『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』(原題:Black Panther/Wakanda Forever)を観ました。
非常に象徴的な作品だと思う。
アフリカの架空の国家ワカンダを舞台にアフリカ系黒人ヒーローと、その国民たるアフリカ系の人々が織りなす、スリリングで、カッコよくて、メッセージ性の強い作品、それが前作だった。
2018年に公開された1作目『ブラック・パンサー』はBlack Lives Matterにポジティブな側面で勇気を与えつつ、かつて先進国がアフリカの発展途上国に対し行ってきた仕打ちを再度認識させる映画となった。
その1作目から4年。
主人公ティ・チャラを演じたチャドウィック・ボーズマンは2020年に映画撮影の始まる前に亡くなり、喪失の中で、期待と不安の入り混じる作品となった。
『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』傑作でした。
※この記事は現在公開中の映画『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』のネタバレを含みます。
目次
喪失を越えるために
『ブラックパンサー2』は、当初チャドウィック・ボーズマンがティ・チャラ役を続投する前提で脚本の執筆がなされていた。
2020年8月にチャドウィックの訃報が知れ渡ったあと、本作の脚本は大きく方向転換をすることになったであろうことは想像に難くない。
俳優を変えて引き続きティ・チャラの物語を描くことも選択肢のひとつとしてあったはずだし、ルーカスフィルムが『ローグ・ワン』でやったようにCG俳優によりティ・チャラをこの世に甦らせることもできただろう(『ローグ・ワン』のCG合成によるターキンの復活は多いに批判を浴びたが)
だが、彼らはそれらを良しとせず、「チャドウィックの死」を劇中の「ティ・チャラの死」として映像に呼び起こし、劇中の登場人物共々喪に服し、追悼することにした。
前作とはうってかわって、喪失と悲しみを纏い、その隙を狙う大国の不作法にイラつき、ヒリヒリとした空気感が漂う本作。
チャドウィックの死亡以前より、本作はセンチメンタルな物語となることは決まっていたようだが、その原因が「サノスのデジメーション(指パッチン)による喪失」から「ティ・チャラの死」に変わった事は、現実世界のチャドウィックの死の悲しみと相まって、より重く、切なく、苦しいものになっている。
ティ・チャラの後を継ぐ者
そして、そのティ・チャラの後を継ぐのは妹でありワカンダの王女であるシュリだ。
前作『ブラックパンサー』でも『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』や『エンドゲーム』でも戦闘に参加していたが、どちらかといえば頭脳派で、華奢で身体の小さな彼女は決して戦闘向きではない。ワカンダのスパイのナキアや、ドーラ・ミラージュの将軍オコエのほうがまだ、戦闘能力も高く、実戦向きだろうし、ブラックパンサーの超人的能力を手に入れることができるハーブは、前作でエリック・スティーブンスにすべて焼かれてしまった。
そんな状況下で現れるヴィランは、海底帝国タロカンの王、ネイモア。ワカンダのハーブに似た、ヴィブラニウムの影響を受けた水生植物を食べ、水呼吸できるようになった種族の子孫である。
羽の生えた足で空を飛ぶ超人で、とてつもないパワーと野望を持っているネイモアを、一体どうやってシュリは倒すのか。
失われた「ハーブの力」を手に入れる方法も、ロジカルだし、その戦い方もシュリの小さい身体ながら、頭脳派であり、科学者かつ医学にも長ける、実に彼女らしい作戦だった。
来る「反撃の時」に向けて、着々と準備を進めていく様は初期の『アベンジャーズ』の頃を思い出してワクワクしたし、戦闘シーンも前作よりスケールアップしたと思う。
無宗教でリアリストなシュリというキャラクター
またシュリの話。
彼女は科学者であり、ワカンダいちのリアリストであると言ってもいい。
ワカンダの伝統的な儀式を知らず、胡散臭いものだと思っているし、
