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世界を旅するDオタの旅行記/映画レビューブログ

ディズニー映画『ウィッシュ』目的と手段が逆転すると、いい結果は生まれない。

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ウォルト・ディズニー・カンパニー100周年記念作品であり、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の第62作目『ウィッシュ』

私はDオタであり映画感想ブロガーであるからして、この作品の感想を書かねばならない。

このブログがいかに形骸化していようとだ。

 

もやはブログに向き合う時間などほぼほぼ皆無というか、オタ活すらまともにできていないくらい、ある意味で人生は充実?してはいるんだけど、

どうでもいい作品なら書かない、けどこれは僕が書かなきゃいけないと思った作品なので、今更ながら書くのである(紀貫之構文)

 

 

『ウィッシュ』、多分だけどタイトルから逆算して作られた映画だと思う。

 

目次

 

ディズニーが育てる「願い」の映画

ディズニーの別スタジオ、ピクサー作品は「もしも〜だったら?」という空想から世界観やキャラクターを作り上げ、物語を広げていって映画を作るというのは有名な話だ。(もっとも、最近の作品はそんな感じで作られてないような気もするけど)

 

今回特に製作陣のインタビュー等はまだチェックしていないのだけど、

前述の通り、多分この作品は『ウィッシュ』というタイトルがスタート地点にあり、そこからどういう話を作ることができるかを模索した作品なのではないかと推測する。

 

というのも、ご存知「願い(WISH)」は、「真実の愛(True Love)」と並んで、これまでウォルトディズニー社が育て上げてきた重要なテーマである。100周年のこの節目に、この壮大なテーマを改めて掲げようと、肩に力が入るのも理解できる。

 

ウォルト・ディズニー・アニメーションスタジオ(以下「WDAS」と表記)作品第1作目にあたる『白雪姫』は(それを意識したかどうかは別として)まさに「願い」と「真実の愛」の2本柱で製作された作品である。白雪姫の冒頭には願いの井戸のシーンが存在し、白雪姫が小人たちの小屋で歌う「いつか王子様が(Someday My Prince Will Come)」はその後のディズニー作品の定番となる「ウィッシュソング」の金字塔でもある。

またWDAS作品2作目である『ピノキオ』はテーマそのものに「願い」を持ってくる。映画はジミニークリケットの歌う「星に願いを(When You Wish Upon A Star)」から始まり、願いを持ち続けることの大切さ、願いに向き合い努力し変化することの大切さを語る映画である。

ディズニー作品のほとんどは「願い」が主人公の行動原理となり、多くのキャラクターが「願い」を積み重ねてきた。

 

だが同時に、『ピノキオ』で確立した「星に願いを」のイメージから、「ディズニー映画は星に願うだけで夢が叶う」という間違った認識が強く根付いていたのも確かである。

実はディズニーはそのイメージを払拭すべく、すでに「願い」をテーマにした作品を制作している。

一つ目は『プリンセスと魔法のキス』である。

この作品は「黒人初のプリンセス」という表面的なテーマばかりが注目されるが、それ以上に「夢は願うだけでは叶わない」というテーマをディズニーにもたらしている。

これまでのディズニー作品だって、本当に願うだけで何もせず成功を手に入れた主人公はいないのだが、それを暗にせず言葉ではっきりと「夢を叶えるのは努力が大事」と宣言する。一方で、愛と友情、家族の絆など、努力をサポートし、見守ってくれる存在の重要さも説く、新しいディズニーの価値観とディズニーらしさがミックスされた作品となっている。

 

また、『ズートピア』についても触れたい。

この作品は主人公ジュディが「誰だでも何にでもなれる」理想の街ズートピアで、現実に直面し葛藤していく様を描く。

この作品は願いをテーマにした作品ではない。だが、ジュディは「ズートピアに行けば自分の夢が叶う」そして「ズートピアの人々は夢を叶えた存在」であると信じて上京し、見事に現実にその夢を砕かれる、「夢の先」での葛藤を描いた作品である。

 

「信じれば夢が叶う」「理想を追いかければ実現する」と常に言い続けてきたディズニーが、ここまであからさまにぶつける現実の恐ろしさ。

ふわふわとした動物たちの可愛いドタバタ劇が、実は差別と偏見、そして陰謀という絶妙にシリアスなテーマを孕んだルージュ・ノワールであることに加え、「夢は叶わない」というディズニー的タブーを突きつけていく。それでも、「綺麗事でも、一歩づつでも、理想の世界を作っていこう」と背中を押されるようなこの作品は、ディズニー史に残る名作にふさわしい、とてもパワフルな作品である。

