで、大人しそうな雰囲気が服装からも伝わってきた。赤ん坊は、不思議そうにおれの顔を見つめている。もう一人、不思議そうに俺の顔を見つめている人がいた。くりくりとした目が赤ん坊とよく似ている。この子の父親だろう。

 

「啓太くんも久しぶり。結婚式以来だね」

「あ、えっと、久しぶり。あの……そちらの方は?」

 

 啓太と呼ばれた男性がおれの方を手で示す。芹那が俺の腕にしがみついてきた。

 

「あ、この人?龍之介くん。美鈴があたしを裏切って啓太くんを選んだから、新しい親友見つけたの」

「言い方ヒドぉ」

 

 美鈴も啓太も、思わぬ日本語名が出てきて戸惑いの表情を見せる。よくある事だ。もう慣れた。おれはあえて、よそ行きの笑顔を見せる。

 

「大澤龍之介です。日本産まれ日本育ち、日本語しか話せない日本人ですよ。はじめまして」

 

 啓太と呼ばれた男性はわかりやすく安堵してべらべら喋り出した。

 

「びっくりしたぁ〜!ハローとか言わなきゃいけないのかと思ったよ!」

「言ってもいいですよ。ハローくらいならわかるから」

「そりゃそうだ!あっはっは!」

 

 初対面でこの馴れ馴れしさ。この啓太という男は、顔は結構いいものの、天然を絵に描いたような男だなと思った。妻の美鈴が彼の袖を引っ張る。

 

「啓太くん、失礼だよ」

「そーだよぅ。龍之介くんはね、ちょっと顔が濃いだけ」

 

 芹那は親友夫婦の赤ん坊をよしよしと抱きながら言った。芹那は芹那で、おれとの距離感の詰め方のスピードは尋常じゃなかったし、結構天然で、失礼な女だ。それでも許せてしまうのは、慣れもあるだろうが、おれに下心があるからだろうか?

 ぶりぶり、と音がして赤ん坊を抱っこしていた芹那が笑い出す。

 

「あぁ〜遼くん、どちたの〜?うんちでたの〜?」

「芹那、ごめんね。おむつ替える」

 

 美鈴が芹那の腕から赤ん坊受け取る。芹那は腕を組み、うんうんと唸った。

 

「うむ。しっかりと臭いぞ。子供はかわいい。でもうんちは臭いし、産むのは辛い。私は遼くんを愛でるだけの都合のいいおばさんに成り下がろう」

「何言ってんの」

「ふふふ。会えてよかったわ。あんたたちおむつ替えに行くでしょ。あたしらも絶叫系乗りまくることを心に誓ってやって来ているので、今日はこの辺でバイバイしよっか。また新築ホームにおじゃまするね」

「ありがとう、芹那。龍之介くんも付き合ってもらってごめんね。ほら遼くん、おばちゃんとおじちゃんにバイバイして」

 

 美鈴は遼に手を振らせる。遼はおれの顔をガン見して、ニコニコと笑った。芹那の言う通り、子供はかわいい。美鈴・啓太夫妻と遼はトイレへと消えて行った。

 

「さて、あたしらも行きますか。スプラッシュ・マウンテンに」

 

 おれは黙って頷いて、芹那と共に歩き出す。ワッフル店はワールドバザールのアドベンチャーランド側にあり、アドベンチャーランドからスプラッシュ・マウンテンのあるクリッターカントリーまではパークの端から端まで歩く距離になる。たどり着いた頃にはアトラクションでスプラッシュする前に、おれのTシャツは汗でずぶ濡れの状態になっていた。アトラクションの待ち列になっている洞窟の中はひんやりと涼しくて過ごしやすかった。待ち時間は60分ほど。おれたちの前には大学生くらいの年齢のカップルが並んでいて、男の方がディズニーのうんちくを語っている。

 

「スプラッシュ・マウンテンはなんかの映画なの?」

「『南部の唄』っていう古い映画だよ。幻の映画でさ、おれも観たことないんだ」

「なんで幻?」

「黒人差別描写があるとか、本来あった黒人差別描写がないように描かれてるとか……」

「それどっちよ」

「観たことないから知らねーんだわ。アメリカでは結構おおごとでさ、スプラッシュ・マウンテンも中身のストーリーが近いうちに変更になるらしいよ」

「へぇ〜何に変わるの?」

「う〜ん、観たことないんだよなぁ。『プリンセスと魔法のキス』ってやつ」

「えっ。ティアナじゃん。私好きだよ。小学校の頃映画館で観たし」

 

 ふと、カップルの女の方がおれと目が合う。一瞬びくっとして、何事もなかったように正面に向き直る。

 

「黒人のプリンセスなんかいるんだ。初めて知った」

「シッ」

 

 話を続けようとする男を、女が制している。カップルの話題は朝にディズニーランドホテルで食べたビュッフェの話に変わった。

 

「龍之介くぅん……暗闇だと目と歯だけが浮いてるねぇ」

 

 芹那がニヤニヤしながら言う。仲良くなった人には誰にでもこうなんだろうけど、芹那はやっぱり、かなり失礼だと思う。

 乗り場で番号を振り分けされるところまで来て、キャストがおれに話しかけた。

 

「How many?」

「あ、えっと、2人」

「2名様!足元番号の〜シックス!」

 

 キャストは足元番号を指差し、その後指を6本立ててゆっくりと言った。

 

「6番でお待ちください!お次のお客様〜……」

 

 キャストは手際よく後続のゲストたち声をかけていた。英語で話しかけられるのには慣れているけど、英語を話せるわけではないからすぐさま反応できない。しかも、必要以上にゆっくりと話しかけられる。もう、うんざりだな。芹那を見ると、芹那自身もおれが英語で話しかけられるのに慣れてしまっていて、もうイジるのも飽きたみたいだった。

 

「いっよいっよだ〜〜」

 

 芹那がワクワクした声を上げる。ボートに乗り込むと、座席はすでに湿っていて、タオルで拭いたあとの生乾きの匂いがした。待っている間に乾きかけていた服が、今度は水滴で濡れるのを感じる。

 ボートが動き出した。小動物たちの可愛らしい住処とそこでの生活が、ロボット人形の動きで表現されている。これのどこが、黒人問題でまるごと取っ替えられそうになっているのかは、少なくともこのアトラクションに乗っただけではわからないな。「本は表紙じゃわからない」一昨年に観たメリー・ポピンズの新作映画でも、確かそんな曲があったっけか。

 スプラッシュ・マウンテン最後の滝壺ダイブでは、ずぶ濡れになるほど水を浴びた。ボートを降り、アトラクション出口にたどり着いた頃には太陽は天高く昇り、地獄のような日差しを照りつけていたのでむしろ気持ちがいいくらいだった。

 

「っひゃ〜〜!濡れたねぇ」

 

 芹那が髪の毛を絞ると、ちょろちょろと水が流れ出た。水に濡れた芹那はいつにも増してセクシーに見えた。

 

「髪の毛しぼんでるよ」

「うお、ちょっと」

 

 芹那が爪先立ちでおれのアフロみたいな天然パーマを手でわしゃわしゃする。芹那の顔がすぐ目の前にあった。シャンプーのいい香りが漂う。おれは笑いながら手を払いのけて、視線を落として歩き出す。なんて大胆なことをするんだこの女は。照れる、恥ずかしい。

 

「ここからだったらビッグサンダーが近いね。並ぼうか」

「賛成」

 

 アトラクションの待ち時間でおれと芹那は、それぞれの子供の頃のことを語り合った。おとなしい上にこんな見た目だからずっと家でゲームばかりして遊んでいたこと、おばあちゃんっ子だったこと、たまに帰って来た母は必ず現地の伝統工芸品をいくつか買って帰って来てくれたことなどを話した。一方の芹那は子供のころも活発で、男の子たちが「なんとかレンジャー」で遊んでいるところに乱入してはレンジャーを撃退して泣かすセーラージュピターを演じていたらしい。初恋は小学校4年生の夏休みで、従兄弟の高校生のお兄ちゃんとのことだった。会話を弾ませながら、ビッグサンダー・マウンテン、スペース・マウンテンと、順当にアトラクションを制覇していく。

 スペース・マウンテンを出た後は、腹ごしらえをすることになった。周辺をウロウロし、ワールドバザールの中にあったコーヒーショップに行くことにする。入り口にキャストが立っていて、席に案内される。東京ディズニーランドには中学・高校と友達と遊びに来たことがあるが、テーブルサービスのレストランは初めてかもしれない。アール・デコというらしい、30年代に流行したデザインが、昔懐かしいアメリカの雰囲気を醸し出している。アメリカ、行ったことはないが。

