昨年2018年は「差別」を描いた「サーカス」映画の『グレイテスト・ショーマン』という映画(本国公開は2017年)が流行ったが、遡ること約75年前にディズニー制作の「差別」を描いた「サーカス」映画があったことを皆さんご存知だろうか?
その通り『ダンボ』だ。
誰もが知っているこの名前、このキャラクター。
大きな耳の空飛ぶゾウ。
子供のころ、先生たちが聞き逃さずに聞いて欲しい時に「耳をダンボにして」などとよく言っていたのを思い出す。
今月末、『ダンボ』の実写版リメイクが公開される。
「ティム・バートン監督」という文言を面白さの保証としてみるか、ヴィジュアル的な不安と見るかは人それぞれだが、僕個人的にはその中間くらいで、こと『ダンボ』に関して言えば、アニメ版への思い入れが強いためにちょっと遠慮したいような気になる。
それでもトレーラーを見た限りでは、ティム・バートン世界全開なクセの強さはなりを潜め、大方安心できるような「リアル寄り」なヴィジュアルにはなっている。
それでも、それでも(まだ観てないけど)やっぱり気になってしまうのが実写版がダンボと人間の話になってしまっている気がするところだろう。
月末公開の実写版『ダンボ』を前に、改めて1941年公開ディズニー・アニメーションの『ダンボ』という映画の素晴らしさを伝えたい。
目次
『ダンボ』が描く差別
初期ウォルトディズニー作品は、「主人公たちにこれでもかというほどつらい現実を突きつける」という傾向があるように思う。
『白雪姫』は義母に命を狙われ、『ピノキオ』は悪い大人に騙されサーカスや悪徳遊園地に売られてしまう、『バンビ』は母親を人間に殺される。
『ダンボ』も例外ではない。
ダンボは生まれつきの大きな耳をからかわれ、それに怒った母親は危険なゾウとして檻に入れられる。
「動物が主人公」「母親と離れ離れ」という点では『バンビ』と一緒くたにされがちだが、その内容やテーマは非常に大きく異なる。
『白雪姫』や『ピノキオ』そしてもちろん『バンビ』とも違う、カートゥーン風のコミカルで愛らしいキャラクターデザインながら、描かれているの主なテーマは「いじめ」と「差別」であり、作品に込められた多様性、差別への批判的な姿勢は目に明らかである。
ゾウたちは「ジャンボ・ジュニア」と名付けられた子ゾウを「バケモノ(FREAK)」と表現し、「ダンボ(のろま)」と名付ける。
森の王子として皆に祝福されて生まれたバンビとは大きな違いである。
彼の誕生を心から祝っているのは母・ジャンボだけで、他のゾウたちは格好の暇つぶしと言わんばかりにダンボをからかう。
その時彼はまだ赤ん坊で、他のゾウたちや人間の子供に大きな耳をからかわれていることに気づいていない。
ダンボはサーカスに来た子供が羽織っていた上着をひらひらさせるのを見て喜び、同じように耳をパタパタさせるのである。
ところが事態は徐々にエスカレートし、怒りを爆発させたジャンボが子供を戒めようと暴れ、やがて檻に入れられる。その後一人ぼっちにされてしまったダンボは悲しみにくれ涙を流す。励まそうと声をかけるティモシーの「耳」という発言に反応して、彼は恥じるように身を隠す。
コンプレックスは自然と生まれるものではない。誰かの悪意によって、傷つけられ、深く傷を負うことで作られるのだということがよくわかる。
魔法の羽と黒人差別
本作ではダンボに対する外見差別だけではなく、黒人差別も描かれている。
移動式サーカスの設営現場、嵐のような大雨の中でテントを張るのはダンボたちゾウと、黒人労働者である。
当然のごとくサーカスを取り仕切るのは白人たちである。
サーカスでピエロを演じるのもどうやら白人のようで、座長への不満をぶちまけていたり白人内の使役関係による格差は当然あるようだが、出番を終えた彼らは酒を飲みながら賃上げ要求をしに行こうとする程度には比較的陽気な存在として描かれている。
また避けて通れないのがカラスたちの存在である。
当初木の上で寝ていたダンボやティモシーをからかい、ティモシーの「ダンボが空を飛んだんだ」という仮説を嘲笑っていた彼らだが、ダンボの境遇を知り、彼が本当に空を飛んだことを証明する手助けをする。
黒い体で、肩をいからせて歩き、ジャズをこよなく愛し、南部訛りで話す彼らは誰がどう見ても黒人のステレオタイプである。
また劇中では語られないが、リーダー格のカラスの名は「ジム・クロウ」(Jim CrowでCrowとカラスをかけている)「ジム・クロウ」とは黒人をはじめとする有色人種を差別する法律「ジム・クロウ法」を意味し、元を辿ると「白人が黒塗りをして黒人を演じるショー」のキャラクターの名前でもある。
ジム・クロウの声優はジミニー・クリケットを演じたクリフ・エドワーズが演じているが、取り巻きのカラスたちはホール・ジョンソン・クワイヤという黒人コーラスグループが演じている。
ジム・クロウ法は1964年まで存在していた法律で、映画の公開年は1941年。
黒人差別が当然のように存在していた当時、ウォルト・ディズニーをはじめとする映画製作陣にも差別意識が少なからずあったことは確かだろうし、それを擁護することはできない。
それでも彼らカラスたちがダンボの悲しみに同情し、彼らを手助けする存在として描かれたことに僕は希望を見出したいと思う。
こういう描写は「マジカルニグロ」=「白人を気持ちよくするために手助けをするいい黒人」と揶揄されることもある。
