実写版『ムーラン』不死鳥が地獄に堕ちる前に。

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Mulan

もう地獄に堕ちている、かもしれない。

 

実写版『ムーラン』が燃えている。

 

公開されるかなり前から、主演のリウ・イーフェイの「香港警察(中国共産党)支持」の政治的な発言により批判を浴びていた本作だが、

出演俳優をアジア系で固めたにも関わらず、主要な制作スタッフはほぼ欧米系でアジア系の参加がなかったことで批判の勢いが増し、

トドメはエンドロールで中国政府が人権侵害の弾圧を行っているとされる新疆ウイグル自治区で撮影が明らかになり、またそれらの政府機関への感謝の言葉を述べていたということから「ディズニーは人権侵害を肯定している」として香港、台湾、タイなどでの「ムーランボイコット運動」の炎にガソリンをぶっかけたような状態になっている。

 

アニメ版『ムーラン』は名作だが、こちらはこちらで様々な批判にさらされた作品でもある。

ポリコレに配慮した作品が、また別のポリコレ案件を含んでいた作品だ。

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ディズニーの実写化プロジェクトは、それらの批判、そして過去の価値観をアップデートして新たな価値観として提示する役割を持っていると認識していた。

それが、こんなところで新たな問題を産んでしまうというのは、非常に詰めが甘いというか、タイミングも状況も最悪である。

 

そんな最悪の燃え方をしている実写版『ムーラン』だが、

「実写版『ムーラン』を観る人は悪」という空気が醸造されつつある中で、その作品の内容については変な色眼鏡がついてしまう前に(もうついてしまっているかもしれないが)観ておくべきじゃないかと思った。

 

少なくとも、ディズニー+で無料公開が開始される12月頃には、状況が変わってしまっている可能性がある。

その時には実写版『ムーラン』が、それこそ『南部の唄』のように幻の作品になっている可能性も否めない。ディズニー+独占配信だからこそ、引っ込めるのは容易だ。

 

新疆ウイグルの件がニュースになった後で、僕は「今観ておかないと一生観れないかもしれない」という私欲から、実写版『ムーラン』に課金してしまったが、

僕自身は中国政府による人権弾圧を支援する意図は全くないことを理解していただきたい。

 

※当記事は現在ディズニー+で有料配信中の映画『ムーラン』(2020)のネタバレを含みます。自己責任でお読みください。

 

目次

実写版『ムーラン』が目指したもの

『ムーラン』の大まかな流れは是非アニメ版『ムーラン』を観て欲しい。

原作となった伝承や、歴史的な事実とは異なるが、この実写版『ムーラン』がベースとなっているのはアニメ版のそれだ。

 

アニメ版をベースに、様々な点で改変を施しストーリーをより現代的にしている。

報道でも明らかになっているが、アニメ版に登場したムーランの恋人役リー・シャンはそのキャラクターを分割され、メンターとしての存在はドニー・イェン演じるタン司令官、ムーランの良き理解者としての存在はヨソン・アン演じるホンフイというキャラクターになっている。(ホンフイは原作に登場する賀廷玉なる人物がモデルとも言われている。)

 

また、アニメ版のフン族は史実に基づくとトルコ人の先祖がモデルであったため、トルコ政府から非難声明を受けるなどの問題もあった。

そのため実写版ではフン族ではなく「柔然」に変更になった。

柔然は(私自身も初めて知ったが)3世紀から5世紀にかけてモンゴルで勢力を伸ばした騎馬民族で、当時の中国の王朝・北魏と衝突している。また、552年ごろに柔然は完全に滅んだとされており、柔然を先祖にもつ種族はいないとされているようだ(ほんまかいな)

第二次大戦などの善悪がはっきりしているものの映画化とは違い、創作物語上で特定種族を悪役にしてしまうと、その子孫である人々との間で非難が起きてしまうのを、ディズニーは「すでに滅んだ種族」を悪役にすることで避けたようだ。(もう存在しないところで勝手に悪役にされる柔然は気の毒な気がするが)

 

当初、アニメ版のヴィランであるシャン・ユーが登場せず、実写版オリジナルのヴィランとしてコン・リー演じる「魔女」シャンニャンが登場するという報道がなされた。

それは「魔女」を悪役とすることで、遊牧騎馬民族を先祖に持つ人々からの非難を避ける意思があったのかもしれない、僕は前述したアニメ版『ムーラン』の記事でそう書いた。

 

ところが、実写版『ムーラン』にも、シャン・ユーの代わりとなる大柄な遊牧騎馬民族の悪役、ボーリー・カーンが登場している。

 

では「魔女」とはなんだったのか?

