生きていくなんてわけないよ

ディズニーファン向け娯楽ブログ

映画を超えた映画『アナと雪の女王』で、私たちはもっと繋がれる。

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Frozen: the Songs / Various

2021年12月18日に逝去されたアナ役吹き替え声優の神田沙也加さんのご冥福をお祈りいたします。

 

 

ショッキングな出来事がありました。

それでも私のような一般人にはできることはかなり限られていると思うので、私には私ができることをやって、前向きに生きていくしかないんですね。

それこそ『アナ雪2』の時のアナのように。

絶望に打ちのめされても、前に進んでいく。

 

ここから先はいつも通りです。

いつも通りの「生きていくなんてわけないよ」が始まります。

 

目次

 

ただの映画ではなく「現象」であり「共通言語」

『アナと雪の女王』(原題:Frozen)は2013年に公開された映画である。

劇中曲「Let It Go」が宣伝されると瞬く間に話題となり、米国でも世界でもディズニー史に残る記録的大ヒットが連鎖した。「Let It Go」はヘビーローテーションされ音楽チャートを席巻し、米国のディズニーパークでは早々にアナとエルサが登場、グリーティングは一時期3時間待ちという記録を打ち立てた。

ヒットの噂は日本でも話題となり、米国から4ヶ月遅れという散々に焦らされた末に2014年3月にやっと公開された。

まさに「社会現象」といえるヒットを記録し、映画館は字幕版、吹替版だけでなくシングアロングできるVer.で公開するなど特殊形態も登場した。

良作を生み続けながらもなかなかヒット作に恵まれなかった2000年代。

『塔の上のラプンツェル』でその片鱗を見せたディズニーの新時代。

そしてその栄光の復活は『アナと雪の女王』でピークを迎え、黄金期の再来を確実のものとする。

 

『アナと雪の女王』は、我々ディズニーファンや映画ファンだけではない、一般の人々、ひいては普段映画など観に行くことがないような人たちにまで映画館へ足を向けさせ、TV放送を録画させた。

ディズニーがどれだけ傑作・名作を生み出していたとしても『アナ雪』レベルでのヒットは滅多にない。

『アナ雪』はまさに映画以上の「現象」であり、ファンとそうでない人たちをつなぐ「共通言語」となったのである。

 

凍ってしまった「心」の物語

今となっては誰もそれを意識することはないが、デンマークの作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話「雪の女王」を原作とした映画である。

アンデルセンの童話はこれまでディズニーで何度も映画化されてきた。「みにくいアヒルの子」「マッチ売りの少女」そして『リトル・マーメイド』の原作である「人魚姫」などだ。

しかしながら長編映画として製作された『リトル・マーメイド』は原作の悲劇的な部分は改変され、見事にハッピーエンドな映画へと変貌した。

ディズニー映画において、物語をハッピーエンドに作り替えることはよくあることである。

では「雪の女王」を原作とした『アナと雪の女王』はどうかというと、「雪の女王が出てくる」という製作のスタート地点こそ同一だが、原作の面影をほとんど残していないような作品に変貌している。これまでディズニーは多くの童話を原作にして映画製作をしてきたが、ここまで大きく変えられてしまった作品も珍しい。プロジェクトスタート時のタイトルも「Snow Queen」から「Frozen」というタイトルに変わった。

それでも随所に、意識的に、しかしアレンジを加えながら原作の要素を織り交ぜていることがわかっている。

 

エルサがもともとヴィランとして制作がスタートしていたというのは有名な話だ。

原作「雪の女王」はカイとゲルダという少年少女のうち、雪の女王が少年のカイを誘拐してしまい、少女ゲルダが彼を見つけるために旅に出るという物語である。

そのため当初はヴィランとして物語の製作はスタートしていたが、劇中曲を依頼されていたロバート・ロペスとクリステン・アンダーソン=ロペス夫妻が「Let It Go」を作曲したことにより、物語が一変。エルサを「氷の魔法」という「悩み」に抑圧される女性として描くことで、ダブル主人公とも言える物語に転換した。

 

エルサは原作における雪の女王とカイを一体化したような人物である。

原作でのカイは、悪魔の落とした「物事がねじれて映る鏡」の破片が心臓に刺さってしまったことで心が凍りついてしまい、冷たい人間になってしまうのである。

これを「氷の魔法」という特殊能力をうまく使いこなせないことによって、取り乱し、ふさぎこんでしまうエルサの心という解釈に落とし込んでいる。

 

