この小説はフィクションです。実在の人物や団体、テーマパークなどとは一切関係ありません。
また、某所にすでに存在しないアトラクション、グッズ、メニューなどが登場する場合があります。
2021年9月に新型コロナウィルスの脅威がひと段落し、登場人物たちがマスクなしで生活している架空の時間軸を舞台としています。歴史的事実と若干の乖離があることを理解してお読みください。
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***
やってしまった。
その日は完璧にしたくて、朝早く起きてパパとママの朝ごはんを準備したのに、メグミに邪魔された。パパは、あたしが用意したお味噌汁と目玉焼きと鮭の塩焼きを「美味しいよ、ありがとう」と言って食べてくれたけど、メグミは朝から魚を焼くなんて部屋が臭すぎると言ったり、味付けが濃すぎる、私を殺す気かとわめいて、あたしに鮭の塩焼きを投げつけた。あたしは怒りに任せてメグミに言い返して、粉々になった鮭の破片を払って家を飛び出した。もう制服を着てたのに。飛び出して、稲毛から二駅ほど電車で移動したところで、「やってしまった」という気持ちはすでにどこかに消えて、もう今日は学校いいかなと思って、サボることに決めた。
普段あまり行かないところに行きたくて、柏まで出てきたら、駅に東京ディズニーリゾートのでっかい広告が出ていて、ああ、そういえばあたしの修学旅行はこの感染症禍で無くなってしまったなと思い出して、思いっきりお金を使いたい気分だったし、人生初めての東京ディズニーランドに行ってみる事に決めた。この間クラスメイトのりおんちゃんが自慢しながらお土産のクッキーをくれて、羨ましいなとずっと思ってたんだ。どうやってチケットを買うんだろうと思って、うろうろしてたら50歳くらいの知らないおじさんに付き纏われた。
「おねぇちゃん、どこいくの?学校は?サボり?家出?おじさん奢ってあげるからさ、一緒に遊ぼうよ。タピオカ飲む?」
「タピオカて」
「スタバでもいいよ」
「いやスタバて。タピオカてー」
タピオカみたいな頭しやがって、と思ってスタスタ歩いてたらおじさんに前に回り込まれて、ぐっと睨みつけたところで、たまたま通りがかった親切なお姉さんに助けてもらえた。
「おっさん、うちの妹になんか用?しっしっ、瑠奈ちゃん、行こ行こ」
あたしは瑠奈ではないけれど、うんと頷いてお姉さんに手を引かれ、少しひらけた所まで連れ出された。
お姉さんは髪を明るすぎない程度に染めていて、背はあたしよりちょっとだけ高いくらい。ちょっとつり目で、唇が薄く、化粧は薄めだった。あたしのお姉ちゃんと嘘をついても、信じる人がそれなりにいそうな顔で、パーツと雰囲気があたしとよく似ていた。
「ありがとうございます」
「いーのいーの。変態が多いねぇ。感染症で滅びればいいのに」
「それ、ありよりのありですね」
「君もね、こんな時間から制服でウロウロしてたら、学校サボってますって言ってるようなもんよ。なんか上から羽織るもんないの?」
「ちょっと持ってないです、暑いし」
「……じゃあこれ貸してあげる」
お姉さんはカバンの中からド派手な柄のカーディガンを取り出して、あたしに押し付けた。
「ええ、悪いです」
「私のセンスが受け入れらんねぇってか?」
「それも若干、ないことはないけど、でも悪いですぅ」
お姉さんは呆れ顔でカーディガンを奪い取り、裏返して私に羽織らせた。カーディガンの裏地は真っ黒で、ロゴがひとつ入ってるだけだった。
「リバーシブルよ」
「あ、これなら、まぁ」
「君最悪だね。……で、こんなところで学校サボって何してんの?」
「えと、話せば長いんですけど、鮭の塩焼きが」
「シャケ?」
「簡潔に言うと家出みたいな感じです」
「家出かい」
お姉さんはあたしの頭の先から爪先までをジロジロと眺めた。あたしは口元だけでヘラッと笑って見せる。
「ここへは、なんか目的があったの?」
「あ、えと、おしゃれな服屋さんとかあるかなって。あとディズニーのチケット買いたくて」
「服屋はあるけど、ディズニーのチケットは柏じゃ手に入らんなぁ、今はね。チケットブースやディズニーストアですら売ってないし」
「え、そうなんですか」
「今はネットだね。いつ行くの?」
「……今日?それか明日?」
「今日!?明日!?マジか、ないだろチケット」
「えぇ、ないんですかぁ」
「ないない、多分ない。探してあげてもいいけど。君、何か食べたん?」
「鮭の塩焼き……」
「それはもうええて。サイゼ、行く?ガストでもいいや」
「行きます」
あたしはお姉さんに誘われるがまま、南口のサイゼリヤへと入った。ミラノ風ドリアと、オリーブアンチョビのマルゲリータピザ、プロシュートとソフトドリンクバーを注文して、ドリンクを注いで席につく。
「君、名前は?」
お姉さんがストローを咥えてメロンソーダをすすりながら聞いてくる。
「ひよ莉です」
「ひよ莉ちゃん。かわいい名前」
「お姉さんは?」
「晴華」
「晴華ちゃん」
