この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。
また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。
2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。
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9年ぶりの東京ディズニーランドだ。私は車椅子に座る姉を連れ、ワールドバザールのショップにいた。今時の女の子がつけそうな大きなリボンがついたピンクゴールドのカチューシャを手に取り、姉に渡す。
「お姉ちゃん、ほらこのカチューシャどう?」
「ん……」
姉はカチューシャを受け取りはするが、つける様子はない。私は色違いのシルバーのカチューシャを手に取り、自分の頭につける。鏡に向かって、顔の向きを変えながら、似合う角度を探る。
「私はこれにしようかな」
「私、それがいい」
「これ?シルバー?」
「そう」
姉はピンクゴールドのカチューシャを私の手に押し付け、シルバーのを奪った。
「お揃いにする?」
「ううん、愛はピンクを付けて」
「わかった」
正直、東京ディズニーランドなんて滅多に来るような場所ではない。ここでしか付けられない、付けることのないカチューシャをわざわざ買うのは、もちろん「記念だから」とか「思い出づくりのためだから」という意見もあるだろうが、私たちにとっては無駄だし、非常に痛い出費だ。
私はレジでピンクゴールドとシルバーのカチューシャをひとつづつ購入した。タグを切ってもらい、シルバーを姉に渡す。私がピンクゴールドをつけて自撮りすると、姉は私の服の裾を引っ張って言った。
「やっぱり私がピンクにする」
「いいよ。かわいいもんね、ピンク」
姉とカチューシャを交換する。店を出てゆっくり車椅子を押しながら、どのアトラクションならば姉でも体験できるのか考えながら歩いた。
姉が車椅子生活を強いられるようになったのは、あの事故がきっかけだ。
忘れもしない中学1年の冬。吹奏楽部の部員だった私は、バスクラリネットの奏者として関東大会に臨んだ。私たちの住む木更津から遠く離れた宇都宮にあるコンサートホール。結果は1回戦落ち。私たち吹奏楽部は「関東大会まで頑張ったご褒美」として、半日だけ、部活動のメンバー全員で東京ディズニーランドに遊びに行くことが許された。
事故の報せを聞いたのは、私が部活の仲良しグループの友達と「ピーター・パン空の旅」に並んでいる時だった。当時はまだギリギリガラケーが主流だった。バイブの音が響き、電話にでると顧問の先生が今すぐ集合場所に戻るように言った。私にだけ。
白と赤のコカコーラ色のレストランの、外のベンチで座っていた先生は私にこう言った。有田さん、あなたのお父さん、お母さん、お姉さんが乗った車が、トラックに衝突して事故にあった。いま病院で治療を受けているから、私と今すぐ行こう、と。
両親と姉は、私の関東大会を観に宇都宮まで来ていた。大会のあと一泊して帰る途中で事故に巻き込まれたらしい。私は顧問の先生とともに家族が治療を受けている病院へと向かった。だが、私が病院へ着く前に、父はもう亡くなっていた。
結果的に生き延びたのは後部座席に座っていた姉だけだった。その姉も、衝突した弾みで脊髄をひどく損傷し、下半身が全く動かない後遺症を患うこととなった。
それまでは、姉は学校のクラスのリーダー的存在で、次年度の生徒会長候補に名前が挙がるほど、同学年の生徒からの信頼が厚い生徒だった。社交的で、うまく周りを取りまとめることができ、校内のヤンチャな不良グループからも一目置かれるような存在だった。当時同じく生徒会長候補に名前が挙がっていた美男子かつ成績優秀な男の子がいて、学内では彼と交際しているという噂が広まっていた。実際はそんなこともなかったようだが。それが、事故以来、姉はがらっと性格が変わってしまった。