『アナと雪の女王』のオリジナルタイトルが「Frozen」であること、オープニング曲が「Frozen Heart」という曲であることからもわかるように、本作は「凍ってしまった心」についての物語であり、ゴールは「凍ってしまった心が愛の力で溶ける」というところにある。

日本語吹き替え版の歌詞には反映されていないが、英語版の歌詞にはしっかりと「凍った心に気をつけろ」という歌詞が存在する。

 

また、原作では雪の女王の城でカイを見つけたゲルダは彼を抱きしめ、彼の冷たく凍ってしまった性格に心を痛め、涙を流す。すると、涙により彼の心臓に刺さった鏡の破片が溶けてカイもまた元の性格に戻る、というあらすじになっている。

 

このように辿っていくと、『アナと雪の女王』は外観やキャラクター設定、話の大筋こそまるっと変更されているが、「雪の女王」のもつ本質的な部分はしっかりと映画に存在することがよくわかる。

 

「鏡」と「夏に恋する雪だるま」

エルサをヴィランから主人公に設定を変更することで、『アナ雪』はこれまでのディズニー映画と一味違った物語になった。

しかしディズニーは空欄になったヴィランの枠にハンス王子という新たなキャラクターを迎え入れる。

ハンス王子は歴代のディズニー映画のお手本のような王子である。ハンサムで、品があり、勇敢で、危機の際は人々を守る責任感と行動力を持っている。

しかしその裏には企みがあり、自身が王位継承13位であることから、王位を継ぐのは絶望的で、手頃な王女と結婚することで自らの地位を確立しようとしている。

 

彼もまた、原作に登場する要素を含んだキャラクターとして製作されていると『アナ雪』のスタッフたちは語っている。彼は原作でいう「心を捻じ曲げる鏡」であると。

彼の言動や行動は、それぞれの持つ「思い」をそのまま反映したものである。

アナの「私の代わりに国を頼みます」という言葉のもと、彼は国を守り、命がけでアナとエルサを探しに雪山へ向かう。

また、ウェーゼルトン公爵の部下がエルサの命を狙う時、彼はエルサの「命を狙われる恐怖」そして「自らの能力に対する恐怖」を感じ取り「人々が思うようなモンスターになってはいけない」と、暴走するエルサの本心とも言える部分を反映する。

そして、彼が本性を現す時、彼はアナの心の中にある「冷たい心」を映し出すのである。

エルサの魔法の暴走で、心が凍ってしまったアナはエルサの気持ちを理解することなく「エルサの魔法が心臓に突き刺さった、傷つけないと思ったけど私が間違ってた」とエルサを悪者に仕立て上げようとする。その瞬間から彼は「心の凍った人間」へと豹変するのである。

 

このシーンの特徴的な行動がもう一つある。彼が本性をさらけ出す時、彼は手袋を外し、そして部屋を出る直前で手袋をはめる。

「手袋」は本作でも意図的に用いられているモチーフである。

エルサが自身の「魔法の力を隠す」目的で父・国王から勧められ、アナがエルサの手袋を奪ったことで彼女は動揺し、魔法の力を民衆の前でさらけ出してしまう。そして「Let It Go」のシーン。彼女にはもう手袋が必要なく、文字通り「ありのままの」自分をさらけ出すためにもう片方の手袋を投げ捨てるのである。

このように「手袋を外す」行為は「自分の本性をさらけ出す」という行動を意図的に、そしてさりげなく表象しているのである。

 

アンデルセンの物語に「のろまなハンス」という物語がある。

三人兄弟の末っ子のハンスは兄たちのように利口ではなく、上の兄二人ばかり優遇され、いじめられていた。

ある日彼らの住む国の王女が「上手にお話しできた人と結婚する」というおふれを出した。上の兄二人は馬を与えられ、結婚を申し込むために王女様に会いにいくが、ハンスは馬を持っていないのでヤギにのり王女に会いにいく。ハンスは道中兄達にバカにされながらも、途中で拾ったゴミのようなものを誇らしげに持っていく。

王女はたくさんの男たちから結婚の申し込みをされていたが、王女の謎かけかと思えるような突拍子も無い話題に全くついていけず、会話が成立しなかった、ところがハンスだけは王女の突拍子のない話題にも独自のセンスでうまく答え、見事王女と結婚するという物語である。