 

『星に願いを』を納得させる超理論

さて、『ウィッシュ』の話に戻る。

前述した2作品によって、ある種「願い」をテーマにした作品は、よりリアリティを持ってすでに描き直されている。

それでもディズニーは「星に願いを」を再定義したいし、せずにはいられなかった。だって100周年だから。よりでかいテーマを追いかける必要がある。

 

その結果、「星に願えば夢は叶う」をあまり明確に否定せず、原点回帰する方向に走ることになった。その陳腐な原点回帰を納得させるための絶妙な理屈が「私たち=星」理論である。

それぞれが「星(Star)」と同じように(というか「星」そのものなのだから)、願いを叶える力がある。

だからこそ、願いを叶えることを人任せにするのではなく、自分自身の力で叶えていくことが大事。

「私たち=星」理論によって、『星に願いを』は『私たちに願いを』になるし、『星に願いを』を否定せず、努力大切さも説きながら、現実の障壁も考慮に入れて割と完璧に論破することができる体制を整えられた。やったねディズニー!

 

ちなみにハイスクール・ミュージカルの某曲に日本語タイトルが似ているけど、ハイスクールミュージカルの方の原題は別にスターどうのこうの言ってないのでこれはオマージュとかではないのである。

 

そんなこんなで、この映画『ウィッシュ』の大きな柱となるテーマが固まっている。

「私たち=星」理論は、すごく大きな賭けに出たなという感じもするし、無茶苦茶すぎてすごく面白いのでいいのだけど、問題はこれをどうやって物語に組み込むか、だと思う。

正直、ストーリーや設定が大前提としてあって、このテーマが固まっていったのであれば、もっと面白い話になっていただろうと私は思う。

このテーマにするために、つぎはぎに設定を組み合わせていったら、致命的な矛盾はない代わりに、懲りすぎた設定を説明するのに時間をかけすぎて、キャラクターの描写が雑になってしまった印象がとても強いのである。

 

残念すぎるキャラクターたち

ディズニーキャラクターは、映画の中で大した役割を果たしていないとしても、時代を経て愛される存在となっていくことも十分にあるため、あくまでこの映画の中での評価ということにはなるが、私は今回の作品の主人公、アーシャにとりわけ魅力を感じなかった。

 

本作『ウィッシュ』は願いをテーマにしていながら、主人公のアーシャ自身の願いは「祖父の願いを叶える」ことにある。つまり極端に言えばアーシャ自身はどういう存在になりたいとか、どういう夢を叶えたいという理想を持ち得ていない。

利他的で、ヒーロー的で、実に素晴らしい存在だ。このキャプテン・アメリカみたいな、自己犠牲的かつ利他的な行動をとるというのは主人公的資質として、本来大いに歓迎されるべき要素だが、この作品においてはアーシャの魅力づけが大きく欠いていたように思う。

そもそも、アーシャの序盤の「祖父の願いを叶えてあげたい」という願いは、そもそも本作のテーマからズレており、だからこそ目的が「願いを国民に返す」に移り変わる。

 

誰かの夢を叶える、応援する存在、はディズニーでは魔法のおばあさん、つまりはフェアリーゴッドマザー的存在の立ち位置である。

『シンデレラ』のフェアリーゴッドマザー、『眠れる森の美女』のフローラ、フォーナ、メリーウェザー、『アラジン』のジーニーなど・・・。

だが『ウィッシュ』ではフェアリーゴッドマザー的存在が登場しないどころか、杖を持ったアーシャがオマージュ的にフェアリーゴッドマザーの格好で登場する。

ただのオマージュで、ただのジョークかもしれない。だが、アーシャが本質的には自身の夢を叶えるために行動していないということが、彼女のこの衣装に変な意味を与えてしまっているような気がする。

 

また、アーシャを取り巻く友人たちの存在も異様に気になった。

絶妙にキャラが立っていないのに必要以上に出しゃばってくる。しかも7人も。

というのも、この友人たち、ダリア、サイモン、ガーボ、サフィ、ハル、バジーマ、ダリオは、7人いなければならない事情があった。だって100周年だから。

気づいた人も多いと思うが、彼らはどう考えても『白雪姫』に登場する7人の小人のオマージュである。それぞれドク、スリーピー、グランピー、スニージー、ハッピー、バッシュフル、ドーピーだ。

変な話、哀れにも彼らは「7人いること」が最大の存在意義として作られたキャラクターであり、物語上の構成とかテンポとかを度外視して「100周年だから必要」だったのだろう。

