ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ作品で、最も失敗作と言われているのが『コルドロン』という映画なのは以前このブログでもお話しした。
実はディズニーファンからも映画ファンからもことごとく嫌われている映画がもう一本ある。
それが今回レビューする『チキン・リトル』である。
WDASはピクサーの『トイ・ストーリー』から遅れること5年、2000年にフルCGアニメーションの『ダイナソー』を発表する。
その後、時代の流れが完全にフルCGアニメーションへ傾き、2000年代のWDASは『リロ・アンド・スティッチ』を除けばうんともすんともヒットしなくなっていた。
2004年に、2006年『カーズ』を最後にピクサーとの契約が切れてしまうことが発表され(後に友好的買収により完全子会社となるが)焦ったディズニーは『白雪姫』以来続いてきた手描きアニメーション制作を完全に終了し他の競合企業と同じように3DフルCGでのアニメーション制作に移行する。
その記念すべき第1作がこの『チキン・リトル』だ。
目次
汚名返上そして、宇宙戦争
主人公がニワトリなので「オオカミ少年」というとちょっとややこしいが、
この『チキン・リトル』はイソップ物語のオオカミ少年のような物語がベースになっている。ただ主人公チキン・リトルとオオカミ少年の大きな違いはチキン・リトル自身は一切嘘をついていないということだ。
ある日「空が降ってくる!」と大騒ぎしたチキン・リトルは、落ちてきた空のかけらを証拠として出せなかったがために、父親にすら信じてもらえず、嘘つき少年として非難される。
この嘘をついていないのに嘘つき扱いされたチキン・リトルが、汚名返上・名誉挽回するために奮闘するというのが映画である。
いじめっ子のフォクシー・ロクシーに嫌がらせを受けながらも、どうにか活躍しようとしてハズレくじを引いてしまうチキン・リトルは、ある日自分も少年野球で活躍することを思いつく。
いじめられっ子仲間のアビーやラント、そしてフィッシュの協力のもと、一生懸命に特訓に励むが、監督にも仲間の選手たちにも全く相手にされない。
そんな時リトルリーグの決勝という大事な場面で、苦肉の策でチキン・リトルに打順が回ってくる。監督の「フォアボールで次のバッター打順を回せ」という忠告を無視し、2ストライクまで追い詰められたチキン・リトルは、偶然に偶然が重なり奇跡のランニングホームランを決め、チームを勝利に導くのであった。
めでたしめでたし。
が、そこではまだ終わらない。
無事名誉挽回を成し遂げ、父とともに喜びあったチキン・リトルだったが、その晩またしても「空が落ちてくる」瞬間を見てしまう。
そしてその落ちてきた「空のかけら」が彼の部屋の中にあるのだ。
そこから物語は急展開し、スケールの大きな「宇宙戦争もの」「異星人の地球侵略もの」へと変貌する。
軸の弱い「父子愛ストーリー」
彼が汚名返上を望む1番の理由が父親の存在だ。
学生時代スゴ腕の野球選手だった父バック・クラックに憧れるチキン・リトルは、彼に認めてもらいたくて奮闘する。
同じく父バック・クラックも、問題ばかり起こすチキン・リトルとどう接すればいいのかを思い悩んでいた。
そんな二人の父子愛ストーリーでもあるのだ。
だが、宇宙戦争ものというメインのストーリーの中で、軸となるべき「父子愛」の要素が実に弱い。
ディズニーとしては協力関係にありつつも、アニメ制作会社としてはライバルといってもいいピクサー・アニメーション・スタジオは2003年に、お手本とも言える父子愛映画『ファインディング・ニモ』を発表している。
『ファインディング・ニモ』は父マーリンが誘拐された息子を探す道中でさまざまな価値観に触れ、考えを変化させていく。父子愛だけではなく「人と人との関わり」であったり「自らが冒険や危険に身を投じることで学ぶこと=挑戦する心」だったりがテーマとなっている。マーリンやニモが身を投じる「冒険」の全てに意味があり、彼らの糧になる。そしてそれを父親の視点と、息子であるニモの視点から、両方から描くという映画だ。
この『チキン・リトル』はどうかというと、結局のところ一番印象的で面白い「宇宙戦争」に発展する流れが、全くチキン・リトルとバック・クラックの絆や信頼を深める意味をなしていない。
