この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。
また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。
2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。
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やってしまった。
まだ大丈夫、まだ大丈夫と、騙し騙しで気づかないふりをしていた心の糸は、どうやら限界まで張り詰めていたらしい。
夫の何気ない言葉に私は思わずキレてしまった。
人目を憚らず、感情が溢れ出すままに夫を怒鳴ったあと、私の声に驚いて泣く10ヶ月の息子を抱き抱え、私はレストランを飛び出した。
9月。風はまだ生ぬるく、残暑の日差しが私の首を容赦なく照りつける。誰かが誤って手放したのだろう、特徴的な形のバルーンがふわふわと宙を舞う。
ベンチに腰を下ろし、私の胸元でわけもわからず泣きながら熱を放っている息子の汗を拭き、麦茶を飲ませた。慌てて飛び出してきたが、急いで引っ掴んだバッグの中にはタオルやオムツや水筒など、息子のためのものだけは入っていた。
「ごめんね、遼くん。びっくりしちゃったね」
私は息子に話しかける。
その声に安心したのか、ただ泣きつかれただけか、徐々に息子は大人しくなった。
結婚して以来初めて、夫と喧嘩をしてしまった。
あろうことか、誰もが幸せに包まれるはずの、夢と魔法の王国で、だ。
2020年は地獄の年だった。
世界的に大流行する新型ウィルスの荒波のなか、医薬品メーカーの営業マンとして働いていた夫・啓太は、不織布マスクや消毒液などの、生産量を大幅に超える突然の需要の増加に、対応を追われていた。納品が全く追いつかず、新興他社に顧客を奪われまいと取引先を駆けずり回って謝罪する日々を送っていた。生産が安定してからは、業界特有のこの景気を逃すまいと、新たな顧客獲得のために休みなく働いていた。
その頃の私はといえば、お腹の中に息子を身ごもっていて、悪阻と日々重くなる体に悩まされながらも、朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる夫のために毎日米を炊き、シャツを洗い、風呂を沸かしていた。
仕事が忙しいのは決して夫が悪いわけではないし、私が妊娠して働けなくなった以上、夫が張り切るのも当然で、産まれてくる子供のためには仕方ないと思っていた。それでも出産が近づくにつれて疲労と不満は溜まっていった。
世間は感染症の恐怖に染まり、外出もままならない。そんな中で、毎日のように関東全域の取引先を回り、さまざまな人々と顔を合わせていた夫が、感染する事なくこの一年をやり過ごせたのは、ある種奇跡かもしれない。社内でも取引先でも、近しい人に感染者が出ていたが「マスクをしての会話であれば濃厚接触にあたらない」という理由で、検査を受けることも、自宅待機を強いられることもなく、ただただ戦々恐々とする日々を過ごした。結果としては夫婦共に発症することなく今日までこれたので、本当に運が良かったのだろう。
妊娠8ヶ月となったちょうど一年前には、流石に私にも限界が来て、 母に来てもらうこととなった。
母がいなければ私も息子も今ここにはいなかったかもしれないと思うくらいには、気持ちは追い詰められていた。それでも決して若いとは言えない母を田舎から東京に呼ぶのはかなり心苦しい思いだったし、その間滋賀の家で一人暮らしになる父の事も心配だった。
「美鈴には元気な赤ちゃん産んでもらわんといかんし、啓太くんも大変だし、これでいいんよ。たまにはお父さんも、一人でご飯くらい用意してもらわんと」
母はそう言って私の申し訳ない気持ちを和らげてくれた。美鈴とは私の名前だ。一方の父は、私が滋賀に帰って来れば問題が解決する、と不満たらたらだったらしい。
息子が産まれたのは11月。予定日の一週間遅れの月曜日だった。
私は感染症対策のため、立ち合いが不可となった分娩室で、一人で息子を産んだ。こんなご時世だから夫が来たとて立ち合いができるわけでもない。入院中の病室には母が毎日顔を出してくれた。途方もない孤独に包まれながらのこの1週間弱は、母と生まれてきた息子だけが心の支えだった。
