遅ればせながら、ディズニー+オリジナルムービーの『スターガール』を観た。
米国のオーディションテレビ番組『アメリカズ・ゴット・タレント』で優勝した少女、グレース・ヴァンダーウォールが主演で、米国でヒットした同名の児童向け青春小説を映画化した作品である。
正直ディズニー+オリジナル作品は全く食指が動かず、『マンダロリアン』くらいしか観ていない。
実写版『わんわん物語』やケネス・ブラナーが監督した『アルテミスと妖精の身代金』すらまだ観てない怠惰っぷりである。ディズニー映画ファン失格だと自分でも思っている。
そんな中、2020年のディズニー作品がほとんど劇場公開がなかったのに年末になって焦り始めた私は、「ブログ記事書かなきゃ・・・」という謎の使命感から、本編の再生時間の短い本作を手始めに見ることになった。
いやあの、『スターガール』傑作であったよ。
なぜ今まで話題にならなかったのか。
ちょっと本気でみんなにも観て欲しくなったのでちゃんと記事にする。
目次
あらすじ
アリゾナ州に住む男子高校生のリオ・ボーロックは幼少期のとある体験から目立たないようにみんなに溶け込んで生きてきた。
そんなある日、カラフルな服を着てウクレレを弾き歌う「かなり目立つ」少女スターガール・キャラウェイが転校してくる。
スターガールは万年弱小チームだった学校のアメフトチームを、チアリーディングの歌で勝利へ導き「勝利の女神」として学校でもてはやされる。
彼女の変わった一挙一動にリオは夢中になり、交流するうちに二人は惹かれあっていく。
しかしアメフトの試合で起きた「ある事件」を境に、スターガールの学校での立場は変化してしまうのだった。
シンプルなストーリーを支える圧倒的「空気感」
先入観とは怖いもので、私はティーン向け小説の実写映画化、しかもディズニーによる劇場公開なしの作品、ということでディズニーチャンネルオリジナルムービー的なノリを想像していた。
『ハイスクール・ミュージカル』に『ディセンダント』に『ゾンビーズ』・・・いかにもディズニーらしいシンプルなストーリーとテレビドラマの延長のような低予算を感じさせるセット、キャラクターの内面や感情よりもディズニーチャンネルスターを前に出すザックリとしたカメラワーク。
それらが私の想像していた「ディズニーチャンネル的映画」だった。
それはそれで味があっていいのだが、大人になった私には正直見るに堪えない部分もある。
『スターガール』はそれとは大きく違っていた。
ストーリーと物語のテーマに関しては、いかにもディズニー的でベタな、観る人によっては「またこれをやるのかディズニーは」という感じの作品ではある。
それなのにこれまでのディズニー作品と大きく違ったのは演出と空気感だ。
なんとなくティーン向けの青春ストーリーであることは感じられたが、前半では正直先の展開が読めない不思議さがあった。
これはもしかして学園版『魔法にかけられて』や『メリー・ポピンズ』のような話なのではないか、と観る者を期待させてしまう話の運び、蓋を開けてみれば極端にシンプルなのに、それに気づかせない。
多くは語らず、画で魅せる演出。
掴み所がないような主人公たちの会話。ふれあいの動作。
『ハイスクール・ミュージカル』などと、似たような題材を扱っているのに、カメラワーク、言葉選び、映像の切り取り方で、何気ない青春の一ページが「映画」になる。
グレース・ヴァンダーウォールのスター性
この映画の「空気感」を支えるのが、スターガールを演じるシンガーのグレース・ヴァンダーウォールのスター性である。
そもそもこの企画は、彼女の歌声ありきでスタートしてるんじゃないかと思えるくらいに、彼女の持つ存在感が遺憾無く発揮されている。
普通の女の子であった彼女が、ある日オーディション番組に登場してから一躍世界的なスターになってしまったことを考えると、映画の中の『スターガール』よりも、グレース自身のシンデレラストーリーの方がよっぽど映画的だが、ウクレレ一本で、彼女の何気ない一言と行動で、周囲の人間を巻き込んで小さな世界を一変させてしまう、その魔法的な存在感は、それを演じるグレース自身の才能とも強くリンクする。
