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『フリー・ガイ』自由のための戦い。そして「ディズニー的在り方」への肯定と否定。

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フリー・ガイ (オリジナル・サウンドトラック)

 

2021年日本で劇場公開された20世紀スタジオ作品としては『ノマドランド』以来の2作目となる本作『フリー・ガイ』

20世紀FOXがディズニーに買収されてしまった後、日本法人もウォルト・ディズニー・ジャパンに吸収され、よくある流れで本作は配信かDVDスルーあたりにされてしまうのではと危惧していたが、意外や意外、夏休み映画がひしめくこのタイミングにしっかりと本作を劇場公開してくれた。

これは主演のライアン・レイノルズが過去に出演した『デッドプール』や『名探偵ピカチュウ』が日本でもヒットしたおかげかもしれないし、20世紀スタジオジャパンの残党のみなさんが頑張ってくれたからかもしれない(ウォルト・ディズニー・ジャパンに関しては一切信頼していない)

 

『ワイルド・スピード/ジェット・ブレイク』『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』『竜とそばかすの姫』『僕のヒーローアカデミア劇場版』『クレヨンしんちゃん劇場版』と、大作や話題作が多い中、オリジナル新作映画としてはなかなか健闘しているんじゃないだろうか。

 

前評判もよく、主演と制作で携わっているライアン・レイノルズの悪ふざけとしか思えないトレーラーも非常に面白く、期待値もそれなりに高かった本作。

それでもちゃんと、期待値を超えてくる面白さを提示してくれた。

 

 

本映画はネタバレ絶対厳禁映画だと思っているので、まだ未見の方は速やかに回れ右してほしい。

 

※本記事は現在公開中の映画『フリー・ガイ』の核心的なネタバレを含みます。責任が取れないので、未視聴の方は絶対に読まないでください。

 

目次

 

あらすじ

大ヒットオンラインゲーム「フリー・シティ」の中の「モブ(背景)キャラ」として生きる主人公・ガイは何の疑問も持たずゲームの中の「やられ役」としての役割をこなす日々。

それがある日、とあるプレーヤーとすれ違ったことから恋の意識が芽生え、ただ与えられた役割としてではなく、行動を起こすようになる。

 

その「とあるプレイヤー」であるミリーは、現実世界で友人のキーズとともに制作したゲームを盗用されたとして、「フリー・シティ」を発売している会社スナミ社に対し訴訟を起こしていた。盗作である決定的な証拠を掴むために日々ゲームに参加していたのである。

ガイとミリーはゲーム上で交流を深めていくが、現実世界では本来モブキャラであったガイがヒーロー活動を行っていることに対して「ブルー・シャツ・ガイ」として注目を集めるようになっていた。

当初は「ブルー・シャツ・ガイ」の存在が金になると踏んだスナミ社長・アントワンであったが、ガイの影響により続編の予約が不調になったことから、どうにかしてガイを止めようと企みはじめる。

 

自由意志の尊重

あらすじを読むと、本作はゲーム版『トゥルーマン・ショー』のような作品に思える。

意図的に意識したようなオマージュを感じられる作品となっているし、本作『フリー・ガイ』も、『トゥルーマン・ショー』も、自由意思の尊重を描いた物語であるという共通点もある。

 

『トゥルーマン・ショー』は生きた人間であるトゥルーマンを主人公としていたため、ある種、避けようのない自由意志が必然的に発生し、それらを番組制作側が基本的には「断念させる」ような方向でコントロールを行っていた。生きた人間を利用したリアリティショーだったからこそ、この劇中作品のグロテスクさは(コメディとして中和されているとはいえ)とてつもないものがあった。

一方の『フリー・ガイ』は、主人公はゲームのNPC(ノン・プレイアブル・キャラクター)であり、だからこそ本来であれば自由意志など全くなく、決まった操作を延々と行い続けるだけの「歯車」としてのキャラクターであるというのが特徴だろう。

ガイの中に密かに組み込まれていた「成長するA.I」システムが、とあるトリガーによって稼働し、彼が世界の注目を集めるほどの行動を起こすようになる。

 