夫は結局、息子が産まれたあと、私が退院する前日まで病院に顔を出す事はなかった。
「土曜日か、日曜日に産まれてくれればよかったのに。ああ、でも分娩費用が高いのか」
息子が産まれてから5日後にやっと念願の息子と顔を合わす事ができた夫はそう言っていた。
母は、本人の前では決して言わなかったが、こんなにも休めないものなのか、と私の前でよく愚痴っていた。出生届など産まれてからの諸々の手続きも、新生児のための服の用意も私の入退院の準備も、全て母がやってくれていたのだ。
産まれてすぐ、父が一度だけ会いに来た。家族で新しい命の誕生の喜びを噛み締めた。結婚式の時ですら大人気なく不貞腐れた顔をしていた父が、初孫をくしゃくしゃの笑顔で抱き上げ、何故か私ではなく夫の肩を叩いて、よくやったと言っていた。その日は2人とも朝まで飲んで酔い潰れ、酒の弱い夫は仕事に支障をきたした。私は息子に母乳をあげながら、父と夫が食べた食器を黙って洗う母を見て、憂鬱な気持ちになった。
息子が産まれて2ヶ月経った1月、母は滋賀に帰って行った。そこからはまたもや私が夫の食事と掃除洗濯をこなさなければならなくなった。
そこに当然、息子の世話も追加される。
夫は世間的にはいい父親だと思う。
息子を愛していたし、よく稼ぎ、夜遊びや飲み会もせずにまっすぐ家に帰ってきた。しかしながら、家事は一切やらなかった。
営業の管轄のエリアが広いために、どうしても帰りが遅くなってしまう事が多く、平日は夕食を食べた後はすぐに眠りにつき、息子が夜泣きしてもなかなか起きなかった。
異動の話が出たのは今年の春前だった。夫は営業から人事部に異動となり、新卒採用の担当を任されることとなった。2ヶ月かけて研修と引き継ぎを行い、その後はIT部と連携し、リモートでの面接や研修のシステムを構築して実用化して、夏から新卒採用の面接が始まった。営業の時よりは、ぐっと帰宅が早くなり、相変わらず家事は全く手をつけなかったが、子供の相手をしてくれる時間が増え、本人も喜んでいた。
「う〜ん、くちゃいなぁ。遼くんうんちした?美鈴ちゃん、オムツ取って〜」
誰がどう見ても食器洗い中の私に、夫はオムツを取るように言う。オムツを替えることは出来ても、自分の足で取りに行くという発想がない男なのだ、私の夫は。
「洗い物中なんだから、自分で取ってよ」
夫は眉をあげて、とぼけた顔をしながら息子に「ママに怒られちゃった〜」と言った。
まただ。何気ない言葉がナイフのように突き刺さる。
私は息子の哺乳瓶を洗う手を止めて、わざと聞こえるように大きなため息をついた。
ある日、私が用意した夕食を食べながら、夫が呟いた。息子ももう9ヶ月を迎える頃で、人間らしい表情を見せるようになってきた頃だった。
「ディズニーランド行きたいな。おれ、大学の頃サークルの友達と行って以来だ。遼も産まれたしさ、行きたいな」
それが先月の事である。夫はそういうと、私の意見も聞かずに日程を決め、あっという間にインターネットでチケットを取ってしまった。
「なんでまた急にディズニーランドに行きたくなったわけ?」
私が聞くと、夫は
「いやさ、今日なんだけど、ディズニーランドでアルバイトしてるっていう大学生の女の子が面接に来てさ、話を聞いてたら久々に行きたくなっちゃって」
と答えた。
その女の子はそんなに可愛らしく魅力的だったのだろうか。それとも、そんなに話術に長けていたのだろうか。
「おれも中学生くらいの頃はディズニーの店員さんに憧れてたなぁ。あそこで働いてたら、どんな人生だったんだろう」
「店員さん、ってか、キャストね」
仕事は出来るが、少し残念なくらい天然な夫のことだから、その面接した女の子に下心があるとかではなさそうだし、私も数年ぶりの東京ディズニーランドと、このご時世で満足に外出も出来なかったこの一年半を思い返すと、純粋に楽しみな気持ちになった。『美女と野獣』は私が一番好きなディズニー映画だったし、昨年「美女と野獣 魔法のものがたり」がオープンした時は心が躍った。息子を身ごもっていなければ、1人でも遊びに行っていたかもしれない。