学校に行かなくなり、成績は落ち込んだ。人と話すことが極端に減り、話す内容も稚拙で中身のないことや、感情を爆発させるようなことが増えた。わがままが多くなり、私がいないと何もできない人間になってしまった。半身不随なのだ、もちろん少なからず誰かのサポートが必要だろう。でもそれ以上に精神的に、姉は私に依存するようになった。
でも、そもそもの原因は、私だ。
9年前、東京ディズニーランドから病院に行くタクシーの中で、私は自分を責めて泣き続けた。私が吹奏楽を始めたりしなかったら。関東大会に出場しなかったら。両親と姉がわざわざ鑑賞に来なかったら。あの事故は起きなかったのだ。姉は今でも健常者で、両親がこの世を去ることもなかったのだ。
姉の依存は、重い。身体的にも精神的にも負担がかかる。それでも、私が姉を支える義務が、そして使命がある。
東京ディズニーランドは9年前と大きく変わった部分もあるが、所々で同じ景色を見せてくれていた。それはつまり、9年前のあの事故と電話を、いやでも思い出させていた。友人と遊んで楽しかったきらきらと輝く瞬間、それが一瞬で恐怖と不安に変わったあの電話。私は少し身震いして、呼吸を整えた。
東京ディズニーランドのアトラクションは比較的バリアフリー化が進んでおり、かなり多くのアトラクションを脚の動かない姉でも体験することができた。身体障がい者やサポートが必要なゲスト向けに「インフォメーションブック」という冊子が用意されており、それぞれのアトラクションの利用基準が記されていた。
「あ、あれ行きたい」
イッツ・ア・スモールワールドを出て、ファンタジーランドをゆっくり歩いていると、姉がとあるアトラクションを指差した。私は心臓がギュッと掴まれるような衝撃が走って鼓動が早くなるのがわかった。「ピーター・パン空の旅」だ。私は深呼吸を繰り返し、動揺が気づかれないようにインフォメーションブックに目を落とした。「ピーター・パン空の旅」の項目に『自力歩行が必要』の文字を見つけて、ほっと一息つく。
「あれはまた今度だね。もっと楽しいのがあるよ」
「う。でも行きたい」
「うん。お姉ちゃんピーター・パン好きだもんね。じゃあピーター・パンのグッズ、何か探そうか」
姉が癇癪を起こさないよう「ダメ」という言葉を使わないように配慮しながら、なるべく姉の注意をそらす。たまたま入ったショップでキャストにピーター・パンのグッズがあるかと尋ねると、ついでに「ミッキーのフィルハー・マジック」というアトラクションにピーター・パンのシーンがあることも教えてくれた。シアター形式なので、車椅子からの乗り換えも必要なく、楽に姉のピーター・パン欲を満たすことができた。
そういえば、私自身も9年前、「ピーター・パン空の旅」に乗れずに終わっているんだな、ということを思い出した。きっと、もう2度と乗れないだろうな、とも。
そもそも、私が「東京ディズニーランドに来る」という事自体、かなりの葛藤があった。私自身トラウマを抱えながら、身体の不自由な姉を気遣いながら、楽しめる気が全くしなかった。
今年の7月頃のことだった。ある日私が仕事から帰ると、姉は朝8時のニュース番組を観ていた。私の仕事はいわゆる「ガールズバー」というやつで、夕方に出勤して男性客と会話をしてしこたまお酒を飲ませて朝方に帰宅する。私が成人するまでは祖母が頻繁に家に来て姉の介護をしてくれていたが、今は私が働きながら世話をしている。
「おかえり」
「ただいま。ちゃんと規則正しく起きて偉いね。パンツ替えよっか」
姉は頷いて、自分でベッドの上にオムツ替えシートを広げ、器用にベッドの上に横になった。半身不随のため、排泄の感覚がなく基本は垂れ流しになっているため、姉はオムツを履いている。帰宅後、仮眠を取るまでの間にオムツ替えをしてあげるのは私の役目だ。
