『プリンセスと魔法のキス』ディズニーの絶対に負けられない戦い。

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プリンセスと魔法のキス (オリジナル・サウンドトラック)

 

『プリンセスと魔法のキス』はいいぞ。

 

いつもは締めに使っている言葉を今回はど頭に持ってきた。

もうこのブログで何度目かわからないくらい褒めているこの映画『プリンセスと魔法のキス』まじで名作なのに、やっぱりどうして、なかなか日本では知名度がイマイチで、僕はずっとやきもきしている(やきもきて)

 

もちろんディズニーの数ある名作と比べると、決して完璧な作品ではないのではあるが、それを差し引いたとしてもやっぱり埋もれているのは勿体無い、誰もが好きだと思えると思える作品だ。

特にディズニーが大好きでこんなブログを読んでしまうようなあなたならば、きっと。

 

目次

手描きアニメーションでの再出発

本作を手がけたウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ(以下WDAS)日本劇場未公開の『ホーム・オン・ザ・レンジ/にぎやか農場を救え!』(2004)を最後に手描きのアニメーションの部門を完全に廃止し、映画『チキン・リトル』(2005)以降の作品を全てCGで製作していた。

 

2006年、ピクサーがディズニーの完全子会社となり、ピクサーのCCOジョン・ラセター(『トイ・ストーリー』監督)がWDASのCCOも兼任することとなり、WDAS製作の映画に様々な「テコ入れ」をおこなっていく。

 

そんな中、WDASで再びプリンセス映画を手がけることが決定し、ジョン・ラセターはあることを思いつく。

 

「WDASで手描きアニメーションを復活させる、しかもプリンセス映画で」

 

ウォルト・ディズニーが生み出したプリンセス映画『白雪姫』は、ディズニー初の長編アニメーション映画でもあり、世界初の長編アニメーション映画でもある。その『白雪姫』で名を轟かせ、『シンデレラ』で地位を確立し、『リトル・マーメイド』『美女と野獣』で復活したのがWDASだ。

WDASだからこそ、プリンセスを描くなら手描きアニメーションでやろう。

そういう指針のもと、手描きアニメーションのための機材を引っ張り出し、また、すでにディズニーを退社していたジョン・マスカーとロン・クレメンツを呼び寄せる。この二人、何を隠そう『リトル・マーメイド』『アラジン』などを手がけた監督である。

 

そこへ、マーク・ヘン、エリック・ゴールドバーグ、アンドレアス・デジャなどの90年代のディズニー黄金期を支えたアニメーター達が参加する。

 

長編アニメーションはCGで作るのが当たり前の時代に、わざわざ手描きを復活させ、プリンセス映画を作る。しかもそれを、ミュージカル形式で、プリンセス映画で失敗したことのないディズニーの伝統的なスタジオで。

 

『プリンセスと魔法のキス』はディズニーにとって、絶対に負けられない戦いなのである。

 

2Dならではのアニメーションシーン

3DCGでの映画は、よりアニメーションをリアルにしていくことが優先されてきた。

風景や建物から、キャラクターの質感、毛並みなど、アニメーターの努力と技術により、時代を追うごとに本物と見まごうことないクオリティになっていく。

 

そんな作品がひしめく中で、手描きアニメーションで戦っていくためにディズニーは、あえてリアルであることを放棄し、平面的な表現を取り入れる。

それが『夢まであとすこし(Almost There)』と『ファシリエの企み(Friends on the Other Side)』である。

 

3D CGにも平面的な表現ができないことはない。

だが、むやみに取り入れるとその表現自体が意味を持ってしまうことがある。

それを逆手に取ったのがピクサーの『インサイド・ヘッド』の「観念の部屋」での抽象化の表現であり、平面的表現を不自然でないように取り入れたのが『モアナと伝説の海』のマウイのタトゥー表現および「俺のおかげさ(You're Welcome)」のシーンだ。

 

アニメーションならばこそ、そして手描きだからこそ、できる表現を取り入れて表現する。3D作品が巷に溢れているからこそ、作品はそれらを新しく感じさせる。そのシーンは音楽により、より印象的に、より強烈に脳に焼き付いていく。

 

米国南部出身×黒人のプリンセスという挑戦

 また、さらにディズニーは、伝統に縛られすぎずに新しい風を吹かすことを意識した。

 

プリンセスの映画でありながら、舞台は中世ヨーロッパではなく1920年代アメリカ南部のニューオリンズの街。

ニューオリンズは元フランス領のルイジアナ州にあり、ニューオリンズの一部地区はフレンチクオーターと呼ばれ、フランス植民地およびスペイン植民地時代の風景を色濃く残している。

カリフォルニアのディズニーランドにはニューオリンズ・スクエアというエリア名で再現されている。(東京ディズニーランドにはアドベンチャーランドの一角「カリブの海賊」付近に再現されている)

 