夫は翌日、仕事帰りに駅前の本屋で東京ディズニーランドのガイドブックを買ってきて、忙しい合間にノリノリで準備をするようになった。
普段は家事も何にもしない夫が、珍しくお出かけに必要なアレコレを準備しているのを見て、私は特に口を出さずに任せる事にした。
出発の前日に、大きく膨らんだカバンの中身を見ると、息子のぬいぐるみがいくつかと、フリマサイトでこっそり買ったらしい、もこもこ素材のダッフィーのぬいぐるみロンパースが入っていた。サプライズのつもりだったらしく、私はちょっと怒られたが、私も腹が立っていたので無視する事にした。
「さすがに、9月でこれは暑すぎると思うよ。てか、まだ半袖着せてるし。あと、ぬいぐるみ、絶対邪魔だって。他にも持っていくもの色々あるよ?」
カバンの中で二つ折りにされて詰め込まれていたミッキー・マウスとドナルド・ダックを取り出し、代わりに私は息子の着替えとオムツを詰め込む。
夫は不満そうな顔で息子に「遼くんもミッキーと一緒に行きたかったよねー?」と話しかけていた。
私も腹を立ててはいたが、ここで感情を爆発させることはしなかった。夫が天然で何も分かっていない事は知っていたくせに、準備を任せっきりにした私が悪い。それに不穏な空気のまま明日のディズニーランドを迎えたくない。気持ちを切り替えて、啓太くん、ごめんね。と夫に言った。
「いいよ。明日楽しもうね」
と夫は答えた。何が「いいよ」なのだろう。
かくして、私たちの初めての子連れディズニーランドは当日を迎えた。張り切って下調べをしていただけのことはあり、夫の立てたプランは比較的完璧だった。
息子を抱っこしながら乗れるアトラクションはもちろん、授乳室や離乳食を温めることができる場所も、しっかりとガイドブックに付箋を貼ってわかるようにしてくれていた。つい1ヶ月前までキャストを「店員さん」と呼んでいた人と同一人物とはとても思えない。
問題は、ジャングル・クルーズもイッツ・ア・スモールワールドも、息子はこれといって興味を示さず、ほとんどがお昼寝の時間になっていたことだろう。
息子はパークを歩いているときに突如現れて手を振ってきたグーフィーに号泣して、グーフィーにあからさまに残念そうな動きをさせ、カントリーベア・シアターでは壁に飾られてある剥製たちが喋り始めた瞬間に泣き叫び、即退出を余儀なくされた。
逆に、休憩のつもりで立ち寄った、アトラクションとはとてもいえない、トゥーンタウンの子供向け遊具のある公園で、つかまり立ちしながらキャッキャと声をあげて喜んでいた。歩き疲れてぐったりしながらも、その様子を見て私と夫は顔を見合わせて笑った。
計画とは大きく違う。でも、幸せで楽しい時間だった。私たちが思っていた以上に、ディズニーランドは10ヶ月の息子にはまだ早かったようだ。
事件が起きたのはトゥモローランドにあるレストランでだ。朝早くから動き回っていたので、16時にはもうくたくただった。涼しい店内で、甘いものでも食べようかという話になった。
「おれが何か買ってくるよ、美鈴ちゃん何飲みたい?」
「ありがとう。アイスコーヒーでいいや」
「遼、ゼリーくらいなら食べれるかな?」
「うーん、ゼリーなら赤ちゃん用のやつ持ってきてるから。大人が食べるやつはまだあげたくない」
「あの野菜のやつでしょ?なんか美味しくなさそうなんだよなぁ」
「啓太くんが食べるわけじゃないでしょ」
夫はやれやれという顔をして注文カウンターへ向かった。やれやれはこっちだ。
私は保冷バッグから、夫に「美味しくなさそう」と評された野菜のゼリーを取り出して、息子に食べさせた。
しばらくして夫が戻ってきた。トレーには飲み物とポテト、『トイ・ストーリー』に登場するエイリアンの形をしたお菓子、それからカップのゼリーを買って戻ってきた。
「遼のはあるからね、それは啓太くんが食べてね」
「はいはい」
ポテトを一本つまむ。塩味が疲れた体に染みるようでとても美味しく感じた。
「見て見て、リトル・グリーンまん」
「かわいい」
夫は「リトル・グリーンまん」というらしいそれを、息子の額に載せて写真を撮っていた。意味もわからずきゃっきゃと笑う息子。確かに可愛い。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
私はコーヒーを一口だけ飲んで、トイレに向かった。