「ちゃんじゃねーわ、さんをつけろよデコ助野郎」
「お、金田だ」
「AKIRA知ってんの君、何歳よ」
「14歳。晴華ちゃんも世代じゃないよね」
「はいはい元カレの影響ですぅー。もう晴華ちゃんでもいいや……」
晴華ちゃんはあたしのスマホをタンタンタンと叩きながらチケットを探してくれた。店員さんが料理を運んでくる。
「ランド?シー?」
「行ったことないから、ランドがいいかな」
「おっけー。……うん、今日はさすがに、もう無理。明日も……ない」
「えぇー、じゃあ、明後日は?」
「日曜日だからなぁ……おっ、ラッキーだね、あるよ」
「え、やったー!」
「いいけど君、クレジットカードとか持ってんの?」
あたしは財布をごそごそして、パパに預けられていたチャージ式のクレジットカードを取り出す。
「いざという時のためにパパが2万円入れてくれてます」
「今がいざという時でいいのかい」
「今はここぞという時かな。ここぞという時にも使っていいんです」
「知らんわ、じゃ、これで買っちゃいな」
晴華ちゃんはスマホを私に返して、カードの番号を入力させる。私はクレジットカードに書かれた番号を順番に入力した。
「君、ちょっとは人を疑ったりとかもしなよ」
「え、東京ディズニーリゾートって書いてあるし、晴華ちゃんは信頼できるよ」
晴華ちゃんはピザを一切れ取って、プロシュートを一枚載せて一口かじった。その食べ方真似していいか聞いたら、あたしにも一切れくれた。あたしは決済を完了させて、QRコードを見せる。
「よくできました」
「晴華ちゃんありがとう」
「礼には及ばんよ。で、君は今日・明日どうするの?誰か頼れる人はいるん?」
「うーん、友達みんな親厳しいからなぁ……ネカフェとかかな?」
「ネカフェなんか、年齢確認されて夜には追い出されるよ。素直に謝って家に帰りな」
「えー。いや、だってあたし悪くないし。メグミが謝れば……」
「そのメグミってのは、ママ?」
あたしは、ちょっと沈黙して、どう答えようか迷った。
「複雑なんです」
あたしは視線を落として、うんうん頷きながら言った。ちらっと晴華ちゃんを見ると、晴華ちゃんは頬杖をついてあたしを見つめていた。晴華ちゃんは雰囲気は私に似てるけど、あたしはこんな風に人をじろじろ見れないかもしれない、と思った。
「そっか。私も家出常習犯だったからさ、君が本当に私のこと信頼してるなら、私の家泊まってもいいよ。でも親には友達の家にいるって連絡しときなよ」
「え、いいの」
「どうせ日曜は私も舞浜行くし」
「え、晴華ちゃんと一緒にディズニーランド回りたい」
「それは残念でした、私は仕事」
晴華ちゃんは友達が経営してるという古着屋さんにちょっとだけ顔を出して、その後あたしを家まで案内してくれた。家は我孫子にあるちょっと新しめのアパートだった。晴華ちゃんとあたしは、年齢は8歳も離れていたけど、昔からの友達なんじゃないかっていうくらい気が合って、あたしは晴華ちゃんとお互いの過去やらを語り、映画版のAKIRAを観て、マリオパーティをして、ふた晩過ごした。晴華ちゃんの家はまだWiiが現役だった。晴華ちゃんは布団がないからと言って自分はソファーで寝て、あたしにベッドを譲ってくれた。
夜中、あたしがいつも病院でもらってる薬を飲んでたら、晴華ちゃんが話しかけた。
「デパス?」
「知ってるの?」
「昔ちょっとね。辛い?」
「ううん、今は大丈夫。でも寝る前に飲まないといろいろ考えちゃって」
「考えちゃうよね。それが普通さ。考え事なしに寝れるやつは幸せもんよ」
「晴華ちゃん」
「なんだね」
「あたし、ずっとここにいちゃダメかな」
カーテンの空いた窓から中途半端に欠けた月が見えていた。晴華ちゃんはふわ〜っと欠伸をする。
「そりゃ〜私も君みたいな妹がいたら、人生楽しいかもね。でも私の収入じゃ中学生の娘は養えないよ。自分の生活だけで精一杯さ。そんで、君の両親に出るとこ出られたら私は未成年誘拐の罪で逮捕だ」
「パパとママはそんなことしないよ」
「メグミは?」
「メグミは……メグミが何を考えてるのか誰もわからないから」
滞在中、晴華ちゃんにはメグミの話もした。
晴華ちゃんは、時間を確認するためか、スマホの画面を一瞬だけ点けて、それから消した。その一瞬であたしは、晴華ちゃんの左手首に赤紫の切り傷の跡があることに気づいた。昼間は見えなかったから、もしかしたら化粧で隠してるのかもしれない。
「寝よ寝よ、明日は早いんだから。ずっとここには置いとけないけど、たまに遊ぶ友達くらいにはなってあげる」
「明日……楽しみ」
「ひよ莉が楽しみなのが、私も楽しみさ」
翌朝、6時に目が覚めたあたしは「7時半に家を出る」と言っていた晴華ちゃんを叩き起こして準備した。昨夜のマクドナルドのテイクアウトのゴミを片付けて、ほとんど食材のない冷蔵庫の中身をかき集めて中華風スープを作ったら、晴華ちゃんは感激して食べてくれた。
「今日は遊んだらまっすぐお家に帰りんさいよ」
「うん。でも何かあったら連絡してもいい?」
