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『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』僕はウジ虫だった、でももう「負け犬の日々」は終わり。

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Guardians of the Galaxy Vol. 3: Awesome Mix Vol. 3

 

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』(原題:Guardians of the Galaxy vol.3)を観ました。

 

MCUでも個人的に一番お気に入りのシリーズで、思い入れもかなりあるんだけど、

「もう終わりかー」と思ってしまうと非常に寂しく、そして「がっかりしたくないな」という気持ちが強くて逆にワクワクを高めずにドライな気持ちで臨みました。

 

結果、めちゃくちゃ大満足。

これまでのガーディアンズらしい馬鹿馬鹿しさも持ちながら、全体的にトーンはウェットでダーク。ただそのウェットさが「エモさ」に直結しているので、辛気臭さいところも嫌じゃない。

これまで3作と『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』『アベンジャーズ:エンドゲーム』そして『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:ホリデー・スペシャル』で丁寧にその関係性を積み上げてきたシリーズの集大成としてふさわしい結末だった。

 

そういえば『ホリデースペシャル』の感想をクリスマスごろにあげようと思っていて忘れていた。そして『アントマン&ワスプ:クアントマニア』の感想も書いていない、

ま、いーか。いつものことだし。

 

※この記事は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol.3』のネタバレを含みます。

 

目次

ロケットの物語

製作当初からジェームズ・ガン監督によって伝えられていた通り、本作は「ロケットの物語」として描かれている。

そもそも、ジェームズ・ガン監督にとっては、自分自身とロケットというキャラクターを重ね合わせ、1作目製作当初からこのシリーズは「ロケットの物語」という認識であったという。

もちろん『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の主人公はスターロード/ピーター・クイルであることには間違いない。それでも、ジェームズ・ガン監督のその思惑や、本作に至るまで「謎」として温めておいたロケットの過去については過去作でも垣間見ることができる。1作目の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』で、結託する以前のメンバーたちがノヴァ・コープに捕まった際の全身消毒シーンで、ロケットの背中に生体実験の痕跡があるのをスターロードが見つめるシーンが、意味ありげに描かれていたのである。

 

主人公スターロードは自身の確執である「母の手を取れなかったこと」に、新たな仲間であるガーディアンズたちと手を取ることで1作目の時点で決着をつけ、そして母の死の原因である「父」エゴを2作目ですでに倒している。

ドラックスの妻子を殺したロナンも1作目で死に、ガモーラ、ネビュラの憎むべき毒親のサノスも『アベンジャーズ:エンドゲーム』で倒された。

マンティスとエゴ(そしてスターロードと)の関係性も『ホリデースペシャル』で語られ、樹人グルートの過去や出自はわからないけど、特に何もなくても問題なさそうだし・・・。

となると、残るキャラクターはロケットのみだ。

 

果たしてどこまでが計画の当初の想定内だったのかは不明だが、vol.2の終わりにアダム・ウォーロックの展開を忍ばせておいたり、サノスがMCUというマーベルのシリーズ全体での大きな核となることを見越して、この3部作の結末のシナリオを描いていたのであれば、さすがはジェームズ・ガンというほかない。

 

徹底的にエモーショナル

本作のオープニングは、ケージに収容されている多くのアライグマの中から、謎の手(ハイ・エボリューショナリー)によってロケットらしき一頭が選ばれるところから始まる。画面が現代のノーウェアに切り替わり、流れる曲はRadioheadの"Creep"だ。

 

私は90年代オルタナファンなので、個人的にだが、レディオヘッドに強い思い入れがある。聴き覚えのある、辛気臭いギターのイントロに載せて、トム・ヨークの声に被せるようにロケットが鼻をすすりながら歌う様子を見ていたら、もうそれだけで泣きそうになって、大傑作確定してしまった。

 

この曲は、ディズニーアニメーションで言うならば、いわゆる「ウィッシュソング」で、誰にも語りたくないような過去を持つロケットの悲痛が、そのまま反映されているからだ。

 

(この曲は本来バンドバージョンなのだけど、映画で使われているアコースティックバージョンも公式がYouTubeに載せていたので貼っておきます)

 

「特別になりたい」「主導権を持ちたい」「完璧な肉体が欲しい」「完璧な魂を」

でも「でも僕はウジ虫で、変なやつなんだ、ここにはふさわしくない」

そう歌う、ロケットの思いが、自己嫌悪が映画冒頭からギュッと我々のこころを掴む。

 

そしてこの曲の歌詞の"She"を、ロケットの初めての友達、遺伝子実験のカワウソのライラと重ね合わせると、物語後半でもこの楽曲が響いていくる。

 

She's running out the door

Run,run,runrun......