いや、実際には彼らの絆は深まってはいるのだが、それがエイリアンの侵略である必然性も、そこから得られる学びもほぼない。
なんならチキン・リトルのそもそもの目的である「名誉挽回」だけで言えば、中盤の「リトルリーグでチームを勝利に導く」で、不格好ながらも達成しているのだ。
もちろん、それだけではまだまだ親子の絆を深めたとは言い難く、宇宙戦争シーンへと流れていくのだが、エイリアンの侵略の流れはストーリー的には面白いとはいえ、これではあまりにも無駄が多い。
スタジオは違えど同じ「ディズニー」の枠で、フルCGアニメーションで似たテーマをやるのであれば、もっと深く突き詰めてストーリーを考える必要があるだろう。
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最初から答えは出ている
物語の本質とも言えるテーマを、冒頭で何気なくキャラクターに呟かせるという手法はよくある。何気ない一言が伏線としてあとでついてくる有効な手法だ。
『チキン・リトル』でもそれは利用されていて、物語冒頭でチキン・リトルの友達アビーが「問題はお父さんとのコミュニケーション不足よ」と伝えてくれる。
そう、重要な答えは最初から出ているのだ。
中盤「空のかけらが降ってきた」シーンでも、アビーはチキン・リトルに全く同じことを言う。それでも野球でヒーローになったばかりの彼は父親にそのことを相談することができない。今度は「空のかけら」という証拠があるにも関わらず、だ。
結局、仲間たちだけで行動したところ、再び嘘つき少年に逆戻りしてしまったチキン・リトルは、宇宙人が街を襲い始めてから、やっとの事で本音をぶつけることができる。だが、どう考えても今そんなことをしている場合ではない。
父バック・クラックが子育て方法に悩むシーンも挿入はされるものの、そのために彼が何かしているのかというシーンはなく、ただ息子の騒動に巻き込まれ弱り果てているだけだ。葛藤も、理解へ至る決定的なシーンもほとんどなく、キャラクターが浅いまま完結してしまう。
人の成長にはいろいろある。
物語の中で自然と気づいて行動するなんていう都合の良いストーリーは、現実にはそうそうないだろう。友人に何度も何度も言われて、やっと行動できたチキン・リトルのような情けない少年の成長物語こそ、リアルな成長物語なのかもしれない。
それを加味しても、映画としては実にお粗末で、展開にスピード感こそあるものの、本質の部分でモヤモヤが残り続けてしまう。
傑作へ向き合う姿勢
これは僕らディズニーファンのエゴかもしれない。
けど『チキン・リトル』という映画はどうあがいても「傑作を作ろう」という意識が欠けていると思わざるを得ない。
監督は『ラマになった王様』のマーク・ディンダルだ。
『ラマになった王様』という映画はウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの歴代作品と比べてもかなり異色な作品だ。
2000年に公開された本作は、WDASが得意とする感動路線をかなぐり捨て、徹底したコメディとカートゥーン仕様に傾倒した映画である。2000年代前半はディズニーも必死だったのか様々な異色な映画を連発しているが、この映画も小粒ながら存在感のある映画で、比較的好印象な作品である。
『チキン・リトル』も系統としてはコメディに近い。
オープニングから「ライオン・キング」や「レイダース」のパロディをぶっ込み、現在ではかなり主流となった70年代ヒットソングを随所に散りばめる演出などもそうだ。
別にコメディを批判したいわけではない。
だが随所に見られる笑いの質がいちいち低俗なので見ていて嫌気がさす。
キャラクターデザインにしても、チキン・リトルはきちんと可愛いのに、他のキャラクターは魅力が感じられない。
チキン・リトルの友人アビーに関しては「醜いけど美しい心」をやるために意図的にスタッフの思い描く「醜い容姿」にしてみせている。(それでいて、メインキャラクターなのに公式ソフトのパッケージおもて面にアビーは登場しないというのも、汚い大人の判断が働いていて実に不快である)
ディズニーの往年のキャラクター、ピーター・ピッグを思わせるラントは、「食いしん坊」を過剰表現するためにちょっと常識では考えられない体型バランスだ。「食いしん坊」でも「アニメ的表現」でも、ああはならんやろ。
