生きていくなんてわけないよ

ディズニーファン向け娯楽ブログ

『ジャングル・ブック』は、現代を生きるための許しであり、バイブル。

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ジャングル・ブック(吹替版)

 

なぁ、生きていくなんてこたぁわけないよ

こんな風にやりゃあ、一発さ。

 

WDASでウォルト・ディズニーが最後に手がけた長編アニメーション『ジャングル・ブック』の日本語吹き替え版のセリフであり、私は自分のブログタイトルもこのセリフから引用している。

 

私が『ジャングル・ブック』という映画を好きな理由はいくつかある。

 

いくつかあるけど、本音で言えば「ただ何となく好き」というのが一番の理由だ。

今回はこの「何となく好き」を紐解いていって、改めて『ジャングル・ブック』ってこういう映画だったんだというのを自分なりに納得する機会にしたいと思う。

(「だから好き」という理由になるかはわからないが)

 

悩みなど何もない!

目次

 

これはレイシズム?ステレオタイプに塗れたキャラクター像

いきなり厳しい話題。

好きな作品がレイシズムという文脈で語られるのはとても辛いけど、好きだからこそ、そして自分が「レイシストではない」と信じたいからこそ、受け入れようと思っている。

 

『ジャングル・ブック』という作品で描かれているのは、露骨なステレオタイプに塗れたキャラクター描写だ。

取り沙汰されるのはオランウータンのキャラクター、キング・ルーイである。彼の声はジャズシンガーである米国白人のルイ・プリマが演じているが、その歌い方と喋り方はアフリカ系アメリカ人のステレオタイプを意識して吹き込まれている。

バルーやバギーラなど他のキャラクターとイントネーションが明らかに異なるのがわかるはずである。これらは『ダンボ』のジム・クロウのように差別的であると批判にさらされている。

何より、黒人風の歌マネをしながら歌う曲が「猿が人間になる事を望む歌」であるというのは実に取り合わせが悪い。

 

『ジャングル・ブック』の原作はイギリス統治下のインドを舞台としている作品であるため、多くのイギリス系人々が声優を務めた。

ハゲタカたちは当初ビートルズに声優オファーがいったという。結局ビートルズからは断られ、リヴァプール訛りの声優が声を当てている。

バルーの声優はアメリカ人のフィル・ハリスだが、バギーラの声優はイギリス人俳優セバスチャン・キャボットが演じている。

ハティ大佐ら象たちはイギリス軍をイメージしたキャラクターとして描かれていて、これもまたステレオタイプに近い描写である。

 

では、インド人である主人公モーグリはというと、彼の声は本作の監督であるウォルフガング・ライザーマンの息子、アメリカ人のブルース・ライザーマンが演じている。

彼は『くまのプーさん/完全保存版』のうち『プーさんとはちみつ』でクリストファー・ロビンの声優も務めた。

 

「インド人であるモーグリをアメリカ人が演じる」というのは、本来インド人子役たちが得られるはずだった雇用機会の損失である。

当時としてはごく普通のやりかただったとはいえ、現代においては「人種差別」と取られても仕方のない行為である。

 

ディズニーは1992年の『アラジン』ですら、アラビア系の登場人物であるアラジン、ジャスミン、サルタン、ジャファーに白人声優を吹替えさせているので、「特定の文化背景をもつキャラクターにはその文化背景をもつ声優を充てる」という発想が乏しかったのだろう。

1995年に『ポカホンタス』でポカホンタス役にネイティブ・アメリカン系のアイリーン・ベダードを、1998年に『ムーラン』でムーラン役に中国系のミンナ・ウェンに演じさせるなど、ここらの時期でやっと適切な配役にまで配慮が行き届くようになってきた。

 

このように、私が愛してやまない『ジャングル・ブック』という作品も、手放しでは褒めることのできない偏見や差別的な描写が含まれる映画だ。

私とて、これらの描き方が「正解」だとは思わない。

 

救いなのは、ディズニーが本作の描写を間違いであると認め、ディズニー+に注意書きを載せるようになったことだ。

また本作における「間違った描写」は、それこそ『ポカホンタス』や『ムーラン』『ズートピア』に実写版『ジャングル・ブック』などで「今のディズニーのスタンス」を示すことで更新していこうとする気概を、私は感じる。

好奇心は成長する力、そして恋は盲目

『ジャングル・ブック』の批判のひとつに、バギーラたちが異種族であるモーグリを追い出そうとし向け、モーグリがまさのそのように従ってしまうという部分にも向けられている。

人間のモーグリが「ジャングルで生活する」このハッピーエンドにまさにたどり着くその瞬間に、物語は急展開してしまう。

この意外な結末が、『ジャングル・ブック』という作品の評価を二分しているように思う。

 

だが、モーグリがジャングルを出て行く理由というのは、『ジャングル・ブック』という作品における、実にディズニー的な要素に直結している。

 

『ジャングル・ブック』は自由選択の物語である。

物語冒頭から、モーグリには選択権が与えられていない。モーグリの処遇はオオカミたちの会議で一方的に決められ、彼の願いは治安上の様々な理由から拒絶される。

 