 

「龍之介くん、今日はあたしが誘ったから、おごるよ」

「マジ!?でもそれちょっとカッコ悪いな」

「いーのいーの。今時男が奢られてカッコ悪いとかないって。チケット代は自分で出してるんだし。ライブ行けなくなって、お金有り余ってるんだわ」

「いいけどおれ、見た目の通り結構食うからね」

「まかせろぉい」

 

 芹那はコンビプレート、おれはステーキプレートを注文する。やはりディズニー価格だけあって、値段のわりにボリュームは多くない。でも味はそれなりに美味しかった。芹那は食後にチーズケーキとメロンソーダ・フロートまで頼んでいたけど、おれはコーヒーだけにしておいた。ここのレストランはコーヒーのメーカーがスポンサーというだけあって、コーヒーがうまい。

 食事を終えて次にどうするかと他愛のない話をしていると、70代後半に見える白髪でボサボサ頭の男性がトイレから出て来て、通りすがりにちらっとおれの方を見た。

 

「黒ンボめ」

 

 ポツリ、と呟いて、そのまま座席に戻って行った。いつもの事といえばいつもの事だけど、おれは一瞬何が起こったのかわからなくて、コーヒースプーンをカップに突っ込んだまま固まっていた。

 

「ちょっと、何!?」

 

 先に反応したのは芹那の方だった。ガタッと席を立ち、ずかずかと先ほどの男性の座っている席まで移動した。おれもあわてて立ち上がるけど、びっくりして立ち上がるだけで、そこから動けない。芹那は、怒鳴り散らすかと思ったけど、静かに、でも強い口調で言った。

 

「おじさま、さっき私の彼に差別用語を言いましたよね?謝ってください」

 

 男性はうろたえながら芹那から目をそらしてもごもご言っていた。男性の妻らしき白髪の女性と女の子連れの若い夫婦が同じテーブルについていた。突然知らない女性に鬼気迫る表情で詰め寄られ、困惑している。

 

「すみません、うちのおやじがなんか言ったんですか?」

 

 若い夫婦の男性が言う。女の子が泣き出し、女性がよしよしとあやし始める。

 

「黒ンボは差別じゃねぇ。普通の言葉だ」

「差別用語です、れっきとした。そもそも人の見かけをとやかく言うのは失礼です。謝ってください」

「すみません、うちの主人が……」

「いえ、奥様に言ってるのではないんです。こちらの旦那様に言っているの。で、謝って欲しいのは私にではなくて、彼に」

 

 芹那が手のひらをおれの方に差し向けて、皆の視線が俺に注目される。当然だけど、その一家だけじゃなく、周辺の客も、キャストも、みんな。

 

「そもそも、なんでこんな時期に外国人が日本に来てんだ。検査は受けてんのか」

「彼は外国人じゃありません。日本生まれ日本育ちの日本人です」

 

 白髪男性は、もう後に引けない感じになっている。先の男性の一言で、芹那の目はより本気の怒りに燃え上がっていた。幸いなのは、家族他の人たちは比較的、こちらの味方であるということだろう。

 

「大人げねぇなぁ!事を大きくすんなよクソおやじ!」

「お父さん、ほらさっさと謝ってしまいなさい」

 

 ここら辺で、やっとおれの体が動いた。ゆっくりと芹那に近づいて、手を握った。

 

「ありがとう、もういいよ」

「でも……」

「みなさん、家族団欒を乱してすみません。もう行こう」

 

 キャストに声をかけて会計をすませる。芹那は店をでるギリギリまで白髪の男性の方を睨んでいた。とにかくすぐにこの場を離れたくて、芹那の手を握りながら早歩きで歩いた。気がつくとトゥモローランドを抜け、昨年新設されたニュー・ファンタジーランドの美女と野獣の城の前まで来ていた。足を止めて城を見上げる。

 

「すげ〜映画と一緒、リアルだね」

 

 話題を逸らそうとしたけど無理があったかもしれない。芹那はおれの手を払って、深呼吸してニコッと笑った。

 

「迷惑だった?ごめんね」

 

 おれは黙り込んでしまった。何か考え事をしようとして、先ほどの一連の出来事を思い返したら思わず涙が出た。

 

「……ん、いや、びっくりした。もういいんだよ、おれのことは、どうしようもないから」

「そうやっていっつも我慢してたんだね。ごめん。あたしも結構からかってたね」

 

 芹那は爪先立ちでおれの顔に手を当て、親指で涙を拭った。またシャンプーのいい匂いがする。

 

「意地悪なからかい方してごめんね。我慢してたのに、私が勝手に怒ってごめんね」

「恥ずかしかったぜ、ちょっと」

「ははは、みんな見てたよね」

「芹那ちゃん、さっきさり気なく『私の彼』って」

「はっはっはっ。何のことやらさっぱりだ」

 

 芹那はおれの顔から手を離して、代わりにぽんぽんとおれの胸を叩いた。ニッコリして野獣の城を指差す。

 

「『美女と野獣』乗ろっか?」

「いやでも、なんかこれ抽選……?当たったとして、乗れる時間は18時とかだな」

「おう……そうなんだ。なんか待ち時間短いの、ある?」

「う〜ん、イッツ・ア・スモールワールドとかは5分待ち」

「お〜〜〜あたしそれ好きだよ。行こう行こう」

 

 芹那が軽快に歩き出す。おれはしれっと、彼女の手を握った。弱い力で、ぎゅっと握り返されるのを感じた。

 

「何名様ですか?」

 

 スモールワールドのキャストが聞く。芹那は困惑そうな顔をして言った。

 

「Io prendo il tiramisù. 」

 

 聞いたことのない言葉が、芹那の口から飛び出した。キャストがギョッとした顔をして、さらには俺の顔を見て慌て始める。

 

「ハ、ハウメニ〜?」

「あ、すみません。2名です」

「あ、ああ〜!2名様!ありがとうございます!足元4番でお待ちください!」

 

 足元4番に移動しながらおれは芹那の方を見る。

 

「あたしが日本人である確証なんかどこにもないのにね」

「いやでもここは日本だから日本語で話しかけても違和感はないでしょ。キャストさん可哀想だわ。なんて言ったの?」

「ティラミス〜をお願いします」

 

 思わずプッと吹き出してしまった。前のグループのボートが動き出し、ゲストがこちらに手を振っているのを見て、芹那も笑顔で振り返す。

 

「いいね〜ブルーハーツの気持ちだわ、今」

「どゆこと?」

「♪生まれたところや 皮膚や目の色で いったいこの僕の 何がわかると言うのだろう」

「なるほどね」

 

 ボートに乗り込む。「小さな世界」の聞き覚えのあるメロディがだんだん大きくなり、さっきまで脳内再生されていたTHE BLUE HEARTSの「青空」がかき消される。可愛らしい子供達のロボット人形たちが、歌い、踊り、世界各国の文化を表現している。

 偽善だ。これだって、いわゆる画一的なステレオタイプの描写だ。平和と協調をテーマにしつつ、「みんなそれぞれ助け合う」の「みんな」に自分は含まれていないような、仲間はずれの気持ちを感じる。取りこぼされる人。黒人でも、黄色人種でもない。ナミビア人でも日本人でもない。ハーフのおれ。どれだけおれが日本人として生きようとも、社会がそうさせてはくれない。日本はまだ、そこまで優しくない。

 

 ふと、芹那と握り続けたままだった手が、強く握り返されるのを感じた。芹那の顔を見ると、ニコッと微笑んだ。俺もぎこちない顔で微笑み返す。

 世界は、社会は、まだ優しくない。理解も浅い。偏見も差別もある。彼女だってそうだ。でもきっと、彼女は理解する努力をしてくれるし、おれの味方でいてくれる。あの時立ち上がって行動してくれたことに、今は心からありがとうと言える。今日は芹那が動いてくれて、おれは何もできなかった。でも、こんなしがないフリーターでも、きっと何かやれることがあるはずだ。ナミビア人でも日本人でもないおれだけど、おれだからこそできる行動が。

 

 ボートはフィナーレのシーンへと向かう。くるくると回転する子供達の人形の中には、肌の黒い子供も、白い子供もいた。

 こんな偽善が、いつかは現実になればいい。いつか本当に、小さな世界になればいい。

 

 

第3話『世界はせまい、世界はおなじ』おわり

Chapter 3 - A World Of Laughter, A World Of Tears

 

***

 

あとがき

八村塁さん、大坂なおみさんの大活躍がめざましいなか、

まだまだ差別が絶えない現状を思って書きました。

理解を示したつもりでも、

これを書いた僕自身もまだ「芹那」なのかもしれない。

そう思って読んでいただけると幸いです。

 

