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MCUドラマ『シー・ハルク:ザ・アトーニー』禁じ手を繰り出す異色展開、爽快感よりもメッセージを。

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She-Hulk: Attorney at Law

 

観ましたか?『シー・ハルク:ザ・アトーニー』

どうでもいいけどジ・アトーニーじゃない?ちょっと英語わからないです。

 

わからないといえばこの作品そのものが結構わからない感じでした。

いやわかるんだけど、わからないというか。

 

途中まで結構楽しみながら観ていた気がする、というか確実に途中までは楽しかったんですが、後半不穏な空気が漂いすぎて最終回でダメでした。

 

 

いや嫌いって言ってもうてるがな。

 

※当記事はDisney+で配信中のドラマ『シー・ハルク:ザ・アトーニー』のネタバレを含みます。

 

 

目次

 

なんやかんや楽しんでいたMCUドラマ

『ワンダヴィジョン』『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』『ロキ』『ホークアイ』『ムーンナイト』そして『ミズ・マーベル』

それぞれ賛否両論ありつつ、コアなファンの中には「つまらん」とか「MCU終わった」とか色々言われたりしながらも、私個人としては全体的に楽しんでいたこれらのMCUドラマシリーズ。

そして、さらに初期アベンジャーズの一員「ハルク」の後継者たる女性ヒーローの登場とくれば、期待値も高まる。

そうして始まった『シー・ハルク:ザ・アトーニー』私自身ツッコミどころこそいくつかあるが、「まぁこんなもんでしょ」という気持ちもあり普通に楽しんでいた。

 

が、最終話ちょっと、私には、というか多くの視聴者にはひっかかってしまった。

 

楽しめた『シー・ハルク』

『シー・ハルク』の良かったところは(それが物足りなさでもあったのだが)主人公ジェニファー・ウォルターズ(ジェン)が「ヒーローとして」ではなく「弁護士として」、日常生活における「スーパーパワーを持つものの厄介さ」を描いていたところにある。

これはMCUドラマ『エージェント・オブ・シールド』でも度々描かれていたが、物語の主軸ではなく展開もシリアス。この『シー・ハルク』はそのノリがあまりにも軽快で、「スーパーヒーローの日常」を楽しく見ることができた。

それこそ先日公開された『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:ホリデー・スペシャル』のような(には負けるがの間違い)軽さ、面白さだった。

 

とはいえ、MCUはMCUなんだから、もっとシリアスな展開も欲しい、バトルっているところも欲しい、なぜかジェンはこと男性関係においてなかなか幸せを掴んでくれなくてむず痒さとしんどさがやばい、そもそも他の歴代アベンジャーズならともかく今回初登場の彼女の日常、そもそも楽しいだろうか?という不満も、あるにはある。

 

そして「主人公が弁護士の法廷コメディ」というには、「スーパーヒーロー専門」という設定の歪みもあって、コメディ要素が実に強く、ジェニファーが凄腕弁護士に全く見えず、なかなか締まらない展開が多かったというのもちょっと物足りなさを感じた部分でもある。

「スーパーヒーローと法律」でいえば『シビル・ウォー:キャプテン・アメリカ』で観たような「ソコヴィア協定」に対してヒーローたちが意見を交わし合うシーンみたいな、シリアスかつヒーローたちの思いのぶつかり合いみたいな熱いシーンが観れたっていいじゃない・・・と思ったものである。

 

辛くて残念すぎるジェンのプライベート

ラブコメとか、アメリカの日常ドラマに見慣れていないからかもしれない。

にしても、ジェンの恋愛が報われなさすぎるの、観ていてちょっと辛かった。

 

主人公ジェニファー・ウォルターズは一応、「仕事はできるけどダサくて冴えないモテない、のに性欲を持て余している残念なキャリアウーマン」みたいな設定ではあるんだけど、あまりにもだめんずウォーカーすぎて、最初の数話は笑えたけど、だんだん本当に観ていてかわいそうになってきた。

 

そして極め付けが「めちゃくちゃいい感じになったと思った男がセックステープを流出」からの「ハルクの力を手に入れることができるジェンの血液を盗まれる」という展開。

 

いやもう、あんなモニターくらいぜんぜんぶっ壊していいよ。正当防衛になるよ。

ブチギレて当然というか、あれで敵をコテンパンにすることができない胸糞悪さの方が後に残った。

 

