ディズニー配給の劇場公開作品としてはピクサーの『2分の1の魔法』以来、
ウォルトディズニーアニメーションスタジオ作品としては一昨年の『アナと雪の女王2』以来となる新作映画『ラーヤと龍の王国』(原題:Raya and the Last Dragon)を観た。
本作は劇場公開とディズニープラス・プレミアアクセス(通常月額費+特別料金)で同時公開という形式で公開された。
劇場公開決定!と銘打ったものの、配信と同時公開というのが興収への不安材料となり、ディズニーのビッグタイトルでありながらも主に東宝系の大型映画館での公開がなかなか決まらないという出来事もあった。
(実写版『ムーラン』が散々劇場で宣伝されたのにも関わらず配信のみに切り替えられたために、映画館側としては裏切られた印象があったことと、特に東宝に関しては自社のコンテンツでビッグタイトルの『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』と公開時期がかぶることが理由だと思われる)
日本では『鬼滅の刃』のヒットなどはあったが、コロナ禍において映画館やスタジオは未だ窮地に立たされている。
感染症対策を思えば配信で観るという手もあるにはあるが、せっかくのWDAS新作映画。劇場で観ないわけにはいかないと思った。
※この記事は現在劇場公開およびDisney+で配信公開中の映画『ラーヤと龍の王国』および他ディズニー作品、また引用する他社の作品の内容に深く触れています。
目次
過去のディズニー作品と『ラーヤ』
私は本作を観るにあたって、映画の情報はほとんど集めていなかった。
東南アジア系ディズニープリンセスが活躍する物語であること、クマンドラという架空の国でドラゴンを探すファンタジーな物語になるということ、オークワフィナがドラゴンのシスー役を演じるということ、キャシー・スティールというカナダ人シンガーがラーヤを演じるということ。
この辺りがD23 EXPO 2019の際に語られたことだった。
それが2020年夏、コロナ禍でのスケジュール遅れのためか、内容の軌道修正があったのか、監督陣を含め大きな変更が発表される。
それに合わせ、主人公ラーヤ役もケリー・マリー・トランに変更となった。
本作の監督はドン・ホールと、カルロス・ロペス・エストラーダ。
本作は当初ポール・ブリッグスとディーン・ウェリングスの監督デビュー作となる予定だったが、上述の監督らと交代し、ポール・ブリッグスは共同監督として作品に関わることとなったようだ。
後者のことはよく知らないが、ドン・ホール監督は『ベイマックス』や2011年版の『くまのプーさん』の監督でもある。
私は、彼が監督をしたことをエンドロールを見て知ったのだが、なるほど『ベイマックス』の監督が撮ったというのも納得のシーンがいくつかあった。
本作は『ベイマックス』のようなチームものとしての要素もあり、スピード感のあるスリリングな戦闘シーン、そしてドラゴンのシスーによる空を駆け巡るカタルシスの瞬間も用意されている。
『ベイマックス』でヒロがベイマックスの背に乗りサンフランソーキョーを初フライトするシーンは圧巻だったのが思い出されるだろう。
そして、太古の伝説を探す旅に出て、かつての平和な世界を取り戻そうとする世界観は『モアナと伝説の海』のようである。
その一方、根底にあるのは『ズートピア』や『アナと雪の女王2』のような、異民族間理解と結束というテーマである。
ディズニーアニメーション以外にも『インディ・ジョーンズ』のような罠の仕掛けられた遺跡捜索もあり、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のようなバラバラのアウトローたちがチームとして集う物語でもある。(そもそも『ガーディアンズ〜』の序盤も『インディ・ジョーンズ』っぽい)
作品の雰囲気は今挙げたような、これまでのディズニー作品を思わせる要素が散りばめられているが、『ラーヤと龍の王国』にはそれらの作品にはなかったような独自の空気感も持ち合わせている。
「戦うディズニープリンセス」のさらなる脱皮
一般的な「プリンセス」とディズニーが用いる「ディズニープリンセス」には、大きな相違があると私は思っている。
本来「プリンセス」は王族の姫君を指す言葉だが、ディズニープリンセスは必ずしもそうではない。ムーラン、ポカホンタス、モアナなどは(特にムーランは)王族ではないし、エルサもアナも『アナ雪』『アナ雪2』で「クイーン(女王)」となっている。
じゃあ、「ディズニープリンセス」とは何か?
