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『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』荒削りな大冒険映画が提示する「私たちの問題」と「希望」。

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The Art of Strange World (Disney)

『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』(原題: Strange World)観ました。

 

どうでもいいけど、『ストレンジ・ワールド』という映画はすでにあるっぽいので邦題が必要だという理屈は甘んじて受け入れるとして、「ワールド」と「世界」で意味被ってるんですがもっといいサブタイトルなかったん?

 

まぁまぁ、邦題ツッコミはそこらへんにするとして。

『ストレンジ・ワールド』とってもよかったんじゃないでしょうか。

ドン・ホール監督の魅力がこれでもか!と出ていた気がするよ。

そしてとってもわかりやすい。わかりやすすぎたかもしれません。

 

僕らの時代でいう『トレジャー・プラネット』のような大冒険活劇として、子供達の間で盛り上がってほしいな。

全然ヒットしなさそうなところも『トレジャー・プラネット』っぽい。

踏ん張ってくれよ。

 

※当記事は現在公開中の映画『ストレンジワールド/もうひとつの世界』の物語の核心にせまる重大なネタバレを含みます。ご注意ください。

 

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目次

 

「意外性」を削いでいく「雑さ」

あとから褒めようと思うので先に苦言を呈しておくと、

なんというか、全体的に雑。

 

話の流れ、持って行き方、尺がそんなに足りなかったのか?と感じさせる

彼らの感情も期待も、不安も、葛藤も。映像で魅せ、理解させるのではなく、キャラクターの言葉で色々説明してしまう感じ。

 

展開が早いのも結果的には良し悪しで、キャラクターの魅力や彼らの個性にどっぷりと浸かる前にもう冒険が始まってしまう。

映画のテーマにある「父と子」「何者であり、何者になることを望むのか」というテーマも、はっきりと言葉にしてわかりやすく伝えているので、当たり前だけど「わかり」はしても実感が伴わないような軽さを感じてしまう。

 

そしてそして、なんとなく環境問題がテーマかな、と薄々感じてはいたんだけど、

中盤の親子三世代によるカードゲーム対決での会話でそこがはっきりと明示され、

確信になる。というかここのシーン、物語の全てを語っていると言っても過言ではない重要シーンなんだけど、それを全部「セリフ」でやっちゃってるのが上手くない。

そうでなくてもシンプルな話なのに、意外性を削いでいるというか、ネタバレしているに近いような感じだった。

 

あと、テンポ感でいうと、「スベってるなぁ」と思うようなシーンに長い尺が割かれているのも気になった。

本作の監督ドン・ホールはウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオで『ベイマックス』『ラーヤと龍の王国』などのアクションバリバリな作品を作り上げた人物である一方で、『くまのプーさん(2011年版)』で長編監督デビューした人物でもある。

まさに、ギャグシーンで『くまのプーさん(2011年版)』と全く同じようなシークエンスがあり、しかも結構しっかり尺も割かれていてずっこけた。

「同じ監督のお気に入りの(使い回し)ネタ」としてみれば面白いのだけど、本編の良し悪しとは関係ないからな、これ。

 

キャラクターの弱さ

同じくドン・ホール監督作品の『ベイマックス』や『ラーヤと龍の王国』にも通じるが、多分彼は「なんでもない奴らがかっこいい」という映画を撮りたいんだと思う。

『ベイマックス』『ラーヤと龍の王国』も本作『ストレンジ・ワールド』も、特殊能力を有している人物が主人公ではない。ピーター・パンのように空を飛べるわけでもなければ魔法も使えない。むしろ『ベイマックス』のヒロたちは「オタク集団」と揶揄される存在であり、『ラーヤ』のラーヤたちは身内を多く失った、取り残された人々だ。

『ストレンジ・ワールド』のメンバーも、映画内では英雄として讃えられる存在ではあるが、その実単なる慎ましやかな農家の一家族でしかない。

 