2018年度アカデミー賞を受賞した『グリーンブック』が批判を受ける理由の一つが、その側面を持っているように、黒人差別が生み出した溝というのはとてつもなく深い。
有色人種差別を肌で感じる機会が少ないここ日本では分かりづらいことも多い。筆者自身勉強不足を感じる部分もある。
それでも僕はこの『ダンボ』という作品は、除け者にされ、弱者をあざ笑うしかなかったカラス(=黒人)が、ダンボやティモシーと手を取りあって「サーカスのお偉いさんやゾウたち(=白人)をギャフンと言わせてやろうぜ」という映画であることに、希望を見出したいのだ。
- アーティスト: サントラ,ジーン・オースティン,ナサニエル・シルクレット,ジェラルド・ヒューイ・ラムゼイ,ジョニー・メイ・マシューズ
- 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
- 発売日: 2019/02/27
- メディア: CD
- この商品を含むブログを見る
ティモシーの存在
ただでさえ愛くるしい映画である『ダンボ』をより愛おしくさせる要素の一つがティモシーの存在だろう。
ティモシー・Q・マウスは劇中ダンボを勇気付け、彼をサーカス1のスターへと成長させる手助けをする。
サーカスの座長や他のゾウがダンボへとしでかした仕打ちを知り、ゾウたちを懲らしめ、ダンボに寄り添った初めての存在である。まだ小さな赤ん坊であるダンボを慰め、スターになるためのチャンスを作る。
彼自身天才的な存在ではないため、彼の計画は失敗に終わり、ダンボはサーカスのピエロにされてしまうが、罪悪感を感じる彼はダンボを励ますために檻に閉じ込められたジャンボに会いに行く手筈を整える。
束の間の親と子の再会を見届けた彼は涙を流し、彼らの友情はより強く、そして成功への執念も燃え上がる。
ダンボをいじめるゾウたちに向かって威勢良く彼はいう。
「図体ばかりでっかいくせに、ネズミが怖いのか!」
『ダンボ』の世界ではなぜかゾウがネズミを怖がる(『王様の剣』にも似た描写がある)。
体が小さく、本来弱いはずの彼が、誰よりも勇気を持って不平等な世界に物申し、立ち向かっていく。
赤ん坊でも体の大きなゾウのダンボと、体が小さいのにゾウやカラスに立ち向かうネズミのティモシー。
種族も性格も体の大きさもまるっきり違う二人の友情。
ダンボが話すことができない分、ティモシーの存在がダンボの孤独を明確に代弁し、新たな仲間を見つけ、解決の糸口を見出す。
アニメーション表現
話がずれてしまうけど、アニメーション表現にも触れたい。
ウォルトディズニーが映画化した初期5作はどれも違った特徴があるが、もっとも「アニメ表現的」な映画が『ダンボ』であると思う。
コウノトリが赤ん坊を運ぶ(というと、それだけでアニメ的な表現ではあるが)シーンでは、フロリダの地図が描かれ州境にはご丁寧に州境線が描かれている。
半立体的な地図の上をサーカストレインのケイシーJr.が走る。
ついでに言えばケイシーJr.は生きた汽車であり、車掌の「All Aboard!」のあとを追うように「All Aboard!」と聴こえる汽笛を鳴らす。山道では苦しそうに坂を登る。
(ケイシーJr.は日本未発売の映画『リラクタント・ドラゴン』などにも登場する)
また何と言ってもピンクのゾウのシーンは強烈である。
『白雪姫』の森や魔女の変身シーン、『ピノキオ』のコーチマンやプレジャーアイランドのシーンなど、初期のディズニー作品は恐怖を与えることに手加減がない。
『ダンボ』ではピンクのゾウのシーンが顕著である。また本シーンが他の作品と明確に違うのは「恐怖」と「笑い」が両立しうることを提示した点である。
おどろおどろしい音楽が流れ、キャラクターの目が黒く、彼らの笑い顔は非常に不気味である。が、一方でピンクのゾウたちの動きは実にコミカルで愉快にも見える。
酒の混入した水を誤って飲んでしまったダンボとティモシーは、不思議なピンクのゾウの夢を見るが、夢を見ている時の彼らは、(初めこそ驚くが)恐怖を感じるようでも、快感に浸っているようでもなく、「無」の表情を浮かべる。
製作スタッフが何かしらのドラッグでトリップして観た映像をアニメーションにしたと噂されるこの一連のシーンは、非常に衝撃的で、刺激的な映像である。
(一部は『くまのプーさん/完全保存版』の「プーさんと大あらし」に流用されている)
コンプレックスを翼に変えて。
『ダンボ』はいいぞ。
『ダンボ』は差別描写に批判をうける作品ではある。
『ダンボ』を見ることで、自らのアイデンティティに深く傷を負う人たちがいることも、我々はきちんと見据えていかねばいけない。
表現に甘さがあることを時代のせいだけにするべきではないとは思う。大好きな作品を手放しで褒め称えることができないのを少し残念にも思う。
それでも言いたい。『ダンボ』はすべての除け者たち、被差別者、マイノリティを救い上げる、「ラブコール」であると。
『ダンボ』には除け者にされたカラスたちが、似た境遇のダンボに同情し力を貸すシーンがある。体の小さなネズミのティモシーがダンボに寄り添い、自分より大きな体の連中に立ち向かっていくシーンがある。そして何より、いじめられていたダンボが自分をいじめていた奴らを見返し、コンプレックスであった耳を翼に変えて空を飛ぶシーンがある。
何度も言うが、僕はそこに希望を見出したい。