「CMのあとは、あの人気お笑い芸人とディズニー大好きアイドルが東京ディズニーリゾートの最新情報をお伝えします!通ならではの楽しみ方と今だからこそ楽しめるポイントを一挙公開!お見逃しなく!」
テレビは報道からワイドショー的な内容に切り替わっていた。私はテレビを消そうとするが、姉がその手を制止する。
「愛ちゃん、私これ観たい」
私は仕方なくチャンネルをそのままにした。CMが明けると東京ディズニーリゾート 特集が始まる。ディズニーにやたらと詳しい人気男性アイドルが進行をつとめ、事あるごとにお笑い芸人がボケを披露する。姉はお笑い芸人のボケに反応して、珍しく声を出して笑っていた。
「ディズニーランド行ってみたい」
ぽつり、と姉が呟いた。私は動揺を隠しながら汚れたオムツを黒い消臭ビニール袋へと入れる。
「行ったことあるよね。私が生まれる前」
「2歳の頃のこととか覚えてないよ」
そりゃそうだ。と思いながら、私はこの危機をどう乗り越えようか考えあぐねていた。ニュース番組のディズニー特集が終わると、姉はHDDを起動し、録画した昼の情報番組を再生した。こちらにも、先ほどのディズニー通男性アイドルが映っている。
「昨日、この時間寝てたでしょ。録っておいたよ」
「ありがとう。頼んでないけど」
「ねぇねぇ。ディズニーランド行こう?」
オムツを替え終わった私は台所で手を洗った。シンクに向かってため息をついた後、姉の方に向き合って、尋ねる。
「ちょっと先でもいい?9月とか。今仕事が忙しい時期だから休み取れなくて」
姉は久々に嬉しそうな顔を見せ、うんうん頷いた。
私は口元だけにっこり微笑んで、インスタグラムで高校の同級生にメッセージを送る。
『瑠奈ちゃん、久しぶり。まだディズニーで働いてる?うちのお姉ちゃんが行きたいって言ってるんだけど、今ってチケットってどうやって取るのかな?』
私は顔を上げて、ちょっと目を閉じた。とりあえず今日は今から昼まで寝よう。そして、明日考えよう。
すべては、姉のためだ。
そうしてこうして、私たちは今東京ディズニーランドにいる。姉は初めての東京ディズニーランドを満喫していた。車椅子のゲストが待ち列に並ぶことなく、待ち時間を他の場所で過ごすことができるようなサービスもあるにはあったが、姉は待ち列のプロップスを見て回りたいのだ、どうせ待つ時間は変わらないのだからと言い張って、そのサービスを使うことは拒否した。
カントリーベア・シアターでは絶妙にリズムを狂わせながらも楽しそうに手拍子をしていた。元吹奏楽部の私としては、きちんと叩いて欲しかったけど。
ホーンテッド・マンションでは、乗り場にたどり着くまでの部屋で、なにやらぶつぶつと呪文のような言葉をつぶやいている男性ゲストを見つけた。周囲の女性ゲストにクスクスと笑われている。連れがいる気配はない。彼もまた、精神に何かを抱えているのだろうか。姉は私の袖を引っ張り注意を引くと、耳を近づけるように言って囁いた。
「このセリフ、ここで流れてるんだよ。YouTubeで聞いたことある。すごいね、覚えてるんだね」
というのも、パンデミックにより一時的にこの部屋は素通りする仕様に変わっているが、本来ゲストはこの部屋に閉じ込められて、このアトラクションのストーリーを補足するショーを見ることになっているらしい。彼がつぶやいていたのは、その時のナレーションだそうだ。
発達障害を抱えている人は、複数のことを同時に処理するのは得意ではなくても、何かを丸暗記する事だったり、単純作業を猛スピードでこなすことだったりは得意であると聞いたことがある。彼が発達障害の類であるかどうかは私にはわからないけど。あの女性グループのように「変な人だ」と決めつけてクスクス笑うのではなく、姉のように「すごい」と評価できるようになるのは大切かもしれないと思った。人は見かけだけではわからない。ライドに乗り、動き出すと、姉はいちいち「ひゃあ」と声を上げながらも、身を乗り出すようにゴースト達を眺めており楽しそうだった。