「安心しな、ディズニーランドは安全さ。信じろ!でも、うん。いいよ」
舞浜駅の改札を出て、1階への階段を降りた。晴華ちゃんはあたしにハグをして、背中を叩いて手を振った。彼女はオリエンタルランド本社へと向かう。あたしときたら、本番はこれからなのに、なんかちょっともう、泣きそうだった。舞浜駅のコインロッカーに荷物を預けて、ひとり東京ディズニーランドへ向かった。
どれに乗るべきか、あたしには何もわからなかった。それでもディズニー映画はそれなりに観ていたつもりだから、ひとまずモンスターズ・インクのアトラクションに乗った。そもそも、建物が映画に出てきたモンスターズ・インクの社屋だし、建物の中の待つところも映画の世界観を再現していた。アトラクション自体は、映画のその後の時間で、楽しいかくれんぼ遊びをモチーフにしたアトラクションだった。映画で見たモンスターの世界に入り込んで、会社だけでなく街に飛び出したり、映画に出てきたモンスターの寿司レストランが登場したり、映画のモンスターズ・インクが好きなあたしは、このアトラクションを楽しんだ。
じゃあ今日は、ディズニー映画のアトラクションを中心に回ろうと決めて、次はスティッチ・エンカウンターというアトラクションに行ったけど、スティッチとおしゃべりしたい小さな子が手を挙げてスティッチに質問するアトラクションで、あたしは当てられないように隅の方で縮こまるだけで終わってしまった。バズ・ライトイヤーのアトラクションはシューティングで、映画を知らなくても楽しめそうだったけど、設定的には「トイ・ストーリー」のバズ・ライトイヤーじゃなくて、劇中のおもちゃの原作の方だった。
バズ・ライトイヤーの建物を出たら、見覚えのある、アフロヘアーに黒い肌の男の人が歩いていて、思わず声をかけた。
「先生、男バスの先生」
「えっ」
あたしの通う中学校に、夕方よくいる人だった。何の先生かは知らないけど、男子バスケ部を担当していることだけ知っていた。反応を見るに、先生はあたしの事を知らないのかもしれない。確かに、挨拶くらいしかしたことがなかった。
「開秀中学3年C組の高橋です。バドミントン部」
「ああ、びっくりした。おれ、先生じゃないんだ。コーチで行ってるだけで」
「あ、そうなんですか。知らなかった」
「3年生ってことは、英語の先生はノア?」
「あ、はい。ALTはミスター・レヴィットです」
「ははは、ミスター・レヴィットか。おれ、そいつと同じクラブチームでバスケしてて、開秀のコーチも紹介してもらったんだ」
「男バス、今日はお休みなんですね」
あたしはチラッと隣にいるきれいでセクシーなお姉さんを見た。お姉さんはニコッとして手を振るので、あたしはぺこりとお辞儀をした。
「いや、おれが休みもらっただけだよ。バド部は?」
「う〜ん、バド部は結構自由参加っていうか、概念っていうか。あたしも、幽霊部員なんで」
「何この子、面白い」
お姉さんがははは、と笑って言った。あたしは褒められたのか、からかわれたのかはわからなかったけど、とりあえずえへへ、と照れておいた。
「ひとりで来てるの?」
「はい。なんか面白いアトラクションありました?私、初めてで」
連れのお姉さんはなんだか話が合いそうだなと思って何気なく聞いてみたんだけど、びっくりした顔で逆に質問してきた。
「え、本当に一人?一人で来る人、いるんだね。でも中学生でしょ?大丈夫?」
「え、多分大丈夫だと思うんですけど」
私はきょろきょろと周りを見回してみる。一昨日のタピオカ頭みたいな、危なそうな奴は別にいないし。なんか、思わぬところを突っ込まれて、あたしも戸惑ってしまった。もしかして、世の人はひとりでディズニーランドに行くことはないのだろうか。っていうか、質問に答えてほしいな。
「ふーん。友達とかと来ようとは思わなかったの?」
「……芹那ちゃん」
「思わなかったですけど」
芹那と呼ばれた女性が何を考えてるのか、あたしにはわからなかった。男バスの先生はちょっと心配そうな顔であたしをちらっと見て、一瞬だけ目を閉じた。
「お、おれも実は高校生の頃、ひとりでディズニーランド行ったことあるよ」
「え、龍之介くん、うそ!」
「え、先生、龍之介って名前なんですか」
芹那さんは先生がひとりでディズニーランドに行っていたことにびっくりしてたけど、あたしは先生が日本の名前であることにびっくりしていた。
「おれ、いじめられてたし、友達少なかったし。思春期はいろいろあるんだよ、いいだろ」
「……そっか、ごめん」
「ひとりでディズニーランドに来ることは、変なことじゃないよ」
あたしはこのタイミングでやっと、「ひとりでディズニーランドに来ること」がやっぱり世間的には「変なこと」だと思われているんだなと確信した。
「別に変だと思ってないから、大丈夫です」
あたしは、大真面目にきっぱりと言って、ぺこっと頭を下げてその場を去ることにした。先生に気を遣わせるのも、芹那さんにからかわれるのも面倒だと思った。先生は、ひとりでディズニーランドに来ることは、変だと思われると知っていながら、ひとりで来ていたんだろうか。それってなんか、すごく悲しいことだな。あたしは、世間がどう思ってようと、あたしが変じゃないと思っていたらいいということにした。結局、おすすめのアトラクションは聞きそびれた。
