自分を見つける物語。自分を選ぶ物語。『モアナと伝説の海』の素晴らしさを改めて語る。

ウォルト・ディズニー・アニメーションスタジオ作品の第56作目であり、2018年5月現在の最新作である「モアナと伝説の海」を久々に見返した。

僕はディズニー作品は基本褒めっぱなしで、全然説得力がないけど、この作品はかなり出来が良くて、改めて最高傑作のひとつとして挙げれるクオリティを持っていると思う。

日本だと近年の作品の中では「アナと雪の女王」や「ズートピア」などの作品に比べて地味かもしれないけれど、どう考えてもそれらの作品と同等レベル、下手すればそれ以上とも言えると思う。

 

というわけで今回は「モアナと伝説の海」について語ります。

 

モアナと伝説の海 ザ・ソングス

モアナと伝説の海 ザ・ソングス

 

 

目次

 

あらすじ

遥か昔、半神半人の伝説の男マウイは、全ての島と植物の生みの親である女神、テ・フィティの力の源である「心」と呼ばれる石を奪ってしまう。女神の怒りを買ったマウイは溶岩の怪物であるテ・カァに襲われ、「テ・フィティの心」と彼の唯一の武器である「魔法の釣り針」を失い、無人島に閉じ込められる。「心」を奪われたテ・フィティは力を失い、海じゅうの自然が長い時間をかけてだんだん蝕まれていく。海には「テ・フィティの心」を見つけ力を得ようとする怪物が溢れ、多くの島の人々がその危険性から航海を辞め、禁じてしまう。

モトゥヌイの村長の娘であるモアナは、ある日、島の自然がだんだん蝕まれていることに気づく。祖母のタラの言葉により自身が「テ・フィティに「心」を返すために海に選ばれた少女」だと知らされた彼女は、マウイを探すため禁じられた航海の旅に出る。

 

 プリンセスじゃないプリンセス

近年のディズニーはいくつもの映画で「ステレオタイプなディズニーらしさ」と戦い続けている。

特に「ディズニープリンセス」というのは一部の人たちにとってはかなりネガティブな印象を与えている。

「リトル・マーメイド」に始まり、様々な試行錯誤の期間であった「ポカホンタス」や「ムーラン」を経て、「魔法にかけられて」でふっきれ、「メリダとおそろしの森ピクサースタジオ)」「プリンセスと魔法のキス」「塔の上のラプンツェル」「アナと雪の女王」 でその価値観を根本的に覆そうという試みが見てとれる。その究極であり完成系が「モアナと伝説の海」のモアナであると思う。

 

美女と野獣」のベルや「アラジン」のジャスミンは、王子に恋い焦がれないプリンセスとして従来のプリンセスの価値観を覆したが「プリンセスと魔法のキス」や「塔の上のラプンツェル」はそこからさらに発展しプリンスたちと対等、もしくはそれ以上に行動し渡り合う様子を描いてきた。「アナと雪の女王」ではアナはプリンスに恋い焦がれる従来のプリンセス像に近づけながらも、エルサは恋愛描写を一切描かれない。

 

魔法にかけられて」や「アナと雪の女王」でも「出会ったその日に結婚するのか?」と、ジョーク的に従来のディズニープリンセス像を批判する描写が出てくるが、「モアナと伝説の海」ではそれがより顕著になっている。

中盤、タマトアの住処へ向かう道中、マウイはさんざんモアナをプリンセスとして揶揄する。「可愛い衣装を着て動物のサイドキックがいれば、それはプリンセスだ。プリンセスなんだからプリンセスらしくしろ」と。それはさながらディズニーを批判する批評家たちのようであり、自虐ともとれるが、映画をまるまる見ると、それがそういうプリンセス像との明確な決別の宣言だったのだと見てとれる。

それまでのディズニーは自身のプリンセス像を揶揄しながらも、旧来のプリンセス像を肯定も否定もしない、というような微妙な立場をとっていた。

しかしこの「モアナと伝説の海」は明確に否定する。立場上はプリンセスで、宣伝でも(特に日本では)新たなディズニープリンセスとして公表されていたが、劇中でモアナは「私はプリンセスじゃない」と宣言する。

 

 「自分は誰なのか」という命題

 従来のプリンセス像の否定が、ただ批判を避けるためのポーズであるほどディズニーは甘くはない。

モアナは折につけ、呪文のように「私はモトゥヌイのモアナ」と繰り返す。

これは伝説の存在であるマウイを説得するためにタラおばあちゃんから教わったフレーズの一部である。

 

私はモトゥヌイのモアナ。

あなたは私の船に乗り、海を渡り、テ・フィティの心を返す。

 

I am Moana, of Motunui.

You will board my boat, sail across the sea, and restore the heart of Te Fiti.

 

そして時にその言葉はこう続く。「私は海に選ばれた」(The ocean send me./The ocean chose me.)

 

これらの言葉はタラおばあちゃんから言われただけの言葉であるが、一度も海へ出たことがない彼女にとっては自分を奮い立たせ、これを使命として立ち向かう勇気と理由を与える、支えになるような言葉だった。

これらの言葉は終盤、彼女にとって非常に重くのしかかり、彼女は一度はテ・フィティの心を返すのを諦めてしまう。しかしそこに現れたタラの霊体の言葉によって、自身を見つめ直す。そこには説明する言葉こそないが、モアナは自身が海に選ばれたからではなく、自分がまだ見ぬ広大な海や航海の魅力を選んだから、テ・フィティの心を返すのだと気づく。劇中歌「I am Moana」のそれこそI am Moana.というワンフレーズで、全てを説明してしまう。

 

ここまできて、劇中1曲目の「Where you are」という曲が効いてくる。

どこにいるべきか、自分は誰なのかということは誰かに提示されるものではなく自分で決めるものなのだ。

 

