非常にシンプルな映画である。
メッセージ性もそれほど強くない。
だからこそ心に訴えかける感動はよりダイレクトなものになる。
2021年6月18日にDisney+で配信開始されたピクサー長編最新作『あの夏のルカ』(原題:Luca)はそういう映画だった。
96分に凝縮された、ひとつの小さな町での出会いと奮闘、友情のひと夏の物語。
とても素晴らしい映画だった。
※この記事は現在Disney+で配信公開中の映画『あの夏のルカ』および他ディズニーやピクサー作品、また引用する他社の作品の内容に深く触れています。
目次
想像力に魅了される
『あの夏のルカ』は、人間の世界に憧れるシー・モンスター(半魚人のような生き物)の少年が、とあるきっかけで人間の世界に踏み入れたことによる出会いと冒険を描いた物語である。
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオにおける『リトル・マーメイド』を思わせる本作はだが、『リトル・マーメイド』が作品のテーマとは裏腹に海の底の生活をより煌びやかに魅力的に描いていた一方、本作はシー・モンスターの生活の説明は簡単に終わらせる程度で、そのほとんどを「人間の世界の素晴らしさ」の描写に費やしている。
「人間の世界の素晴らしさ」というよりも、「海から上のすべての世界の素晴らしさ」と言ったほうがいいかもしれない。
主人公ルカは陸に上がり、アルベルトと出会うことで初めて外の世界に触れ、「空気」「重力」といった根源的なところから感動を分かち合う。
それは生まれたばかりの赤ん坊が感じるような世界観と衝撃の描写、例えるなら『バンビ』が描いたような知的好奇心がもたらすワクワク感の描写に近い。
ルカの感じた「感動」や「ワクワク」は、アニメーションの醍醐味といっても良い空想の描写で表現することで、我々視聴者にもその心の震えが伝わってくるようだ。
まさにイマジネーションの力。
これまでのピクサーとは異なり、写実味を薄めてアニメーション色を強くした本作は、これらのシーンが違和感なく盛り込まれている。
ルカの妄想とも言える想像力豊かなシーンには、教訓も反省も含まれない。ただ、こんなに壮大な心の動きと、「こうなれば最高だな」と感じさせる夢がそこにはある。私たちはそこに魅了されるのだ。
魅惑の街ポルト・ロッソ
また、舞台となる街「ポルト・ロッソ」も同様に魅力的だ。
イタリア語で、直訳すると「赤い港」。この名前は監督のエンリコ・カサローザがジブリ映画の大ファンであることから、『紅の豚』の主人公「ポルコ・ロッソ」に由来する。
劇中声高にこの街の魅力を語るようなシーンは用意されていないが、画面に映し出される小さな港町は、その裏道に至るまで細かなディテールで描かれている。
入り組んだ路地や、小さいながらも坂道という立地を生かした高低差のある建物。
夜な夜な屋根の上を駆け回るルカとジュリアを見て、思わず共に駆け回りたいと思ってしまった。
この小さな町を舞台にした、子供達だけのトライアスロン・レース。
そこに生きる、名前も明かされない人々の息遣いを含めて、映画とポルト・ロッソが愛おしくなる。
アルベルトという少年
人間の世界に興味を持つルカを、人間の世界に引き込むきっかけを作ったシー・モンスターの少年がアルベルトだ。
ルカと意気投合した彼は、彼と夢を語り合い、共に海を挟んだ向こうの街ポルト・ロッソへと向かう。
ポルト・ロッソで見つけた中古のベスパを手に入れるため、ジェノバから夏の間だけポルト・ロッソに来ている少女ジュリアと、その父マッシモと半共同生活を始めるところからルカとアルベルトに変化が起きていく。
ルカにせよ、アルベルトにせよ「ベスパ」は真の目的ではないということが、このあたりから浮き彫りになっていく。
ルカが求めるのは知的好奇心からの「まだ見ぬ世界とその真実」である。
ではアルベルトが求めるものは?
