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『レミーのおいしいレストラン』芸術家のプライドとウォルト的精神の再定義。

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レミーのおいしいレストラン (字幕版)

 

『レミーのおいしいレストラン』は、こと飲食業においては害獣として扱われる「ねずみ」を主人公とした料理アニメだ。

ピクサーアニメーションスタジオ第8作目、『Mr.インクレディブル』のブラッド・バード監督は、当初ヤン・ピンカヴァにより制作がスタートした本作を彼の降板後、まるっと作り変えた。当初の作風は知る由もないが、出来上がった完成作品は「さすがブラッド・バード」といえる出来となっている。

 

僕がブラッド・バードを語ると毎回褒めてるのか貶しているのかわからなくなるけど、

今回もそんな感じだと思ってくれれば間違いないよ。

 

ジ・アート・オブ レミーのおいしいレストラン

ジ・アート・オブ レミーのおいしいレストラン

 

目次

 

レミー=ブラッド・バード。持てる者の苦悩。

『レミーのおいしいレストラン』は料理映画であるが、その本質は芸術と多様性を描いている。

 

前述の通り、主人公レミーは飲食業において害獣として駆除の対象となる「ねずみ」だ。

彼の「一流のシェフになる」という夢は、仲間のねずみたちからも、当然人間たちからも理解されないところから物語はスタートする。(人間はレミーの言葉を理解できないので当然だが)

彼の「他のねずみより鼻が効く」という特技は、序盤では料理に活かされることなく、群れのねずみたちの餌から毒餌を嗅ぎ分けるという、本来彼が望んでいたこととは異なる役割を与えられる。

「料理に携わりたい」という気持ちを抱え、フラストレーションを溜めていたレミーはある日群れの仲間たちに危機をもたらす重大な事件を起こしてしまい、群れと離れ離れになりひとりパリの街へとたどり着く。

パリの下水道で、彼の運命を変える本『誰でも名シェフ(Anyone Can Cook)』から突如現れた天才料理人グストーの霊(劇中本人がレミーの創造の産物であると明言している)の助言により、レミーはレストラン・グストーに侵入し、出来損ないの見習い料理人(皿洗い)のリングイニと出会い、彼の体を借りて料理に挑戦するのであった。

 

(誰もが知っていると思うが)あらすじはざっとこんな感じである。

本作においてレミーという存在は実にブラッド・バード自身を重ね合わせたキャラクターであるといえる。

レミーの「自分の才能を料理に活かしたい」という気持ちは「よりクリエイティブな作品を作りたい」と願う芸術家のそれだ。

ブラッド・バード監督は天才アニメーターとして鳴り物入りでディズニーに入社しつつも、短い期間で退社したような経歴を持つ。『Mr.インクレディブル』という映画がああいう作風になったのも「異端分子は排除される」という自らの経験が反映されているという。

ブラッド・バード作品の主人公たちは共通して「誰にも自分の才能を理解してもらえない」というフラストレーションを抱えており、レミーもその一人である。

 

才能を持ったねずみが人間の世界で料理に挑戦する、という突拍子もないストーリーが、これほどまでにリアルで共感を呼ぶのは、監督そのものの経験と信念がキャラクターに反映されていて、それが実にリアルであるからだろう。

 

「成長しない」相方。凡人は凡人であれ。

レミーの描写のリアリティは前述のとおりである。

 

一方で、もう一人の主人公ともいえるレミーの相方・リングイニは「才能を持たぬ者」の代表格として描かれている。

料理の才能は全くなく、鈍臭くて、掃除や皿洗いすらまともにできない「典型的なダメ人間」ながらも、心優しき青年・レミーの唯一の理解者という風に描かれていた序盤は、まだよかった。

彼が天才シェフ・グストーの息子であることが判明し、世間に公になると、彼は途端に調子に乗り始めてしまう。

それが彼とレミーとの関係を悪化させ、批評家アントン・イーゴが食事に来る夜に最悪となってしまう。(それはもちろん、レミー自身にも原因があったのだが)

 

リングイニの描き方の、性格の嫌な部分は物語上必然的であるし、リングイニは真に「根は良い奴」として描かれている。

彼とコレットのやりとり、特にコレットがこぼした「私こそありがとう、話を聞いてくれて」という言葉は、彼が男社会である料理業界にいても男女の隔てなく、コレットから学びの姿勢を持っているからこそ出た言葉だ。そしてこの言葉からコレットがいかに不遇の扱いを受けてきたかも推測できる。だからこそ彼女はリングイニに惹かれるのだ。なんせ彼は、ねずみですらも受け入れるような優しい男なのだから。

 

不自然に感じられるのが彼の「成長について」の描き方だ。

リングイニは本作で料理人として成長することは決してない。コレットの手取り足取りの指導によって、料理の手つきの基礎は身に着けるが、実際に料理をするのは彼ではなくレミーだ。コレットの指導をレミーが「なるほど」というような顔で見つめ学ぶ描写もある。

リングイニは料理の才能を身に着けることなく、最終的にウェイターという役割を見つける。ローラースケートを履き、素早い動きで各テーブルを回り、並々ならぬ手さばきで料理を提供していく。

やっと彼も、本職を見つけたのだ。

 

だが、ちょっと待て。彼は何をやってもダメだったはずなのに、なぜ突然高級レストランのウェイターが務まるほどの人間になったのか、成長過程がまったくもって描かれていない。

コレットと仲睦まじくローラースケートをする描写はあったので、ローラースケートはまぁ得意なのだろう。でもあれだけに鈍臭かった彼が、どうやって?

