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『ミラベルと魔法だらけの家』持つ者も、持たざる者も救っていく、圧倒的優しさの映画。

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Encanto

 

ディズニー長編アニメーション第60作品目『ミラベルと魔法だらけの家』(原題:Encanto)を観てきました。

 

 

「ミラベる!」より「だらける!」を推したい。

普段邦題クソクソ言ってるのにこうなると配給の思う壺だな。

 

概ね想定通り期待通りの内容かつ、おきまりの御都合主義展開ながらも、アニメーションの鮮やかさやキャラクターたちの魅力が突き抜けていたのでかなり大好きな作品になりました、『ミラベル』。

御都合主義も、これはピクサー作品じゃなくてディズニー作品だからこそだよね、という感じで。僕は全然許容範囲。

 

監督は『ズートピア』を製作したコンビのジャレド・ブッシュとバイロン・ハワード、

劇中を彩るミュージカル曲を『モアナと伝説の海』のリン=マニュエル・ミランダが製作という、おそらくいまウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオにおける最強の布陣のひとつにより贈られる新作。

 

長編60作目、ここ数年ディズニーが提供してきた作品たちの総括とも言える内容に、大変大満足であったよ。私は。

 

※当記事は現在公開中の映画『ミラベルと魔法だらけの家』およびディズニー社関連作品のネタバレを含みます。

 

目次

 

「持つもの」と「持たざる者」の物語

ディズニー映画ではこれまで多くの「特別な力を持つもの」の物語を描いてきた。

代表作は『アナと雪の女王』や『塔の上のラプンツェル』だろう。ピクサーならば『Mr.インクレディブル』などだ。『アナと雪の女王』や『Mr.インクレディブル』では他者を無理解の存在としておくことで、力を持つものの悩みや苦しみ、偏見や差別にフォーカスを当てていくし、『塔の上のラプンツェル』はそれ自体がテーマではないものの「力を持つこと」で報酬として扱われてしまうような無慈悲さを描いている。

「特別な力」を「権力」や「豊かさ」に置き換えればプリンセスの物語などもほとんどが「特別な力を持つもの」もしくは「特別な力を肯定し、憧れ、最後には手に入れる」物語である。

 

『ミラベルと魔法だらけの家』はその真逆、「特別な力を持たぬもの」であるミラベルが主人公だ。

血の繋がりのある家族は皆、ある年齢になると魔法の家「カシータ」から個々の性格に合わせた魔法のギフトを与えられる。その家族の中で唯一力を与えられなかったのがミラベルである。

ギフトをもらえると誰もが信じて疑わなかった中で、ギフトをもらえなかったという体験。

そして、一部の家族からも、街のみんなからも「惨めな存在」として扱われる日々。祖母アブエラ・アルマの彼女に対する厳しい態度や、家族の持つ魔法に対する憧れや嫉妬心からフラストレーションを溜めていく姿は、同情と共感を呼ぶ。

また、そんな過去や現在がありながらもひたむきに、前向きに家族を誇りに思う姿が非常に涙ぐましく思えてくる。

 

本作は「持たざる者」であったミラベルが、カシータおよびエンカントの崩壊の危機を救うために活躍し、「持たざる者」なりの自己実現や存在意義を見つける物語…。

かと思いきや、(上記のテーマもないわけではないが)本作の真のテーマは「力を持っていようが、持っていなかろうが関係ない」「誰もが生まれながらにして特別である」という方向へと向かっていく。

 

これはピクサーのDisney+限定配信作品となった『ソウルフル・ワールド』でも描かれたテーマである。

 

また、本作は「力を持つ者」の描き方にも注目をすべきである。ミラベルの姉ルイーサとイサベラはそれぞれ、怪力の魔法と花を咲かせる魔法を持っている。どちらも祖母アルマの期待に応えるべく行動しながらも、それぞれが「力を持つ者」なりの、他人には打ち明けられない悩みを抱えていたのである。

ミラベルは「持たざる者」として、我々と同じ目線に立ちながら、「力を持つ者」の苦しみに気づかせる役目を果たす。我々は知らず知らずのうちに、「才能を持つものたち」の明るい面ばかりを見て羨んでいたのだと、ここで気づくのである。

これは同監督らが制作した『ズートピア』でも描かれたように、私たちはニュートラルなつもりでも、実は気づかずに偏見の目で他者を評価して生きており、そのことに意識的になるべきであると警鐘を鳴らしているように思える。

 