 

本作は、物語序盤からクライマックスの直前に至るまで、回想のみで現在進行形ではロケットの活躍はほぼない。それでも間違いなくこの第3作の主役はロケットで間違いないと言わせる展開に持ち込める、納得の出来となっているのが素晴らしい。

それは彼らの感情や考え方の変化、成長を緻密に描いているからだ。

 

仲間以外の他者の命に徹底して無関心だったロケットが、命に向き合うことを選択する。自らの出自を認め、ありのままを受け入れる。そして、名実ともに「銀河の守護者」となる物語なのである。

 

命に向き合う

本作は、ロケットが「命に向き合う」ことを選択する物語であると書いた。

 

本作のヴィラン、ハイ・エボリューショナリーはそれこそサノスや、「正体が惑星そのもの」だったエゴ、これから強敵となり得るだろうカーンと比べると、非常に小物っぽく感じられるキャラクターではある。

 

「完璧な生命による理想郷の建設」という目的のため新たな生命を生み出すことに狂酔する遺伝子学者であり、ある種ロケットの生みの親である。

 

そのためにはあらゆる命を「実験台」として扱い、不良品と見なされればその世界丸ごと抹殺するという、生命に対する経緯の全くない人物だ。

 

彼がロケットを追うのは、ハイ・レボリューショナリーが理想とする「完璧な生命」への鍵がロケットの知能の中にあるということではあるが、

さらに創造主たる自分すらも超えてその「解」を導き出しえる可能性への嫉妬、そして、ロケットが脱出した際に彼の顔面を、原型を留めないレベルで引っ掻き回したことに対する恨みが垣間見える。

それゆえ、部下の警告も聞かず、堕ちゆく宇宙船の中で舵すらも破壊するほどに取り乱してしまう。

 

ロケットのことを実験隊番号の「89P13」と呼ぶハイ・エボリューショナリーに対し、これまで「俺はアライグマじゃない」と頑なに否定していたロケットが初めて「俺はロケット・ラクーンだ」と宣言する。

かつては「アライグマ」というありのままの存在だった自分を、実験台として生命を冒涜し、都合のいいように扱うハイ・エボリューショナリーに対し、ロケットは自らでつけた名前と、生まれた時の種族である「アライグマ(ラクーン)」で宣言することで、「自分が何者であるか」を自分自身で選択する。

 

完璧を求めるハイ・エボリューショナリーに対し、

ロケットは「お前は完璧を完璧を求めたんじゃない、ありのままを否定しただけだ」と突きつける。

 

これは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』という作品が、チームが、どこか欠点のある「クズどもの寄せ集め」みたいなチームであるからこそ、より説得力がある。

だからこそ、その前にある、いつも判断を間違えるドラックスやマンティスにネビュラが怒り狂うシーンで、マンティスが言い返す言葉や、その後のドラックスの行動が響いてくる。

 

そんな「クソみたいな野郎」であるハイ・エボリューショナリーの命ですら、ロケットは奪わない。

そしてそれを、ロケットは「だって俺たちはガーディアンズ・オブ・ギャラクシーだからだ」というのである。

 

そしてロケットは、ハイ・エボリューショナリーに囚われていた実験台を、人類だけでなく動物たちも全て生かすことを決断する。

これは「ノアの箱舟」のオマージュだろう。

創造主ごっこで命をもてあそぼうとするハイ・レボリューショナリーと、そこから生命を導くために行動するロケットの対比である。

(聖書っぽい描写で言うと、その後にスターロードが宇宙空間に投げ出されるシーンでアダム・ウォーロックと「アダム創造」のパロディみたいなシーンがあるけど、あれはギャグ以外でどういう意味があったのかはよくわからない)

 

またこれは、同じように自らの理想のために神のように命を半分消し去ったサノスに対するカウンターでもある。

 

スター・ウォーズへのオマージュとビートルズ

本作、過去作と比べても結構露骨に、スター・ウォーズへのオマージュがあった。

カウンターアースにおいてドラックスの言う "I have a bad feeling about this." はあまりにも直接的でもうギャグだったけど、ガーディアンズたちのボウイ号にラヴェジャーズたちが乗り込んでくるシーンは『フォースの覚醒』のハンの船に賞金稼ぎが乗り込んでくるシーンみたいだったし、オルゴ・スコープの巨大なデータベースからロケットの情報を探すシーンは『ローグ・ワン』のデス・スターの弱点を探すシーンを思い出した(似てないっちゃ似てないが)。そういえばクラグリンたちがサバックみたいなカードゲームしていたのも気になった。

そして、ハイ・エボリューショナリーの船でネビュラ、マンティス、ドラッグスが捕まりアビリスクと戦わされるシーンは、まんま『ジェダイの帰還』のジャバの要塞でルークとランコアが戦うシーンを再現しているみたいだった。

 

そもそもスター・ウォーズのシリーズは、そのほとんどが何らかの理由で田舎に縛り付けられていた少年・少女が、ある日宇宙へ飛び出し運命を変えていく物語である。

アナキンも、ルークも、そしてレイもである。

そこにロケットの出自を重ね合わせたのであろう。

 

また、私がビートルズが好きすぎることによる妄想的偏見もあるのだが、本作はビートルズへのオマージュもあったように思う。

 