 

答えは謎のままだし、監督ブラッド・バードにとってはおそらくそこは興味の外なのだと思う。凡人がどう才能とを開花させ成長していくかということについては、きっと。

 

だからこそ彼は「料理の分野」においてはリングイニを外したのだ。

「自分の知らない分野で、せいぜい頑張ってください」というような。(ちょっと表現が意地悪すぎるが)

 

「努力したって叶わないこともある」「才能がない者なりに落ち着くべき場所がある」というのが彼の映画の本質だろう。それは今までも『Mr.インクレディブル』において、「スーパーパワーを持たぬ人はどう生きるべきか?」という問いを明確に出すことなく完結させてきたことからも感じられる。

 

ウォルト的精神の再解釈

『レミーのおいしいレストラン』の意義深いところは、ウォルト的精神を再解釈したところだ。

 

ウォルト・ディズニーの(発したということになっている)有名な言葉に

If you can dream it, you can do it.

(夢見ることができれば、それは実現できる。)

 

という言葉があるというのは、誰もが聞いたことあるだろう。

 

この言葉は夢を追うすべて人々にとって非常にポジティブな言葉だ。

あきらめなければ、夢を追い続ければ、きっと夢はかなう。

ただ、現実はもっと悲惨で、残酷で、いくら努力しても叶うことのないまま亡くなっていった人たちもいるだろう。

 

ウォルトの言葉は、夢を叶えた強者からのメッセージである。この言葉はポジティブである反面、ディズニーという会社を嫌う人たちや、努力をしても夢は叶うはずがないと信じる人たちにとって、嘘くさく、綺麗事に聞こえてしまう。

 

『レミーのおいしいレストラン』には「誰でも名シェフ(Anyone Can Cook)」という言葉が登場し、それは劇中の天才料理人グストーの言葉として語られる。

この、ウォルト・ディズニーの言葉にも似た安易な言葉を、本作ではまず否定から入る。

そもそも「リングイニが料理できるようにならない」という方法で。

冒頭のグストーの霊の「彼だって料理ができるかもしれない」という言葉に反して。彼がグストーの息子であるというお膳立てまでしておきながら、彼は最後まで料理ができない男として描かれる。

 

だが、ただの否定では終わらない。

実際に「夢を叶えた人たち」だっているのが事実で、監督であるブラッド・バード自身も波乱万丈ありながらも夢であったアニメ制作に携わり高い評価を受けている人物だ。

ディズニーという会社に何か一物あったとしても、ウォルト・ディズニーが嫌いなわけではないだろうし。

そこで本作では、批評家アントン・イーゴに「誰でも名シェフになれるとは思わないが、どんな生まれであっても名シェフになれる可能性がある」という解釈をさせることで、この言葉にリアリティと多様性を与えた。

 

たとえ小さなねずみであっても、女性であっても黒人であってもアジア人であっても、生まれは関係なく才能のあるものには門戸が開かれるべきだという、ポジティブなメッセージになった。

 

そもそも「夢を信じる」=「夢が叶う」なんていう安易な方程式は、その言葉を発した(とされる)ウォルト・ディズニーだって成り立つとは思っていないだろう。

その方程式を鵜呑みにしているのはむしろウォルトの言葉を批判する人たちだ。

 

ブラッド・バード監督は『レミーのおいしいレストラン』という作品において、ディズニー社のスピリットとも言える言葉に、「多様性」をいうエッセンスを与えることに成功した。

もちろんその中には、明言されてはいないが「才能のない人たちは夢が破れるかもしれない」というネガティブなものが表裏一体で付いてまわる。

それでも『夢は信じれば必ず叶う』という優しい嘘よりも、リアルで納得しうる言葉に変わっている。

 

そして、何より『レミーのおいしいレストラン』という映画の主人公が「ねずみ」であることにも、象徴的な印象を受けるのである。

 

この『レミーのおいしいレストラン』という映画は、

ディズニーに憧れ、ディズニーに裏切られた男が作る、芸術家のプライドを注ぎ込んだディズニーへのアンサーと受け取れる作品なのである。

 

こんな批評よりも、作品の方が価値がある

『レミーのおいしいレストラン』の、ずるいところだ。

 

辛口批評でおなじみのアントン・イーゴは、レミーの料理を食べ、心を動かされ

「私の批評よりも、作品のほうがずっと価値がある」と述べる。

 

ずるい、ずるいけど実に的を得ている。

 

というわけで、この作品に関わらず私のブログを読んで映画を見た気になっている人がもしいれば、是非とも映画本編をちゃんと観てくれ。

たまに「観なくていい」って批評している映画があるけど、それはあくまでも感想だから普通に観ろ。

 

絶対にこの文章よりマトモな大人が、マトモな金銭を受け取って、仕事として真摯に取り組んでいるから、きっと得るものがあると思う。

私のこれは趣味だから嘘はないけど、所詮素人の戯言なのだ。

そもそも、私と同じ感想を抱く人ばかりだとは思っていないし、十人十色でいい。

 

結局、褒めと批判の半々くらいな記事になったけど、

基本的には素晴らしい映画ですよ『レミーのおいしいレストラン』

特にピクサー作品をずっと1作目から見返していくと、

ここら辺から映像表現がぐっとレベルアップしているのに驚かされるはず。

後の作品も、進化が目覚ましいし、内容も質にばらつきはあるけど、洗練されているものもある。

ピクサーにはこれからもずっと、我々に衝撃を与えるような作品を作り続けて欲しい。

 

驚かせてくれ!

 

 

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