ファンタジーランドは、ディズニー・アニメーションの世界を舞台にしたアトラクションがたくさんあって、初めてディズニーランドに来た私でも、イメージがつきやすいものが多かった。プーさんのアトラクションに乗りたかったけど、ちょっと混み合っていたので後回しにして、ピノキオの冒険旅行、ミッキーのフィルハーマジック、白雪姫と七人の小びと、ピーター・パン空の旅の順番で乗った。ミッキーのフィルハーマジックだけは映画みたいな感じで、1回でいろんなアニメの話が見れてなんだかお得で、ドナルドが可愛かった。ピノキオ、白雪姫、ピーター・パンはどれも映画の物語をなぞったアトラクションだったけど、ピノキオと白雪姫がなんだかすごく古くて、それで怖いな、という印象。ピーター・パンはキラキラしててよかった。ピーター・パンを出て、メリーゴーランドと、ダンボがいっぱい空を飛んでるアトラクションを横目に歩く。っていうかダンボって、こんなにいっぱいいたっけ。
歩いていたら、すごくかわいい、ふしぎの国のアリスのレストランを見つけて、そこに入った。店内もすごくかわいくて、映画の中のふしぎの国に迷い込んだみたいな気分になれた。チーズがハート形に切り取られた、チーズハンバーグのプレートに、パンとアップルティーソーダをつけた。アンバースデーケーキっていう、映画の中で3月うさぎと、いかれ帽子屋が「誕生日じゃない日」をお祝いするケーキが売ってて、なんと偶然、あたしも今日は「誕生日じゃない日」だったから、すごく食べたかったけど、やっぱりちょっとサイズが大きくて断念した。料理を注文したあと、アリスのキャラクターが描かれた、大きなステンドグラスが見える席に座って、スマホで写真を撮ってみた。かわいいな。それだけで嬉しい。
席について、ごはんを食べていたら、ママからメッセージが来ていた。
『今日はどこにいるの?』
ママからのメッセージに既読だけつけて、無視することにした。謝ってこないということは、メグミから話を聞いていないんだろうか。あたしはご飯を食べ終えて、ちょっとぼーっとした後にレストランを出て、ホーンテッド・マンションというお化け屋敷みたいなアトラクションに乗った。その後、プーさんのハニー・ハントに向かった。入り口付近で、ハチの柄がいっぱいのシャツに緑のパンツを履いた晴華ちゃんが、ゲストをベビーカー置き場に案内しているのが見えて、駆け寄った。
「晴華ちゃん」
「ひよ莉!どう、楽しんでる?」
「今のところ、アリスのレストランが優勝」
「あれは優勝するわ。あとね、我が家も最強だから、乗ってみ」
晴華ちゃんは振り返って、背後の木々から頭だけ覗かせた、巨大な本を指差す。あたしは頷いて晴華ちゃんに手を振って、アトラクションの奥へと進んでいった。
プーさんのハニー・ハントは今までの映画のストーリーを体験するアトラクションの中でも、格段にクオリティが高くて、ぬいぐるみのプーさんがすごくかわいくて、思わず拍手してしまったくらい、とても楽しかった。乗る前に親切なお兄さんが前の席を譲ってくれて、それも嬉しかった。
気づいたら、ディズニーランドを半周して戻って来ていた。宇宙人のピザ屋さんの近くにあるトイレでちょっと一息ついて、個室を出たら隣の個室からうめき声が聞こえた。その直後に顔色が悪そうな制服の女の人が個室から飛び出して来て、手洗い場に両腕をついて、はぁとため息をつく。
「……っいたたたたた」
「えっ、大丈夫ですか?」
女の人が手洗い場の下にうずくまったので、手を洗いながらびっくりしてしまい、話しかけた。
「……っ、ありがと。女の子の日、来ちゃって」
「うわ、つらみですね。あたし、ロキソニン持ってますよ。要ります?」
「ええの?」
「困った時はお互い様だから」
「ホンマありがとう」
私はピルケースからロキソニンを2錠用意して、お姉さんに渡した。お姉さんはペットボトルで水を含んでロキソニンを流し込む。
「関西の人ですか?」
「大阪から来たよ」
「イントネーション違うと思った」
「なんかお礼したいんやけど……あ」
お姉さんはカバンをゴソゴソして一枚の紙を取り出した。紙にはポップコーン引換券と書いてある。
「ポップコーンバケツ買った時にもらったやつ、いる?」
「え、まじほしいです。ポップコーン食べたい」
「はい、どうぞ……いてて、また来た。ロキソニンありがとうな」
「おおきに〜」
「ははは、それ、若い子はあんま使わんで……っててて」
お姉さんはそう言って、またトイレの個室に戻った。あたしはロキソニン2錠とポップコーン引換券を物々交換して、わらしべ長者になった気分だった。どの味がいいかな、と考えながら歩いてたら甘い匂いがして、トゥモローランドにミルクチョコレート味というのがあったので、そこで交換して食べた。ポップコーンのレジのお姉さんがあたしに話しかけてくれる。
