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『スペース・プレイヤーズ』待望の続編。しかし感じるのは、可能性より「限界」

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Space Jam: A New Legacy

 

 

違う。

私が求めていたものとあまりにも違う。

 

いや、お前の求めてるものなんか知らんわという読者の声が聞こえてくるが、ちょっと待ってほしい。

1996年に制作されたワーナー・ブラザースの名作『スペース・ジャム』

その続編にあたる『スペース・プレイヤーズ』(原題:Space Jam / A New Legacy)が本日(8/27)日本で公開され、兼ねてから前作の大ファンであった私は公開初日、仕事終わりに映画館へと向かった。

 

そもそも、前作を超えるクオリティのものはなかなか生み出せるものではないし、

予告編を見た時点から、若干嫌な予感はしていたのである。

 

 前作から25年。

公開してすぐ観たわけではない作品だが、それでも20年は待った、待望の続編である。

 

嫌な予感が当たってしまった。

 

※この記事は現在公開中の映画『スペース・プレイヤーズ』の内容に触れます。

 

目次

「とりあえず出してみた」程度のクロスオーバー

前作『スペース・ジャム』という作品は、実在するNBAのプロバスケットボール選手、マイケル・ジョーダンが、ルーニー・トゥーンズたちの危機を救うために助っ人としてアニメの世界でバスケの試合を繰り広げる映画である。

 

マイケル・ジョーダンというスーパースターと、バッグス・バニーそしてルーニー・トゥーンズたちというスーパースターのコラボレーションにより、それだけでウェルメイドな作りであった前作の『スペース・ジャム』

 

一方の本作『スペース・プレイヤーズ』は前作の設定は引き継がずに、舞台をバーチャルゲームのサーバー内「ワーナー3000」とし、

マイケル・ジョーダンの再来と言われたスーパープレイヤー、レブロン・ジェームズを主演に据えた。

そして、今回コラボレーションするのはルーニー・トゥーンズだけに留まらない。

バットマンやスーパーマンを抱えるDCユニバース、オースティン・パワーズ、マトリックス、マッドマックス、アイアン・ジャイアント、キング・コング、ITのペニー・ワイズにマスクなど、ワーナー・ブラザースが所有する有名なIPをほとんど網羅しているのだ。

(ハリー・ポッター・ユニバースに関しては、色々許可が降りなかったんだろうなというショボい使い方がされている)

 

ワーナー・ブラザース映画の大集合、これは映画好きにはたまらないはずだ。

 

ところが正直、これが上手くいってたかというとかなり微妙な気がする。

レブロンとバッグスは、バスケのプレイヤーを集めるため、さまざまなワーナー映画のユニバースに散らばったルーニー・トゥーンズたちを集めて回る。それぞれの世界観の中で個性豊かなルーニーのキャラクターが暴れ回るのは、それ自体がギャグであり、面白みもあるのだが、

物語の本筋を考えると大きな意味合いや必然性はさほど感じられず、単なるファンサービス程度に留まっている。その割には時間を割きすぎているアンバランス感が強い。

というか、僕は『スペース・ジャム』の続編を期待して観てるので、観たいのはルーニー・トゥーンズたちのハチャメチャぶりであり、他のワーナーのキャラクターたちは、少なくともこの映画では観たいと思わない。

 

また、物語の後半、いよいよバスケの試合が始まったタイミングで集結するキャラクターたちは、あくまでも観衆であり、とりわけ何をするでもない。

何をするでもないのに「居るから気になる」というのが、本筋の試合展開の弱さと相まって、互いに集中力を欠く原因になっている。

 

そもそも、多種多様なクロスオーバー映画は『ロジャーラビット』『レディ・プレイヤー1』『シュガーラッシュ』『シュガーラッシュ:オンライン』と様々な作品が登場しており、とりわけ珍しいものではなくなっている。

『アベンジャーズ』と『ジャスティス・リーグ』が比較されるように、ただクロスオーバーさせる事で観客の興味を引くのでは、結果として残るものが少なく、クロスオーバーの必然性と、クロスオーバーさせることにより生まれるミラクルが見出せるかどうかが、映画の肝となるべきだ。

『シュガー・ラッシュ』シリーズで主人公のひとりヴァネロペを演じたサラ・シルヴァーマンが本作にも出演しているが、これはギャグなのか、ギャグだとしたら普通に滑ってるんだけどどういうことなのか聞いてみたい。

 

ルーニー・トゥーンズを観せたいのか、

ワーナーのIPを自慢したいのか、どっちなのかわからない。両方ならばどちらも失敗している気がする。

 

 

圧倒的な世界観の「狭さ」

プロバスケ選手×ルーニー・トゥーンズという完成した世界観に、ワーナーのIPをこれでもかとブチ込む事によって、物語の舞台の世界や可能性は一見広がったように思える。

 