 

ここが本作の肝でもあり、僕自身感嘆した部分でもある。

『ムーラン』という作品において、ディズニーが目指したものは「女性の自立」である。

『ムーラン』は映画冒頭から、実写版『アラジン』で提示されたような『Speechless』な女性の立場を明確に表現している。

アニメ版がそうであるように、ムーランは終盤女性であるからという理由で軍隊を除名される。それでも最終的には「ムーラン自身」を信じる仲間たちによって受け入れられる。

ある種これは、「ディズニーにとっての理想」だ。

中国の文化であったり、時代的な背景を考えて、果たしてこんなことが受け入れられるであろうか。

 

それに対し魔女・シャンニャンは「現実」を反映させているとも取れる。

魔女として強力な力でボーリー・カーンの作戦に役立ちながらも、その地位は決して平等ではない。

 

シャンニャンはヴィランでありながらも、ムーランと対になる存在であり、また「もう一人の主人公」とも言える存在なのだ。

ヴィランという立場から「女性の自立」を訴えかける超重要なキャラクターであった。

 

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『スター・ウォーズ』的価値観と『アナ雪』のリフレイン

実写版『ムーラン』は女性版『スター・ウォーズ』を目指したのではないだろうか。

 

トレイラーなどでも分かる通り、実写版『ムーラン』におけるムーランの体術は他のキャラクターと比べてもずば抜けている。

また本作では「気(Ti)」に関する言及もなされており、この価値観は『スター・ウォーズ』における「フォース」の価値観によく似ている。(そもそもフォースがアジアの気の価値観に影響されているからだろうが)

 

アニメ版『ムーラン』は、特に才能もない主人公ムーランが、戦いに身を置き鍛錬を経て立派な戦士になるところが見られた。

一方で実写版『ムーラン』は「気」の概念を持ち込むことで、ムーランが特殊能力の保有者扱いになってしまっている。

もちろん鍛錬のシーンもあり、努力をしていないとは言わない。

 

これはあえて主人公を極端に「能力のある女性」として描くことで、「女性である」という理由だけで社会では受け入れてもらえないという現実を描写しているのだと思う。

 

また、この「能力のある女性」はヴィランである魔女・シャンニャンも同じである。

シャンニャンを魔女、異端者として極端に描くことで『アナと雪の女王』で描いた、エルサのように恐れられる特殊能力者の悲劇をリフレインさせている。

 

一方でアニメ版の「今は弱いあなたでも努力すればヒーローになれる」というメッセージが好きだったために、この改変は少し残念でもある。

それこそ『スター・ウォーズ』は『スカイウォーカーの夜明け』で「なんの血縁もない普通の女の子が世界を救う」はずの話が「めちゃくちゃ強い血縁の子でした」というストーリーに転換されてしまったばかりだから、余計に残念だ。

(実写版『ムーラン』では血縁はあまり関係なさそうなので、違うベクトルの話ではあるが)

 

演出的な弱さ

実写版『ムーラン』は劇場公開ではなく、ディズニー+限定公開となり、自宅の低スペックTVで観る方法しかなかったがためにその迫力は半減してしまっていると思う。

 

ただ、それだけが理由ではなく、アニメ版と比べて迫力が増しているか、というと疑問に思える部分も多々ある。

 