「今日は誰かキャラクターに会えました?」
「会えてないですねー」
あたしはポップコーンをつまみながら答える。甘くてしっとりとした感触が舌の上に転がった。
「ミッキーに会いたいな」
「ミッキーなら、エントランスか、トゥーンタウンで会えるかもしれませんね」
「へぇ、トゥーンタウン……」
「はい。トゥーンタウンにはミッキーたちのお家があるんです」
「え、ミッキーって本当にディズニーランドに住んでるんですか」
レジのお姉さんはあたしの言葉にちょっとだけ驚いた顔をして、そのあと笑顔で答えてくれた。
「はい。ミッキーもそうですし、ミニーたちも、トゥーンタウンにある自分たちの家に住んでるんですよ」
「お姉さんは?」
「……私?私たちキャストは……、お仕事を終えたらそれぞれのお家に帰ります」
「そうなんだ。ミッキーになったらディズニーランドに住めますね」
「ミッキーにな……そ、そうですね」
「ミッキーになりたいな」
お姉さんはあたしの言葉に少し動揺していた。そんなつもりはなかったのだけど、動揺させてしまったことをちょっと反省して、あたしは頭を下げてその場を離れた。残り少なくなったポップコーンをガサガサと口の中に流し込み、ゴミ箱にポップコーンの箱を捨てる。
そのままトゥモローランドを歩いていたら、ベンチで立ち上がろうとして、荷物を落としてしまった女の人がいた。腕には赤ちゃんを抱っこしていて、肩から大きな荷物を背負っていたけど、チャックが閉まっていなくて、中身が飛び出てしまったみたいだった。あたしは駆け寄って声をかけ、落ちた荷物を拾って手渡した。
「もう落ちてないですかね」
「うん、拾ってくれてありがとう」
女の人はすごく綺麗で、あたしが言うなって感じだと思うけど、あどけない感じの、かわいい女の人だった。でも、目のクマがすごくて、きっとすごく疲れてるんだなと思った。
「今日は誰かと来たの?」
「あ、ひとりで……」
言いかけて、さっきの芹那さんと先生との会話を思い出した。また、変だと思われるかな。気にしないって思ってたのに、気にしちゃった。
「よく一人で来るの?何歳?」
「えっと、初めて来ました。ひとりで初めて来たんじゃなくて、本当に初めて……あ、えっと、14歳です」
女の人と少しだけ話をした。赤ちゃんは男の子で、遼くんという名前だった。遼くんは1歳でまだ喋れなくて、あうあう言いながら眠たそうにしていた。あたしにもこんな時期があったのかな、と思ったらちょっとだけママが恋しくなった。ママも、若い頃はこの人みたいに頑張っていたのだろうか。
「すごい、荷物いっぱいでしたね。赤ちゃん連れてお出かけって大変なんだ。おむつとかおやつとか、いっぱい入ってた。かばん、重くないですか?」
あたしが遼くんから女の人に目線を戻すと、女の人が泣いていて、びっくりした。
「えっ、うわ、大丈夫ですか?」
「うん、びっくりさせてごめんね」
女の人はハンカチで涙を拭って、泣きながら笑った。あたしの言葉が、この人の涙腺に刺さったのかな。それってなんだったのかな。あたしはそんなことを考えながら、目を赤くしている女の人をまじまじと見つめてしまった。
女の人の名前は美鈴さんと言った。あたしは、もうちょっと美鈴さんと一緒にいたくて、昨日晴華ちゃんに教えてもらっていた、アドベンチャーランドにあるスティッチのアトラクションに一緒に行った。ハワイの鳥たちが歌うアトラクションで、スティッチの映画で流れる「ハワイアン・ローラーコースター・ライド」もアレンジされて流れていた。途中で、遼くんはどんな風に見てるのかな、とちらっと横を見ていたら、きゃっきゃっと笑っていて、ちょっとだけ嬉しかった。アトラクションは可愛かったけど、やっぱりプーさんが優勝かなと思った。
アトラクションを終えて、建物の外に出たら、あたりはすっかり暗くなっていた。ひとつだけ、という約束だったし、あたしは美鈴さんに別れを告げた。
「楽しかったよ。美鈴さん、なんかママみたいだった。遼くんも元気でね。夫さんと、仲直りしてね」
なんかママみたいだった、そう言った瞬間、ちょっとうるっと来てしまって、目を逸らしてあたしは美鈴さんの方を振り返ることなくウエスタンランドの方へ駆け出した。
「危ないので走らないでくださーい」
人が、昼間よりたくさんいた。なんでだろうと思っていたら、これからパレードがやってくるらしくて、それを観たい人たちが集まって座り込んでいるらしかった。あたしはどこに行くのかも決めていないけど、この人だかりには何となく居たくなくて、ゲストとゲストの間に作られた動線をすり抜けるように進んだ。気づいたら、射的場と、ビッグサンダー・マウンテンの入口があって、行き止まりだった。
ブルブルッと、スマホが振動する。またママからのメッセージだった。
『学校をサボったくせに
2日も帰ってこないで
今いったいどこにいるの?
まだ遊んでるの?
誰がご飯を作るの?
誰が掃除・洗濯をするの?
早く帰って来なさい
私を餓え死にさせる気?