カリブの海賊では最初のドロップの存在を知らずに大きな悲鳴をあげ、後半はずっと私にしがみついていた。そのせいか、姉はカリブの海賊を出た後は急にテンションが落ち込み、黙るようになった。
「どうしたの?」
「なんでもない」
一応、利用制限としてはビッグサンダー・マウンテン以外の絶叫系は、車椅子のゲストでも乗り換えができれば可能となっているけど、この様子だと無理だろうなと私は思った。あのたった1回のドロップでこの表情なのだから、スプラッシュ・マウンテンに乗ったら死んでしまうかもしれない。
14時ごろになると、お腹もすいてきたので、周辺で空いているレストランを探した。奥まったところにあって、2階席があり比較的空いていたキャンプ・ウッドチャック・キッチンというレストランでお昼ご飯を食べてたら、なんとそこでばったり姉のケースワーカーに出会ってしまった。
「川島さん?」
私は明らかに気まずそうな顔をした担当ケースワーカーに声をかける。気まずいのはこっちだ。川島さんは高身長で黒髪の、優しいけどちょっと暗く見えるケースワーカーだ。親身になって話を聞いてくれるが、仕事として折れることができない部分は絶対に折れない芯の強いところがある人だった。
「この、今日遊びに来たのは、たまたま友人からチケットをもらって。本当に贅沢はしていないので……」
余計な一言だったかもしれない。チケットを取るのに友人の助けは借りたが、お金は私の給料から出した。だからこれは嘘だ。生活保護をもらっていながらディズニーランドに遊びにきていることを咎められるかと思ったが、そんなことはなかった。
川島さんはノアさんという、川島さんよりももっと背の高い、白人男性と一緒に遊びに来ていた。後々わかったことだが、彼らはなんと同性ながらも交際中で、私たちはディズニーランドで川島さんが彼にプロポーズし、結ばれるところを目撃することとなった。
川島さん、ノアさんのカップルと別れた後の姉は、カリブの海賊で落ち込んだ気持ちもずいぶん回復したようで、上機嫌だった。ノアさんにプリンセスのような扱いを受けてお姫様抱っこしてもらい、さらには目の前で素敵なプロポーズを見せられ、確かに私も自分がドラマの中にいるような気持ちになっていた。
「ノアさん、すごく格好よかった」
トゥーン・タウンにあるベンチで休憩していると、姉は繰り返しそう言っていた。私も本当にね、と相槌を打つ。ベンチから立ち上がり、周囲をキョロキョロと見回し、トイレを探す。
「ちょっとトイレ行きたい」
私はそう言って、姉を連れてトイレ前まで移動した。ここで待っててね、と言ってから、姉を置いて女性用トイレに入る。女性トイレの入り口前にはやたらとボインな女性アニメキャラクターの看板が出ていた。ディズニーにもこんなキャラクターがいるんだな。個室に入って、ほっと溜息をついた。何だか色んなことが起こる日だと思った。用を足し、メイクを直し、トイレを出る。
「お姉ちゃん?」
姉が居なくなっていた。トゥーン・タウンは色々なギミックのある公園のような場所になっているので、そこらへんで遊んでいるのかと思ったが、見当たらない。ショップにも行ってみたが姿はなかった。「ロジャー・ラビットのカートゥーン・スピン」というアトラクションのキャストに聞いてみると、基本的に車椅子のゲストは同伴者がいない場合、乗車を断っているそうで、アトラクションには居なさそうだ。迷子センターは基本的に小学生以下が対象ではあるが、サポートが必要なゲストに関してはその限りではないということだったので、キャストが迷子センターとセキュリティに連絡してくれた。
「すみません、園内放送とかはできないんですが、私たち無線で連絡を取り合っているので、きっと見つかりますよ」
「ご迷惑をおかけします。すみません」
