『バズ・ライトイヤー』(原題:Lightyear)ひっさびさのピクサー作品劇場公開でしたが、興行的には残念な結果に終わってしまったみたいですね。
私個人的には、映画を見たタイミングのメンタル的な部分もあり、
非常に励まされる内容にもなっていて、
前向きになれるきっかけをもらえた良い作品でした。
またアンチから「逆張り乙」って叩かれちゃうな〜。
というわけで感想です。
目次
- 目次
- 幼きアンディが観た物語
- 大人の視聴に耐えうる本格SF
- 「ポンコツたち」との共存
- 「無限の彼方」は変化の先にある。
- 変化に適応できない国は、観る権利すら失われる。
- もっと評価されてもいい
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幼きアンディが観た物語
本作のコンセプトは『トイ・ストーリー』シリーズに登場するおもちゃ、「バズ・ライトイヤー」を主人公にしたいわゆる「原作」という設定の、アナザーストーリー的スピンオフ映画である。
この映画の冒頭にはご丁寧に「この映画は子供の頃アンディが観たお気に入りの映画」というような字幕が表示され、念のために「この映画にはウッディとかジェシーは出てこないよ」ということを暗示している。
正直本作で一番ノイズだったのはこの設定である。
『トイ・ストーリー』が公開されたのは1995年。人々は「バズ・ライトイヤー」というキャラクターを、長ければ25年近く愛していて、映画は地上波でも何度も何度も流れていて、ライト層からめんどくさいオタクまで、ある程度の設定や知識は身についてしまっている。
DVDのみで観ることができる『スペース・レンジャー バズ・ライトイヤー 帝王ザーグを倒せ!』という長編や、今や幻の作品になっているアニメシリーズの『スペース・レンジャーズ バズ・ライトイヤー』という作品もある。(ただしこれらはどちらもディズニーの制作であり、ピクサーによる作品ではない)
すでに「原作」に近いようなものをある程度摂取してしまっている状態で、新たに登場する「原作」。
もちろんそれが、「新解釈」であったり「リメイク」であるならすんなり受け入れられただろうが、本作はご丁寧に「アンディが観た映画」と断言してしまう。
1995年、もしくはそれ以前の、当時のSF映画には残念ながら全く見えないヴィジュアルクオリティとデザインがそこにはあるし、子供が見て楽しむにはいささか厄介なSF理論が詰まってもいる。映画のテーマも、より現代を生きる人々へ向けての内容になっている。そして、『トイ・ストーリー2』の映画のセリフと矛盾する。
もちろんこの『バズ・ライトイヤー』を発端に、アニメシリーズが作られたりして、子供達の手に渡るところまでたどり着くのかもしれない・・・。ってこっちがわざわざそこまで妄想を繰り広げなきゃいけないのが、そもそものノイズ・・・。
というわけで、内容はもとより、なかなか大前提が受け入れられないファンが多くいたのではないか、というのが本作の興業不振に繋がったのではないかな、と思われる。
大人の視聴に耐えうる本格SF
本作『バズ・ライトイヤー』は上述した「トイ・ストーリー」関連のノイズを差し引けば、単体映画としてかなり出来の良いSF作品となっている。
居住可能な惑星を探しに来たバズ・ライトイヤーは、惑星に住み着く攻撃的な植物の存在に気づき、居住が不可と考え撤退を行う。だが、その撤退中にバズ自身のミスにより宇宙船が損傷。宇宙船の修理のためにその惑星への滞在を余儀なくされる。
やがて時はたち、乗組員たちは環境に適応し、居住インフラを整え始める。バズは宇宙船に必要不可欠なハイパースペース燃料のテストのため、4分間のテスト飛行を行うが、超高速な移動を行なった結果、自身にとっては4分間のテスト飛行が、現実には4年の歳月が経過してしまっていた。
居住区はよりインフラを整備し、人口も増え、人々は新たなコミュニティを育む中、バズは自身の「過ち」に囚われたまま、繰り返しハイパースペース燃料のテストを行い、気づけば62年が経過してしまう。
書いてても、SF初心者の私的には「どう説明すべきか・・・」と迷う本格SF。
この複雑な設定が、単なる舞台設定ではなく、
本作のバズの心理的要件に非常に深く絡んでいるというのも本作の魅力である。
自分だけが年を取らずに、周囲の環境だけがひたすらに時間を重ねていくという恐ろしさとセンチメント。
「猛烈なスピードで変化していく社会の中で置いてけぼりになる人」というバズの立ち位置が、読んで字のごとくのそのまま現代社会での「社会の変化についていけない人」の行動と重ね合わされている。
そして「社会の変化についていけない人」の行動や言動の結末と、本作における「ヴィラン」帝王ザーグとその正体が、本作のメッセージに直接的につながっている。
「ポンコツたち」との共存