早く
帰ってこい
帰ってこい
帰ってこい
でないと』
違う。
このメッセージはママじゃなかった。
メグミからだ。『でないと』の先に続く言葉に、私は背筋がゾクッとした。今日は帰ったら、家にメグミがいる。
後ろを振り返ったら、パレードがもう、すぐそこまできていた。正面はビッグサンダー・マウンテン、右手にはウッドクラフトのお店、左手にはカレー屋さんがいい匂いを漂わせている。どこか、抜け道があるんだろうか。なんだか四方を囲まれて、どこにも行けないような気がしてしまって、あたしは少しパニックになった。息が上がって、気持ち悪さが胸のところまで上がってくる。唾液が口の中でたくさん出てるのがわかる。喉が渇いた。膝に力が入らなくて、ガクッと落ち込みそうになって、慌てて踏ん張ったけど、結局両手をついて地面に突っ伏してしまった。
「だっ、大丈夫?」
男の人に声をかけられた。薄めで目を開けると、すごく人の良さそうなイケメンがいた。
「……座れば、なんとか」
「そこ、ベンチあるよ!」
男の人は声をかけるものの、ベビーカーと荷物で両手がふさがっていて、私の体を支えてはくれなかった。支えられてもちょっと困るような気はするけど、本当にしんどかったから、誰でもいいから支えて欲しかった。
よろよろとベンチにたどり着いて座り込んだら、男の人はその横にベビーカーを置いて言った。
「お水買ってくるね!ちょっとベビーカー見てて!」
男の人は上ずった声で私に言って、走り出す。数分で戻ってきてペットボトルの水を渡してくれた。
「……ごめんなさい」
「いや!いいんだよ、大丈夫?」
「……違う、蓋開けてほしい……力入らなくて」
「あああ!!ごめんごめ……うわ!」
開けた勢いで、男の人はペットボトルの蓋を落とした。ペットボトルの方を私に握らせて、落とした蓋を地面を這いつくばって探していた。もう、可哀想だから全部飲み干してあげようと思った。私はピルケースに入れていたデパスを口に放り込んで、水で流し込んだ。
「お兄さん、ありがとうございます」
「え?いいんだよ、大丈夫?……っていうかおれ、急いでるんだった!!」
「……あ、足を止めちゃってごめんなさい」
「いやいや!ウエスタンリバー鉄道に行きたかったんだけど、曲がるところを一本間違えて、アドベンチャーランドに行けなくて。パレードも始まっちゃって動けないし……だいたいここのエリアは暗すぎるよ!!」
男の人はなんだか一人で喚いていて、この人もパニックになってるなと思った。ウッドクラフトのお店の後ろの高架を、赤い蒸気機関車が音を立てて通り過ぎる。慌てふためいてる男の人を眺めていたら、逆に私の気持ちは大分落ち着いてきて、頭を抱えている男の人の服の袖を引っ張って言った。
「ありがとうございました。あたし、もう歩けます。一緒に行きましょうか、ウエスタンリバー鉄道」
「え!いいの?道、わかる?僕ガイドブックめちゃくちゃ読み込んだのに迷っちゃって」
「あたしは初めて来たし、マップ見ずにテキトーに歩いてる」
「大丈夫かなぁ、それ……歩き回っても倒れたりしない?」
「ベビーカーって何キロまで乗れますか?」
「って、おれが押すの?それ」
あたしは荷物が山盛りに乗ったベビーカーをつんとつついて言った。
「冗談です。お兄さん、名前は?」
「え?いいよ、おれの名前なんて。君からしたらおじさんだよ」
「ううん、人はみんな名前を持ってるはずだし、呼ばれたいと思ってるんだ」
ウエスタンリバー鉄道は、さっきの魅惑のチキルームのすぐ隣にあった。鉄道だけど駅は一ヶ所しかなくて、パークを半周してまた同じ駅に戻って来るらしい。男の人の名前は啓太さんと言った。啓太さんは入り口近くの植木のところにベビーカーを停めて、そわそわとしていた。
しばらくすると駅から、赤ん坊を抱えた女の人が出て来て、啓太さんが駆け寄った。
「美鈴ちゃん!!本当にごめん!!おれ、遼を危ない目に……」
「啓太くん、ここは夢の国だよ。大騒ぎせずに黙ろうか」
美鈴さんと遼くんだった。美鈴さんは啓太さんの口に人差し指を押し付けて黙らせた。あたしは、こんな偶然ってあるんだなと思いながら3人のやり取りを眺めていた。
「あれ?ひよ莉ちゃん?」
「え!美鈴ちゃんの知り合い?」
「あたしもびっくりです。でも、啓太さん見てたら、喧嘩したの絶対啓太さんのせいだなって確信しました」
あたしはニヤッと笑った。美鈴さんもあはは、と笑う。
「私たちは帰ろうと思うけど、ひよ莉ちゃんはどうするの?」
「うーん、帰るつもりはあったんだけど。状況が悪化して」
「大丈夫?」
「あの、メグミ……お母さんが怒ってて、あたしは悪くないと思ってるんだけど」
美鈴さんはちょっと困ったような、心配そうな顔をした。
「ひよ莉ちゃん、私、すごく都合のいいこと言うね。ちゃんと帰って、悔しいと思うけど、自分を曲げても謝って、許してもらったほうがいい。あなたは未成年で、お母さんは保護者なんだから。守ってくれる人のそばに……」
「……メグミは守ってなんかくれないよ」
あたしは、美鈴さんの言葉を聞いて、ショックを受けていた。自分は啓太さんのことを「私は悪くない」って突っぱねていたのに。
「メグミは、あたしのことを都合のいい家政婦かなんかだと思ってる。ご飯をつくれ、掃除をしろ、洗濯をしろ……それをこなしたって、不満で、満足しなくて、言いがかりをつけてくるんだよ。一昨日も、あたしが焼いた鮭の塩焼き、味付けが濃すぎるってあたしに投げつけて……」
言いながら、ぽろぽろと涙が溢れて来た。啓太さんがなんだか居心地の悪そうな顔をした。
「お父さんは?それを何も言わないの?」
「……パパは、美味しいって食べてくれる。いつもありがとう、って。でも仕事で忙しいから、メグミのことは知ってるけど、無視してる。ママも、たまに帰って来るけど、ママは優しくて、あたしにごめんねって……」