「自由」と「選択」はディズニーの永遠のテーマ

私はディズニー映画において「自由」と「選択」は、永遠のテーマであると思っている。

自身の「選択」により事件に巻き込まれ、善悪を学んでいく『ピノキオ』であったり、従来の枠組みにとらわれないプリンセスたちが他者に影響を与えていくルネサンス期の作品だったり、『アラジン』は強力な魔法を持ちながらも縛られて生きるジーニーにスポットを当て「自由」を表現した。

ディズニー+のMCUドラマ『ロキ』では、「我々の選択は予定されていて、その行動に意味は存在しないのか」という疑念をもたらすし、MCU映画『ブラック・ウィドウ』も、ジェンダーの観点において「コントロールされる女性の解放」を描いた映画である。

 

そして、ディズニーに買収された20世紀スタジオが作る本作『フリー・ガイ』はそういう観点で見ると実にディズニー作品的な映画である。

 

A.Iプログラムの作動により自由意志を持ち始めたガイは、徐々にゲーム内に登場するキャラクターにまで影響を与えていく。そして、プレイするユーザーにまでも「モブキャラのことなんて考えたこともなかった」と、考えや行動を改めさせる。

 

自分という存在はなんなのか、自分の選択や行動に意味はあるのか、それでも自らの意思に従って行動する。それが、普段ヒーローから相手にされない「モブキャラ」のような存在であっても。

『フリー・ガイ』には、そんな「何者でもない私たち」ですら、自由と選択の権利があり、「ありのまま」を肯定できる、そして、自らの意思で、行動でヒーローになることだってできる、そういうメッセージが描かれている。

 

本作はディズニーが20世紀FOXを買収する前から計画されており、新型コロナウィルスの流行が起きる前の2019年に撮影がスタートした。

それが、感染拡大に伴い、劇場公開は延期され本年やっと公開されたが、(日本はともかく)ある程度感染拡大が落ち着き、日常を取り戻しつつあるアメリカ本国にとっては、長い長いロックダウンの生活により、日常をコントロールされた後の、「自由と解放」を感じられるこの時期に公開されたのは、観客にとってかなりカタルシスをもたらす清々しさを感じさせたのではないだろうか。

(逆に、ロックダウン中に無理やり公開されていたら内容的には不適切だったかもしれない)

 

新型コロナウィルスは現時点でもまだ予断を許さない状況だが、このような作品をやっと見ることができたのは実に嬉しい。

 

クリストフ・ベックの存在

この映画、気のせいかもしれないが音楽を担当したクリストフ・ベックの存在が異様に強調されているような気がする。

クリストフ・ベックは主演のライアン・レイノルズと同じくカナダ出身で(出身地はモントリオールとバンクーバーなのでだいぶ離れているが)、ディズニー映画においては『アナと雪の女王』の作曲家として知られている。

そのほか『アントマン』『ワンダヴィジョン』など、参加作品の多い売れっ子作曲家だ。

 

劇中、ガイがレベル上げをしているシークエンスにおいて、『アナと雪の女王』のアナのドレスを着た少女をガイが救い出すシーンもあり、作曲家のクリストフ・ベックへの「目配せ」のようなものも感じられた。

そもそもライアン・レイノルズが制作・主演をした『デッドプール2』では、『アナと雪の女王』の劇中歌「雪だるまつくろう」(原題:Do You Wanna build a snowman?/作詞作曲はロペス夫妻)をネタにするなど、『アナ雪』いじりは繰り返しネタにされてきてはいる。

 

上記のイースターエッグはさておき、本作で注目すべきは、この『フリー・ガイ』という作品を最後まで見ると、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ短編作品の『紙ひこうき』に似た要素を持つという所だろう。

 

『紙ひこうき』は、2012年アカデミー賞短編アニメーション賞を受賞した作品で、『シュガー・ラッシュ』に併映された。

とあるビジネスマンの青年が、駅で出会った女性に好意を持ち、その女性が向かいのビルにいることに気づいたために、自らの存在・好意に気づいてもらうために向かいのビルに向けて紙ひこうきを飛ばし続ける、という物語である。

やがて紙が尽き、青年が諦めたところで、今まで飛ばしてきた紙ひこうきたちが意志を持ち、彼ら二人を繋げるという、近年のディズニー短編の中でもなかなかの名作である。

この、セリフの一切ない作品の音楽を担当したのがクリストフ・ベックでもある。

 