本作で比較的嫌われがちな部分のひとつに、物語の後半、バズと行動を共にするチームのみんなが、「異様なまでにポンコツ」という部分がある。
緊張感の高まるSF映画を和ませる要素もなくはないが、映画のテンポを削がれたと感じる人たちも少なくなかったように思う。
劇中のバズよろしく、まともに活躍してくれない同伴者たちに苛立ちを覚えてしまう気持ちもわからなくはない。そして彼らが汚名返上と言えるようなシーンも、そんなに印象に残らないような小さなものなのも、結局チームが「彼らである必要」を感じさせない結果に終わっているとも言える。
だが、近年のピクサー作品は、徹底して「何もできなくても生きていていい」を描いていることを思い出して欲しい。
そして、そもそも事の発端は劇中で「できる男」の代表格ぶっている「バズ・ライトイヤー」ご本人の「ヘマ」なのである。
彼はその「過ち」に、自身で深く失望している。
「こんなはずではなかった」という後悔から、失われた栄光を、英雄としての名誉を取り戻すべく、周囲の助言も聞かずに行動している。
誰しも「英雄である」必要なんてなくて、生きているだけで尊いのに、何かを犠牲に「英雄である事」にこだわり続けている。
本作は、バズがミスしたり、癇に障ったり、ポンコツしかいないと感じていても、 本当は自分だってかつてヘマをしたポンコツで、周囲にはそれを責めるわけではなく、慰め支えてくれた人がいたことに気づけるようになるまでの物語でもある。
そして気づけるようになった頃には、ハイパースペースの時間経過により、その人はもういなくなっているのだ。
「無限の彼方」は変化の先にある。
「無限の彼方へ、さぁいくぞ」というセリフがある。バズ・ライトイヤーの有名な決め台詞で、英語では「To Infinity and Beyond」である。
「Infinity」は無限。「Beyond」は「向こう」とか「超えた先」つまり「彼方」を指す。
本作のバズ・ライトイヤーというキャラクターが抱えている問題は上記で語った通りで、「ハイパースペース燃料の合成」は表面上は未来のためのエネルギー開発のように聞こえるが、彼自身の目的は「自身の起こした過ちを帳消しにする事」にある。
一方で彼を取り巻く人々は、彼を責めるでもなく、置かれた環境に適応し、発展を遂げて、コミュニティを築き上げていく。
彼だけが、名実ともに時代に置いていかれる形となるのだ。それでも彼は諦めない。
この「諦めない」がある種、いわゆる「老害的価値観」にも繋がっている。
彼は周囲の助言も聞かず、自身の信念のみを貫こうとする。そこに「共生」であったり「共存」という価値観は、残念ながら見られない。
果たしてそれが正解だろうか。
新たな価値観を受け入れて、変化に適応していくことこそ、真に求められることなんじゃないだろうか。
変化に適応できない国は、観る権利すら失われる。
本作はピクサー作品として初めて、ほんの数秒の同性愛者のキスシーンが描かれる作品となった。
そして、同時期に、これまでのピクサーの作品において、本来描かれるはずだった多様性を描くシーンが、ディズニー上層部によりカットさせられていたということが明るみになっていた。
反ポリコレ集団の妄想によれば、「クリエイターはディズニーのポリコレ思想によって無理矢理にポリコレ描写を描かされている」が定説となっているが、実はその真逆だったというわけだ。
報道を受け、なのかはわからないが本作は一度削除となったその同性愛者のキスシーンが復活する運びとなった。
そして、その「同性愛者のキスシーン」を受け入れることができない14カ国において、本作は上映不可となったのだ。
「このシーンを削除されるくらいなら、上映してくれなくて結構」という、強気だが、意義のある行動を、最終的にはディズニーは選んだ。
それを『バス・ライトイヤー』で表明することは、非常に重要な意味を持つ。
この作品そのものが、「古い価値観にとらわれず、変化に適応していこう」という映画だからだ。
私はこの考えを、大いに支持する。
もっと評価されてもいい
というわけで、今日のブログのタイトルの「変化」は「むげんのかなた」ってルビ振っておいてください。
結果的に残念な興行収入になってしまってはいるが、
ディズニー最新作の『ストレンジ・ワールド』も含め、
そもそもコロナ禍で、人々の映画視聴フォーマットが劇場からストリーミングに移行しつつあるし、公開されている映画館が国単位でごっそり減っていることを考えれば、多少はしょうがないように思う。
「興行収入が少ない」=「駄作」ではないし、だとしたわ私が常日頃から推している『トレジャー・プラネット』はどうなるんだ、という話になるし。
これは映画好きな人ならば誰だって理解しているはずだ。
少なくとも、もっと多くの人に見てもらって、もっと評価されていい作品であることは間違いないように思う。
今後のピクサー作品にも、期待したい。