スーパーパワーを持つヒーロー映画が多数登場する昨今で、「スーパーパワーを持たない我々はどう生きるべきか?」というテーマは繰り返し描かれてきている。そんな中、「力を持っていようが、持っていなかろうが関係ない」「誰もが生まれながらにして特別である」というメッセージは、僕のような一般人には非常に力強く響くのである。

 

 

祖母アルマの呪い

 

本作はまたしてもヴィラン不在の物語となった。

もし仮にこのキャラがヴィランである、と定義するのであればそれはやはりブルーノ…ではなくミラベルの祖母アルマだろう。

 

アルマはマドリガル家の最年長で一家の中心的存在である。

その昔、故郷を追われて逃げてきた先で愛する夫を失い、その折りに力を授ける魔法のキャンドルと、魔法の家カシータを手に入れる。

カシータの周辺には共に故郷を追われた人々が街を作りエンカントとなり、アルマはマドリガル家の魔法の力を街に還元することで信頼を得て共存してきた。

 

ただ、授けられた力を私利私欲や支配に使うのではなく、人々に還元してきたはずのアルマだか、劇中の言動を鑑みるに、「魔法が使えるからこそこの街に住み、生かしてもらえている」という強迫観念に襲われていることがわかる。

これが、アルマがマドリガル家に、厳しいまでの「完璧さ」を求める理由であり、不吉な予言で人々を困らせるブルーノや、魔法の力を与えられず、何をしようにも失敗ばかりのミラベルへの冷遇っぷりの理由でもある。

 

事実、ブルーノの「マドリガル家を崩壊させる、かも?」という予言の原因と言われたミラベルは、アルマの求める「完璧さ」に抑圧されてきたルイーサやイサベラを解放していき家族の絆を深めていくが、最終的にマドリガル家を崩壊に導くきっかけを作ったのは他でもないアルマなのである。

 

アルマは彼女自身が家族への呪いの原因であり、

ミラベルの言葉から、彼女もまた、自身に呪いをかけ続けていたことに気づくのである。

アルマとミラベル、そしてブルーノとの和解は、アルマが彼女自身の呪いを解くための行為であり、崩壊したカシータを修復するのは、彼女が「力を失えば迫害される」と危惧していたはずのエンカントの人々だ。彼らは迫害などするはずもなく、むしろ今までのマドリガル家の行いの恩返しに、カシータの復興に手を貸す。

 

ディズニーのこれまでの総括

 

ディズニー作品はこれまでの「いわゆるディズニー」な固定観念を覆すべく、ある意味で大胆なテーマ性を持たせてきた。

従来のプリンセス像の否定、「出会ったばかりでの結婚」の否定(本作もあったね)、などである。

偏見やパブリック・イメージ、「こうあるべき」という役割や構造、属性からの脱却、そして解放は特にここ数年で強く描かれてきた。

しかも『アナと雪の女王』でエルサが与えられた役割を、『シュガー・ラッシュ』でヴァネロペが念願かなって手に入れた居場所を、『トイ・ストーリー』シリーズで何度も繰り返し言い聞かせてきたウッディの存在意義を、それぞれ続編で、大胆に覆すような形で。

 

そして、役割からの脱却は、解放とセットとなり、解放されるということはよりディズニーの目指す「自分らしさ」の在り方を明確にする。

彼らの選択はいかにも自分勝手で、自分都合に聞こえるかもしれないが、もちろんそこには葛藤もあるし「より自分らしく生きるため」の未来への想いが込められている。

「こうあるべき」という役割を取っ払うことで、人はより多様に、さまざまな可能性に挑戦することができる。様々な生き方を肯定することができる。

『ソウルフル・ワールド』で描かれたように、ヒーローでなくても、スターでなくてもいい。誰のどんな生き方でも、道を踏み外しさえしなければそれが正解なのだというメッセージだ。

 

そして『ミラベルと魔法だらけの家』は、それらの作品よりも優しい。

カシータの崩壊により一時的に魔法が使えなくなってしまったマドリガル家の者たちは、カシータの復活により魔法の力を取り戻す。

 

「力を取り戻さずに、普通の人間として生きる」というエンディングも、ひとつの方法だったように思う。

それはそれで大胆で、意味のある決断だ。

「何の力を持っていなくても良い」という強いメッセージになったはずだ。

 

でも違う。

「力を持っていたっていい」のだ。

 

「何の力を持っていなくても生きていていい」という表現をすると「力を持った人は生きていてはいけないのか」のような極論で解釈をしようとする人がどうしても出てくる。(もちろんそれは解釈する側が間違ってると僕は思うのだけど)

