『Mr.インクレディブル』(原題:The Incredibles)という作品は、監督ブラッド・バードのかなり私的な作品のように思える。
主人公Mr.インクレディブルこと、ロバート(ボブ)・パーがブラッド・バード本人に重なるのである。
ピクサー作品はピクサーという大きな会社でありながら、監督の作家性が大きく反映されているような気がする。
その中でも特に「独自性」が強いのがブラッド・バードだと思う。
今日はそんな、『Mr.インクレディブル』の話。
目次
Mr.インクレディブルの魅力
『Mr.インクレディブル』はめちゃくちゃ面白い。
ピクサーの第6作目であり、ディズニーがマーベルを買収する以前のスーパーヒーロー映画である。
『Mr.インクレディブル』は当初ワーナー・ブラザースで働いていたブラッド・バード監督が、ワーナーで2Dアニメとして製作していた。ところがワーナーのアニメーション部門が凍結されたことにより製作は中止、そこへブラッドの友人であったピクサーのジョン・ラセターが彼に声をかけピクサーにて3Dで製作され完成した。
『スパイダーマン』や『アイアンマン』などでお馴染みとなっている「過去の自分の言動が巨悪を生み出す」というヒーローものセオリーを踏襲したストーリー展開。
バットマンやスーパーマン、Xメンやファンタスティック・フォーなどヒーローコミックの人気キャラクターのいいとこ取りをしたようなヒーロー達が派手に活躍するヒーローチーム映画でもある。
マイケル・ジアッキーノ作曲の007のようなスパイ映画風の音楽、ボンドカーとバットモービルを足したようなギミックのある車、レトロ感のある時代設定もスパイスが効いている。
こう、普通に観ても面白い映画でもあるが、この映画を監督の境遇と重ねあわせてみるとまた違った面白さが見えてくる。
選ばれし者の視点
『Mr.インクレディブル』という映画は、かつてヒーローとして世界を救ってきた主人公Mr.インクレディブルの過去の栄光のシーンから始まる。そして彼が過去のとある事件をきっかけに訴訟され、一般人として冴えない毎日を過ごしているという現在のシークエンスへと映る。
Mr.インクレディブルことボブ・パーは一般人にはない「スーパーパワー」を生まれながらに持っており、その怪力でヒーロー活動をし、それぞれ個性あるスーパーパワーを持った仲間達とともに世界を救ってきた。
主人公ボブは言わば「選ばれし者」であり、一般大衆とは異なる。
そんな彼が時流によって活動を制限され、つまらない人生で見事に中年の危機に陥り、スーパーパワーを持て余しフラストレーションを溜めまくっているのだ。
劇中、ボブや息子のダッシュは妻のヘレンに「普通に暮らすこと」を説かれる。
ヘレンのいう「誰もが特別である」というセリフは、いかにもディズニー的なセリフでもある。
それでもディズニーが描いてきた人々はプリンセスであったり、魔法の力を持つような「選ばれし者」であるのも事実である。
そんな矛盾を突くようにブラッド・バードはダッシュにこう反論させる
「それじゃ誰も特別じゃないってことだ」
ブラッド・バードは天才児であった
このブログでも何度か語っている通り、ブラッド・バード監督は元天才児であった。
彼は11歳から初めて自主制作のアニメーションを作った、それがディズニー社のお眼鏡に適い、14歳にしてディズニーのスタジオで伝説的アニメーターのミルト・カールらから指導を受ける。
ブラッドはカリフォルニア芸術大学を卒業後、念願叶ってディズニーに就職するが、個性を発揮したいという彼の意欲は受け入れられることなく短期間で彼は解雇されてしまう。
その後会社を転々とし、ワーナー・ブラザースにて「なりたい自分になれ」と強烈なメッセージを放つ初監督作品『アイアン・ジャイアント』を発表する。
その後は、前述した通りだ。
『Mr.インクレディブル』に、ブラッドが会社を転々とし、新しい会社で何度も仕切り直しをしてきた過去が反映されていること、そして「異端分子は排除される」という経験が反映されているのは有名な話だ。
