大好きな映画でも、手放しで褒められない作品は結構ある。
映画『トゥモローランド』もその一本である。
過剰宣伝、それを受けて抱いた僕たちの過剰な期待、その表層部だけが一般層に広がって根付いてしまった都市伝説、肝心の中身、映画としての面白さ・・・。
様々な要素が絡み合い、絡んだ割には大事なところには引っかからず、
壮大なプロジェクトであったはずなのに、なんとなく不発に終わったこの『トゥモローランド』
僕は大好きな映画だ。
だけど、正直みんなが見て面白いかどうかはわからない。
目次
「プルス・ウルトラ」とウォルト・ディズニー
テスラ、エジソン、エッフェル、ヴェルヌのなどの19世紀から20世紀にかけての歴史上の偉人が作ったとされている秘密結社「プルス・ウルトラ」
ラテン語で「もっと先へ」を意味するこの秘密結社は真偽は不明ながら、かねてより都市伝説として存在していた。
その「プルス・ウルトラ」にウォルト・ディズニーがメンバーとして参加しており、プルス・ウルトラのメンバーのリクルーティング、また彼らの「理想郷」への入り口を提供していたとしたら?というのがこの映画『トゥモローランド』である。
プルス・ウルトラは「より良い未来を作る」という考えと技術を持った人々が集まり力を集結させれば理想の世界が生まれるとして、理想郷『トゥモローランド』を作り上げたとしている。
「トゥモローランド」という名前はディズニーパークに存在する未来をテーマにしたエリアの名前である。また、この「理想郷」の思想はウォルト・ディズニーが描いた最後の夢である実験的未来都市「EPCOT計画」とかなりリンクする。
『トゥモローランド』は、この真偽不明の秘密結社「プルス・ウルトラ」に「うちのウォルトも参加してたよ」と、史実と創作を織り交ぜつつ肯定し、イマジネーションを刺激する映画なのである。
また、公開当時とある日本のテレビ番組でこの「プルス・ウルトラ」にフォーカスを当てる回が放送され(たらしく)、この秘密結社と「EPCOT計画」の中途半端な理解、ウォルト・ディズニーが参加していた!?という都市伝説だけが一人歩きしてしまい、現実とフィクションの境目が曖昧になった人々がいたような印象を受けたものである。
ファンの期待と肝心の中身
ファンとしてみれば、ウォルトの理想「EPCOT計画」を別の視点から創作を交えて描く話なのだろうというのがプロモーションからは感じられた。
アメリカ本国でも「Stop Plus Ultra」などといったプロモーションがなされるなど、ディズニー社が「ウォルト・ディズニー」をコンテンツにして、その裏を暴くようなアプローチを行うのが非常に新鮮であった。
制作にあたり、ディズニーのスタッフが見つけた謎のトランクに「ウォルトが極秘に関わった、誰も知らないプロジェクト」が入っていたなどの、本当か嘘かわからない宣伝も行われており、我々ファンは(少なくとも僕自身は)そのプロジェクトの謎に迫り、ウォルトの理想や人間性に触れることができるものだと勘違いしていた。
蓋を開けてみれば、「ウォルトが思い描いた夢」からエッセンスを抽出し、さらに創造性を加えた映画であり、物語は完全なるフィクション。
あくまでも登場人物たちが主軸に動き、ウォルト・ディズニーとトゥモローランドの関連性は予告編以上のものはなかった。
ここで、僕は「なんか思っていたのと違う」となってしまったのだ。
だが、その抽出された「ウォルトが思い描いた夢」は、この映画に色濃く反映されている。
オプティミストであること
映画『トゥモローランド』で重要なのは、その舞台の「トゥモローランド」や映画に登場する様々なギミックなどではなく、映画のテーマそのものにあるのである。
ブリット・ロバートソン演じるケイシー・ニュートンは、ウォルトの理想そのもののような少女である。
ケイシーはウォルトと同じく「オプティミスト=楽観主義者」である。
物事をうまくいくように考える、くよくよせずに前向きに考えるタイプの人間だ。
冒頭で彼女は学校で授業を受けながら戦争、環境破壊など、様々な悲観的な「結果」を見せつけられる。
そこに対して彼女が言う言葉は「変えれますか?」だ。
楽観主義、楽天主義というと、ただ「なるようになる」「ほっておいて大丈夫」なイメージを受けてしまうが、彼女が体現している楽観主義は実にプルス・ウルトラ的な思想に基づいている。
「もっと前へ」「より良い未来へ」
そのための希望を絶やさず、行動を諦めない姿勢。
これがこの物語のテーマであり、「ウォルトの理想」を最も反映している部分である。