 

ハーフ

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次回予告

第4話「熊劇場神話体系」

www.sun-ahhyo.info

 

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』

【東京ディズニーランド小説】第2話「マイ・プリンス、アイ・プリンス」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

 こちらの小説は作品投稿サイト NOVEL DAYS でもお読みいただけます。

 

***

 

 ディズニーランドのシンデレラ城の前でプロポーズを画策する男性は多いと思う。でも、プロポーズ「される」男性は、この世の中にどれほどいるだろうか。しかも、男性に。

 

「はじめ、結婚しよう。一緒にイギリスに行って、そこで暮らそう」

 

 僕は嬉しい気持ちよりも先に、周囲からの目線を気にしてしまった。目の前にいる恋人が用意した、小さなダイヤモンドつきの指輪を僕は彼の手で包んで慌てて隠す。恋人の顔に失望の色が浮かぶのがわかった。

 

「ちょっと、隠してよノア。気持ちは嬉しいよ。でもここは、ちょっと」

 

 幸い、周囲のゲストたちは、自分たちがいかに上手にシンデレラ城ととともに写真に写るかに一生懸命で、日本人男性がイギリス人男性に、今まさにプロポーズされている現場には気づいていないようだった。残暑の残る9月の東京ディズニーランドは、やっと落ち着きを見せたばかりの感染症の影響もあり、人もまばらだった。

 

 ノアとは付き合って3年になる。大学の教育学部で知り合い、卒業後も1年間は友達として過ごした。僕が当時付き合っていた女性の恋人と別れた後、同棲をやめて転がり込んだ先こそが、ノアの住んでいたアパートだった。当時はまだ、自分のセクシュアリティを認識してはいなかったし、ノアがゲイである事も知らなかった。

 というか、僕は今なお自分がゲイであるとは思ってない。バイセクシャルであるのかもわからない。男性が性的対象になったというよりは、好きになった人がたまたま男性だったというだけだ。友人として、同居人として過ごすうちに芽生えた、今までにない熱い気持ちは、当初は「好き」だとは思いもしなかったが、彼からのカミングアウトと、恋人と別れてぽっかり空いた穴を埋めてくれていたのが、ノアの存在だと事に気づいた時、僕は彼を受け入れた。

 ノアはいわゆる日本人が想像する「外国人」を絵に描いたような人物だ。柔らかなくせのある、少し茶色味がかったブロンドの髪、ブルーの瞳、白い肌で頬にはそばかすをたずさえている。今は私立中学で英語教師をしていて、男女問わず生徒からは人気が高いが、その容姿の淡麗さから、特に女子からは絶大な人気を博している。同性と恋愛関係になることなど一切頭になかった僕が、抵抗なく彼の気持ちを受け入れることができたのも、彼の美しさと清潔感からくる憧れに近いものがあったからだと思う。192cmの高身長で、179cmある僕よりもずっと高い。すらっとしているが、細身に見える身体にはしっかりと筋肉がついている。特別ジム通いなどをしているわけではないが、プライマリー・スクールの頃からバスケットボールを続けていて、今でも地元のバスケチームで主力のセンターポジションとして活躍している。

 

「バスケを始めたとき、パパには『イギリス人のくせにサッカーをやらないなんて親不孝ものだ』と言われたよ」

 

 そう彼が話していたのを覚えている。ノアはバスケットボール以外にも、アメリカ文化に深い造詣を持っており、お気に入りのバンドはニルヴァーナにソニック・ユース、ダイナソーJr.で、90年代USオルタナティヴ・ロックをこよなく愛しているし、セカンダリースクールを卒業した後は単身16歳でアメリカへ渡り、カリフォルニアのコミュニティカレッジで映画制作を学んだらしい。その後、彼曰く「映画制作における壮絶なハートブレイクを経験した」とのことで、どういうわけか僕と出会うこととなる東京の小さな私立大学の教育学部にやってきた。何故日本を選んだのかと聞くと、カレッジでのアカデミー賞外国語映画賞の歴代作品について学ぶ授業で鑑賞した『おくりびと』の本木雅弘が忘れられなかったから、との事だった。

 

 一方の僕は、ノアのお気に入りの本木雅弘とは似ても似つかぬ容姿だ。色艶だけはある黒々としたマッシュルームヘアで、重たい一重瞼の垂れ目に薄い唇という、典型的な塩顔男子だ。身長こそ高い方だが、ひょろひょろとした身体には筋肉はほとんどついていない。子供の頃から、いじめられることこそないが、常に輪の中心から少し外れたところにいて、周りの行動に従うだけのおとなしい人間だった。

 教育学部を卒業していながらも教職にはつかず、たまたま履修していた社会福祉の科目により社会福祉主事任用資格を持っていたため、市の職員として、人材不足甚だしいケースワーカーの仕事に就くことができた。

 しかし、人助けのために働くという理想は、採用されて1年目に儚くも崩れ去った。生活保護というものは、本当に必要としている人にはなかなか届かず、一方でやくざ絡みの不正受給も横行している。厳しい受給基準と煩雑な事務手続きという壁もある。家庭訪問時にヒステリックに泣かれたり、怒鳴られることなどは日常茶飯事、暴力を振るわれそうになることもあった。ケースワーカーの仕事は激務なだけでなく、身体的な危険と隣り合わせで、精神を削られる仕事だ。帰ってきて夕食も食べずに寝て、朝また仕事に行くだけのような、文化的とは程遠い生活の中で、ノアの存在は僕の心の支えだった。

 

「ショックだ。ひどいよはじめ」

 

 プロポーズ失敗の精神的ダメージは、僕には想像もつかない。僕だってまさか、こんな公衆の面前で、男女が行うようなプロポーズを、日本の、東京ディズニーランドでされるなんて思ってもみなかった。ノアのことは好きだ。「愛している」に近い感情を持っている。それでも、ここ日本という国にいると、同性愛者として生きることの肩身の狭さを感じざるを得ないし、ましてや結婚なんて、プリンセスになるのと同じくらい現実味のないことだ。

 

「ごめん、ノア。ノアのことは……好きだけど。結婚なんて考えたこともなかった」

 

 容姿端麗な恋人の表情に、さらに失望の色が浮かぶ。僕は思わず目を逸らしてしまった。

 

「家で、改めて話そう」

「OK, I'll zip my lips.」

 

 ノアはそう言うと、黙ってシンデレラ城へ向かって歩き出した。歩幅が大きいのでどうしても早歩きになる。壁を彩るモザイク画には目もくれず、ノアはツンとした表情で歩いていた。ファンタジーランド方面へ抜け、ノアと僕は「ミッキーのフィルハーマジック」の列に並んだ。映像が始まるまでの30分の間、僕らは一言も発することなく、気まずい時間を過ごした。映像が始まってしまえば、シアタータイプのアトラクションだから、ただ座って頭の中を整理するのにはいいのかもしれない。目の前で繰り広げられる、ドナルド・ダックの大騒動よりも、僕は自分の将来のことを考えた。映像の終盤、ティンカー・ベルと鐘の音を鳴らすビッグ・ベンが現れ、CGで再現されたロンドンの街並みをピーターパンが舞う。

 

 イギリスで暮らす、か。

 

「ドナルド、可愛い。楽しかったな」

 

 シアターを出ると、ノアは何事もなかったように感想を伝えてくれた。花壇の縁に腰掛け、マップを開く。

 

「I'm starving. How about you?」

「Sure. What do you wanna eat?」

「I'm curious about this waffle sandwiches, maybe.」

 

 僕は頷く。ノアとの会話には時々英語が混ざる。おかげで英語がそれほど得意ではない僕も、簡単なリスニング程度なら理解できた。ノアの発音はブリティッシュ寄りだが、アメリカに数年滞在していたこともあって、時々アメリカ英語的な発音ニュアンスを含むことがあった。

 僕ら2人はウエスタンランドの奥地にある「キャンプ・ウッドチャック・キッチン」へと向かった。ワッフルサンドのセットを2種類注文し、2階席へと向かった。ノアはどうやらダック・ファミリーに関心を抱いているようで、食事を終えるとレストラン内の様々なプロップスを写真に収めていた。

 ノアが写真を撮っている間、ひとりでスマホを片手にアイスコーヒーを飲んでいると、近くの席の男女の会話が聞こえた。

 

「……でさ、なんかベタベタしてんだよその二人」

「男同士で?」

 

 嫌な予感がした。男女のうちの男の方はニヤニヤしながら饒舌に喋っている。

 