私は「概念」や「生き様」このことであると思っている。
「ディズニープリンセス」は概念だからエルサはクイーンだとか、ムーランは王族と結婚してないとか、そういうところではなく、より精神的な部分が基準なのだろう。
— すん☂️ (@s_ahhyo) December 24, 2018
モアナのように「私はプリンセスじゃない」と断言するような性格も逆説的にディズニープリンセスであるという資格を満たすんだろうな。
具体的に「こういう条件を満たせば」という基準はわからないし、
ディズニー側の「動かしやすさ」「売り出しやすさ」も確実に考慮されているだろう。
プリンセスでありながら「ディズニープリンセス」としてグループ化されないマリアン(『ロビン・フッド』)、エロウィー(『コルドロン』)、などもいるし、ジゼル(『魔法にかけられて』)、ソフィア(『ちいさなプリンセス ソフィア』)、エレナ(『アバローのプリンセス エレナ』)などはそれぞれ実写やディズニーチャンネル内のバースとして明確に切り離されている感じがする。
話を戻そう。
『ラーヤと龍の王国』がかつてのディズニーアニメーションと異なるところは、女性像の描き方が前進したところだ。
ラーヤ自身がディズニープリンセスらと大きく違うところは、彼女が戦闘に対する準備が完璧にできているところである。
これまでのディズニープリンセス達はそうではなかった。
「戦うプリンセス」が登場し始めたムーラン以降のディズニープリンセスも、映画で描かれるのは、訓練される前の弱い姿からスタートしている。
ラプンツェルもエルサもモアナも、襲いくる敵に対して偶発的に対抗しただけだ。
メリダに関しても、スポーツとしての弓と乗馬を楽しんでいたに過ぎず、戦争の準備をしてきたわけではない。
一方ラーヤは、5つに分裂した大国『クマンドラ』のうちのひとつ「ハート」の首長の娘である。彼女はハートに祀られている「龍の石」を外界から守るために「守護者」として鍛えられている。
いくら首長の娘とはいえ、なぜ幼い少女が、自らの身体で戦って、こんな大事な石を守る運命を背負うのか?ハートに他に男はいないのだろうか?
そこには何の説明も理由もない。
しかし、それがいいのだ。
『ムーラン』にしろ『メリダとおそろしの森』にしろ、少女が戦闘に赴くにはそれ相応の理由が必要だったり、メリダが弓を楽しんでいるのを「女性なのに」と咎めるような文脈で語られがちだった。そしてこの2作に共通するのは「お見合いと結婚」である。
ムーランもメリダも「女性らしさ」の呪いに対して、自身のあるがままの姿を見せつけてアイデンティティを勝ち取っていく。
『ムーラン』が1998年、『メリダ〜』が2012年だ。
そして『ラーヤと龍の王国』に至っては、世界の崩壊を止めるための秘宝を守る守護者が少女ラーヤであっても、当然のこととして話が進んでいく。
そしてライバルであるナマーリも、分裂した国の一つであるファングの首長の娘だ。
彼女らは女性的な部分をわざわざ見せる必要もなく、そこには「結婚やお見合い」のような話も「もっと女性らしく」「女のくせに」というような苦言も呈されず、ただただ当たり前に少女達が戦い、世界の崩壊を止めるために動いている。
ディズニーは『ムーラン』や『メリダ〜』そして『モアナと伝説の海』から『シュガー・ラッシュ:オンライン』を経て、「周りから『強くて大きい男の人に助けられた』と思われている」女性像を卒業した。
違和感すら表明する必要もなく、かつて男の役目として、理由もなくあてがわれていたものを少女達が担うフェーズに突入しているのだ。
しかもこういった女性像の変化は、あくまでこの映画のメインテーマではない。
メインテーマとして認識させる必要がないほどに、「普遍的」に描こうとしているからだ。
今までのディズニープリンセスとは大きく異なる。
その革新的な要素もまた逆説的に「ディズニープリンセス的」であり、「ディズニープリンセス」をステレオタイプとしないために必要な部分でもあると思う。
大人達はまだ、「こんなのおかしい」「普通はこうはならない」と思う人もいるかもしれない。