可愛げのないキャラクターたちが可愛げのないギャグやコメディシーンを連発するので悪趣味な映像を見せられている気分になってしまう。
(フィッシュ・アウト・オブ・ウォーターは発想がむちゃくちゃだが可愛さ的にはアリだと思う)
本作のために「CGキャラクターを2Dキャラクターのようにコミカルに動かせるためのソフト」まで開発されたと言われている。
だが、少なくとも当時のCGアニメーションに求められていたのは「リアルさ」だろう。
2Dアニメっぽくするにしても、やはりCGの良さと2Dの良さのハイブリットを目指すべきだ。この作品ではどちらの良さも死んでいるように思う。
またライティングの技術が未熟なのか、昼間のシーンはなぜか全体的に黄色味がかかっていて違和感がある。
ディズニーはウォルト・ディズニー主導で一度『チキン・リトル』を短編アニメ化している。
もともと1700年ごろからイギリスに伝わる寓話であり、農場に住むニワトリのチキン・リトルが、農場のニワトリを狙うキツネのフォクシー・ロクシーに「空が落ちてくるから全力で逃げろ」とそそのかされ、チキン・リトルは農場を「空が落ちてくる!」と大騒ぎ。いろいろあってチキン・リトルを信じた農場のみんなは彼の「洞窟へ逃げろ!」という言葉を信じて洞窟へ逃げ込むと、フォクシー・ロクシーに食べられてしまう・・・という「デマの危険性」を訴える内容になっている。
これをそのまんまリメイクしていれば、きっととんでもないことになっていただろう。
でもうまく要素だけ抜き取れば社会的なメッセージとして今でも(今だからこそ)通用していた可能性もある。
2005年版『チキン・リトル』は1943年版からキャラクターの名前と「空が落ちてくる」というネタだけを拾ってリメイクした、全く異なる話となっている。
「空が落ちてくる」から宇宙戦争に繋げるのは発想としては面白いしのだが、こういう要素の抜き取り方も下手なのかな、と思ったりする。
「この作品の評価が低いことで、天下のウォルト・ディズニーが手がけた短編に要らぬケチがつくかもしれない」という危機感も足りてないんじゃないだろうか。
冒頭に語った通り、この『チキン・リトル』はスタジオの手描きアニメーション部門を潰してできた最初の作品である。
手描きにこだわる多くの素晴らしいアニメーターが退社していくなかで、生み出された映画が「コレ」なのは、残念で仕方がない。
コメディに傾倒するとして、全力でふざけるにしても、もっとやりようがあったはずだし、メインストーリーの中途半端さも相まって、見ていて本当に辛くなってくる。
あなたたちが働いているのは「ディズニー」なんだから。
でもヒットしてよかった
この『チキン・リトル』、皮肉なことに当時はそれなり結構ヒットした。
そりゃあピクサー作品とはとても比べられないが、我らがディズニーファンが愛してやまない『トレジャー・プラネット』の3倍近くヒットしている。(ちなみに『トレジャー・プラネット』は傑作なのに赤字に終わっている)
世の中何がヒットするかはわからないものだ。
今でなお「『シュレック』はピクサー」とか「『ミニオン』はピクサー」「『ズートピア』はピクサー」って言う人がいるのと同じように、当時はピクサーと間違われて観に行った観客も多いのだろう。
それでもやっぱり、内容を鑑みると、ピクサーにもドリームワークスにもフォックスアニメーションにもイルミネーションズにも到底及ばないクオリティの作品であると思う。
『チキン・リトル』が公開され、翌年にはピクサーを友好的買収したために、CCOとしてジョン・ラセターがやってきて、製作中のアニメーションにテコ入れが入る。
それにより退社したスタッフも少なからずいたわけだが、のちに制作された『プリンセスと魔法のキス』『塔の上のラプンツェル』『シュガー・ラッシュ』『アナと雪の女王』『ベイマックス』『ズートピア』などの作品群を観ると、やはり少なからずスタジオにいい影響を与えたことは間違いないだろう。
『チキン・リトル』がある程度ヒットしたおかげで、歴史あるウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオそのものが閉鎖なんてことにならず、ジョン・ラセターが来るまで持ちこたえてくれたのは本当によかったとは思う。
それでも、作品の質と興収は、やはり別として考えるべきだよなぁと思わされるのである。