「俺は思ったね。あの二人はホモだって。二人ともヒゲ生やしてて短髪でさ、ちょっとガタイがいいんだよね」

「そんな絵に描いたようなゲイ、今時いる?」

「そもそも男同士で二人でディズニーに来るやつなんか、ホモに決まってるよ」

「さっきからホモホモ言ってるけど、ゲイだよ。ホモは差別用語」

 

 背中を冷たい汗が流れて、身体中を悲しみと失望が走るのがわかった。これが現実だ。一般人にとって、ゲイとは自分と住む世界の違う人種で、差別対象で、忌むべき存在なんだ。女性の方はまだ理解があるようだけど、男性の物言いは確実に僕らゲイ・セクシャルを嘲笑する言い方だった。僕は俯いて、違うことを考えようと必死に頭を巡らせた。巡らせたけど、今度はさっきのノアのプロポーズを思い出して顔が赤くなった。

 

 少し離れた後ろの席でガタンと音がするのがわかった。車椅子と、床に倒れている女性が目に入る。ソファー席から車椅子に移動するのに、失敗して倒れてしまったのだろう。本来であれば駆け寄って手助けするのがケースワーカーの鏡であろうが、キャストがそちらへ様子を見に行くのが見えたし、見知らぬ男性に手助けされるのは女性にも抵抗があるかもしれないと、思いとどまった。向き直ると、僕の真横を190cmの巨体が素早く通り過ぎるのを感じた。ノアだ。彼はこういうのを放っておけないたちなのだ。少しだけ罪悪感を感じながら、ゆっくりと立ち上がって、ノアが向かった車椅子の女性の方へと向かう。女性はノアによって軽々とお姫様抱っこされ、車椅子におさまった。周囲のゲストが拍手をしてノアを讃えていた。キャストは女性にお怪我はないですか?と声をかけている。

 

 「川島さん?」

 

 思いがけないところで突如名前を呼ばれて驚いた。車椅子の女性の向かいに、見覚えのある女性がいた。改めて車椅子の女性の方も見る。普段とは違い、しっかりと化粧をしているが、よく知っている2人だった。

 

「有田さん」

「こんなところ……、すみません。会うなんて」

「D'You know each other!?」

 

 ノアが驚いた声をあげた。2人の女性は気まずそうな顔をしているし、僕も正直気まずかった。キャストは僕ら4人を順番に見つめてから、会釈して去って行く。

 有田姉妹の姉・車椅子の方の有田 優は、僕が担当している生活保護受給者だ。僕に話しかけたのは妹の有田 愛。有田一家は、優が高校2年生の時に自動車事故に巻き込まれ、両親が亡くなり優は半身不随となった。僕が担当を受け継いだ頃は愛はまだ高校卒業前だった。もう4年近くの付き合いとなる姉妹である。

 彼女たちが気まずそうな顔をするのは当然だろう。生活保護受給者がディズニーランドで遊んでいるのを、生活保護担当職員に見られたのだから。

 

「僕が仕事で担当してる有田さんだよ、ノア」

「そうなんだ!はじめまして」

 

 ノアは愛と優、それぞれと握手をした。僕は何を言おうか、言葉に迷っていた。言葉に迷っていたら、愛が自分から切り出してくれた。

 

「この、今日遊びに来たのは、たまたま友人からチケットをもらって。本当に贅沢はしていないので……」

 

 なんとなく「チケットを貰った」というのは嘘のような気がした。20歳を過ぎたくらいの、遊び盛りの若い女性に「ディズニーランドへ遊びに来た」というだけで、言い訳をさせてしまうこの世の中の状況と、そうさせてしまう職業についている自分が憎らしい。彼女の口からこぼれ出た言葉は、障がいを抱える人たちに、健康で文化的な生活を提供したくて働いていたはずの自分の、普段の仕事ぶりの反映だ。「生活保護を貰いながらディズニーランドで遊ぶなんて」と、一瞬でも頭によぎった自分が、悔しい。

 

「息抜きは必要ですよ。気にしないでください」

 

 少しだけ、泣きそうになる笑顔で僕は言った。

 

「今日は2人とも、いつもと雰囲気が違いますね」

 

 普段、家庭訪問で会う時は2人とも化粧をしていないので、いつもよりずっと美人に見えた。特に愛の化粧はこなれていて、実年齢よりもぐっと大人っぽく、セクシーに見えた。褒めたつもりだったが、皮肉に取られてしまったらしく、愛はただ、すみませんと一言つぶやき、うつむいた。僕は余計に悲しさを感じる。この空気の重さと気まずさを、ノアも気づいていたが、彼はあえて空気を読まないところがある。わざととぼけたようなトーンで、なんであなたが謝るの?と言った。

 

「えーっと、じゃあ私たちはこれで……」

「ノアさん、本当にありがとうございました」

 

 優が改めてお礼を言い、ノアも大げさなウィンクで応えた。気まずい時間もこれで終わるかと思ったが、車椅子を押そうとする愛の手にノアが優しく触れた。

 

「下の入り口まで送りますよ。はじめの大切なお友達ですから」

 

 そう言うとノアは車椅子を押し始めた。僕と愛は顔を見合わせる。愛の頬が少し緩み、気まずさが少しだけ解消するのがわかった。エレベーターで1階まで行き、レストランを出るとノアが突然叫び出す。

 

「What!? ドナルドと写真が撮れるところがあるの!?優さん、愛さん、みんなで行きましょう」

 

「ノア、ちょっと」

 

 ここまでくると、わざとなのか天然なのか僕にも判別がつかなくなっていた。ノアは優の車椅子を押しながら、ドナルドダックに会えるというウッドチャック・グリーティング・トレイルの入り口の方へ向かっていった。あまりに早く移動するので、僕と愛は2人で取り残されてしまった。

 

「ノアさん、すごく素敵な人ですね」

「うん、まぁ」

「姉を抱きかかえた時、本当に王子様かと思いました。一緒にディズニーランドに来るって、すごく仲がいいんですね」

 

 僕は返答に困った。ノアは確かに完璧な男性だ。容姿端麗で、賢く、紳士的。倒れた女性を助けるという行為を、実に自然に行うことができる。一方の僕は、福祉の仕事についていながら優が床に倒れた時に、見て見ぬ振りをしようとして、生活保護受給者の、いっときの贅沢に水を差すような感情を抱いていた。

 

「かっこいいんです、彼は。僕の憧れです。本当に王子様みたいで」

 

 思った言葉が口に出てしまった。冗談みたいなトーンには聞こえなかったと思う。僕は愛の顔を見る勇気がなく、ノアと優が消えた道を早歩きで追いかけた。グリーティング施設の入り口で、ノアと優は待っていた。ノアはひどく残念そうな顔をしている。

 

「抽選が必要なんだって」

「それは残念だったね」

「ドナルド、お好きなんですね」

 

 愛が言うと、ノアはドナルドの真似のしわくちゃな声で「Absolutely.」と言った。そんな特技があったとは。

 

「優さんと話をしました。車椅子で行けるところは限られているし、乗り物は大変らしいから、シンデレラのお城の中に行きましょう」

「ちょっと待って、勝手に決めないで、ノア」

「そんな、ご迷惑じゃないですか?」

 

 知らないうちに、ノアと優は意気投合していた。僕と愛だけがまだ微かに残る気まずさの靄の中にいる。結局、僕たちは4人でシンデレラ城へ向かい、「シンデレラのフェアリーテイル・ホール」というウォークスルーのアトラクションの中へ入った。シンデレラ城の中に入るのは何年振りだろうか。子供の頃、ここがまだ「シンデレラ城ミステリーツアー」という怖いアトラクションだった頃に1度だけ訪れたことがある。フェアリーテイル・ホールはそんな恐怖の面影などは全くなく、可愛らしい雰囲気に様変わりしていた。

 

「見て!!!ジャックとガス・ガス!」

 

 ノアは柱から顔を出したネズミの人形に興奮して、さながら子供のようだった。車椅子を押されている優も、ノアのテンションに圧倒されているのか、終始笑いっぱなしだった。優が僕の仕事中にこんな楽しそうな表情を見せたことは一度もない。僕もずっと黙っているわけにもいかず、気まずい空気を打ち破ろうと愛に話しかける。

 

「愛さんは……、お仕事順調ですか?」

「ええ、まぁ」

「飲食店ですっけ?」

「そうですね」

 

 思ったより会話が弾まない。そりゃそうだ。ケースワーカーに仕事のことを聞かれるのは、探りを入れられてると思われても仕方がない。愛は優に対して法的拘束力のある扶養義務こそないが、それでもまだ年端もいかない頃から生活保護の姉と接してきた身だ。慎重にもなるだろう。となると、やはり話題の中心は「彼」になる。今僕らの気まずさを中和しているのは、紛れもなく彼だからだ。