美鈴さんも啓太さんも、困惑した表情で顔を見合わせた。ベビーカーに座らされた遼くんの、う〜んという呻き声が聞こえる。
「ちょ、ちょっと待って、メグミさんと、ママは、別の人?」
啓太さんが聞く。あたしは、何を口にすべきかを迷った。
「……複雑なんです」
「話したくない?」
「それもある……けど」
あたしは深呼吸をして、潤んだ目で美鈴さんと啓太さんを見た。
「ママ……うちの母は、あの、解離性同一症です」
啓太さんがびっくりした表情で口を開けた。美鈴さんは、それが何かよくわかっていないみたいだった。
「つまり……、多重人格です。ママの名前はみゆき、ママのもう一つの、荒れた性格が、メグミです」
突拍子も無い話だと思う。理解し難い話だと思う。だからこそ、人に話をするのは憚られる。世の中には、複数の人格を持ちながらも、人格同士がきちんと対話して、共存して、普通の生活をしている人もいる。私の話は、偏見を産んでしまうかもしれない。でも、少なくともあたしのママは、メグミは、そうじゃない。
「……そんなことって」
「信じられないですよね。メグミは23歳で。"メグミ"にしたら私はママの……"みゆき"の子供だから、他人なんです。メグミは嫌いだけど、ママは好きだから、支えたいんです。でもメグミは」
「お父さんは……」
「パパも嫌いじゃないけど……。何かあった時はって、スマホも、お金もくれてるし。あんまり顔合わせなくていいように、都内の私立に入れてくれたし。通学は面倒臭いんだけど。でも、さっき言った通り、メグミの存在は無視してます。あたしが怒鳴られてても、殴られてても知らないふり」
「殴られてる?」
啓太さんが驚いて言った。あたしは、もう涙が出なかった。目をこすって、いつもどおりヘラっと、口だけで笑った。美鈴さんが駆け寄って、あたしを抱きしめる。
「帰らなくていい」
「そうかな」
「ごめん、ごめんね……帰らなくていい」
美鈴さんは長いことあたしを抱きしめた。抱きしめる力はとても弱くて、細くてか弱い体なんだなと思った。去年、ママに抱きしめられた時のことを思い出す。メグミじゃなくて、みゆきに。あの時もママは、ごめんね、と繰り返していた。
あたしはディズニーランドの中をうろうろと歩きながら、美鈴さん、啓太さん、遼くんらと、今後のことを話し合った。ゲストはだんだんと減っていて、特に絶叫系のアトラクションのないファンタジーランドは人もまばらだった。
「あたし、どうしたらいいかな」
「お父さん、お母さん以外に知り合いは?」
「千葉にはいない、どこに住んでるかはあんまりわかんない」
「昨日一昨日に泊めてくれた人は?」
「晴華ちゃんは、ただの友達。フリーターだから、ずっとは置いとけないって」
「そもそも、親戚でもなかったら、警察沙汰になるとマズイかも」
「逆に、こっちから警察に電話するべきじゃ?どこかに保護してもらって……」
啓太さんが言った。私はびくっとして、足を止めて、啓太さんの顔を見るけど、美鈴さんもその意見に同調しているようだった。
「警察は……」
「ごめんね、お父さん好きなのはわかるけど、……でも、殴られてるのを無視してるっていうのは、正直……虐待の黙認で、保護者失格だと思う」
「……そ、そうですよね」
大好きだった、パパとママを見捨てる。家に帰りたいわけじゃない。でも、パパとママはあたしの両親で、家族。ふたりが警察に連れていかれるのは、それはちょっと、あたしにとっては話が違う。そりゃあ、一緒に暮らしていても、メグミが全てをぶち壊してしまっていて、あたしの家族は、もう取り返しのつかない事態なのかもしれない、でも。
「あたしじゃ決められないよ」
あたしが弱音を吐いたら、美鈴さんがあたしに目線を合わせて、肩を掴んで言った。
「ごめんね。ひよ莉ちゃんがSOS出せないなら、あたしたちが警察に相談する。それが、ひよ莉ちゃんに相談されたあたしたちの、大人の責任だから。あなたは虐待されてる。……もちろんお母さんも……わからないけど、適正な場所で……治療?されて、穏やかになって帰って来たら、普通に暮らせるはず。お父さんも、お母さんが怖いだけ。でも今はきっと、我慢しないといけない時。だから……」
治療。治療で、メグミの人格は消えるのだろうか。そんな治療法が確立されているとでも思っているのだろうか。というか、ママが治療を受けたことがないとでも思ってるのだろうか。美鈴さんに、何かを言い返したい気持ちになるけど、無意味なんだろうな、とあたしは思った。あたしと美鈴さんは、15近く歳が離れているけど、この件に関しては、あたしの方が経験値が上で。だからと言って、あたしを心配してくれている美鈴さんに、何か文句を言うのも、申し訳ないし、変だという気持ちになった。でも、美鈴さんに勝手なことを言われ続けるのも、すごく癪だ。
なら、もう。あたしができることは限られている。
あたしは、ニコッと微笑んでみた。いつもは絶対しない笑い方。小学校の卒業アルバムの写真撮影の時、笑って、と言われた時にした笑い方。心のこもっていない、嘘の笑い方。美鈴さんが、私の笑顔を見て、何か悟ったように、話すのをやめた。
「ちょっとだけ考えてもいいかな。ちょっとだけ、ひとりにさせてほしい」
「ひよ莉ちゃん、ひとりはダメ……」
「ひとりでディズニーランドに行くことは、何にもおかしなことじゃない。あたしはおかしくない」
「そうじゃないの、ひよ莉ちゃん」
「美鈴さん、ごめん。どうしたらいいか、考えるね」
「ひよ莉ちゃん!」
「美鈴さん、今日会ったばっかりだけど、大好きだったよ」
「待って!!」
あたしは、走ってその場から逃げた。