だがきっとこの価値観は子供達に向けたものだ。
「女の子が剣を持ち、自らの意思で戦うこと」は全くもって変なことではない。
そういった価値観を持って育った子供達が作る未来を、ディズニーは見据えているのだろう。
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信頼と仲間はパズルのように
では本作の主題はどこにあるかというと、5つのバラバラの小国となった「クマンドラ」を、元の大国に戻すこと。つまり対立する部族達が信頼しあい、一つになることがテーマである。
クマンドラはかつて、たくさんのドラゴンと人々が住む平和な国であったが、ある時謎の魔物「ドルーン」が現れ、ドラゴンや人々は石にされてしまう。「最後の龍」と呼ばれるシスーの力により、ドルーンは封印されるが、シスーの力を宿した「龍の石」をめぐり、5つに分裂した部族は争いを続け、クマンドラは崩壊する。
それから500年後がラーヤ達の住む現代である。
争いによりラーヤの目の前で「龍の石」が崩壊し、封印されていたドルーンは解き放たれラーヤの父は石になり、また「龍の石」のそれぞれの破片は残り4つの部族が持ち去ってしまう。
ラーヤは他の部族への信頼をなくし、たった一人で父を元の姿に戻すため、6年もの歳月「最後の龍」シスーを探す旅に出ていた。
本作の制作がスタートしたのは2019年以前で、コロナ前の世界である。
にも関わらず、この内容はコロナ禍の現代に深く通じる部分がある。
武漢を起源として大流行したと言われている新型コロナウィルスCOVID-19は、世界各地でアジア人への差別と暴行を激化させた。
この映画のように、ドルーン(=COVID-19)のような、人類共通の敵が存在している中で、
それらに立ち向かうための建設的なやりとりではなく、ただ憎み合い、傷つけあうだけで、果たして世界はこの大惨事を克服できるのか?
また、主人公ラーヤを演じるのがケリー・マリー・トランであるというのも、映画に大きな説得力をもたらしている。
彼女は『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』への出演以降、大きな批判にさらされてきた。その批判は、演技云々の部分だけではなく容姿や国籍に関わるデリケートな部分までに及んでいた。
容姿や国籍に関する批判は、もはや批判ではなく中傷であり差別だ。
彼女自身を知らない人々が、彼女の見た目や、生まれた場所を理由に彼女を攻撃する。
そんな苦難を乗り越え、彼女が演じるのが、
「部族ではなく、個人として触れ合うことで他者を理解し、信頼し合う関係を作る主人公」である。
日本語版キャッチコピーでは「信じる心が大切」と簡単に言っているが、信じるためには他者を理解する過程が必要である。
実際に『ラーヤ』の物語の中でも、「信じたら騙された」という失敗から、闇雲に何でも信じることの危うさも描いているし、それでもお互いの事情や背景を汲み取り「わかりあうこと」の大事さを説いている。
物語の中でラーヤは、テールの少年ブーン、タロンの赤ん坊ノイと猿?のオンギたち、そしてスパインのトングという登場人物達を次々と仲間にしていく。
憎んでいたはずの他の部族達も、それぞれが大事なものを失い、そして取り戻したいと願っていることを知り、パズルのようにひとりひとり信頼を築いていく。
そこにドラゴンのシスーも加わり、年齢も性別も、種族もてんでバラバラのちぐはぐなパーティーが、ひとつのチームとして機能していく様は非常にスリリングで、わくわくさせられる。
物語冒頭でスープを例えにして出される、5つの部族の「調和」が、世界の崩壊を止める手立てであることが、コロナ禍の世界において憎み合い争い合うことではなく、協力して立ち向かうことこそがコロナをを克服してゆく道しるべであることに重なる。
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感じるノイズ
一方で、ノイズを感じる部分もある。
物語も、メッセージも、ディズニープリンセスや女性像の前進も素晴らしいながら、