 

「ノアさんとは、どこでお知り合いになったんですか?」

「僕と同じ大学だったんです。学部も一緒で。出会った時から今くらい日本語ペラペラだったけど、『日本語わからないからノート見せて』って」

「読んだり書いたりするのが苦手だったんですかね」

「いや、僕ちょっとだけ身長高いから……ノアってバスケやってるんだけど、僕を誘おうとしたんだよ。僕は運動音痴だったからすぐ諦めたけど」

 

 愛はそれを聞いてクスッと笑った。

 

「なんかそれ面白い。下心ですね」

「下心だね」

「でも、バスケやらなくなっても、卒業してもちゃんと友達として今でも遊んでるなんて、下心だけじゃないですね」

 

 ふと、思い出した。そうだ。あの時、僕がバスケができないことを知って、ほんの数日間、僕とノアは疎遠になった。ほんの数日間の空白が耐えきれず、僕から再びノアに声をかけたのだ。寂しくて、あの強烈に眩しいノアの魅力に、どうしても触れたくて、つながりを絶ちたくないと感じていたのは僕の方だった。彼がゲイだと知る、遥か昔から、自分がゲイだと気づく遥か昔から、彼に惹かれていたのは僕の方だった。

 

 気づけば、天井の高い開けた場所に出た。シャンデリアが美しく輝き、玉座と、フェアリーゴッドマザーの肖像と、ガラスの靴が置いてある。偶然にも、ゲストは僕たちだけだった。

 

「……友達ってわけでもないんだ」

 

 僕はわざと愛に聞こえないよう、ぼそっと呟いた。

 

「はじめ!Photo Spot!!」

 

 ノアが叫んで僕たちを呼ぶ。玉座でも、フェアリーゴッドマザーの肖像の前でもなく、ガラスの靴の方に。

 

「愛さん、写真をお願いします」

 

 ノアはスマホを愛に預けた。愛も優も、男子がふざけているのだと思ってケラケラ笑っていた。そばにいたキャストも、ニコニコしている。僕は照れ笑いしながら近づいて、ガラスの靴の前のスツールに座らされる。ノアは僕の前にひざまづく。パシャっ、パシャっとシャッター音が鳴る。

 

 ノアは、絵に描いたようなプリンスだ。外見だけの話ではなく、内面に至るまで非の打ち所がない。鉢合わせた当初はあんなにも気まずかった僕と有田姉妹を、シンデレラ城の中まで連れてきて、打ち解けさせている。僕はどうあがいてもノアにはなれっこない。ノアが、どうして僕を好いてくれているのかも、僕にはよくわからない。そんな彼を、僕はついさっき、失望させてしまった。それでもなお彼は、そのショックを表に出すこともなく気丈に振舞っている。

 

 僕の、王子様。

 

「川島さん、ノアさん。逆バージョンも撮ってみましょうよ。ノアさんがプリンセス」

「Genius!」

 

 ノアは立ち上がり、僕と入れ替わってスツールの上に座った。今度は僕がひざまづく。体が熱くなり、緊張するのを感じた。

 

「ノア、さっきはごめん」

「さっき?ああ、さっきのこと? No worries.」

 

 僕は呼吸を整えるために、深呼吸をした。ノアが少し不安そうな顔をする。

 

「はじめ、大丈夫?」

「大丈夫」

 

 僕は、大きく息を吸う。ノアのブルーの瞳が、僕を見つめ返すのがわかる。心臓が脈打つ。

 ノアが、好きだ。一緒にいたい。

 

「Noah, I promise love of the eternity.」

「Seriously?」

「Will you marry me?」

 

 ノアがはっと息を飲むのがわかった。

 

「川島さーん、撮りますよー、こっち向いてくださーい」

 

 愛が声をかけるが、僕はカメラの方に顔を向けることはできなかった。僕の目は潤んでいて、それにノアの瞳から目を逸らすことができなかった。ノアの表情が、みるみる紅潮していく。

 この瞬間が、実に長く感じた。次の瞬間、僕はノアに抱きしめられた。

 

 

 そのあとのことは、あまりよく覚えていない。さっきプロポーズされた時は、周りの目ばかりを恐れていたが、今はもう何も気にする余裕がないくらい、頭がいっぱいなような、頭が空っぽのような不思議な気持ちになった。

 愛と優は、突然のことでびっくりしたと思う。ケースワーカーとして、市職員として、自分が同性愛者であることを生活保護受給者に明かすことは、もしかすると弱みを握られることに繋がるかもしれない。不正受給のためにあの手この手で脅迫まがいのことをする連中もいる。

 

「びっくりしたー。恋人同士だったんですね。でも素敵だと思います。私の働いてるお店……、あの実は、ガールズバーなんですけど、女の子が好きっていう女の子もよく来ますよ。たまに口説かれます」

 

 愛はそう言って、さっきよりも打ち解けたようににっこりと笑った。優はどうやらノアに結構本気で惚れ込んでいたらしく、少しショックそうな様子を見せていた。

 

「お仕事やめて、イギリス行かれるんですか?」

「まだわからないよ」

 

 本当に、何も考えていない。今後の僕たちがどういう経緯で、どういう手続きで一緒に暮らしていくのかは、全くもって僕には未知だ。

 

「日本でもちゃんと同性の結婚ができればいいのに」

 

 僕ら4人はフェアリーテイルホールを出て、僕と愛はそばのベンチで佇んでいた。ノアはまだ優の車椅子を押しながら、花壇に咲いている花を彼女とともに眺めていた。

 

「私、一枚だけ勝手に写真撮っちゃいました」

 

 愛がスマホの写真を僕に見せた。ガラスの靴を前に、僕とノアが見つめあってる。

 

「2人とも王子様に見えましたよ」

 

 僕と愛は、あははと声を出して笑った。僕は、回転するティーカップとカルーセルの隙間を、シンデレラとプリンス・チャーミングがキャストに誘導されながら手を繋いで歩いているのを見つけた。

 プリンス2人の恋物語は、まだディズニーにはない。でも僕とノアの物語は、ここ東京ディズニーランドから、新たなページを刻んでゆく。見かけだけではなく、ノアのようなプリンスに、僕はなりたい。僕は自分の左手の薬指を見た。小さなダイヤモンドのリングが、この世のものとは思えない輝きを放っていた。

 

 

 

 

 

第2話「マイ・プリンス、アイ・プリンス」終わり

Chapter 2 - My Prince / I, Prince

 

***

 

あとがき

僕はブルネイにバイセクシャルのお友達がいます。

ブルネイでは、厳しいイスラム教の戒律により、

同性愛者の性行為は石打ちの刑にされてしまいます。

そんな恐怖と戦いながら、生きている人もいるんです。

 

 

his

his

  • 宮沢氷魚
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次回予告

第3話「世界はせまい、世界は同じ」

www.sun-ahhyo.info

 

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』

【東京ディズニーランド小説】第1話「ディズニーランドの妖精」

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 この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。

 また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。

 2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。

 

 こちらの小説は作品投稿サイト NOVEL DAYS でもお読みいただけます。

 

***

 

 やってしまった。

 まだ大丈夫、まだ大丈夫と、騙し騙しで気づかないふりをしていた心の糸は、どうやら限界まで張り詰めていたらしい。

 

 夫の何気ない言葉に私は思わずキレてしまった。

 人目を憚らず、感情が溢れ出すままに夫を怒鳴ったあと、私の声に驚いて泣く10ヶ月の息子を抱き抱え、私はレストランを飛び出した。

 9月。風はまだ生ぬるく、残暑の日差しが私の首を容赦なく照りつける。誰かが誤って手放したのだろう、特徴的な形のバルーンがふわふわと宙を舞う。

 ベンチに腰を下ろし、私の胸元でわけもわからず泣きながら熱を放っている息子の汗を拭き、麦茶を飲ませた。慌てて飛び出してきたが、急いで引っ掴んだバッグの中にはタオルやオムツや水筒など、息子のためのものだけは入っていた。

 

「ごめんね、遼くん。びっくりしちゃったね」

 

 私は息子に話しかける。

 その声に安心したのか、ただ泣きつかれただけか、徐々に息子は大人しくなった。

 

 結婚して以来初めて、夫と喧嘩をしてしまった。

 あろうことか、誰もが幸せに包まれるはずの、夢と魔法の王国で、だ。

 