個室で便座に座り込んだ瞬間、どっと疲れが押し寄せるのがわかって、ちょっとだけ目頭が熱くなった。最近はトイレの時間も、なかなか一人になれなかったから。
私が席に戻ると、夫が息子に何かを「あーん」している姿が目に入った。とっさに早歩きで近づき、語気を強めて声をかける。
「啓太くん」
明らかにやばい、という顔をした。私の声は相当怒っていたと思う。
「ダメって言ったよね?」
「いや、でも美味しかったし、さっぱりしててそんなに甘くないからさ、いいかと思って」
「ゼラチンは赤ちゃんがアレルギー起こす場合があるの。こっちの赤ちゃん向けのゼリーはね、寒天が使われてるから安全なの。そうでなくてもゼリーで窒息の危険とかがあるんだよ」
「ごめん、ごめんて」
ふと、夫がテーブルに置いたゼリーの色が目に入った。私は一瞬背筋が凍るような気持ちになって、さらに怒りを込めながら聞いた。
「これ何味って言った?」
「……ハニーレモン」
その瞬間、私の中に張り詰めていた糸がプツン、と音を立てて切れたような気がした。
「あなた、10ヶ月も父親やってて、乳児に蜂蜜がダメなことも知らなかったの?まだ食べさせてないよね?病気になって、死ぬかもしれないんだよ?」
そこからは止まらなかった。
自分でもよく泣かずにいられたなと思う。その代わりに、私と夫の間で息子が大号泣していた。
周囲のゲストの視線も、もうどうでもよかった。怒りが洪水のように押し寄せて、息子が産まれる前から積み重ねてきた我慢や孤独を、全てぶちまけるような気持ちでまくし立てた。
号泣する息子を抱きかかえ、息子のあれこれが入ったバッグをひっつかみ、怒りのこもる足取りで私はレストランを飛び出した。
そして、今である。
かろうじて、スマホを持ってきていたのは幸いだった。財布も何もかもベビーカーに置いてきてしまったが、とりあえず夫と連絡は取れる。どんな顔して連絡すればいいのかは、ちょっとわからないけど。
「遼くん、お散歩しよっかぁ」
抱っこ紐すらない状態で、バッグと息子を抱えて東京ディズニーランドを歩くのは、当然ながら大変だが、いつまでもベンチに座っているのも手持ち無沙汰だと思って移動することにした。
立ち上がった瞬間、閉まっていなかったバッグの口からタオルやらオムツやらが散乱してしまい、頭がクラクラして再びベンチに座り込んでしまった。
泣きたい。
さっきまでは怒りだった私の感情が、今は切なさに変化している。
「あの……大丈夫ですか?」
か細い声が聞こえて私は顔を上げた。キャストに心配されたのかと思ったら、中学生くらいの女の子だった。
「ごめんなさい、ありがとう」
少女は私がぶちまけたバッグの中身を拾って手渡してくれた。
「もう落ちてないですかね」
「うん、拾ってくれてありがとう」
少女は親切だったけどニコリともせずに、うんうん頷いた。私服だが、白いブラウスに紺のスカートで、学生服みたいに見える。
「今日は誰かと来たの?」
「あ、ひとりで……」
「よく一人で来るの?何歳?」
「えっと、初めて来ました。ひとりで初めて来たんじゃなくて、本当に初めて」
少女はそう言いながら周りをキョロキョロと見渡した。
「あ、えっと、14歳です」
噂には聞いていたが、本当にひとりでディズニーランドへ遊びに来る人を私は初めて認識した。とはいえ、14歳の少女がひとりでふらっとディズニーランドへ来るなんて本当にあるのだろうか。もともとそういう子なのかもしれないが、若干様子がおかしい気もする。
「そう。ディズニーランド好きなの?」
「えっと、友達が自慢してて、羨ましいなぁって」
少女は視線を落とし、うつむきながら口の端だけ笑った。
「今年、修学旅行なくなっちゃって、ずーっと楽しみにしてたんです」
「え、どこか遠くから来たの?」
少女は大きく首を振る。
「千葉県なんですけど、最初マレーシアの予定が、北海道になって、富士山になって、結局どこにも行けないから、東京ディズニーランドになったんだけど、あたし的にはマレーシアよりラッキーって感じで。初めてだったし。でもやっぱりそれもなくなっちゃった」
私は胸が締め付けられる思いだった。感染症の影響が、ここにも出ている。
一生に一度しかない14歳の、一生の思い出になるはずの旅行が、得体の知れないウィルスのせいで台無しになってしまっているのだ。