本作はただ物語の背景としてニューオリンズを選ぶにとどまらず、ニューオリンズの風習・文化を色濃く取り入れている。

劇中ではニューオリンズが発祥と言われるジャズが全編に流れ(本作で歌唱しているドクター・ジョンもニューオリンズ出身である)、主人公のティアナは郷土料理のガンボ・スープやベニエを振舞い、ホタルのレイはケイジャン訛りで話すし、ヴィランのドクター・ファシリエはブードゥー教の魔術師である。蒸気船やマルディグラも登場する。

僕のようなニューオリンズへ行ったことのない人間にとっては、それらの風景・風習が眩しく映る。本作の魅力のひとつである。

 

The Art of the Princess and the Frog

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そして、もうひとつの挑戦が、ディズニー初のアフリカン・アメリカンのプリンセスである。

ジャスミン、ポカホンタス、ムーランなど有色人種のプリンセスは今までも登場しているし、ポカホンタスはアメリカ出身のディズニープリンセスではあるが、ネイティブ・アメリカンでありアフリカ系ではない。そもそもディズニー長編アニメーションでアフリカン・アメリカンが主人公となったのは本作が初である。(短編作品には『ジョン・ヘンリー』などが存在する)

 

神話も王朝もない、他国に比べ歴史的にも短いアメリカという国において、ディズニーが作るおとぎ話の映画やディズニーランドは、アメリカ人にとっての羨望の表れでもあるように思う。

それまで海を隔てたヨーロッパや中東やアジアの国のものであった「キラキラと輝くプリンセス」に、アメリカ出身の肌の茶色い女性でもなることができるというメッセージ。それを、ずっとプリンセスを描いてきたディズニーが発信する。

 

「君が誰かなんて関係ない」

本作はプリンセスを要素として持ってはいるが、これまでのディズニープリンセスものと違うのは「プリンセスとなること」以上に主人公ティアナとナヴィーンの成長、恋愛、そして「自分が何者であり、何を望んでいるのか」についてフォーカスが当たっている部分だ。

 

歴代作品としては『美女と野獣』のフォーマットが近い。

主人公のベルと同じように、ティアナは当初プリンスに興味を持たず、プリンセスへの憧れがない。

ベルは野獣に軟禁される形で強制的に野獣の人間性に触れ、彼に親しみと愛情を抱くようになっていく。野獣もまた、ベルに介抱されたことで心を開き、変化していく。

(厳密に言えばベルは「おとぎ話のような世界」に憧れを持っているため、名言はされていないがプリンセスのような暮らしに憧れていた可能性はある。少なくとも「もっと素敵な世界」へ行きたいという、現状に留まらない野心はある)

 

本作でもそのキャラクターたちの相互作用がより強く描かれている。ティアナとナヴィーンを正反対のキャラクターに描くことで、それぞれの性格として強く現れている部分が、相手の足りていない部分であるというわかりやすい構図になっている。

また映画冒頭ではそれぞれの性格をお互いに短所として非難しあっていた。それが後半には自分の中で欠けている部分、そしてさらに相手の長所であるとしてフォローする。

 

 

劇中で最も映画の本質を突いている曲がある。

それがママ・オーディが歌う「もう一度考えて(Dig A Little Deeper)」である。

 ナヴィーンは生まれながらの王子という環境に甘やかされ、贅沢な人間に育ってしまった大人である。甘やかされて育ってきたが故に、ある日両親に勘当された時に自分一人では何もできないことに気づかされる。「自分では何もできないこと」が不幸の原因であるのも関わらず、ナヴィーンは「お金がないことこそが不幸である」という間違いにとらわれている。

一方ティアナは父の夢であったレストランをオープンさせるために必死に働く女性である。お金を稼ぐために仕事に忙殺され、友人との交流、恋愛などは二の次である。そこにかつての父の料理が人々を笑顔にするため、家族や友人との絆をより深いものにするためだったという事実を忘れているのである。

 

そんな二人にママ・オーディは言う。「何が必要なのかが見えていない」

目的のために本質を見失っている大人たちへ向けて、本当は何を求めているのか、自分は何者なのかを問いかける。

 

そしてこの曲はもう一つ大事なことを言っている。

「君が誰かなんて関係ない」

自分がどうあるべきか、どうあるのが世間的にふさわしいのかなんかに囚われていてはいけない。

 

王子だから働いてはいけないのか。

黒人だから、貧しいからプリンセスになんてなれないのか。

 

そんなことは関係ないのだ。

 

夢だけじゃない

「ディズニー映画は夢と魔法で都合よくハッピーになる子供騙しの映画だ」

なんていうセリフは、アンチディズニーの間でよく聞く文言である。実際聞いたことがある人もいるだろう。しかし勘違いも甚だしいと思う。

 

ディズニープリンセスたちは基本的にただ平然と、何もせず楽しく暮らして王子がやってくるのを待っているわけではない。

日々苦労に耐え努力し、礼節を重んじ教養を身につけ、心優しく誰からも愛される存在であったからこそ、飛び込んできたチャンスをものにすることができたのだ。

 