私は、川島さんにも念のため連絡を入れた。キャストには特徴こそ伝えているが、川島さんは姉をよく知ってくれている。助けになるかもしれない。なかなか繋がらなかったが、ちょうど今スプラッシュ・マウンテンを乗り終わった後で、折り返し連絡をくれた。川島さんがクリッター・カントリー、ファンタジーランド、ウエスタンランド周辺。私がトゥーンタウン、ニュー・ファンタジーランド、トゥモローランド周辺を探すことになった。そんなに長い時間トイレにいたわけではないので、アドベンチャーランドまで行けるとは思わない。誰かに車椅子を押されて連れて行かれていたら、別だけど。
本当に、色んなことが起こる日だ。
15分後、川島さんから連絡が来た。
「優さん居ましたよ。ファンタジーランドです。ちょっと元気なさそうだけど」
「すみません、ご迷惑を……今すぐ行きます」
「はい。だけど、彼女、ホーンテッド・マンションに行きたいって言ってるので、今から3人で並びます。愛さん、気が気じゃなかったでしょう。心を落ち着けてゆっくり来てください」
「そんな……ありがとうございます」
川島さんの声は非常に落ち着いていて、私の心も少しは休まった。
一体何だったんだ。なんで迷子なんかに。
私は近くのキャストを捕まえ、姉が見つかったことを迷子センターとセキュリティに伝えてもらうように依頼した。その直後、どっと疲れが押し寄せて、近くのベンチに座る。
生きててよかった。
涙が大量に溢れ出すのがわかった。私は少し咳き込む。
まさか。ただ迷子になっただけだ。それでも、私にとっては唯一の家族で、姉だ。離れ離れになる不安が、今更ながら押し寄せた。生きててよかった。生きててよかった。
子供の頃、まだ両親が元気だった頃のことを思い出した。まだ4歳くらいの頃だろうか。実家から少し離れたところにある巨大なショッピングモールに家族みんなで行って、私が迷子になった。私は迷子になりながらも、ショッピングモールの様々なお店を大冒険する気持ちで楽しみ、喜び、笑っていた。迷子センターに保護され、両親と姉と再会した時、私はニコニコ顔だったが、当時7歳だった姉は私が迷子になったことを心配してずっと号泣していた。そんなこともあったな。仕返しを食らったのかもしれない。
私はゆっくりと立ち上がって深呼吸をした。鼻をすすり、涙を拭いた。髪をかきあげると、朝購入したシルバーのカチューシャがなくなっていることに気づいた。
もういい。きっと縁がなかったのだ。
私と東京ディズニーランドは、おそらく大変相性が悪くて、私が愛そうとしても、ディズニーランドが私を受け入れようとしても、どこかで躓いてしまって、うまくいかないのだ。きっとこういう運命の巡り合わせの元にいるのだ。
姉と合流したら、もう帰ることにしよう。今日は朝からよく遊んだし、明日からはまた仕事が始まる。
ファンタジーランドへ向かうと、あたりは暗くなり始めて照明がつき始めていた。それはさながらイルミネーションのようで、美しくはあるが、足元を照らすにはいささか物足りない。ふと顔を上げると、またしても私は「ピーター・パン空の旅」の目の前にいた。
私はもう2度と東京ディズニーランドには来ないかもしれない。今後彼氏ができても、結婚して子供ができても。
夢を見ることの大切さを説くのであれば、現実世界の悪夢にもきちんと向き合わなくては、それはただの現実逃避だ。
死んだ人は帰って来ないし、脚を失った姉はもう2度と自分の脚で歩くことができない。自分の意思で排泄することすらもかなわない。
それら現実をうやむやにして、夢に浸るというには、ディズニーランドの力は私には弱すぎる。
「並んでますか?」
ぼーっと「ピーター・パン空の旅」の看板を眺めていたら、女子高生グループに声をかけられた。思わず、あっはいと答えてしまい、列に並んでしまった。
どうしよう。
私は深呼吸をした。吊り下げ式の海賊船のようなライドが目の前に迫る。キャストの「何名様ですか?」という言葉に人差し指1本で答える。今にも携帯が鳴り出さないか、心臓はバクバクと高い鼓動を打っていた。ベルトコンベアでライドのところまで運ばれる。ライドに座り、安全バーが下ろされると、眩暈に襲われるような感覚に陥ったけど、大きく深呼吸して堪えた。物語がスタートする。