結末こそ大きく違うし、『アナ雪』のハンスは「のろま」というよりは「狡猾」であると言えるが、鏡のように王女の期待通りの答えをもたらすハンスという男、そして彼の境遇はよく似ている。

 

アンデルセンの物語でもう一つ注目したいものがある。それが「雪だるま」という作品である。

ある冬の日に作られた雪だるまは、番犬から「あったかい地下のストーブの思い出」を聞かされ、ストーブに近づくと溶けてしまうと番犬に忠告されるが、雪だるまはストーブという存在に恋い焦がれてしまう。

これはまさにオラフのモデルといってもいいだろう。

従来の女性像としてのアナの素晴らしさ

『アナと雪の女王』は実に先進的で、フェミニズム要素を含んだ映画である。

それでいて、主人公のひとりアナは、幸せな恋愛結婚に憧れる従来のディズニープリンセスと同じように描かれている。

心に壁を作ってしまうエルサと対比するように明るく奔放なアナは、ディズニープリンセスお決まりのウイッシュソングと、いくらなんでも展開が早すぎるプリンスとのいい感じのデュエットを披露してくれる。『魔法にかけられて』でも散々揶揄された「出会ってすぐ結婚」のコンボまで決めたところで、物語の主軸がエルサに移り、彼女のエルサ捜索の冒険、クリストフやオラフとの出会いと彼らの助言により考えを改めていく。

 

「出会ってすぐ結婚なんてありえない、相手のこともよく知らないのに」という、当たり前すぎる、それでもディズニーではまかり通ってしまう「プリンセスあるある」を否定されながら、彼女は彼女なりに「本当に大切な人」に遠回りながら気づいていくのである。

 

アナもエルサも、「物語の根本」としては、王子様の手助けを必要としていない。

そして、彼女が恋をしたハンス王子には見事に裏切られ、物語のフックにされてしまう。

だが、それでも彼女は「もう恋愛なんてしない」という方向にはいかない。今のディズニーなら、「もう恋愛なんてしない」という流れでも何らおかしくない。だが彼女はクリストフを選ぶのである。

『プリンセスと魔法のキス』で、主人公ティアナの大親友シャーロットが、王子様との結婚に憧れる女性として描かれているように、『アナと雪の女王』は従来の男女の恋愛を、(別になくてもいいよね、というスタンスではあるが)決して否定しないのである。

 

リフレインにより強調される「抑圧」

話をエルサに戻す。

この物語は「凍った心」をテーマにしているというのは先ほど書いたとおりである。

ではエルサの心が凍っていってしまう原因とはなんなのか。

 

幼き頃のアナとエルサの雪遊びの最中、彼女が魔法でアナを傷つけてしまったトラウマによるものである。

幼きエルサは「心をコントロールしなさい」と言われることで、より精神に不安をきたしてしまう。自分の魔法が、能力が、才能が、美しくみんなを幸せにするものではなく、誰かを傷つけ怯えさせるものであるという認識に変わってしまう。

 

そしてそれらの呪いをかけたのは、他でもないエルサの父・アレンデール国王である。

 

彼のかけた呪いはセリフでも、劇中曲でも幾度となく繰り返される。

 

 

「Don't feel, conceal, don't let them know」(感じるな、隠すんだ、知られてはいけない)

「Be the good girl, always have to be」(常に「いい子」でいなければいけない)

 

 

この「The Good Girl」(いい子)が「魔法を使わない普通の女の子」を意味するのだから、この言葉は呪いである。エルサが自身の能力を禍々しく思い、余計にコントロールを失っていくのは、当然の結果とも言える。

 

だが、実社会に当てはめていくと、このような出来事は我々の周囲で平然と起きていることでもあると感じる。

辛く、誰かに頼りたい時、弱音を吐きたい時に「もっと苦労しているがいる」「その程度で」といって追い詰めていることはないだろうか。

人それぞれ、努力できる限界値は異なる。それを「努力が足りない」と攻め立てていることはないだろうか。

 

それらの言葉は、かけられた人にとってより大きなプレッシャーとなり心を蝕んでいく。

エルサが「感情を抑えなければ」と思うほどに、魔法の力がコントロールできなくなるのと同じように、それらの言葉をかけられた人は「もっと頑張らなくちゃ」という気持ちで、もっと神経をすり減らしていってしまう。