ポリコレ的には「存在意義」とか「必要性」とか書くと本当に角が立つし、私はポリコレ歓迎派ではあるんだけど、せめて登場時間の多いキャラクターは魅力的であれよ、と思う。

 

そんなちょっと残念なキャラクターで繰り広げられる本作の中で、異様な存在感を放っていたのがヴィランのマグニフィコ王である。

 

マグニフィコ王の魅力と矛盾

ディズニー作品で最近多かった「いい人ひっかけ実はヴィランでした」のパターンと「この作品にヴィランはいないよ」のパターンのどちらでもない、久々に真っ向からヴィラン然として登場するのがこのマグニフィコ王である。

 

美形で、しかも美形であることを自負しているナルシスト、魔法が使えて、邪悪でめちゃくちゃ強いのにちょっととボケてて、しかも歌が歌える、ディズニーの正統派ヴィラン。

このキャラクターもまたディズニーの歴代ヴィランを混ぜ合わせオマージュしたような存在で、イーヴィル・クイーンやマレフィセント、フック船長にハデスにドクター・ファシリエなどの要素が垣間見える。

 

アーシャたちが住むロサス王国を統治する王であり、国民の願いを集め、守ることで「願いが破られない」ようにするほか、「(王が安全と判断した)限られた願いを叶える」ということで支持されている。

かつて王の生まれ育った国が襲われたという悲劇により、国民の願いを叶える/守るという名目で願いを集め、不穏分子を比較的平和的な方法で排除しようとしている。

これはある種、国家による治安維持法、共謀罪のような思想統制を批判するような意図が込められているようにも思える。

その一方で、マグニフィコ王の過去に想いを馳せると、おそらく当初は、自身の願いが敗れた経験から同じように願いが破られることのないよう、保護し、叶えることを目的としていたようにも思える。これはヴィランの本質とは矛盾した、非常に利他的な発想でもある。自身が正義であると信じている姿勢もまた、過去の作品で言えばヴィランのフロロー判事のようでもある。『ミラベルの魔法だらけの家』のアブエラ・アルマのように行動の間違いを反省し弁明するのではなく、何かがこじれて悪へ突き進んでいくというのも、ヴィランとしては魅力的だ。

 

「誰かの願いを守りたい/叶えたい」という出発点から見れば、アーシャもマグニフィコ王も本質的には同じ人間なのだと考えると、「叶えられない/叶えてはいけない」と判断した後のアーシャとマグニフィコの行動の違いが、彼らを主人公であるかヴィランであるかを決定づける。

同じ目的でも、手段を間違えば正義にも悪にもなるのだ。

 

マグニフィコ王に願いを捧げらた国民たちは目的を失い、抜け殻のようになる人もいる。マグニフィコ王に願いを破壊された人々は、心をひどく痛めつけられる。

そして、現実世界でもいつだって悪者は人々の「願い」につけ込んで、食い物にして悪さをするのである。

 

目的と手段をもう一度考えよう

で、ここまで書いてやっぱりこの作品はすごいんじゃないかって思い始めた。

 

私の本作『ウィッシュ』の感想は、「テーマにしろ、登場キャラクターにしろ、目的と手段が逆転していてストーリーがちぐはぐに感じられる」というのが大きな柱である。

だけど、主人公アーシャとマグニフィコ王を比べてみると、ちゃんと「目的と手段が逆転した方が悪いやつ」という教訓になってる!!すごい!!わかっててあえてやってるんだ!!

 

なんていうのは、まーないやろなっていうか、それがわかっていてなぜこういう話になるのか突っ込みたいということでしかないのだけど、とりあえず音楽は良かったです。

 

とりあえずディズニー過去作品のオマージュは100以上詰め込まれているらしいので、ちゃんと配信なりソフトなりで見返したいですね。

ただもう「オマージュとか小ネタさえ詰め込んだらオタクが『最高!』って褒めてくれる」みたいな魂胆で作品作るのは勘弁してほしい。

『レスキュー・レンジャーズ』とか『魔法にかけられて2』とかさぁ・・・。

 

関係ないけど、『イントゥ・ザ・ウッズ』『リンクル・イン・タイム』に続き、クリス・パインとディズニー作品って本当に相性悪いね・・・。

 

ディズニー100周年の、素晴らしく記念すべき年の記念すべき作品を、しっかり「面白かったー」って感動して泣いちゃう作品が見たかったよ、私は。

 

 

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