子供部屋からロンドン市街の夜景へ、そしてネバーランドへ。想像していた10倍は美しい光景が広がっていた。吊り下げられることで、本当に空を飛んでいる感覚になる。「君もとべるよ」の聞き覚えのあるメロディが流れている。「ピーター・パン」の映画を大胆なダイジェストで切り取り、ライドは元いた入り口に戻って来た。
あっけない。これが私が9年間呪い続けてきたアトラクションか。
凶悪さもなければ、どんでん返しもクライマックスもない。ただただキャラクターの可愛らしさと、照明演出の美しさだけが際立つアトラクションだった。心の中で、私に地獄のような現実を引き寄せた、諸悪の根源のように思い込んでいた私が馬鹿馬鹿しくなった。
ぼーっとしていたらキャストに降車を急かされてしまった。
ふしぎの国のアリスのレストランの入り口付近で、私は川島さん、ノアさん、そして迷子になっていた姉と落ち合った。
姉は、その昔迷子になった私と同じようにニコニコしている。
「ノアさんと遊んでもらえてよかったね」
「優さん、ホーンテッド・マンションとっても楽しそうでした」
ノアさんが言う。ノアさんは声を低くして、ホーンテッド・マンションのテーマ曲を歌い出した。姉がきゃっきゃと笑う。
「ご迷惑おかけしました」
私は川島さんに言う。川島さんはみんなに聞こえないように言った。
「お手洗いを待ってる間に、何かあったみたいですね。すごくショックを受けていたので。ノアの顔を見たら、ちょっと元気出てましたけど」
ありがとうございます、と頭を下げ、私はかがんで姉の手を握り、目を見ながら問いかける。
「おねえちゃん、大丈夫?」
「うん?うん」
私は姉が何かキラキラしているものを小脇に抱えていることに気づいた。
「あっ、カチューシャ」
「愛ちゃん、トイレ行く前に私に渡したよ」
「あ、えっ、そうだったっけ」
失くしたと思い込んでいたが勘違いだったらしい。よくよく思い返すと、確かに姉に持っててと渡したような気もする。
「いろいろ迷惑かけてごめん。頑張って準備してくれてありがとう。今日は楽しかった」
姉はそう言ってにっこり笑った。私もつられて微笑んだ。私はシルバーのカチューシャをつけ、川島さんとノアさんにお礼を言って、車椅子を押しながらエントランスへ向かった。
失くしたと思ったカチューシャも戻ってきた。居なくなったと思った姉も帰ってきた。
もちろん、帰って来ない人たちもいるかもしれない。でもそれはディズニーランドのせいではない。私のせいでもない。私と東京ディズニーランドは、相性が悪い。でも、もしかしたら、それはただの考え過ぎかも。現実の悪夢には、甘い甘い夢の世界は太刀打ちできないけど、本来それが当然だ。私は、ディズニーランドに何もかも背負わせすぎた。私自身も、残酷な運命を背負いすぎた。
今日一人で乗った「ピーター・パン空の旅」で、私と東京ディズニーランドは和解した。凝り固まった私の9年間呪いは、あのあっけない3分間であっさりと、解かれた。
問題を全てを解決するための夢じゃない。忘れさせるための夢じゃない。辛く残酷な現実に、向き合うための活力としての夢。息抜きとしての夢。
暗くなり、照明のせいで弱々しく光る浦安の星空を見つめながら私は口ずさんだ。
考えてみよう、楽しいことを。
第5話「バッド・ドリーム・レクイエム」おわり
Chapter 5 - Requiem For The Bad Dream
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肯定的にであれ、否定的にであれ、
ディズニーランドがすべての現実を救ってくれる
(そうあるべき)と思っている人は苦手です。
重たい話ですみません。
次回予告
第6話「君との時間に憧れて」