ブラッドは天才児として持て囃された過去を、ボブ・パーがヒーローとしてもてはやされた過去と重ね合わせ、さらに『アイアン・ジャイアント』に続き「個性を前面に出すことの何が悪い」と「自分らしくあることの何が悪い」とディズニーに対する恨み節をねじ込んでいく。
自分は選ばれし者、才能のある者。
他の人とは違う。
特別であること、異端児であることの何が悪いのか。
選ばれ”たかった”者はどうなるのか
『Mr.インクレディブル』のヴィラン、シンドロームは「選ばれなかった者」であり、「選ばれ”たかった”者」である。
スーパーパワーを持たずに生まれた彼はMr.インクレディブルの1番のファンとして、彼のサイドキックになることを進言するも、邪険に扱われたことを恨み、ヴィランとなる。
Mr.インクレディブルのような「才能のある選ばれし者」が意図せず生み出してしまった怪物である。
もちろん、僕としてはヴィランとなることを是とする意図はない。
ないが、『Mr.インクレディブル』にはこの「持たぬ者」「選ばれなかった者」へのフォローが一切ないのである。
シンドロームを倒し、平和が訪れる。
世界がインクレディブル一家に感謝をし、ヒーローの再興が検討される。
それで終わりだ。
これは、結局ブラッド・バード自身がMr.インクレディブルであり、選ばれしものであるからかもしれない。
シンドローム=バディ・パインは腐ってもヒーローのファンであり、スーパーパワーを持つ者の理解者である。
そんな彼のような人々をモンスターにしないためのアンサーをブラッド・バードは劇中で示すことをしなかった。
そんな映画は世の中にはたくさんあるし、『Mr.インクレディブル』だけを責め立てても仕方ない。
一方で同じくディズニー傘下のマーベル映画『ブラックパンサー』では、そこのケアがしっかりと描かれていた。新時代のヒーロー映画として、そういうスタンスが続くのかと思われた。
が、問題はそのタイミングで公開された続編『インクレディブル・ファミリー』に於いても、スポットが当たるのはヒーロー達の問題ばかりで、「スーパーパワーを持たざる者」への救いは描かれなかったことだ。
CG映像のクオリティや、女性の社会進出などのメッセージは確かにスケールアップしてはいたし、映画は確実に面白い。けど、惜しさを感じるのはそういう部分である。
もしかするとブラッド・バードは、自分が天才すぎて、才能のない凡人をどう救うかというところまでには関心がないのかもしれない。
天才達の巣窟で
ワーナーで途方に暮れていたブラッド・バードを迎え入れたのがピクサーという会社であったのは非常に良かったのかもしれない。
ジョン・ラセターとはカルアーツ(カリフォルニア芸術大学)時代からの友人であり、彼自身も、会社の上層部に才能を認められず変人扱いされてディズニーを解雇されている。
ピクサーは『トイ・ストーリー』を製作する際、「ディズニー的であること」を嫌い、いくつかのいかにもディズニーらしい描写を禁止した。
また、度重なるディズニーからのアドバイスにより迷走していく作品の出来を、一旦リセットし「ディズニーのいうことを聞かず自由に楽しんで作ること」を心がけて『トイ・ストーリー』を完成させた。
そんな修羅場をくぐり抜けた、ジョン・ラセター、エド・キャットムル、ピート・ドクター、アンドリュー・スタントン、リー・アンクリッチ…それら天才達が存在する職場で「自由に」「個性を生かして」映画を作れる環境は、実にやりやすかっただろう。
『Mr.インクレディブル』では、自らの能力を隠すことなくヒーローとして活躍することのできたボブが、才能を思う存分発揮することでやっと素直になり、自らの過ちをきちんと反省し家族の一員となる。
Mr.インクレディブルがブラッド・バード自身なら、インクレディブル一家はもしかすると、彼を受け入れてくれた天才達の巣窟・ピクサーなのかもしれない。
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