戦闘シーンは実写になったことによりよりリアルにはなっている。

では他の実写映画のようなメリハリのある演出はできているか、というとそうでもないと思う。

また、ムーランの「能力」への演出にこだわるあまり、他のキャラクター立ちが弱く、それぞれの得意分野も特技も見えてこないために、ムーラン以外の戦闘は主要キャラであってもモブ的な戦いに見える。

 

また、アニメ版は様々な楽曲が物語を彩り、引っ張って、キャラクターの心情を吐露してきた。特に『Reflection』は『Let It Go』にもテーマが似通う、ディズニー屈指の名曲である。

歌唱曲をなくしミュージカル要素を排除すること自体に、特に不満はない。

ただそれは映画が面白くなるならばの話だ。

 

歌わせないのであれば、キャラクターの思いが視聴者に伝わるだけのシーンを用意する必要はあるし、その表現力が問われるのは当たり前で、果たしてこの映画がそれをうまく表現できているかというと、かなり弱いような気がする。

ムーランが「自分らしくあること」そして「家族の名誉を守ること」の2つの価値観で揺れるのがアニメ版の共感を呼ぶ部分であるはずなのだが、実写版はいささか展開が早すぎる。

 

またアニメ版『ムーラン』の『A Girl worth fighting for(愛しい女よ)』の明るい展開からの、襲撃を受けた村の悲惨さのシーンの、ショッキングすぎる緩急のつけ方などが、実写版では流れるように映像化されていたり、ところどころに演出の弱さを感じる。

 

終盤の戦闘シーンも絵的な「派手さ」でいえば圧倒的にアニメ版の勝利であるし、

ラストバトルの戦闘の舞台は『パイレーツ・オブ・カリビアン』のようなギミックがあり得る場所であったのにも関わらず、うまく場所を活かせていない感じがした。(期待しすぎかもしれないが)

 

「アニメ版から設定を変える、それによって伝えたいことを明確にする」

それ自体は前述の通りにうまくいっていると思う。

一方で「じゃあそもそも戦争映画として面白いか?」と問われると、面白くないとは言わないがもっと優れた作品はゴロゴロあるだろう。

何より、アニメ版の素晴らしかった部分よりも、演出的に弱くなっている部分が多いような気がする。

 

まとめ

とりあえず、ドニー・イェンの活躍するシーンはもっと観たかった。

また、アニメ版『ムーラン』でムーランの声優を担当したミンナ・ウェンがカメオ出演していたのは熱かった。

映画の内容は、やはりアニメ版のファンである僕は声を大にして「大傑作です!」と言えない部分もあるが、映画単体としてみれば悪くない作品だと思う。

扱っているテーマも非常に魅力的だ。

 

この映画の配給ロゴ、つまり最初に「Disney」と表示されるシーンは、上海ディズニーランドのエンチャンテッド・ストーリーブック・キャッスルが登場する。

これはこれで熱い演出であり、上海ディズニーランドも大好きなパークだ。

 

話は冒頭の炎上の話に戻るが、ディズニーがこれまで映画を通して送ってきたメッセージは、平和であったり、非暴力、共存、平等・・・とそのどれもがポジティブなものだ。

実写版『ムーラン』でもそれは変わらない。

 

ディズニーが表面上放っているメッセージと、中国をビジネスする上での市場としてみた上で中国政府に忖度するする姿勢には、やはり矛盾を感じてしまう。

ディズニーが平和を、そして平等を、弱者の救済を主張するのであれば、ディズニーは中国政府を非難する姿勢を見せるべきだろう。

上海ディズニーランドや、様々な映画の配給(とそれによる莫大な利益)を人質に、矛盾をはらみながらだんまりを決め込む姿勢は、どう考えてもダサい。

 

ディズニーが上海パークやこの映画にかけたコストは理解できる。

では横暴な独裁国家に対してどう立ち向かっていくかというところまでは考えなかったのか?

確かにタイミングは悪すぎたと思う。だが新疆ウイグルでの撮影などはそれ以上にディズニーが悪手を踏んでいる。ただ「タイミングが悪すぎた」として処理しないでほしい問題だ。

 

なるべく早めにディズニーとしてのスタンスを示してほしいところである。

 

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