聞くところによるとそもそもコミックスにおいて、ロケット・ラクーンは初登場時「ロッキー・ラクーン」という名前で、それはビートルズの楽曲から取られていた。


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その後、あまりにもそのまんまだからということで「ロケット」という名前が付けられたのだとか。

 

ロケットの友達としてカワウソのライラとセイウチのティーフスが登場するが、どちらも原作コミックに登場するキャラクターらしく(ウサギのフロアはわからない・・・)ロケットが"Rocky Raccoon"由来ということもあり、セイウチも"I am the Walrus"から着想を得ているという。(なお原作のセイウチの名前は「ウォー・ラス」とのこと)

 

ハイ・エボリューショナリーに捕まっていた子供達が「ジュブジュブ」しか話せないのも、"I am the Walrus"の歌詞っぽい。

 

そして劇中でビートルズの楽曲こそ使用されてはいないが、映画全体の「ロケットが自身のありのままを受け止める」というテーマが"Let It Be"っぽくもある。

ってのは、さすがに安易すぎか。

 

でももう「負け犬の日々は終わり」

そんなこんなで、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は本作で最後の作品となる。

 

物語の最後で、ガーディアンズのメンバーからスターロードとマンティスが抜けることとなる。

『アベンジャーズ:エンドゲーム』で一度地球に戻った後も、ずっと宇宙でガーディアンズとして生きてきたスターロード=ピーター・クイルが、唯一残された家族である祖父のジェイソン・クイルに会いに行くことを決めたからだ。

(そもそも、宇宙船があるのだからクイルはその気になりさえすれば地球に帰れたはずだが、やはり決断ができなかったのであろう)

マンティスも手懐けた3匹のアビリスクを連れ、エゴからも、そしてガーディアンズからも解放された人生を「自らの手で」歩んで行くことに決める。

別の時間軸から来たガモーラはラヴェジャーズの元に戻り、ネビュラとドラッグスは今回救った人々の保護も含め、改めてノーウェアの再建に動き出す。

そして、ガーディアンズの新たなキャプテンはロケットが引き継ぐこととなるのだ。

 

スターロードからロケットに託された音楽プレイヤーZUNEで、ロケットが最後にかける曲はFlorence + the Machineの"Dog Days are Over"という、祝祭感豊かな楽曲だ。


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長い暗闇の時代から抜け出し、幸せが訪れることを歌う楽曲。

ロケットの気持ちを反映するように、レディオヘッドの"Creep"の暗さから始まった映画が、「もう負け犬の日々は終わり」と、明るい未来に向けて走り出す。

 

センチメンタルで、エモーショナルなのに、湿っぽくない。

本当にガーディアンズらしいエンディングだった。

 

 

非常にディズニー的

さて、私のブログはディズニーがテーマでもあるので、この視点からも語るが、

まぁMCUはディズニーが作っているから当たり前でもあるんだけど

本作は本当にディズニー的なテーマが込められた作品だなと思った。

 

まず本作はずっと「ロケットがありのままを受け入れる話」と語っている。

『アナと雪の女王』で歌われた「ありのままで」は英語版ではLet it goであり、「放っておいて」という意味ではあるが、物語のテーマとしてはエルサがうまく扱えない魔法=欠点を個性として受け入れる物語であり、「ありのまま」というテーマが非常にしっくりくる。

『モアナと伝説の海』では、自分が何者であるかを決めるのは自分自身であるというメッセージを放っていて、その選択の尊さや責任を尊重している。

そしてピクサーの『ソウルフル・ワールド』や『バズ・ライトイヤー』でたとえ失敗を犯してしまうような、平凡な生命であっても「生きていていい」と肯定している。

マーベル作品でも『エターナルズ』でそれらは語られていた。

 

劇中のスターロードとマンティスのやりとりが思い出される。

「人間なんて地球じゃ50歳で死ぬ!」

「そんなの、生まれてくる意味ある!?」

 

でも、瀕死のロケットの世界の中で、ロケットとライラは話す。

「まだやるべきことがある」

「俺は無意味に生まれて来て、捨てられた」

「生み出す手もあれば、導く手もある」

 

誰だって、生きている意味はある。

望んで生まれたわけではないかもしれないが、

生きていることで、誰かと関わることで、誰かを導くことになるかもしれない。

 

ありのままを受け入れること、個人を尊重すること、命を尊重すること、多様性を認めること。

これらが近年のディズニー作品でずっと描かれて来たことであり、

前述の通り『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』のサノスの理想などはこれらを否定するものであり、逆説的にディズニーが描きたいメッセージを訴えかけているとも言える。

 

生命は儚くて、失敗を犯す。

そんなポンコツの負け犬の、ガラクタの寄せ集めである人々も、一つの命であり、生きる価値があるものなのである。

どんな小さな命も犠牲にしない。

そんなの理想でしかなくて、脳内お花畑の考えだと、保守的な人は言うかもしれない。

でもディズニーはその高い理想を訴え続ける。

だって「ディズニー」だから。信じれば夢が叶うと、大声で宣った人物が創った会社だから。

 

 

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