前述した、『スターガール』を支えている空気感を生み出すための演出、カメラワークも、いかにグレース・ヴァンダーウォールという少女を特別に写すかに特化しているといってもいい。
それでもテーマは「ありのまま」
それでも本作のテーマは、まだ「ありのまま」だ。
『アナと雪の女王』が2013年の作品。実に7年前だが、ディズニーは繰り返し、変わることなくこのテーマを訴え続ける。
というか『ハイスクール・ミュージカル』(2006年)だって、アニメ版『ムーラン』(1998年)だって、「自分らしく生きる」ことをテーマにしてきたし、ディズニーとしては今後もずっと追いかけ続けるテーマなのだろう。
2013年、『アナと雪の女王』で魔法の力を個性に落とし込み、人々に受け入れられたはずのエルサは『アナと雪の女王2』で精霊=人ならざる者に祭り上げられることで、彼女の「魔法の力」を個性として扱うことを避けた。
1998年に、自身の努力の積み重ねで兵士となったムーランは2020年の実写化の際には、元々超人的な才能を持つ女性として描くことで、彼女が特別であることを強調した。
この2作はエルサやムーランを「普遍的なもの」として人々に受け入れられる流れから「超人的なもの」として扱う流れへと変化させている。
一方の『スターガール』の歪なところは、「ありのまま」をテーマにしていることを冒頭で宣言しながら、周囲から注目を集め、悪目立ちするような「特別な存在」を最終的には「普通」へと落とし込む。
ピクサーの『Mr.インクレディブル』の序盤、ヘレンとダッシュの話す
「みんなが特別なの」「じゃあ誰も特別じゃないってことだ」という会話のように。
しかも、グレース・ヴァンダーウォールという非凡な才能を使って、だ。
この「みんな違ってみんないい」「No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly 1」とも言える正しさは、映画の中で実に特別な存在として映し出されたスターガールという少女を、普通の女の子にしてしまう。
彼女自身劇中で普通であること、みんなと同じであることに違和感を吐露するシーンもある。
みんなが思いのままに、誰の目を気にすることもなく、好きな格好で好きなように生きる。考え方の変化により、それが「普通」になったとき、スターガールは他のみんなと同じ普通の存在になってしまう。そして、その「普通」をもたらしたのは皮肉にもスターガール自身なのだ。
その歪さに私はセンチメンタルを感じる。
エルサやムーランは、魔法のような力を持ったヒーローとして、今後も崇められたり恐れられたりする存在になるだろう。
でもふとスターガールを思うとき、劇中で彼女は都市伝説のような存在にはなっているけれど、本質はウクレレを弾くただの少女なのだ。
それがいいか悪いかは別として「ありのまま」を突き詰めると、本当は、最終的にはこうなってしまう。
『アナ雪』や実写『ムーラン』ではあり得なかった物語の提示を見せられた。
まとめ
風のように突然現れ、変化を起こして風のように去っていく、という意味では
『メリー・ポピンズ』的な映画と思ったのも当たらずとも遠からずという感じか。
『ハイスクール・ミュージカル』とは全く異なるベクトルなのに、言っていることは本質的に同じで、
「We're All in This Together(みんなスター!)」になるどころか、みんな普通、それこそが当たり前に落ち着くリアリズムとか、それが異様に甘酸っぱかったりとか。
そこまで考えなくても普通に空気感だけで「いい映画見たなぁ」に浸れる余韻の強さとか、何から何まで多幸感に溢れる作品だった。
私が個人的にベスト級に好きな『ウォールフラワー』とかと似た空気感。
ディズニーなので『ウォールフラワー』みたいにドラッグやセックスは出てこないけど(匂わせ同性愛程度は出てくる)、大人の視聴にも耐えれるし、シンプルなストーリーに最後まで浸り切れる良作だった。
マジで10代で観ておきたかったよ。