 2020年は地獄の年だった。

 世界的に大流行する新型ウィルスの荒波のなか、医薬品メーカーの営業マンとして働いていた夫・啓太は、不織布マスクや消毒液などの、生産量を大幅に超える突然の需要の増加に、対応を追われていた。納品が全く追いつかず、新興他社に顧客を奪われまいと取引先を駆けずり回って謝罪する日々を送っていた。生産が安定してからは、業界特有のこの景気を逃すまいと、新たな顧客獲得のために休みなく働いていた。

 

 その頃の私はといえば、お腹の中に息子を身ごもっていて、悪阻と日々重くなる体に悩まされながらも、朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる夫のために毎日米を炊き、シャツを洗い、風呂を沸かしていた。

 仕事が忙しいのは決して夫が悪いわけではないし、私が妊娠して働けなくなった以上、夫が張り切るのも当然で、産まれてくる子供のためには仕方ないと思っていた。それでも出産が近づくにつれて疲労と不満は溜まっていった。

 世間は感染症の恐怖に染まり、外出もままならない。そんな中で、毎日のように関東全域の取引先を回り、さまざまな人々と顔を合わせていた夫が、感染する事なくこの一年をやり過ごせたのは、ある種奇跡かもしれない。社内でも取引先でも、近しい人に感染者が出ていたが「マスクをしての会話であれば濃厚接触にあたらない」という理由で、検査を受けることも、自宅待機を強いられることもなく、ただただ戦々恐々とする日々を過ごした。結果としては夫婦共に発症することなく今日までこれたので、本当に運が良かったのだろう。

 妊娠8ヶ月となったちょうど一年前には、流石に私にも限界が来て、 母に来てもらうこととなった。

 母がいなければ私も息子も今ここにはいなかったかもしれないと思うくらいには、気持ちは追い詰められていた。それでも決して若いとは言えない母を田舎から東京に呼ぶのはかなり心苦しい思いだったし、その間滋賀の家で一人暮らしになる父の事も心配だった。

 

「美鈴には元気な赤ちゃん産んでもらわんといかんし、啓太くんも大変だし、これでいいんよ。たまにはお父さんも、一人でご飯くらい用意してもらわんと」

 

 母はそう言って私の申し訳ない気持ちを和らげてくれた。美鈴とは私の名前だ。一方の父は、私が滋賀に帰って来れば問題が解決する、と不満たらたらだったらしい。

 

 息子が産まれたのは11月。予定日の一週間遅れの月曜日だった。

 私は感染症対策のため、立ち合いが不可となった分娩室で、一人で息子を産んだ。こんなご時世だから夫が来たとて立ち合いができるわけでもない。入院中の病室には母が毎日顔を出してくれた。途方もない孤独に包まれながらのこの1週間弱は、母と生まれてきた息子だけが心の支えだった。

 夫は結局、息子が産まれたあと、私が退院する前日まで病院に顔を出す事はなかった。

 

「土曜日か、日曜日に産まれてくれればよかったのに。ああ、でも分娩費用が高いのか」

 

 息子が産まれてから5日後にやっと念願の息子と顔を合わす事ができた夫はそう言っていた。

 母は、本人の前では決して言わなかったが、こんなにも休めないものなのか、と私の前でよく愚痴っていた。出生届など産まれてからの諸々の手続きも、新生児のための服の用意も私の入退院の準備も、全て母がやってくれていたのだ。

 

 産まれてすぐ、父が一度だけ会いに来た。家族で新しい命の誕生の喜びを噛み締めた。結婚式の時ですら大人気なく不貞腐れた顔をしていた父が、初孫をくしゃくしゃの笑顔で抱き上げ、何故か私ではなく夫の肩を叩いて、よくやったと言っていた。その日は2人とも朝まで飲んで酔い潰れ、酒の弱い夫は仕事に支障をきたした。私は息子に母乳をあげながら、父と夫が食べた食器を黙って洗う母を見て、憂鬱な気持ちになった。

 

 息子が産まれて2ヶ月経った1月、母は滋賀に帰って行った。そこからはまたもや私が夫の食事と掃除洗濯をこなさなければならなくなった。

 そこに当然、息子の世話も追加される。

 

 夫は世間的にはいい父親だと思う。

 息子を愛していたし、よく稼ぎ、夜遊びや飲み会もせずにまっすぐ家に帰ってきた。しかしながら、家事は一切やらなかった。

 営業の管轄のエリアが広いために、どうしても帰りが遅くなってしまう事が多く、平日は夕食を食べた後はすぐに眠りにつき、息子が夜泣きしてもなかなか起きなかった。

 

 異動の話が出たのは今年の春前だった。夫は営業から人事部に異動となり、新卒採用の担当を任されることとなった。2ヶ月かけて研修と引き継ぎを行い、その後はIT部と連携し、リモートでの面接や研修のシステムを構築して実用化して、夏から新卒採用の面接が始まった。営業の時よりは、ぐっと帰宅が早くなり、相変わらず家事は全く手をつけなかったが、子供の相手をしてくれる時間が増え、本人も喜んでいた。

 

「う〜ん、くちゃいなぁ。遼くんうんちした?美鈴ちゃん、オムツ取って〜」

 

 誰がどう見ても食器洗い中の私に、夫はオムツを取るように言う。オムツを替えることは出来ても、自分の足で取りに行くという発想がない男なのだ、私の夫は。

 

「洗い物中なんだから、自分で取ってよ」

 

夫は眉をあげて、とぼけた顔をしながら息子に「ママに怒られちゃった〜」と言った。

まただ。何気ない言葉がナイフのように突き刺さる。

私は息子の哺乳瓶を洗う手を止めて、わざと聞こえるように大きなため息をついた。

 

 ある日、私が用意した夕食を食べながら、夫が呟いた。息子ももう9ヶ月を迎える頃で、人間らしい表情を見せるようになってきた頃だった。

 

「ディズニーランド行きたいな。おれ、大学の頃サークルの友達と行って以来だ。遼も産まれたしさ、行きたいな」

 

 それが先月の事である。夫はそういうと、私の意見も聞かずに日程を決め、あっという間にインターネットでチケットを取ってしまった。

 

「なんでまた急にディズニーランドに行きたくなったわけ?」

 

 私が聞くと、夫は

 

「いやさ、今日なんだけど、ディズニーランドでアルバイトしてるっていう大学生の女の子が面接に来てさ、話を聞いてたら久々に行きたくなっちゃって」

 

 と答えた。

 

 その女の子はそんなに可愛らしく魅力的だったのだろうか。それとも、そんなに話術に長けていたのだろうか。

 

「おれも中学生くらいの頃はディズニーの店員さんに憧れてたなぁ。あそこで働いてたら、どんな人生だったんだろう」

「店員さん、ってか、キャストね」

 

 仕事は出来るが、少し残念なくらい天然な夫のことだから、その面接した女の子に下心があるとかではなさそうだし、私も数年ぶりの東京ディズニーランドと、このご時世で満足に外出も出来なかったこの一年半を思い返すと、純粋に楽しみな気持ちになった。『美女と野獣』は私が一番好きなディズニー映画だったし、昨年「美女と野獣 魔法のものがたり」がオープンした時は心が躍った。息子を身ごもっていなければ、1人でも遊びに行っていたかもしれない。

 夫は翌日、仕事帰りに駅前の本屋で東京ディズニーランドのガイドブックを買ってきて、忙しい合間にノリノリで準備をするようになった。

 普段は家事も何にもしない夫が、珍しくお出かけに必要なアレコレを準備しているのを見て、私は特に口を出さずに任せる事にした。

 出発の前日に、大きく膨らんだカバンの中身を見ると、息子のぬいぐるみがいくつかと、フリマサイトでこっそり買ったらしい、もこもこ素材のダッフィーのぬいぐるみロンパースが入っていた。サプライズのつもりだったらしく、私はちょっと怒られたが、私も腹が立っていたので無視する事にした。

 

「さすがに、9月でこれは暑すぎると思うよ。てか、まだ半袖着せてるし。あと、ぬいぐるみ、絶対邪魔だって。他にも持っていくもの色々あるよ?」

 

 カバンの中で二つ折りにされて詰め込まれていたミッキー・マウスとドナルド・ダックを取り出し、代わりに私は息子の着替えとオムツを詰め込む。

 夫は不満そうな顔で息子に「遼くんもミッキーと一緒に行きたかったよねー?」と話しかけていた。

 私も腹を立ててはいたが、ここで感情を爆発させることはしなかった。夫が天然で何も分かっていない事は知っていたくせに、準備を任せっきりにした私が悪い。それに不穏な空気のまま明日のディズニーランドを迎えたくない。気持ちを切り替えて、啓太くん、ごめんね。と夫に言った。

 

「いいよ。明日楽しもうね」

 

と夫は答えた。何が「いいよ」なのだろう。

 

 