感染症とは関係ないが、私も結婚式の数日前に妊娠が発覚し、ハワイへの新婚旅行が取りやめになった時のことを思い出した。
「赤ちゃん、見てもいいですか?」
少女は笑顔を見せないまま、私に問いかけた。私は驚いたが、泣き疲れて寝落ちしそうになっている息子を少女の方へ向ける。
「名前はなんていうんですか?」
「遼、だよ。男の子」
「触ってもいいですか?」
すごく丁寧に確認してくれるなと感心しつつ、私は頷く。医薬品メーカーに勤めながら、帰宅して手も洗わずにハグしようとする夫とは大きな違いだ。
息子があくびをすると、少女はそれを見てニヤッと笑った。
「すごい、荷物いっぱいでしたね。赤ちゃん連れてお出かけって大変なんだ。おむつとかおやつとか、いっぱい入ってた。かばん、重くないですか?」
少女の切れ長で重そうな一重の目が、パチパチと瞬きして私を見た。少女の顔が驚きの表情に変わるのがわかった。
「えっ、うわ、大丈夫ですか?」
少女が驚きの声を上げる。私自身も驚いていた。涙が止まらなかったのだ。
「うん、びっくりさせてごめんね」
急いでバッグからタオルを出し、涙をぬぐいながらそう答えた。久々に気合を入れて作ったメイクが崩れていくのを感じた。
「荷物も重いけど、子供が大好きだから、頑張るんだ。私、お母さんだから」
少女は戸惑いながらも、私の顔を見つめ続けた。不思議な子だなと思った。そして、優しい子だなと。泣いた後は、清々しい気分になることができた。
「急に泣いちゃってごめんね、さっき私、夫と喧嘩しちゃって」
私がそう言うと、少女は再びニヤッと笑った。
「あたしと一緒だ。あたしも一昨日、お母さんと喧嘩して、それで来ちゃったんです」
やはり人は、話してみないとわからないところがある。人それぞれに大なり小なり何かを抱えて生きている。友達と人並みの思い出づくりもできなくなってしまった、そして親と喧嘩した少女。彼女は日常で抱え込む闇を解放することを期待して、この夢と魔法の王国にたどり着いたのだ。私だって、心の底ではそういうつもりだったのかもしれない。
「あなたのお名前は?」
「あ、あたし?ひよ莉って言います」
「ひよ莉ちゃん。可愛い名前だね」
「ママがつけてくれたの。遼くんのお母さんは?」
何か引っかかったが、気にしないことにした。
「私のことも名前で呼んでくれるの?おばさんとかでいいんだよ」
「え、だって、ぜんぜんおばさんなんて歳に見えない。あたしは自分の名前が好きだからかも知れないけど、人はみんな名前を持ってるはずだし、呼ばれたいと思ってるんだ」
ひよ莉と言う名の少女はそこで一息つき、続けた。
「……と、あたしは思って、ます」
改めて彼女の顔をまじまじと見つめる。どこにでもいそうな中学生の少女。話し方もたどたどしいのに、なぜか芯のあるものを感じる。
「美鈴です」
「美鈴さん」
「はい」
ひよ莉ちゃんはまたもやニヤッと笑った。この笑い方が癖なのだろう。
「あたしと一個だけアトラクションに行って欲しい」
スマホを見ると私がレストランを飛び出してから1時間は経っていた。メッセージアプリには未読のメッセージが20件ほど入っている。おそらく夫だろう。
「夫が困ってるかも知れないな」
「さっき言ってた喧嘩って、美鈴さんが悪いんですか?」
私は目を丸くしてひよ莉ちゃんの顔をみた。100対0で、私が悪いつもりはない。それでもあの場に放置して来てしまったことには少し罪悪感を感じていた。だが、ひよ莉ちゃんの顔を見ると、夫をもう少し困らせてやってもいいような気さえしてしまった。
「私は悪くない」
「だと思ったんです。だって美鈴さん、優しそうだもん」
「でもね、夫も優しい人なんだよ。ちょっと天然なだけで」
「あー、空気読めない感じ?」
私は笑ってしまった。今日出会ったばかりの女の子に、ここまで恥ずかしげもなく心を開けるというのは、初めての体験だった。
「アトラクション。いいけど、この子も一緒に行けるかな?」
「あー、うん。多分大丈夫だと思う」
ひよ莉ちゃんは私のバッグを持ってくれたので、移動はかなり楽になった。トゥモローランドからシンデレラ城の前の広場を抜けて、アドベンチャーランドと呼ばれるジャングルのエリアへと突入する。