「ベスパ」でも、「ベスパによって手に入る自由」でもなく、「その喜びを分かち合える人」なのである。
冒頭では匂わせる程度であった父親の存在だが、物語終盤、彼は父親からのネグレクトを受けていたことが明らかになる。
永遠に帰ってこない父親を一人で待つ日々の中、現れた年の近い少年のルカ。同じく人間の世界に興味を持っており、自分の話す嘘や冗談混じりの話に、瞳を輝かせて話を聞いてくれる。そして自分を頼りにしてくれる。
アルベルトにとってルカは、ベスパ以上の宝物であり、いつからか彼は「ルカと自分をつなぎとめるもの」としてのベスパが強大な目的になってしまう。
ルカが「宇宙の神秘」そしてそれが学べる「学校」へと興味が移り変わった時、自分以上にルカと近い存在になっていくジュリアという存在に対し、アルベルトはとてつもない不安に襲われてしまうのである。
心に傷を抱えた少年が、やっとできた友達。
それが、いつの間にか自分たちが描いていた夢とは全く違う方向に向き始めている。
秘密を分かち合った親友を、今まさに奪われそうになっている。
もう一人ぼっちにはなりたくない。
映画終盤でのアルベルトの行動を、誰が責められるだろうか。
そして、アルベルトの突然の行動に、思わず保身に走ってしまったルカの、裏切りとも言える言動に、彼はどれほど傷ついただろうか。
アルベルトというキャラクターは、本作においてルカ以上に語るべきバックグラウンドをと心情の動きを持っているキャラクターだと思う。
主人公ではないからこそ控えめに描かれていて見落とされがちな描写も、
心当たりのある視聴者にはグサグサと突き刺さっていくだろう。
この物語における救いの一つは、ジュリアの父マッシモが常にアルベルトの味方だったことだ。
ルカよりも行動力があり強気のアルベルトに好感を抱き、「手伝え、強くて大きいほう」とぶっきらぼうながら、息子のようにアルベルトに声をかける。
アルベルトがいなくなった時には自ら探しに向かう。
ルカとジュリアの関係性の構築以上に、マッシモとアルベルトとの関係性、心のやりとりがあったからこそ、クライマックスのシーンの説得力は強くなっているし、エンディングにも納得がいくのである。
それぞれの生き方を、それぞれの道で
ピクサー映画はこれまでも最高のバディたちを生み出して来た。
『トイ・ストーリー』のウッディとバズ。『モンスターズ・インク』のサリーとマイク。『ファインディング・ニモ』のマーリンとドリー。『カーズ』のマックイーンとメーター。『レミーのおいしいレストラン』のレミーとリングイニ。『カールじいさんの空とぶ家』のカールとラッセル、などなど・・・。
特にシリーズ物として大人気を博した『トイ・ストーリー』は、その関係性の構築と、『1』から常にとなえられてきた「ずっと一緒」のメッセージが『トイ・ストーリー4』によって覆されることで従来のファン層からも少なからず反発があった。
一方で、人の考え方は変化する。学ぶことで成長する。
見え方や人や目標が変わることで、同じ場所にずっと留まっておくことができなくなることだってある。
極端な話だが、幼稚園から大人になるまでずーーっと途切れず連絡を取り合う友達がいる人は、世の中にどれほどいるだろう。
もちろん『トイ・ストーリー』シリーズと『あの夏のルカ』では、劇中時間でもリアル時間でも、かけた年月があまりにも違う。視聴者の思い入れも全く異なるだろう。
それでも、『トイ・ストーリー4』においても『あの夏のルカ』においても、共通するのは「別れは友情の終わり」ではないということだ。
それぞれがそれぞれの夢や目的や、理想の生き方をするために、別れの選択を迫られる時がある。
ピクサーが「何かに別れを告げること」を明確に描き出してきたのはピート・ドクター監督の『カールじいさんの空とぶ家』あたりからだ。
妻との思い出の残る家と、今まで遊んでくれたおもちゃの主と、幼き頃のイマジナリーフレンドと、荒野を旅した姿形の異なる友人と、自らのプライドや過去の栄光と。ピクサーの主人公たちは次のステップに進むために、選択を迫られ、別れを選んでいく。
これらは悲しい現実でもあり、主人公たちの成長でもあるのだ。
ルカとアルベルトが育んだひと夏の冒険と、友情。そしてそれに別れを告げること。大人になっていくこと。
『あの夏のルカ』が描くのは、それら思い出たちの眩しすぎる瞬間の美しさだ。少年たちはこれから、それぞれの道で、それぞれの生き方で強く大きくなっていく。「ひと夏の思い出」というような、過去に想いを馳せるイメージの映画ながら、私が見終わった後に感じるのは、新たな切符を手にした彼らの宇宙のように途方もない未来だ。