今までのディズニー映画はそれをあえて言葉にはしてこなかった。当たり前のことだったからだ。

だが『プリンセスと魔法のキス』では冒頭からティアナの父ジェームズが言う。

「夢は星に願うだけでは叶わない、星は夢を叶える手伝いをしてくれるだけだ。夢を叶えるためには努力をしないと」と。

本作の面白いところは、その言葉によりティアナが努力することを頑張りすぎた挙句、本来の目的を見失いつつあるところからスタートしているところだ。

 

今までのプリンセスよりも身近で、努力家で、どちらかといえば「夢と魔法で都合よくハッピーになんてなるわけない」というアンチディズニーな人間により近いところから主人公の物語が始まり、気づけばプリンスの心変わりを手伝い、自らの欠点も補ってプリンセスになっている、そんなとんでもないストーリーなのである。

 

シャーロット・ラ=バフの重要性

現実的で、故意にうつつを抜かすことのない主人公、ティアナと正反対のキャラクターがナヴィーン以外にもう一人いる。ティアナの親友シャーロット・ラ=バフである。

 

シャーロットはお金持ちの家の生まれで、大豪邸に住む白人女性である。父は街一番の大富豪で5年連続マルディグラ祭のカーニバルキングに選出されるほどの有力者である。

ティアナの母ユードラがシャーロットのドレスを手作りしていた関係でティアナと親友になり、大人になった現在でも親交がある。

ティアナとは正反対の性格で、苦労を知らない上にわがままであり、プリンスと結婚しプリンセスになることに憧れている。相手がプリンスであれば(それがカエルでも)誰でもいいというレベルで、だ。

 

シャーロットという存在は、キラキラして、可愛いものが好きで、王子との結婚に憧れる従来の「プリンセス像」に近い存在である。労働に身を費やし、ボサボサ頭でベッドに倒れこむティアナとは大きく異なる。

 

そんな彼女が、なぜティアナの友達でいられるのか。

彼女はティアナの理想を否定しないからであり、一方ティアナもシャーロットの理想を否定しないからである。

ディズニーが歴代のプリンセス像を否定し、新たなプリンセス像を打ち出す時、例えば「出会って数日で結婚を決めるなんて」と明確に否定することが多い。(『魔法にかけられて』は結果として出会って数日でジゼルとロバートが結ばれることでディズニー的な展開を肯定している)

同監督の『モアナと伝説の海』にしろ、従来のイメージを覆すために強い言葉で過去のイメージを否定することは、ディズニーでもよくある。

だが『プリンセスと魔法のキス』はティアナのような、王子に恋い焦がれず現実的に夢を追いかけるプリンセス像を提案しつつ、シャーロットのようなこれまでの「王子に憧れる典型的なプリンセス像」を否定しない。この映画はそのどちらも肯定してくれる。

新しいプリンセス像のエルサと、従来のプリンセス像のアナ、そのどちらも描いた『アナと雪の女王』より4年早く。

 

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初期のディズニープリンセスの映画『シンデレラ』および『眠れる森の美女』にはプリンセスを手助けする「妖精のおばあさん」という超人間的な人物が登場する。

『シンデレラ』ならばフェアリーゴッドマザー、『眠れる森の美女』ならばフローラ、フォーナ、メリーウェザーの3人。

またプリンスとプリンセスの立場を逆転させるならば『アラジン』におけるジーニーも同じような役割を持っている。

『プリンセスと魔法のキス』ではママ・オーディがそれに近い役割を果たしているように思えてしまうが、「プリンセスにドレスを与える」という役割で考えるとこの映画でティアナにドレスを与えたのは誰か?というと、何を隠そうシャーロットなのだ。

シャーロットがティアナにドレスを与えたからこそ、ナヴィーンがティアナをプリンセスと勘違いし、物語が動き出す。

シャーロットは実質的にティアナとナヴィーンの恋のキューピッドであり、ディズニーにおける「妖精のおばあさん」的存在なのである。

 

とにかく見て欲しい

僕にとって『プリンセスと魔法のキス』は「とにかく見て欲しいディズニー映画」のベスト5には常に入っていると言ってもいい作品である。

それくらい好きが詰まった作品である。

 

この作品の後、『塔の上のラプンツェル』が製作され、WDAS初の3DCGのプリンセスが誕生する。(ディズニー初の3DCGのプリンセス作品はピクサー・アニメーション・スタジオの『メリダとおそろしの森』)

また、手描きアニメーション作品としては2011年に『くまのプーさん』が製作される。

 

結果として、『プリンセスと魔法のキス』と『くまのプーさん』は、ディズニーのお偉いさんが期待したような興行収入を得ることができず、作品制作の効率化の問題からWDASの手描き部門は再び廃止されてしまうことになってしまった。

 

それでも僕にとってはこの2作品はディズニーにおいてとても重要な映画だと思っている。

 日本では劇場公開こそされたものの、プリンセスとしては他のプリンセスに比べかなりの不遇を受けているティアナ、そして『プリンセスの魔法のキス』

この作品がいつの日か、誰もが知っている映画に育ってくれるように願っている。

 

 

 

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