 かくして、私たちの初めての子連れディズニーランドは当日を迎えた。張り切って下調べをしていただけのことはあり、夫の立てたプランは比較的完璧だった。

 息子を抱っこしながら乗れるアトラクションはもちろん、授乳室や離乳食を温めることができる場所も、しっかりとガイドブックに付箋を貼ってわかるようにしてくれていた。つい1ヶ月前までキャストを「店員さん」と呼んでいた人と同一人物とはとても思えない。

 問題は、ジャングル・クルーズもイッツ・ア・スモールワールドも、息子はこれといって興味を示さず、ほとんどがお昼寝の時間になっていたことだろう。

 息子はパークを歩いているときに突如現れて手を振ってきたグーフィーに号泣して、グーフィーにあからさまに残念そうな動きをさせ、カントリーベア・シアターでは壁に飾られてある剥製たちが喋り始めた瞬間に泣き叫び、即退出を余儀なくされた。

 逆に、休憩のつもりで立ち寄った、アトラクションとはとてもいえない、トゥーンタウンの子供向け遊具のある公園で、つかまり立ちしながらキャッキャと声をあげて喜んでいた。歩き疲れてぐったりしながらも、その様子を見て私と夫は顔を見合わせて笑った。

 計画とは大きく違う。でも、幸せで楽しい時間だった。私たちが思っていた以上に、ディズニーランドは10ヶ月の息子にはまだ早かったようだ。

 

 事件が起きたのはトゥモローランドにあるレストランでだ。朝早くから動き回っていたので、16時にはもうくたくただった。涼しい店内で、甘いものでも食べようかという話になった。

 

「おれが何か買ってくるよ、美鈴ちゃん何飲みたい?」

「ありがとう。アイスコーヒーでいいや」

「遼、ゼリーくらいなら食べれるかな?」

「うーん、ゼリーなら赤ちゃん用のやつ持ってきてるから。大人が食べるやつはまだあげたくない」

「あの野菜のやつでしょ?なんか美味しくなさそうなんだよなぁ」

「啓太くんが食べるわけじゃないでしょ」

 

 夫はやれやれという顔をして注文カウンターへ向かった。やれやれはこっちだ。

 私は保冷バッグから、夫に「美味しくなさそう」と評された野菜のゼリーを取り出して、息子に食べさせた。

 

 しばらくして夫が戻ってきた。トレーには飲み物とポテト、『トイ・ストーリー』に登場するエイリアンの形をしたお菓子、それからカップのゼリーを買って戻ってきた。

 

「遼のはあるからね、それは啓太くんが食べてね」

 「はいはい」

 

 ポテトを一本つまむ。塩味が疲れた体に染みるようでとても美味しく感じた。

 

「見て見て、リトル・グリーンまん」

「かわいい」

 

 夫は「リトル・グリーンまん」というらしいそれを、息子の額に載せて写真を撮っていた。意味もわからずきゃっきゃと笑う息子。確かに可愛い。

 

「ちょっとトイレ行ってくるね」

 

 私はコーヒーを一口だけ飲んで、トイレに向かった。

 個室で便座に座り込んだ瞬間、どっと疲れが押し寄せるのがわかって、ちょっとだけ目頭が熱くなった。最近はトイレの時間も、なかなか一人になれなかったから。

 

 私が席に戻ると、夫が息子に何かを「あーん」している姿が目に入った。とっさに早歩きで近づき、語気を強めて声をかける。

 

「啓太くん」

 

 明らかにやばい、という顔をした。私の声は相当怒っていたと思う。

 

「ダメって言ったよね?」

「いや、でも美味しかったし、さっぱりしててそんなに甘くないからさ、いいかと思って」

「ゼラチンは赤ちゃんがアレルギー起こす場合があるの。こっちの赤ちゃん向けのゼリーはね、寒天が使われてるから安全なの。そうでなくてもゼリーで窒息の危険とかがあるんだよ」

「ごめん、ごめんて」

 

 ふと、夫がテーブルに置いたゼリーの色が目に入った。私は一瞬背筋が凍るような気持ちになって、さらに怒りを込めながら聞いた。

 

「これ何味って言った?」

 

「……ハニーレモン」

 

 その瞬間、私の中に張り詰めていた糸がプツン、と音を立てて切れたような気がした。

 

「あなた、10ヶ月も父親やってて、乳児に蜂蜜がダメなことも知らなかったの?まだ食べさせてないよね?病気になって、死ぬかもしれないんだよ?」

 

 そこからは止まらなかった。

 自分でもよく泣かずにいられたなと思う。その代わりに、私と夫の間で息子が大号泣していた。

 周囲のゲストの視線も、もうどうでもよかった。怒りが洪水のように押し寄せて、息子が産まれる前から積み重ねてきた我慢や孤独を、全てぶちまけるような気持ちでまくし立てた。

 

 号泣する息子を抱きかかえ、息子のあれこれが入ったバッグをひっつかみ、怒りのこもる足取りで私はレストランを飛び出した。

 

 

 

 そして、今である。

 

 かろうじて、スマホを持ってきていたのは幸いだった。財布も何もかもベビーカーに置いてきてしまったが、とりあえず夫と連絡は取れる。どんな顔して連絡すればいいのかは、ちょっとわからないけど。

 

「遼くん、お散歩しよっかぁ」

 

 抱っこ紐すらない状態で、バッグと息子を抱えて東京ディズニーランドを歩くのは、当然ながら大変だが、いつまでもベンチに座っているのも手持ち無沙汰だと思って移動することにした。

 立ち上がった瞬間、閉まっていなかったバッグの口からタオルやらオムツやらが散乱してしまい、頭がクラクラして再びベンチに座り込んでしまった。

 

 泣きたい。

 

 さっきまでは怒りだった私の感情が、今は切なさに変化している。

 

「あの……大丈夫ですか?」

 

 か細い声が聞こえて私は顔を上げた。キャストに心配されたのかと思ったら、中学生くらいの女の子だった。

 

「ごめんなさい、ありがとう」

 

 少女は私がぶちまけたバッグの中身を拾って手渡してくれた。

 

「もう落ちてないですかね」

「うん、拾ってくれてありがとう」

 

 少女は親切だったけどニコリともせずに、うんうん頷いた。私服だが、白いブラウスに紺のスカートで、学生服みたいに見える。

 

「今日は誰かと来たの?」

「あ、ひとりで……」

「よく一人で来るの?何歳?」

「えっと、初めて来ました。ひとりで初めて来たんじゃなくて、本当に初めて」

 

 少女はそう言いながら周りをキョロキョロと見渡した。

 

「あ、えっと、14歳です」

 

 噂には聞いていたが、本当にひとりでディズニーランドへ遊びに来る人を私は初めて認識した。とはいえ、14歳の少女がひとりでふらっとディズニーランドへ来るなんて本当にあるのだろうか。もともとそういう子なのかもしれないが、若干様子がおかしい気もする。

 

「そう。ディズニーランド好きなの?」

「えっと、友達が自慢してて、羨ましいなぁって」

 

 少女は視線を落とし、うつむきながら口の端だけ笑った。

 

「今年、修学旅行なくなっちゃって、ずーっと楽しみにしてたんです」

「え、どこか遠くから来たの?」

 

 少女は大きく首を振る。

 

「千葉県なんですけど、最初マレーシアの予定が、北海道になって、富士山になって、結局どこにも行けないから、東京ディズニーランドになったんだけど、あたし的にはマレーシアよりラッキーって感じで。初めてだったし。でもやっぱりそれもなくなっちゃった」

 

 私は胸が締め付けられる思いだった。感染症の影響が、ここにも出ている。

 一生に一度しかない14歳の、一生の思い出になるはずの旅行が、得体の知れないウィルスのせいで台無しになってしまっているのだ。

 感染症とは関係ないが、私も結婚式の数日前に妊娠が発覚し、ハワイへの新婚旅行が取りやめになった時のことを思い出した。

 

「赤ちゃん、見てもいいですか?」

 

 少女は笑顔を見せないまま、私に問いかけた。私は驚いたが、泣き疲れて寝落ちしそうになっている息子を少女の方へ向ける。

 

「名前はなんていうんですか?」

「遼、だよ。男の子」

「触ってもいいですか?」

 

 すごく丁寧に確認してくれるなと感心しつつ、私は頷く。医薬品メーカーに勤めながら、帰宅して手も洗わずにハグしようとする夫とは大きな違いだ。

 息子があくびをすると、少女はそれを見てニヤッと笑った。

 

「すごい、荷物いっぱいでしたね。赤ちゃん連れてお出かけって大変なんだ。おむつとかおやつとか、いっぱい入ってた。かばん、重くないですか?」

 