それゆえにモーグリは「ジャングルに住む」その目的のためにキング・ルーイ、カー、シアカーンなどを撃退し、力づくで権利を手に入れる。

そして、選択権が手に入れたタイミングで、モーグリは自らの意思でジャングルを出ることを決断するのである。

 

ラストシーン。モーグリは歌をうたう人間の少女、シャンティーに見とれ、つられてジャングルを出て行ってしまう。

モーグリはここでシャンティーを見て「あれは何?」とはっきりと口にする。

 

自分以外の人間、しかも女の子を見たのが初めてであるモーグリは、知的好奇心とともに、恋心を抱く。

「知らなかった世界に飛び込みたい」「新たな世界に行きたい」「あの子のことをもっと知りたい」

これらの知的好奇心は『バンビ』に始まり、『わんわん物語』や『王様の剣』など様々な作品で描かれた。

その上でこれまでの世界に別れを告げ、新たな世界へ旅立つのは『リトル・マーメイド』などの作品でも踏襲されている。

 

学びは成長をもたらし、自ら生きる術を見つけ出す。

そして恋やロマンスは全てをかなぐり捨てる盲目的なものである。

 

自由選択の末、モーグリは「ありのまま」に人間らしい生き方を選んだのである。

 

現代社会への許し

『ジャングル・ブック』で特筆すべきは、フィル・ハリス演じるバルーの歌う「ザ・ベアー・ネセシティ」に込められたメッセージだ。

 

Bareとは「裸」のことで、もちろんクマのバルーが歌う曲だからこそBearとかかっている。

「The Bare Necessities」で「本当に必要なもの」という意味である。

「心配事や揉め事など忘れてシンプルに生きよう、必要なものは向こうから勝手にやってくる」というような楽天主義の歌である。

私は生きる上で、この歌の考え方に何度も救われてきている。この映画が好きな理由の最大の理由といってもいい。

 

この曲に通じる考えは『ライオン・キング』における「ハクナ・マタタ」も同じ精神を持った曲だと言えるだろう。

また余談だが、私は『シャーマンキング』という漫画が大好きで、主人公の麻倉葉の口癖の「なんとかなる」という言葉と、彼の哲学的考え方に何度も救われてきた。

『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』の小説版で、復活したヴォルデモート卿の知らせを聞いたハグリッドのセリフにこんな言葉がある。

「来るもんは来る。来た時に受けて立ちゃええ」

 

いざという時の備えや、心構えというものは大事かもしれない。

日々の鍛錬もそうだ。

それでも、目的と手段が逆転して、本来何をすべきだったのか忘れてしまうことがある。

生きるために働いているのに、働くことで息苦しくなってしまうことがある。

 

「The Bare Necessities」は、それこそサボテンのように刺々しい現代社会を、傷つくことなく生き抜くためのバイブルである。

この曲を聴くことで、映画を見ることで私は、リラックスして、肩の力を抜いて生きることを許される気持ちになるのである。

生きていくなんてわけないよ

子供の頃、何を思ったのか無性に観たくなって、内容も知らずにレンタルビデオ店で借りてきた『ジャングル・ブック』

どう考えても地味な作品だけど、結局何が好きだったのかはわからないけど、自分が成長して本質を捉えられるようになって、なおさら好きになった作品でもある。

 

「ベアー・ネセシティ」以外の楽曲も素晴らしい曲が多い。キング・ルイの歌う、シャーマン・ブラザーズ作曲の「君のようになりたい(I Wanna Be Like You)」も耳なじみよく、ラップ調に聞こえる歌詞がかっこいい。

登場する数々のキャラクターたちは、ステレオタイプと言われようと愉快で愛おしく感じてしまう。

オープニングから次々映し出されるジャングルの風景は緻密さに溢れていて芸術的要素も高い。

ちゃんと観たら、褒める要素はたくさんある。でもこれらの要素が、私が子供の頃『ジャングル・ブック』を好きになった理由だとはとても思えない。

 

『アラジン』や『ライオン・キング』のようなインパクトはないくせに、楽曲が有名だったり、本国版吹替え声優が有名人ばかりだったり、「ウォルト・ディズニーが最後に手がけた作品」としての評価だったり、やたらと持てはやされていて、それでもどれほどの人がこの作品を本当に好きで楽しんで観ているんだろうと、ちょっと疑問に思っていた時もある。

 

正直この作品は、誰かにもっと観てもらいたいとか、理解してもらいたいとか、そんな作品でもないのだ。

十分評価はされていて、もっと評価されるべき作品がたくさんある。

 

この作品で「私が」救われて、「私にとって」最高の作品である、というただそれだけで十分だと思う。

 

ブログのタイトルに引用するくらい私にとっては大切な作品で、

この作品のおかげでディズニーをもっと好きになれて、

ディズニーの嫌な部分も受け入れられて、

ディズニーをもっと知ることができた。

 

私は心が弱いから、苦難に怯える日々だけど、心配事は山積みだけど

ふと「ベアー・ネセシティ」を思い出して頑張れる。

 

何が面白いのかはよくわからない。ただなんとなく好き。

そんな作品に救われている。

 

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