いくつか気になるところを感じた。
『ラーヤと龍の王国』は散々言われている通り、東南アジアの架空の国クマンドラを舞台にした映画だ。
しかしクマンドラの、5つの分裂した地域の名前はそれぞれ「ファング」「ハート」「タロン」「スパイン」「テール」と名付けられている。
クマンドラの地図を見ればわかるように、川が東洋のドラゴンの形をしており、それぞれの地域が「ファング(牙)」「ハート(心臓)」「タロン(鉤爪)」「スパイン(背骨)」「テール(尻尾)」に位置している。
なぜ東南アジアを舞台にして、人々の名前はアジア風なのに、それぞれの地域の名前は英語なのか。
また、東南アジアを旅したことがある人はわかるように、
一口に東南アジアといっても様々な種族の人々が住んでいるものだ。
見た目で判別できるだけでも、マレー系、インド系、中華系、モンゴル系、ポリネシア系・・・、細かい部族を合わせればもっといるだろうし、宗教や文化も様々だ。
それぞれの部族の描き分けはあまり明瞭ではなく、ラーヤがほかの地域に忍び込んでも溶け込める程度には画一化され、一緒くたにされた「アジア人」として描かれているし、世界崩壊の危機にあって対立しているという割には、描写がやはり生ぬるいというか、ラーヤもそのほかのキャラクターも優しすぎる。
そして何より、「アジア人同士が部族間対立している」という構造が、現実世界との乖離のような気がした。
これはマーベル映画『ブラックパンサー』でも感じたことだ。
『ブラックパンサー』は白人社会、軍事大国からの差別、抑圧に対し、ワカンダの武器や技術力をもって立ち上がろうとする急進派のエリック=キルモンガーがヴィランとして登場する。
主人公ティ・チャラ=ブラックパンサーは、王として世界に武器や争いをもたらすことは危険であるとしてワカンダを鎖国のまま維持しようとする。
映画の中で繰り広げられるのは「ワカンダでの内紛」である。黒人同士が、意見の対立により戦争になってしまう。そこに白人社会への批判や問題提起もあり、最終的な回答は彼らの意見の折衷案のようなものにはなるが、白人社会から黒人社会への差別や抑圧が現実として存在しているにも関わらず、黒人同士を争わせて物語を終わらせるのには若干の違和感があった。
『ラーヤと龍の王国』もそうだ。
現実ではコロナ禍で、非アジア系からアジア系への差別や暴行が横行した。
なのに映画の中ではアジア人同士を争わせて満足している。
『ブラックパンサー』も『ラーヤ』も、「争いはやめてみんなで手を取り合おう、それが大きな力になる」という結論に帰結する。
何も間違ってはいない、大正論でなおかつ映画も面白い大傑作である。
だが果たしてそれを米国大資本のディズニーが良しとしていいのか?という疑問を感じるのだ。お前らが気持ちいいだけなんじゃないか、と。
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未来を見据えた現代の物語
『ラーヤと龍の王国』は名作である。
序盤で大体のストーリーの流れがほぼ予想できてしまったのがある種残念な部分でもあるが、まぁ変にぶっ飛んだことをして物語が崩壊しないあたりは、妥当なところに落ち着いたんじゃないかと思う。
ストーリーとは別に、映画に散りばめられた各種シーンの美しさやかっこよさは必見だ。ラーヤVSナマーリの本格アクションはかなり滾る展開だったし、本編そっちのけでもいいからここもっと長く見たいと思わされた。っていうか結局ドルーンって何だったんだ。
公開されている映画館がかなり少ないので、関東圏以外では字幕版の上映がほとんどないが、是非ともケリー・マリー・トランやオークワフィナの声で観たいところだ。その気になればプレミアアクセスで家でも観れるけど。
ラーヤやナマーリ、そして「赤ちゃん思いの大男」であるトングなど、キャラクターの描き方にはかなり未来を見据えた意識を感じたし、
ストーリーはコロナ禍の今だからこそ響く内容になっていた。
傑作は語り継がれて残ってはいくが、今見るのと、数年後に見るのとではきっと感じ方が異なってくるだろう。
是非今のうちに見て欲しいと思う映画だった。