「スーパーパワーを持つものはどんな理不尽なことがあっても一般人にその力を行使してはいけない」みたいな、スーパーヒーローであるがゆえの苦悩・・・っていうのはわかるし、

これが実際「セックステープを流出させられた女性がなすすべもなく生きていかなきゃいけない苦しみ」を描いているんだとしても、フィクションの中でくらい、ちょっとスッキリしたかった。

 

これは私の甘えだろうか。甘えかもしれないな。

 

デアデビルのキャラ変

ドラマ『ホークアイ』にキングピンが出てきたことや、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』にピーター・パーカーの弁護士としてマット・マードックが登場したのは記憶に新しい。(それでも1年前だ)

 

それらのキャストはNetflix配信版(現在はDisney+で視聴可能)『デアデビル』に登場するキャラクターで、かつ同一キャストが役を務めている。

今回は「法廷コメディ」として、チャーリー・コックス演じるマット・マードックが再登場。そして、Disney+でのドラマとして『デアデビル:ボーン・アゲイン』が配信されることが発表されている。

www.cinematoday.jp

MCUドラマとしてスタートした『デアデビル』が、大人の事情で打ち切りになり、クオリティは高いにも関わらず「なかったこと」にされたが、それがMCU復活。は非常にめでたいことだと思っていた。

けど、いざ復活したマット・マードックは、Netflix版『デアデビル』よりも妙に明るく、陽気で、ちゃらい。そしてデアデビルのスーツもなんか金ピカっぽい。

そういえば、『ホークアイ』にでてきたキングピンも、なんか派手なアロハシャツを着ていたような・・・。

 

この衣装チェンジは結局原作オマージュではあるんだけど、原作を一回シリアスに落とし込んだ『デアデビル』を私たちは知っているので、しかも配役が全く同じなので、このキャラ変には心底驚いてしまった。

別にジェンとマットがセックスするのはいいけど、マットが目が見えないから外見にとらわれずジェンの心の良さに惚れた、という行間読みも気持ちいいんだけど、ヒーロー衣装で朝帰りみたいな面白ネタはやめてください。

 

物議を醸した最終回の「禁じ手」

シー・ハルクというキャラクターはマーベルコミックスでは意外と古いキャラクターで、それでいて昔から第四の壁を破って読者に語りかけてきたりするキャラクターだったのだという。

本作のドラマ版もその要素は十二分に受け継がれていて、キャラクターが軽くてちょっと下品なだけでなく、しっかりと画面越しの私たちにメタ的な語りかけを行ってくる。

 

別にそれに関しては、MCUでは今までなかったというだけで、普通のドラマではよくあることで、今後MCUに合流する『デッドプール』もあるし、「別にいいじゃない」という感じだった。

 

感じだったんだけど、最終回がダメだった。少なくとも私には。

 

影でシー・ハルクを心身ともに破滅させようと企む集団のボス、ハルク・キングが、ジェンの元に婚活男性風なスパイを送り込み、ワンナイトでセックステープの録画、個人情報の収集、そして「ハルク」のパワーを持った血液の入手までやってのける。

スパイのおかげで「ハルク化できる血液」を手に入れたハルクキング(中身はキモ男)は、政府によりシー・ハルクへの変身を禁じられたジェンを倒すべくその血液を投与。

そこには講演を行うアボミネーション(エミル・ブロンスキー)がいる上に、宿敵タイタニアも乱入、宇宙から帰ってきた従兄弟のスマート・ハルク(ブルース・バナー)も合流して、舞台はクライマックスへ・・・。

 

「面白い?」

 

とジェンが聞くと、画面は突然Disney+の作品選択画面に戻る。だが、ドラマは続いている。スーパーパワーの制御装置を外しシー・ハルクになったジェンは『Assemble(番組の制作秘話を語るドキュメンタリー)』に侵入し、なんと、バーバンクのウォルト・ディズニー・スタジオへ・・・。

『シー・ハルク』製作陣に文句を言うと「すべてはケヴィンの決断」とあしらわれ、今度はマーベル・スタジオの「ケヴィン」のもとへ。

だがMCUの全ての作品を統括する「ケヴィン」の正体は、なんとA.Iロボットだった・・・!