そんな彼らが繰り広げる、世界を救うための大冒険活劇。

コンセプトとしては納得するし、実際におもしろい。

けどちょっとキャラクター的魅力に欠ける。

 

『ベイマックス』はヒーローとして実際にアーマーを装着したり、「オタク的個性」を実際に武器や攻撃手段として利用したから、キャラクターの魅力が際立っていた。

 

でも本作にしろ『ラーヤ』にしろ、キャラクターマーチャンダイズが欲しいようなキャラクターデザインにはなっていないし、映画の中での魅力も欠けている気がする。

まだ『ラーヤ』のほうが、各地域で次々仲間を加えていくRPG的なストーリー展開が功を奏して、キャラクターのバックグラウンドを描くことができてたように思う。

主人公の父、イェーガー・クレイド、またの名を冒険王という筋肉モリモリのヒゲのじいさんがだけがひたすらキャラが立っていたのはよかった。

オモチャほしいかと言われると、ないけど。

 

親子愛的なサブストーリーに関しても、どうもそこをメインに押し上げるほどの深みがなく、結局「対立構造」や「逆転構造」が好きなのはメインのストーリーでも感じていて、「冒険好きの父」と「農業に未来を感じる主人公」の対立構造から「父のようにはなりたくないと思い過ぎた結果、自分の息子にとっては父のようになってしまっている」の逆転構造とか、もう丁寧すぎるくらいわかりやすく描いていて、いやそれをセリフでなくてアニメーションの「演技」や「演出」でやれや!という感じだった。

ビール飲むシーンとか、いいシーンもあるんだけどな。それもわかりやすいけど。

 

それでもおおむね、「良作」

でもまぁ、ここまでぶん叩いてはいるけど、おおむね良作です。

未知の世界=ストレンジ・ワールドを舞台にして大冒険、かつハードなアクションを交えながら謎に迫っていく様は、爽快でした。さすがドン・ホールだね。

 

「わかりやすい」ながらも、本作最大のオチである「この未知の世界は実は巨大生物の体の中だった!」には気づくことができず、正直私は虚を突かれたような感じになりました。

ストレンジ・ワールドのあらゆる存在に合点がいく、リアリティを持ってその「嘘みたいな虚構」を受け入れられることができたのが気持ちよかったし、そのほかのキャラクター描写の荒さに目をつぶってでも、ここにつなげるための設定や展開の盛り込み方は上手かったと思う。

 

そして「ヴィラン不在の映画」に見せかけて、「主人公こそがヴィランであった」と言えなくもない展開と、その「真のヴィランになる前に自らの栄光を破壊する」という行為の尊さは、これまでのディズニー作品にありそうでなかった展開でもあり、実に新鮮に感じた。

まぁ中盤で主人公の息子のイーサンに「悪者がいないとダメなの?じゃあ二人(サーチャーとイェーガー)が悪者だ!」と言わせてしまうのでくどいのだけど。

 

そこはかとなく感じる「ウォルトイズム」

『ストレンジ・ワールド』に、私は「ウォルトイズム」を感じる。

 

ウォルト・ディズニーはアニメーションをはじめとする映画製作やテーマパークの中に教育的な側面を持ち込もうとした。それは文化的、歴史的な部分でもそうだし、科学的部分でもそうだ。知的好奇心こそが世界を良くすると信じるオプティミストでもあった。

これまでも教育的側面を持ったディズニー映画はいくつもあったが、特に『ストレンジ・ワールド』では顕著だ。

「ストレンジ・ワールド」=「未知の巨大生物の体の中」であるとわかった途端、飛び交うのは「免疫システム」であったり、体の構造を指し示す言葉たちである。もしかすると小さな子供達にはなんのことやらわからないかもしれない。それでも忖度なくそういった言葉を出すのは、そこから知的好奇心を触発して、何かを知るきっかけにしたいからかもしれない。

 