あたし自身、どうしたいかなんて、わからなかった。正解は、どれだろう。あたしは、何をしたいんだろう。どうするのが正しいんだろう。ママが好き。パパが好き。美鈴さんも好き。遼くんも好き。啓太さんのことはあんまり知らない。晴華ちゃんが大好き。ママが怖い。パパが憎い。メグミが怖い。ママと離れたくない。パパとも、離れたくない。もう一度、仲良しの三人で、怖いものなしで暮らしたい。でも今は、怖い。
「おおかみなんかー、こわくないー!こわくないったら、こわくないー!」
BGMで「オオカミなんかこわくない」が流れていて、周りの目も憚らず、無心で口ずさんでみた。幸いにも周りには大して人はいなくて、みんなあたしをチラッと見てすぐに目を逸らした。あたしは、いつの間にか、トゥーンタウンに迷い込んでいて、顔を上げてとぼとぼと歩いていたら、目の前に赤い屋根の黄色い家が現れた。
「ミッキーのお家の裏にある撮影小屋で、映画撮影中のミッキーとご挨拶できますよ!ただいまの時間、抽選なしでご案内しています!」
トゥーンタウンにあるという、噂のミッキーの家がこれか。キャストが案内している声が聞こえる。
「ミッキーに会えるんですか?」
「はい、ミッキーが、忙しい撮影の合間をぬって、皆さんに会いに来てくれるんです!」
「え、すごい、スターなのに」
「はい!庶民的で誰にでも優しいスーパースターです!」
「すごい、さすがミッキー」
あたしはぼーっとした頭で訳もわからず呟いて、誰も並んでいない待ち列の入り口に足を進めた。ぐるっと庭を歩いてから、世界的スーパースターのお家に入る。
「おじゃまします」
アニメのキャラクターの、日常生活がそこにあった。トゥーンタウンの情報を伝えるラジオ、思い出の写真、読みかけの新聞。ちょっと硬そうで座り心地の良くなさそうなソファ。ガタガタと揺れる洗濯機。所々に残された手書きのメモ。
歩いていると、建物の中なのに、裏庭があって、今は夜なのに昼間の明るさだった。プルートの犬小屋があって、ミッキーは庭で家庭菜園もしているっぽかった。ミッキーが育てているニンジンは、ビーバーみたいな動物、ジリスというのだろうか、よくわからない動物に時々盗まれていた。
畑の右手には、赤色の小屋があって、白文字でMickey's Movie Barnと書かれていた。緑の看板が、この先でミッキー・マウスが映画の撮影をしている事を示している。
古屋の中には、これまでミッキーが登場した、さまざまな映画の衣装や小道具が無造作に置かれていた。色塗り作業中の背景書割りや、ニワトリたちまでいた。そこを抜けると、部屋が暗くなっていて、ミッキーの短編の紹介映像と、グーフィーとドナルドのドタバタが見れた。あたしはその映像を見ながら、ぼーっと考え事をして、次の部屋に案内されるのを待った。
家出して、ディズニーランドに来て、結局帰るところがなくなった。ピーターパンの映画では、迷子はピーターパンが隠れ家に住ませてくれるけど、そもそもディズニーランドからネバーランドへはどうやって行けるのだろう。ディズニーランドでは、迷子になると臓器売買に出されてしまうとか、イッツ・ア・スモールワールドの人形にされてしまうとか、そんな都市伝説も聞いたことがある。あと、ジャングル・クルーズの船長になるために育てられるとか。でも、それはそれで、悪くないかもなぁ、なんて。
ポップコーン屋さんのレジのお姉さんと話したように、ミッキー・マウスになれば、トゥーンタウンの住人になれば、ディズニーランドに住むことができるかも。ミッキーにお願いしてみようかな。あたしをトゥーンタウンに住まわせてください、って。
そんなの、全部妄想だってわかってる。もう中学二年生だ。それくらいの分別はつくよ。
この王国は作り物で、ミッキー・マウスには「中の人」がいて、中の人もまた、ポップコーンのレジのお姉さんたちみたいに、どうせ仕事を終えたら家に帰るんだ。晴華ちゃんみたいに我孫子とか、船橋とか、新浦安のアパートやマンションに。いま東京ディズニーランドにいる人たちの中で、帰る家がないのは、きっと私だけ。
暗い部屋の扉が開いて、フィルムとポスターだらけの小部屋に通される。もうあたしの後ろには誰も並んでいなくて、小部屋に通されたのもあたしだけだった。部屋にあるもう一つの扉の前で、キャストが喋り出した。
「この扉の向こうに、今まさにミッキーが映画を撮影中です!撮影の休憩時間に、お客様にご挨拶してくれますよ!いまの時間帯、お客様で独り占めですね!ご案内まで、カメラの準備をしてお待ちください!」
あたしは、少しだけ息を飲んだ。扉の上の、「HOT SET」というサインが点滅している。1と書かれた星マークと、ミッキーの昔の映画のポスターが貼られた扉を見つめる。幻想だ。作り物だ。架空のもので、設定で、演技だ。
でも、どうだろう。もし本当に、ミッキー・マウスがいたら。
今日一日、いろんなアトラクションに乗って、楽しんだ思い出と同じように、本物だったら。悔しくて悲しかった思い出みたいにリアルだったら。本当の夢と魔法の王国だったら。
あたしが、ミッキー・マウスになれたなら。
住めるかな、東京ディズニーランドに。
どうか、夢を見せて。
この、しんどくて、わけがわからない、現実の世界に。
キャストの案内とともに、扉が向かって奥側へと開いた。
あたしは、この世界が夢か現実か確かめるべく、扉の向こうへと一歩踏み出した。
第10話「ミッキー・マウスをよろしく」おわり
Chapter 10 - Meet Mickey Mouse
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次回予告
エピローグ「迷子たちは花火を夢の国で見たかった」