「ガワ」ではなく、映画としての精神性にもっともウォルトらしさがあるのだ。
The Progress City Primer: Stories, Secrets, and Silliness from the Many Worlds of Walt Disney
- 作者:Crawford, Michael
- 発売日: 2015/09/26
- メディア: ペーパーバック
「ガワ」へのこだわり
じゃあ「ガワ」の部分にこだわりはないのか、というと
プルス・ウルトラにより選ばれたメンバーが「トゥモローランド」へ移動する方法はニューヨーク世界博に出展されたアトラクション「イッツ・ア・スモールワールド」だし、
ケイシーやジョージ・クルーニー演じるフランク・ウォーカーを手助けする少女型のロボット、アテナはAA(オーディオ・アニマトロニクス)であるという。
オーディオ・アニマトロニクスは、ディズニーの開発した技術で、まるで人間のように音に合わせて動くアトラクション内のロボットである。
現実世界では単一動作しかできないAAが、プルス・ウルトラの理想郷では表情を変え自在に動く、という発想にワクワクさせられる。
当の「トゥモローランド」のコンセプト・アートはシド・ミードによって制作され、とてつもない技術が詰まっていることが視覚だけで伝わってくるし、さりげなくアトラクションの「スペース・マウンテン」の建物が見えるという遊び心もある。
ただ、これらのほとんどが、予告編でとっくの昔にファンに知られていた内容で、
「もっと凄いもの」を期待した僕らを満足させるほどではなかった。
テーマは最高、クライマックスの盛り上がりは・・・
また、そもそも映画として盛り上がりに欠ける部分がある。
予告編で高まった期待が本編でイマイチ解消できなかったのと同じように、
本編中盤までで高まっていた舞台トゥモローランドへの期待も、実際にトゥモローランドを目の前にしたケイシーたちと同じように「がっかり」につながってしまう作りになっている。
ケイシーが「トゥモローランド」の存在を突き止めるためにフランクに出会いにいくまでの話や、その「行き方」は非常によくできている。
つまり物語のピークは「エッフェル塔のシーン」までて、
その後ケイシーたちはトゥモローランドに突入するが、あれほどまでに憧れたトゥモローランドは人々の「悲観」によって荒廃してしまっているという現実を突きつけられるのだ。
ヴィランが人々の「悲観」を操ることで地球を破滅に追い込もうとすることが明らかになり、「悲観論」こそが人類の敵、「楽観論」でこそ、人々は未来を紡ぎ出せるというメッセージ性は強く打ち出されてはいるのだが、そこが明らかになるまでのプロセスが非常に地味であり、それまでの高めきったワクワク感との釣り合いが取れない。
まとめ
性善説と性悪説、楽観主義者と悲観主義者という二項対立で、当然ながらディズニーはよりポジティブな方を肯定する。
本作のヴィランの発言は、現代社会に非常にリンクしやすい。
特にこの新型コロナウィルスより、人々にネガティブな思考が蔓延している状態で、世界情勢も経済も安定しないなか、人々はどんどん希望を見つけるのが難しくなっていく。
この映画は今後も起こりうる様々な事態に対して、悲観し、戦わず諦めた時に人類は終焉を迎えるのだという「予言」でもある。
事態に対して諦めずに立ち向かう者たちの考えや行動が、1%の希望を生み出すのだ。
この映画から感じる、より良い未来を作るためには、優れた「選ばれし人材」が必要という考えは監督のブラッド・バードの考えとかなりリンクする部分もあるだろう。
この「選ばれし人材」とい点において一方でヴィランがクローズドにした世界を、主人公たちが再びオープンにして未来を紡いでいくのだ。
そして、その「選ばれし人材」になる条件が「絶対に諦めずに立ち向かう」人物であるというのだから、可能性は限りなく無限だ。
気持ちさえあれば、誰だってトゥモローランドが受け入れてくれる。
ウォルトだって言っている。「夢を追い求める勇気さえあれば、夢は必ず叶う」と。
それがよりエンターテイメントとして確立されていたら、この映画ももっとヒットしていただろう。
正直映画として、人が観て面白いかどうかはわからないし、僕自身勿体無い映画だなとは思う。
それでもこの映画が持っているパワーはこの時代だからこそ、そしてこの先永遠に続く未来において、観た人の心に残り続けるだろうと思う。
僕たちは未来だ。
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