そしてウォルト・ディズニーは『宝島』や『海底二万マイル』をはじめとする多くの冒険映画を世に残してきた。

これらの作品もそうだし、ウォルト・ディズニー生誕100周年記念映画であった『アトランティス/失われた帝国』は『海底二万マイル』の翻案であり、その翌年公開の『トレジャー・プラネット』は『宝島』の翻案である。

『ストレンジ・ワールド』はその作風から、明らかにこの2作の系譜の上にある作品だ。

本作がウォルト・ディズニー・カンパニー100周年を記念した最初の作品であるのも何かの偶然だろうか。

 

ウォルト・ディズニーの代表作にはご存知の通り『ピノキオ』という作品があり、物語の終盤では怪物クジラ「モンストロ」に飲み込まれたゼペット爺さんを助けるため、「くしゃみをさせる」という可愛い理由で腹の中から火で燻ろうとする、という動物愛護団体からお叱りを受けそうな展開が存在する。

本作のオチはその反省から生まれたのかもしれない。

また「モンストロの体内」でいうとゲーム『キングダム・ハーツ』版のモンストロはまさにストレンジ・ワールドといった感じだった。

 

私たちは、これ程度ではへこたれない

「環境問題」がテーマだろうな、という感じはしていた。

この映画で映し出すのは、私たちの世界と直結する「世界の問題」だ。

 

劇中カードゲームの「開拓プライマル」のコンセプトが「戦って天敵を駆逐するのではなく、共存すること」なんて、まさに生態系の話だし、言葉だけなら「戦争ではなく和平交渉」の言い換えともとれる。

 

しかもその「世界」の正体が「巨大な生物」であることがわかると、「自分たちの快適な生活」と「ひとつの命」の対立構造になり、そうなると現実世界ではどうしても「ひとつの命を守る」正しさよりも「自分たちの快適な生活」を守りたいという利己的な考えが主流になってしまう。

『ストレンジ・ワールド』はそこにはっきりとNoを突きつける。

そして極論を言えば「ストレンジ・ワールド」は彼らにとっての「地球」そのものだ。

私たちは「地球」そのものを犠牲にしても、いまの快適で贅沢な暮らしを望むのか?という問いかけにも聞こえる。

 

主人公サーチャーは、自らが持ち帰った「栄光」の代償を、自らの手で破壊しようとする。

前述の通り、こんな主人公は少なくともウォルト・ディズニー・アニメーション作品では見たことがない。

 

それでも、彼らにとっての「電気」を失った後の世界でも、

この『ストレンジ・ワールド』は希望に満ち溢れている。

 

「今あるものでやりくりする」世界に戻って「人ってこんなに環境に適応できるんだ」というセリフにはウォルト・ディズニー的なオプティミストの精神が宿っている。

ただ環境問題を提示して「電気は悪」「生き物を殺すな」というようなダメを押し付けるのではなく、私たちにはあらゆる可能性が残されている、この程度ではへこたれない、まだまだ生きていけるという期待を抱いている。

ディズニー的なハッピーエンドだな、綺麗事だな、と思うかもしれないけど、これがやっぱり理想だし、あるべき姿だなと私は感じる。

 

うん、それをさ、モノローグで説明すなよとは思ったけど。

 

総括、良し

総括すると、「良し」です。

どこからの誰目線やねんという感じですが、ちゃんと面白かったしブチギレるほどの酷さではないっていうか、むしろ本作の興行がやばすぎることに若干の不安すら覚えて「見にいく価値あるから!もっと見に行こうぜ!!」という気にはなっている。

10人いたら8人くらいは誰かの心には刺さるよ、そもそもハードルを上げすぎなんだディズニー作品て。これくらいの作品がゴロゴロあったら充分豊作だし、ドン・ホールは素晴らしい監督です。もっと出来る人だけど。

一番ダサいのは「なんか興行収入ボロボロらしいいじゃん、ダセー」みたいな感じで見に行かないのに叩いてるやつなのでそこんとこよろしくな。

あとはアイガーがなんとかしてくれるよ。頼むぜアイガー。

 

それでは。

 

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