 少女の切れ長で重そうな一重の目が、パチパチと瞬きして私を見た。少女の顔が驚きの表情に変わるのがわかった。

 

「えっ、うわ、大丈夫ですか?」

 

 少女が驚きの声を上げる。私自身も驚いていた。涙が止まらなかったのだ。

 

「うん、びっくりさせてごめんね」

 

 急いでバッグからタオルを出し、涙をぬぐいながらそう答えた。久々に気合を入れて作ったメイクが崩れていくのを感じた。

 

「荷物も重いけど、子供が大好きだから、頑張るんだ。私、お母さんだから」

 

 少女は戸惑いながらも、私の顔を見つめ続けた。不思議な子だなと思った。そして、優しい子だなと。泣いた後は、清々しい気分になることができた。

 

「急に泣いちゃってごめんね、さっき私、夫と喧嘩しちゃって」

 

 私がそう言うと、少女は再びニヤッと笑った。

 

「あたしと一緒だ。あたしも一昨日、お母さんと喧嘩して、それで来ちゃったんです」

 

 やはり人は、話してみないとわからないところがある。人それぞれに大なり小なり何かを抱えて生きている。友達と人並みの思い出づくりもできなくなってしまった、そして親と喧嘩した少女。彼女は日常で抱え込む闇を解放することを期待して、この夢と魔法の王国にたどり着いたのだ。私だって、心の底ではそういうつもりだったのかもしれない。

 

「あなたのお名前は?」

「あ、あたし?ひよ莉って言います」

「ひよ莉ちゃん。可愛い名前だね」

「ママがつけてくれたの。遼くんのお母さんは?」

 

 何か引っかかったが、気にしないことにした。

 

「私のことも名前で呼んでくれるの?おばさんとかでいいんだよ」

「え、だって、ぜんぜんおばさんなんて歳に見えない。あたしは自分の名前が好きだからかも知れないけど、人はみんな名前を持ってるはずだし、呼ばれたいと思ってるんだ」

 

 ひよ莉と言う名の少女はそこで一息つき、続けた。

 

「……と、あたしは思って、ます」

 

 改めて彼女の顔をまじまじと見つめる。どこにでもいそうな中学生の少女。話し方もたどたどしいのに、なぜか芯のあるものを感じる。

 

「美鈴です」

「美鈴さん」

「はい」

 

 ひよ莉ちゃんはまたもやニヤッと笑った。この笑い方が癖なのだろう。

 

「あたしと一個だけアトラクションに行って欲しい」

 

 スマホを見ると私がレストランを飛び出してから1時間は経っていた。メッセージアプリには未読のメッセージが20件ほど入っている。おそらく夫だろう。

 

「夫が困ってるかも知れないな」

「さっき言ってた喧嘩って、美鈴さんが悪いんですか?」

 

 私は目を丸くしてひよ莉ちゃんの顔をみた。100対0で、私が悪いつもりはない。それでもあの場に放置して来てしまったことには少し罪悪感を感じていた。だが、ひよ莉ちゃんの顔を見ると、夫をもう少し困らせてやってもいいような気さえしてしまった。

 

「私は悪くない」

「だと思ったんです。だって美鈴さん、優しそうだもん」

「でもね、夫も優しい人なんだよ。ちょっと天然なだけで」

「あー、空気読めない感じ?」

 

 私は笑ってしまった。今日出会ったばかりの女の子に、ここまで恥ずかしげもなく心を開けるというのは、初めての体験だった。

 

「アトラクション。いいけど、この子も一緒に行けるかな?」

「あー、うん。多分大丈夫だと思う」

 

 ひよ莉ちゃんは私のバッグを持ってくれたので、移動はかなり楽になった。トゥモローランドからシンデレラ城の前の広場を抜けて、アドベンチャーランドと呼ばれるジャングルのエリアへと突入する。

 ひよ莉ちゃんに連れられ、私と息子は「魅惑のチキルーム:スティッチ・プレゼンツ”アロハ・エ・コモ・マイ!”」というアトラクションに入った。

 ハワイの鳥たちをテーマにしたシアター形式のアトラクションで、私が子供の頃に体験したアトラクションと、ベースは同じだがテーマが若干異なっていた。何より『リロ・アンド・スティッチ』のスティッチが登場するらしい。

 

「あたし、スティッチが好きなんです」

「ふーん、なんで?」

 

 ひよ莉ちゃんが言い、私が聞く。

 

「あたしと似てるから?かな」

 

 私はスティッチの映画を観たことがなかったので、深く意味は考えなかった。

 

 部屋が暗くなり、キャストのアナウンスとともに鳥たちが歌い始める。

 南国のメロディは、行けなかったハネムーンを疑似体験させてくれる、というにはさすがに程遠いが、多少の雰囲気を噛みしめることはできた。

 息子が泣くか心配だったが、今日初めてと言ってもいいくらい、きちんと目を覚ましてショーを見つめ、鳥たちが歌うシーンできゃっきゃと笑っていた。スティッチが登場する、少し怖いシーンでは息を飲むように静かになり、私の指を握りしめた。

 

 ショーを終え、建物の外に出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。

 

「楽しかった?」

 

 私が聞くと、ひよ莉ちゃんは肩をすくめながら笑った。

 

「えっと、思ってたのと違ったかな」

 

 すごく正直な子だ。この素直さに惹かれるんだなと思って私も笑った。

 

「ひとりで帰れるの?」

 

 と私が聞くと、ひよ莉ちゃんはスマホの画面をチラッとみた。

 

「えっと、定期圏内だから余裕です。まだ帰らないけど。初めて来たし、閉まるまで遊ぶんだ。美鈴さん、一緒にいてくれてありがとう」

「ううん、こちらこそ。本当にひとりで大丈夫?」

 

 私が心配して聞くが、ひよ莉ちゃんはニヤッと笑って、ブーブーと震える私のスマホを指差す。

 

「美鈴さんの夫さんが大丈夫じゃなさそう」

 

 私はため息をついて、やれやれという顔をして見せた。

 

「楽しかったよ。美鈴さん、なんかママみたいだった。遼くんも元気でね。夫さんと、仲直りしてね」

 

 ひよ莉ちゃんは早口でそういうと、目を逸らしながら手を振って駆け足で去って行った。

 私は暗すぎるアドベンチャーランドの小道に消えてゆく彼女の後ろ姿を目で追いながら、震えるスマホの通話ボタンを押した。

 

「もしもーー」

「美鈴ちゃん、ごめん!!!!!!」

「ご案内いたしまぁーーーす。ウエスタンリバー鉄道はぁーーーー、熱帯のジャングルーーーー」

 

 私の話す声と、夫の謝る声が重なった上に、ウエスタンリバー鉄道のアナウンスが全てをかき消した。私は何が何だかわからなくなり、その場で笑いが止まらなくなった。

 

「美鈴ちゃん、怒ってない?」

「怒ってる」

 

 私は大きく息を吸って、ひよ莉ちゃんの笑い方を思い出し、同じようにニヤッと笑った。

 

「怒ってるよ。ずっと忘れないってくらい怒ってる。でも、今日はもういいよ。いっぱい計画してくれてありがとう。明日帰ったら、守って欲しいこと、手伝って欲しいこと、いっぱい話そう。今、アドベンチャーランドの所にいるから、鉄道に乗って待ってる。一周して帰ってくるまでに迎えに来て」

 

 私はそう言って、夫の返事も聞かずに電話を切ると、息子を連れてウエスタンリバー鉄道の待ち列に並んだ。振り返って魅惑のチキルームの塔を見つめる。 

 ひよ莉ちゃん。彼女は本当に存在したのだろうか。東京ディズニーランドに棲む妖精かなんかだったんじゃないだろうか。

 息子の目にオレンジの明かりの反射がチラチラと揺れている。私が彼の柔らかいほっぺたをつんつんとつつくと、息子はケラケラと笑い声をあげた。

 

 

 

 

第1話「ディズニーランドの妖精」終わり

Chapter 1 - She's An Angel

 

***

 

あとがき

啓太にならないように日々考えながら生きていますが、やっぱり難しいものです。

 

 

 

 

次回予告

第2話「マイ・プリンス、アイ・プリンス」

www.sun-ahhyo.info

#d_advent

本記事は

ディズニー関連ブログAdvent Calendar 2021の 3日目の記事です。

毎年ネタに悩みつつ挑戦するのですが

今回は小説を書いてみました。

 

しきどなさん(@sikitti1118)運営お疲れ様です。来年もよろしくお願いいたします。

 

adventar.org

 

東京ディズニーランド小説『王国の迷子たち』