しかしながら前述の通り、カメオシーンはただの「ワーナーの自慢」に感じられてしまう程度に、物語に奥行きを与えるような効果は得られていない。

その割には割かれている時間が長いために

レブロン・ジェームズとその息子、ドムらを描くシーンもキャラクター同士の「語り」を中心に比較的簡単に核心にたどり着くチープな会話劇が多い。

それゆえに伏線にもならない、後から拾いやすい「キーワード」が多く、それらを全部回収していくので、ある意味では清々しいが、ある意味ではわざとらしく、くどい。

 

使えるキャラクターは増えた。

けど圧倒的な物足りなさはその奥行きの浅さにある。

前作『スペース・ジャム』以上に「父と子」「自分らしさ」という「テーマ」へのこだわりは強く感じるが、レブロンとドムの関係性も、テーマのための、物語の動かしやすい方向へと簡略化され、わかりやすい反面深みがない。

前作『スペース・ジャム』は、馬鹿な展開が多く、泣ける映画ではなかったが、その分実写の登場人物の生活臭や生き様のようなもの、そしてなによりカルチャーへのリスペクトが強く描かれていたはずだ。

 

クロスオーバーをする事で描けた事よりも、本作で描かれなかった部分の方にこそ、映画的なドラマは詰まっているはずで、規模の大きさにとらわれて発想の貧弱さが露わになってしまっていると感じる。

クロスオーバーをさせるならば、必要なのは魅力的にキャラクターや舞台を動かす力である。数が増えるなら尚更だ。

無理なクロスオーバーは、クリエイターの限界ばかりを浮き彫りにする。

バスケ映画ではない

『スペース・ジャム』が極限までルール無視しながらも、バスケ映画としての体裁を保っていた一方、『スペース・プレイヤーズ』はバスケ映画というにはあまりにもバスケへの熱意の感じられない作品になっている。

 

『スペース・ジャム』をバスケ映画たらしめていた部分は、実はトゥーン・スクワッドvsモンスターズのバスケの試合ではない。

そもそも試合は「ルーニーな」戦いであり、ルール無視だからだ。

私が思うに、NBA選手がモンスターズに才能を奪われ、故障者リストに入った事から思い悩むシーンこそが重要なのである。

前章で語った通り、それらのシーンは、直接ストーリーに影響するものではないが、登場人物たちに深みを与える重要なシーンでもある。

才能を奪われた選手達の「バスケのできない自分たちに価値はない」という絶望を、視聴者に提示することによって、より「無関係」であるはずのマイケル・ジョーダンがこの試合に参加する意味合いを深める理由となる。

 

『スペース・ジャム』とは違い、『スペース・プレイヤーズ』には、レブロン・ジェームズが試合に参加しなくてはいけない理由が初めから用意されている。

逆に、「無関係」なのはルーニー・トゥーンズの方である。

彼らには試合に参加することで得られる利点はほぼなく、ヴィランのアル・G・リズムに若干の恨みこそあるが、他のユニバースで隠れて暮らしていればバレなかったはずが、この試合に参加した事で「負けたら消去」という不利な条件を課せられる。

ルーニーらしいといえばらしい。

ただなんとなくバッグスに集められるがまま、試合に参加する。

 

また『スペース・プレイヤーズ』は、バスケのシーンが極端に少ない。

プロバスケ選手も登場するにはするが、結果としてバーチャルのキャラクターに動きをトレースするだけで出番が終わる。

レブロンの息子、ドムがバスケよりもゲーム作りに没頭しており、レブロンが成長することで彼の背中を押すことができるようになるというストーリーのせいで、せっかくプロバスケ選手を本人役で登場させているのに、重要度がガクッと下がっている。

もちろん、NBA選手があえて息子にバスケ以外のことをさせるというのは、多様性というテーマにおいては意味があるのかもしれない。

でも「意味があるのかもしれない」止まりになってしまうのは、結局「バスケが描きたいのか」「ゲーム作りが描きたいのか」わからない上に「でも登場するのは映画やアニメのキャラクター」というまとまりのなさゆえだろう。

欲張ったのに、足りないものだらけ

『スペース・プレイヤーズ』における私の感想はこんなところである。

 

IP大量投入の物量的映画であるし、映画のメッセージもそれなりに一貫したものが、わかりやすく提示されているので、一定の支持は得られる作品だと思う。

『スペース・ジャム』の世界観を踏襲してない割には、前作を踏まえたセリフがギャグとしてあったり、ハーフタイムのカメオ出演は大いに笑った。前半のクロスオーバーでもいくつか笑ったシーンはある。

 

それでも、全体的には散漫でまとまりがなく、私が映画に求めるような部分がことごとく欠如しているような違和感が感じられる映画だった。

ルーニーらを3Dにして、舞台をバーチャルのゲームにしたからって、最新になるわけではない。やってることは全然新しいわけでもない。

その割にはルーニー・トゥーンズの使い古されたようなクラシックな面白さに真面目に向き合っているようにもあまり感じられなかったのも残念なところである。矛盾しているように聞こえるかもしれないが。

 

私は『スペース・ジャム』が大好きだ。

だからこそ、『スペース・プレイヤーズ』が好きになれない。

続編ありきの映画ではなかったが、

結果として20年待ってしまった身としては、とても寂しい作品となった。

 

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