ひよ莉ちゃんに連れられ、私と息子は「魅惑のチキルーム:スティッチ・プレゼンツ”アロハ・エ・コモ・マイ!”」というアトラクションに入った。
ハワイの鳥たちをテーマにしたシアター形式のアトラクションで、私が子供の頃に体験したアトラクションと、ベースは同じだがテーマが若干異なっていた。何より『リロ・アンド・スティッチ』のスティッチが登場するらしい。
「あたし、スティッチが好きなんです」
「ふーん、なんで?」
ひよ莉ちゃんが言い、私が聞く。
「あたしと似てるから?かな」
私はスティッチの映画を観たことがなかったので、深く意味は考えなかった。
部屋が暗くなり、キャストのアナウンスとともに鳥たちが歌い始める。
南国のメロディは、行けなかったハネムーンを疑似体験させてくれる、というにはさすがに程遠いが、多少の雰囲気を噛みしめることはできた。
息子が泣くか心配だったが、今日初めてと言ってもいいくらい、きちんと目を覚ましてショーを見つめ、鳥たちが歌うシーンできゃっきゃと笑っていた。スティッチが登場する、少し怖いシーンでは息を飲むように静かになり、私の指を握りしめた。
ショーを終え、建物の外に出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。
「楽しかった?」
私が聞くと、ひよ莉ちゃんは肩をすくめながら笑った。
「えっと、思ってたのと違ったかな」
すごく正直な子だ。この素直さに惹かれるんだなと思って私も笑った。
「ひとりで帰れるの?」
と私が聞くと、ひよ莉ちゃんはスマホの画面をチラッとみた。
「えっと、定期圏内だから余裕です。まだ帰らないけど。初めて来たし、閉まるまで遊ぶんだ。美鈴さん、一緒にいてくれてありがとう」
「ううん、こちらこそ。本当にひとりで大丈夫?」
私が心配して聞くが、ひよ莉ちゃんはニヤッと笑って、ブーブーと震える私のスマホを指差す。
「美鈴さんの夫さんが大丈夫じゃなさそう」
私はため息をついて、やれやれという顔をして見せた。
「楽しかったよ。美鈴さん、なんかママみたいだった。遼くんも元気でね。夫さんと、仲直りしてね」
ひよ莉ちゃんは早口でそういうと、目を逸らしながら手を振って駆け足で去って行った。
私は暗すぎるアドベンチャーランドの小道に消えてゆく彼女の後ろ姿を目で追いながら、震えるスマホの通話ボタンを押した。
「もしもーー」
「美鈴ちゃん、ごめん!!!!!!」
「ご案内いたしまぁーーーす。ウエスタンリバー鉄道はぁーーーー、熱帯のジャングルーーーー」
私の話す声と、夫の謝る声が重なった上に、ウエスタンリバー鉄道のアナウンスが全てをかき消した。私は何が何だかわからなくなり、その場で笑いが止まらなくなった。
「美鈴ちゃん、怒ってない?」
「怒ってる」
私は大きく息を吸って、ひよ莉ちゃんの笑い方を思い出し、同じようにニヤッと笑った。
「怒ってるよ。ずっと忘れないってくらい怒ってる。でも、今日はもういいよ。いっぱい計画してくれてありがとう。明日帰ったら、守って欲しいこと、手伝って欲しいこと、いっぱい話そう。今、アドベンチャーランドの所にいるから、鉄道に乗って待ってる。一周して帰ってくるまでに迎えに来て」
私はそう言って、夫の返事も聞かずに電話を切ると、息子を連れてウエスタンリバー鉄道の待ち列に並んだ。振り返って魅惑のチキルームの塔を見つめる。
ひよ莉ちゃん。彼女は本当に存在したのだろうか。東京ディズニーランドに棲む妖精かなんかだったんじゃないだろうか。
息子の目にオレンジの明かりの反射がチラチラと揺れている。私が彼の柔らかいほっぺたをつんつんとつつくと、息子はケラケラと笑い声をあげた。
第1話「ディズニーランドの妖精」終わり
Chapter 1 - She's An Angel
***
あとがき
啓太にならないように日々考えながら生きていますが、やっぱり難しいものです。
次回予告
第2話「マイ・プリンス、アイ・プリンス」
#d_advent
本記事は
ディズニー関連ブログAdvent Calendar 2021の 3日目の記事です。
毎年ネタに悩みつつ挑戦するのですが
今回は小説を書いてみました。
しきどなさん(@sikitti1118)運営お疲れ様です。来年もよろしくお願いいたします。