 

なんだろう、MCUがするギャグにしては寒すぎる。

ここでいう「ケヴィン(=K.E.V.I.N.)」とは、マーベル・スタジオ社長ケヴィン・ファイギのことだ、それが実はA.Iで、全ての作品はアルゴリズムによって組まれたシナリオです。というギャグである。

 

そしてMCUのこのクライマックスで要素てんこ盛りにして盛り上げるのは「ありきたり」だから変えましょう、とジェンは提案する。

 

私は、このジェンの提案自体は一理ある、と思う。

私は事あるごとに映画の感想で「もっと驚かせてほしい」「意外な展開が欲しい」と常々言っている。これだけクオリティの高いMCUに対しても、だ。

だから納得はする。するんだけど。

それをMCU的ロジックの上で普通に見せることはできなかったのか?と思ってしまう。

 

ジェンは変身を禁じられている、最大のピンチ!を、アボミネーションやハルクに頼るでもなくクリアして、かっこいい結末を持ってくることはできなかったのか?(そして結末を変えてもとりあえずスーパーパワーの制御装置はなかったことになっている)

私たちが普段から言っている「意外な結末を!」という、意外な結末を実際に持ってこられて、全然面白く無くなっている、というか普通に展開として無茶があるの、本気でやっているとすれば、私が恥ずかしいし、

本気じゃなく茶化すつもりで「ほら、面白く無くなったじゃん、ありきたりな展開の方がいいんだよ」というつもりなのであれば、心底腹がたつ。

 

そして何よりMCUってそういう「ロジックを破壊してしまう」ことを一番避けなきゃいけないジャンルだと思うのだ。

『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』を経て『アベンジャーズ/エンドゲーム』に至るまでの間に、どれだけ多くの人が「あれほど絶望的な状況をどうやって乗り越えるのだろう??」と考察しただろうか。そして実際にその考察に応える、いやそれ以上の結果を『エンドゲーム』は、MCUは残してきたはずだ。MCUの中でしか通じないかもしれないが、彼らなりのロジックを突き通して。

この『シー・ハルク』の結末は、『シー・ハルク』限定のつもりなのかもしれないし、もう一回やったら死ぬほど寒いけど「ロジックを通さなくても結末に持っていける」前例をMCUに作ってしまった、いわゆる禁じ手じゃないかと思ってしまう。

 

もちろんこの無茶な展開に、何も考えていない、メッセージ性が込められていないとは言わない。

ジェンが自ら言うように『シー・ハルク』の見所は「ジェンとシー・ハルクの両立に悩む人生の迷走」そして「法廷コメディドラマ」だ。

男性優位社会の中で「ケヴィン」(=男性)という最高決定権を持つ存在が決めた、ありきたりな結末に「No」を提示して、「主人公(=ジェン/女性)にとって一番大切なことを好きなようにやる」そのためには「ドラマの結末すらスマッシュ(破壊)する」ということだ。

 

やりたいことはわかる。でもここまで、全て主人公本人の口から語らせる、その必要性があると言うことが、ちょっとドラマとして出来が悪い気がするし、「ヒーローの迷走する日常」も「法廷コメディドラマ」も序盤はそこそこおもしろくて、でも全然もっと面白くすることができる伸び代はあったと思う。

だからこそこの結末や、彼女の言葉が響いてこない。

 

そして、「改変した結末」でも法廷コメディらしい展開は起きず「法廷で会いましょう」という言葉だけが残される。

その一言に、これまで散々苦しめられてきた、不快極まりないヴィランへを倒した爽快さは果たして宿っているだろうか。

 

シー・ハルクは帰ってくる?

さて、今後のMCUは果たしてどうなるのか。

結末を改変、しかも製作陣のもとに乗り込んで、というロジックの通らない展開が、まさかデッドプールじゃないところで繰り広げられるとは思わなかったから、まぁ意外ではあったが、結局目の前で起きていることを全然楽しめなかったのは素直に残念です。

ケヴィンがA.Iでした〜というギャグとかはそれこそありきたりだったよね、という感じもします。

 

今後、シー・ハルクが帰ってくるとして、これ以上の無茶展開は難しいだろうし、やらなくていいと思うけど、やったからには(やるからには)ハードルは高く掲げられると言うことは製作陣はよく考えていてほしい。

まぁK.E.V.I.N.が「スクリーンで会おうーーー嘘だ」と言っていたので、ないのかもしれないけど。

 

ハルクの息子の話はもうわりとどうでもいいです。

 

それでは。

 

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