ティ・チャラの死を真正面に受け止めてすぎて、宗教的な「祖先の平原」の存在も信じてはいない。
だからこそ、彼女が自らの手でワカンダのハーブを復活させ、儀式を行った時も、彼女の前に現れたのはティ・チャラでも、ティ・チャカ元王でも、ラモンダ女王でもなく、同じくリアリストであるキルモンガーであった。
彼女がネイモアを倒す理由が、「世界を守ること」ではなく「復讐」にすり替わってしまっていることを、儀式の時にキルモンガーは言い当てる。
シュリは戦闘のギリギリまで、勝利のギリギリまで、この「復讐」に囚われている、かなり危うい状況だった。
だが彼女は、その勝利の目前で「復讐」という目的を捨てるのである。
ずっと「政治的正しさ」の話をしている
私が『ブラックパンサー』のシリーズを愛する理由は、前作もそうだが、ずっと「政治的正しさ」の話をしているからだ。
英語にすれば「ポリティカル・コレクトネス」だが、私が言いたいのは「黒人が主人公だから多様性を表現している」とか、そういう話ではない。
黒人を主人公にするだけではなく、知られざる大国ワカンダという特殊な立場から、アフリカの植民地時代の悲劇的な重圧を見つめ、世に訴えかけていくから好きなのだ。
本作冒頭でも、国連の議会で大国が戦争での優位性を得るためにヴィブラニウムを持つワカンダをなりふり構わず襲う。
その襲撃班がフランス語を駆使するのは、かつてのアフリカの植民地の多くがフランスによるものだったことを呼び起こさせるのには十分だろう。
また第1作では、黒人差別や迫害に対し、ワカンダの持つ強力なヴィブラニウムの武器を与えて彼らを救うべきだとするキルモンガーと、
本作では、植民地支配により祖国を追われたネイモアたちタロカンの人々による先進国への復讐、
そのどちらも「悲劇」や「恨み」や「絶望」から生まれた過激な思想であり、
実際に、私たちの世界で起きた「歴史」の一部だ。
「被害者」の立場からしてみれば、正当性のある復讐に見えなくもないのだ。キルモンガーも、ネイモアも「やられたから、やりかえす」という信念と、辛く悲しい過去があるからこそ、敵であろうと魅力的で、感情移入できてしまうのだ。
だが、ワカンダの回答はいつだってNoだ。
どんな理由があろうと「復讐」を言い訳にした戦争行為が正当性を持たないことを、ワカンダは、ティ・チャラもシュリも、知っている。
ワカンダが戦うのは、いつだって「より大きな悲劇」を産まないためだ。
そして、「それがヒーローのあるべき姿」だからだ。
現実には、思想的・宗教的ないざこざや、その国の豊かさ、地理的な優位性を得るためが理由に戦争が起きる。
だからこそ、『ブラックパンサー』的な戦いの理由や、復讐の否定は、「平和的な解決」を追い求める姿勢は、現実的ではないと思われるかもしれない。
それでもヒーロー映画として、架空ながら一国家を扱う映画として、この「政治的な正しさ」を恥ずかしげもなく主張するのが、私は好きだ。
ワカンダは続く
シュリは無宗教でリアリストである話はした。
ラストの王位継承のシーンでは、シュリは王位継承ための戦闘の儀式に参加せず、バクに代理を依頼する。彼女は、王位継承にすら興味がないのだ
。
唯一の王位継承者と思われたシュリがそんな感じで、果たしてワカンダはやっていけるのか、と感じるかもしれないが、
エンドロールの後、シュリの前に登場するのは、ティ・チャラとナキアの子だった。しかもハイチで育てられた彼は「トゥーサン」というハイチ革命の英雄、トゥーサン・ルーベルチュールを名前の由来としている。
ハイチ革命も、フランスの植民地で黒人が奴隷として扱われていた自体で唯一成功したと言われている反乱で、ハイチは初めての黒人共和国でもある。
たとえシュリがワカンダの伝統や文化に興味がなくとも、ティ・チャラの意思、弱いもののために世界と戦う守護者としての、ブラックパンサーの意思が受け継がれ、生き続ける限り、ワカンダは永遠に続いていくはずだ。
それはきっと、トゥーサンという名前をつけられたティ・チャラの息子もそうだし、シュリも、きっとそうだろう。
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