これまでの作品でも、ディズニーは全くそんな事を言ってはいない。

「力を持つもの」を否定することは、過去のディズニーヒーローやプリンセスたちを否定することだ。

だからこそ『ミラベル』ではここまで明確に、ご都合主義と言われようとも、マドリガル家に再び魔法をもたらすエンディングにしたのだろう。

『ミラベル』はディズニーがこれまでスポットを当ててこなかった「力を持たない人」にスポットを当てつつ、「力を持つ人」を蔑ろにせず肯定する。本当の意味での「誰だって生きているだけで価値がある」を描いている。

先進的なメッセージを放ちながらも、これまでのディズニーだって否定しない。

 

音楽に沸き、キャラの魅力に溺れる、狭くて広い世界観

冒頭にお伝えした通り本作のミュージカル音楽は『モアナと伝説の海』で音楽を担当したリン=マニュエル・ミランダが制作している。

 

やっっっっとのことでDisney+に日本語字幕がやってきたブロードウェイミュージカルの『ハミルトン』の素晴らしさもさることながら、

私個人の思い入れで言えば今年夏に公開されたワーナーブラザースの『イン・ザ・ハイツ』の歌唱曲作曲が記憶に新しい。(ちなみにミラベルの声優を担当したステファニー・ベアトリスも出演している)

ラテン音楽のノリにヒップホップの要素を加え、早口言葉のように畳み掛けるミュージカル曲は、今までのディズニーミュージカルと毛色が若干違うものの、個人的にはしっかりとハマっているように思う。

ディズニーミュージカルセオリーに則り、ミラベルが「I Wish」を歌う曲もあり、プリンセス映画ではないながらもディズニープリンセスの文脈で語られる要素もあるだろう。(そもそもディズニープリンセスの定義は今となっては「王族の姫」を意味しないので)

 

また、10人もの大家族を描いた作品ながら、魔法の使えないミラベルの父や叔父を含めて、誰一人キャラが立っていない人がいないのもすごい。

花を咲かせる魔法を駆使し、美貌を振りまく完璧さを見せるミラベルの姉イサベラの美しさは公開前から話題沸騰の人気ぶりだし、ルイーサのキャラの良さは映画を通してしっかり伝わっただろう。登場シーン的には短かった叔母方の家族も、映画公開直後にしっかりファンが増えたイメージがある。特にカミロ。叔母のペパはプチヒステリックで天候を操るなんてまるでエルサだし、ドロレスはイサベラの婚約相手に密かに片想いしているという設定が実に愛おしい。私個人的にはアントニオが好きだし、彼が手に入れた能力もいい。

 

前述のとおり本作は『ズートピア』を制作した監督コンビの監督作品でもある。『ズートピア』もまたキャラクターの個性が際立っていた作品であり、またさらに色んなエリアから構成された「ズートピア」という街の魅力も大きい作品だった。

本作は「エンカント」という街を舞台としながら、「街」の演出は至ってシンプルに描かれている。それよりも、「カシータ」という「生きた魔法の家」を魅力的に描くことを意識している。

マドリガルの家庭問題のストーリーを軸に、「カシータ」という閉じた世界を描く。そんなことをすれば実に動きのない作品になってしまうだろう。だが本作ではそれを、家自体を迷宮のように、大冒険の繰り広げられるフィールドにすることで解決している。

「カシータ」は家族の一員が魔法の力を得ると、その人物に適した空間が新たに生まれる仕組みとなっている。劇中の少年が驚いたように「部屋の中の方が家よりも大きい」物理を超越した空間である。あの空間が、各家族が持っていると思うと、他の人の部屋は一体どんな部屋なんだろう?というワクワクが生まれる。

残念ながら、本作で描かれた部屋はアントニオ、ブルーノ、イサベラの3人のみだ。そこだけが実に惜しい。物語の尺的に難しい部分ももちろんあっただろうが、是非他のメンバーの部屋も見せて欲しかった。

 

そんなこんなで、魔法だらけならぬ魅力だらけの映画だった『ミラベルと魔法だらけの家』

 

途中でも書いたが、本作はディズニーのここ10年の総括のような映画だ。

10年前(正確には11年前)、10作前の作品は『塔の上のラプンツェル』である。

手描きアニメーション復活が頓挫し、CGで描かれる初のディズニープリンセスの登場から、さまざまな社会性を反映した作品の登場を経ての本作。

全ての作品の要素をカバーしているとは言わないが、特異性の問題、多様性の問題、他者理解、家族のありかた、色んな部分を、ディズニーらしさを犠牲にすることなく表現してくれたと思う。

ほんとうにディズニー映画を好きでよかったと思える作品を作ってくれたと思う。

 

ありがとうディズニー。

そしてこれからの10年に期待したい。

 

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