『フリー・ガイ』におけるガイの存在とは「紙ひこうき」そのものである。

物語を通して、A.Iであり、ゲームの中の存在でしかないガイと、現実の女性であるミリーは互いに惹かれあっていくが、「なぜガイがミリーに惹かれたのか」というロジカルな理由が劇中で説明されており、それが「本当の愛」の存在に気づくきっかけとなるのだ。

とある二人の存在をつなぐきっかけとなるのが、真の主人公が思いを込めて飛ばした「紙ひこうき=ガイ」なのである。

 

 

ディズニーを肯定しつつ、否定する

『フリー・ガイ』は、上記イースターエッグの他にも、

データを初期化され記憶をなくしたガイの記憶を蘇らせるトリガーが「キス」であったり(「真実の愛のキス」)、

我々MCU、そしてスター・ウォーズファンを大興奮の渦に巻き込んだクロスオーバーとカメオ出演など、20世紀スタジオの作品ながら、様々な方法で「ディズニー作品」を肯定してみせ、視聴者を喜ばせる「笑い」を提供している。

 

しかしこれらはあくまで「ディズニー作品」や「クリエイター」へのリスペクトであるように感じる。というのも企業としての「ディズニー」のあり方には徹底した否定の姿勢がこの映画では観られるからだ。

 

つまりは本作のヴィランであるタイカ・ワイティティ演じるアントワンの描き方が、金にがめつく、プライドのない悪徳企業としての「ディズニー」を批判的に描いているように感じる。

 

アントワンが声高に語る「金儲け主義」「続編至上主義」はまさに近年のディズニーにおいて、多くの批判を受けている。

物語の続きが先にあり、クリエイターが率先して制作していくのであれば、語られる意味もあるだろうが、多くの場合は、金勘定する上層部によって先に続編の企画が決まり、クリエイターは決定事項に対して(時には首をすげ替えられながら)全力を注いで製作していくというシステムになっている。

クリエイターがそこに妥協を許さないからこそ、いくつかの作品は続編でも名作となってはいるが、本来必要でなかった、完結した物語に無理やり物語を付け加える好意が正しいかどうかは私にもよくわからない。

 

しかも、劇中で2日後に発売予定の「フリーシティ2」は、発売目前ながら様々な面で完成には至っていない、クオリティの低い状態であることが明示されている。

 

それ以外にも、訴訟を起こされても強気な姿勢、まともに報酬を払おうとしない姿勢、気に入らない人物をすぐクビにする姿勢などなど、ピンとくる人にはピンとくる。

スカーレット・ヨハンソンも、すごいタイミングで訴訟を起こしたもんだと感心する。

 

そんなディズニーだが『フリー・ガイ』の大ヒットを受け、『フリー・ガイ』の続編を決定というのだから、本当に面の皮が厚いというか、マジでこの映画の意味がわかってないんじゃないだろうかと不安になってくる。

さすがだよ、ディズニーさん。

edition.cnn.com

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まとめ

『フリー・ガイ』本当にすごい映画である。

私自身はオンラインゲームに造詣が深くないこともあり、劇中にこれでもかと散りばめられていたであろう、ゲーム要素のイースターエッグやオマージュには全くもってピンとこなかったわけだが、それを抜きにしても、ひたすらに楽しめる作品だった。

 

『デッドプール』のライアン・レイノルズが作る悪ふざけ作品というにはあまりにも多層的で、観客の心を掴む力が抜きん出ている。

「20世紀スタジオが作ったディズニー観を持った作品」としても、まだディズニーフランチャイズとしての20世紀作品が少ない時期だからこそ、より価値がある作品だと思う。

 

冒頭に語った『トゥルーマン・ショー』だったり、ゲームの世界を舞台とした『レディ・プレイヤー1』や『シュガー・ラッシュ』だったり、『紙ひこうき』だったり、オマージュが含まれている分、既視感がないわけではない。

それでも、ここまでふざけているのに、この映画には発見と驚きと、伝えたい軸なるメッセージが詰まっている。私はそこに既視感を超えた感動を覚える。

 

この記事を読んでいる人はもう、映画見た人だけだと思うので、

「是非見てください」とは言わない。

 

楽しかったね『フリー・ガイ』

 

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