 

『アナ雪』で描かれている精神と心のバランス、メンタルヘルス描写は、秀逸でわかりやすい。

描き方を間違えれば、かなり暗い作品になってしまったであろう(充分暗いとは思ってるけど)ある種大人向けとも思える要素を含むこの映画を、一大エンターテインメントに仕立て上げてしまったディズニーのスタッフの手腕に驚かされる。

 

真実の愛は姉妹の間に

本作のさらに注目すべき点は、『白雪姫』からスタートしたディズニー映画の「真実の愛」の概念に新たな解釈を加えたことだろう。

それまでの「真実の愛」は必ずといっていいほど、ヘテロ恋愛におけるものしか描いてこなかったし、呪いは必ず「キス」という行動によって解かれるものになっていた。

 

ヘテロ恋愛を否定したいわけではないし(私もヘテロセクシャルだし)

そもそもアナも典型的な「王子様との結婚」に憧れる女性である。

それでもディズニーが「男女の恋愛で何でも解決する」物語ばかりを描くのは、マイノリティが救われない。

 

本作は従来の「真実の愛」を、それまでのディズニーのセオリーを根本的に否定するヴィラン、ハンス王子によってことごとく握りつぶし、新たな解釈として「姉妹愛だって真実の愛だろ」というメッセージを送る。

「誰かを想う気持ち」が大切なのであれば、必ずしも、男女の恋愛でなくても良いのである。

思慕愛、友情、様々な形がある。ハンスに裏切られ、一度はクリストフの元へ、と向かったアナが、自らの命の危険を差し置いてエルサを救うために行動する。

それが愛でなかったら何だというのだ。

 

アナの行動が、凍っていたエルサの心を溶かし、そのエルサの愛によって、アナの心の氷が溶ける。

 

もう男女の恋愛の必要はない。

プリンセス・ストーリーに王子が救いをもたらす必要性はない。

女性の主人公二人だけでで、悲劇を終わらせる。

愛の力で「凍った心」という真のヴィランを打ち倒すことができるというメッセージである。

これを描いた本作によって、ディズニーは新たなステージを踏み出した。

 

本作で打ち出した新たな概念は『マレフィセント』『モアナと伝説の海』などにも引き継がれ、よりブラッシュアップされていく。

 

きっとみんな『アナ雪』で繋がれる

考えれば考えるほど、『アナと雪の女王』は深い作品だと想う。

ミュージカル作品としてモンスター級に素晴らしいというのが、本作がヒットした1番の要因であることは間違いないが、この作品が多くの批評家にも高く評価されているのは、それだけ「隙の少ない」作品だったことが大きいだろう。

メンタルヘルスへの言及、フェミニズム的志向、数々のメタファーと散りばめられた原作の要素、大胆なアレンジ、ディズニー作品としては今まで見たことない展開ながらも、スッと受け入れられるわかりやすい展開、それでいてしっかりとディズニーらしさも残っている。

 

私が最初に『アナ雪』がファンとそうでない人たちとの「共通言語」となったといった。

それと同時に『アナ雪』がファンへの入り口になった人も多いと思う。

『アナ雪』がきっかけで過去のディズニー作品を見返した人、続々公開される映画を見るようになった人、世代によっては「初めてのディズニー映画」だった人たちも多いはずだ。

私たちが子供の頃に『アラジン』や『ライオン・キング』に触れ、親しんで育ったように、誰かの一生の作品として心に残っているのは間違いないだろう。それも、かなり多くの。

そしてディズニーというのは、すべての作品が「共通言語」になりうるのである。

世界に出て、もしくは日本に来た海外の人々と「Frozen」の話をするというのは、きっと「Princess and the Frog」や「Meet the Robinsons」、もっとわかりやすく言えば「Damon Slayer」や「NARUTO」や「Bleach」の話をするより、きっとハードルがかなり低いはずだ。

 

「誰もが知っている」ということを、「誰でも知っているからにわかが多い」と腐すのは簡単だ。

でも「にわかが多い」というのは、本当はとてもすごいことで、実に難しいことで、ファンである僕らは誇るべきことなのだと改めて考えたい。

 

『アナ雪』本当に素晴らしい作品だよ。

そして私たちは『アナ雪』で、もっと、いくらでも繋がれる可能性を秘めているんだよ。

 

 

 

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