「魔法の釣り針がなければ役立たず(nothing)だ、マウイじゃない」と自身を否定して逃げ出したマウイも、自らそれに気づきモアナのために戻ってくる。

 

劇中のラスボスヴィランとして登場するテ・カァは溶岩の魔物として人々に恐れられているが、その正体はご存知の通りだ。

 

プリンセスでも、村長の娘でも、海に選ばれた伝説の少女でも、半神半人でも、魔物でも、ましてや人間でもない。

自分は誰なのか、自分自身が決める。

他人が貼ったレッテルなど必要ない、貼り付けられるレッテルに立ち向かうという物語なのである。

 

(さっき書いたことと違うように聞こえるかもしれないが、劇中で否定されているような旧来のプリンセス像も、それを間違いとしているわけじゃない。ただ「モアナはそうじゃない」と宣言しているのであって、旧来のプリンセス像も、本人がそれを受け入れているのならば否定されるようなものではない。プリンセスという括りではなく、ディズニーによる「個を尊重する姿勢」が反映された結果だろう。)

 

だからオリジナルタイトルは「Moana」なのであって、邦題もシンプルに「モアナ」にするべきなのですよウォルト・ディズニー・ジャパンさん。

なんで「伝説の海」なんて余計なものをつけちゃったかなぁ。

 

 

異様なまでのテンポの良さ

モアナのテンポの良さは異常である。このテンポの良さは一本の物語の中に小さな起承転結が繰り返されることで成り立っている。

 

背景の説明から船を出発させるまでで1回、出発してからマウイと意気投合するまでで1回、ついにテ・カァのところまで辿り着き問題を解決するまで1回、という形である。

モアナにとっては「島を出ること」自体が悲願であるため、これは序盤であっさり達成されてしまう。How Far I'll Goの楽曲パワーでウィッシュソングと悲願達成を同時にやってのけるのだが、リプライズは単なる悲願達成ではなく悲しみと使命感を抱えている。1回目の起承転結の「結」がここにあたるが、同時に2回目の「起」も兼ねている。

島を出た後、当然彼女は困難にぶつかってしまう。そこから仲間を増やし、戦いを経てお互いを理解し合い立派な船乗りになるモアナの成長を描いたのが2回目の起承転結である。ここにスリリングなカカモラとの戦いと、怪物たちの巣窟である不気味なラロタイでのタマトアとの戦いなど、違うパターンでグッと惹きつけられるシーンを導入したのが功を奏している。マウイの戦闘能力の高さとモアナの適応能力の高さ、機転のききかたを上手く演出できているほか、ここまでの物語上どうしても嫌われ役になってしまうマウイの誤解を解くような流れが自然と導入されている。戦いを経て自身喪失したマウイがモアナと意気投合し、お互いを尊重できる間柄になるまでが2回目の起承転結だ。モアナは立派な船乗りに成長し、マウイは自信と自由自在に変身する能力を取り戻す。

そしてラストの起承転結(承がどっかいってるので序破急って感じか)はテ・カァとの戦いにある。満を辞してテ・カァとの戦いに挑む彼らは一度は敗北を喫する。恐れをなしたマウイは逃げ出してしまい、モアナも自身の「選ばれた」というこれまで支えになってきた言葉に疑問を抱く。前述の通り自らがその運命を「選ぶ」ことで再びテ・カァと対峙するという展開だ。最後の起承転結はもはや、すべてがクライマックスといっても良いくらい連続の見せ場が訪れる。

 

小さな起承転結のそれぞれの見せ場、特に2回目と3回目は「ありきたりなディズニープリンセス映画」を期待して見にきた人たちの度肝を抜くような展開だと思う。

これは本当にディズニー映画なのだろうか?と一瞬疑ってしまうレベルで、教訓やらメッセージ性を差し置いても、なんというか「激アツ」なのだ。

まとめ

「モアナ」はいいぞ。

 

ここまで語れば、この「モアナと伝説の海」がいかに今までのディズニープリンセス映画と異なっているかは想像に難くないだろう。

 

これまでもディズニー映画において、戦闘シーンを導入することは少なくなかったが、ここまで徹底して多く、しかもそれが演出としてダレていないディズニー映画はかなり珍しい。男とか女とかで語るのはあまり好きじゃないけど「ディズニープリンセス物」として敬遠しているような男性が見ても、スリリングでワクワクしてしまう演出が詰まっている。そしてマウイはめちゃくちゃ強くてかっこいいし、モアナの行動力や機転の利き方はそれに負けていない。最後にモアナが一人でテ・カァに立ち向かうシーンで、彼女はマウイがカカモラ戦で見せた船の操縦の仕方をコピーして見せるのだ。モアナの成長と彼女たちの友情に胸が熱くなるシーンである。

 

アナと雪の女王」でも「シュガーラッシュ」でも「ベイマックス」でも「ズートピア」でも、ディズニーは常に新しい価値観の提示を行ってきた。

「プリンセス物」のジャンルとしては完全に「アナ雪」の価値観をアップデートしたし、かつてピクサーが作った「メリダとおそろしの森」よりもエンターテイメントとしての面白さにもさらに磨きをかけた。

 

「白雪姫」から始まったディズニー長編シリーズにおいて、現時点でのプリンセス映画の行き着く先として究極の形が「モアナと伝説の海」であると思う。そう思うとかなり感慨深い。プリンセスだと思って甘く見ていたらボコボコにされてしまうような映画だし、もしまだ見ていない人がいるのなら、ぜひボコボコにされてほしい。

 

ジ・アート・オブ モアナと伝説の海: THE ART OF MOANA (CHRONICLE BOOKS)

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