ベネチア国際映画祭金獅子賞受賞、
そしてアカデミー賞作品賞最有力候補である、
サーチライト・ピクチャーズ制作『ノマドランド』を観た。
21世紀FOXがディズニーに買収され、20世紀スタジオ、サーチライト・ピクチャーズがディズニーのものとなって早1年。
これまで社会にあらゆる角度から良作を提供して来たこれらのスタジオがディズニーの「ファミリー志向」により牙を抜かれてしまうのではないかと不安視していたが、
昨年日本公開された『ジョジョ・ラビット』に続き、本作もまた、その点に関しては安堵をもたらしてくれる意義深い作品であった。
そして、『ノマドランド』のような作品テイストは、
これまでの20世紀スタジオやサーチライト・ピクチャーズの生み出して来た作品性をしっかり踏襲するような作品で
それはいわゆる「ディズニー的」な作品テイストとは非常に異なっている。
非常に素晴らしい作品だった。
※本記事は現在公開中の映画『ノマドランド』の終盤の展開に触れています。
目次
自由気ままなノマドの理想と、過酷な現実
フランシス・マクドーマンド演じるファーンは、ネバダ州エンパイアという街に住んでいたが、地元の工場の閉鎖により街の経済が破綻、彼女自身も亡き夫と暮らした家を手放すこととなり、自家用車で車上生活を行うこととなった。
車で寝泊りをしながら、各地でアルバイトをしながら収入を得て、また次の場所へと移り住んでゆく。
車上生活の過程で似たような境遇の「遊牧民(ノマド)」コミュニティに出会い、彼らと友情を深めあい、それぞれの価値観、生き方に触れていく。
この映画が映し出すのは「車上生活の素晴らしさ」「自由気まま」「美しい自然とのふれあい」の部分も多分にある。
一方で、本質的には、自由気ままな車上生活の理想とは裏腹に、世間からの眼差し、貧困と搾取、そして自然環境といった過酷な現実を映し出す作品である。
社会と切り離されているように感じる「遊牧民」である彼らも、完全に社会と切り離されて生きて行くわけにはいかない。
お金がなくなれば働かなければいけないし、移動手段である車が壊れれば工場に行って修理する必要がある。体調を崩せば病院に行かねばならないし、見知らぬ地で勝手に作物を作って食べていくわけにもいかない。
そして、車上生活を営む彼らのほとんどが高齢者であるというのも悲しい現実である。
彼らがその生き方を選んだ根底には「貧困と搾取」がある。
主人公ファーンらノマドの人々は、Amazonの年末商戦のアルバイトのため、工場で商品の梱包作業を行う。(本作で搾取の象徴として描かれているAmazonが撮影に協力的だというのが実に皮肉である)
ファーンらは社宅ではなく、Amazonが支払う駐車場に自分たちの車を停め、極寒の中でインスタントや缶詰の商品を食べて生活する。
Amazonのアルバイトは一時的な人手不足を補うためだけのもので、季節が過ぎれば契約も終わる。彼らの年齢では定住できるような仕事もなく、主人公らは次の場所へと移り住むほかない。
ノマドの民、車上生活者達は「貨幣経済との決別」や「自然への回帰」を高らかに謳歌し、きままな生活を理想としているが、彼らもまた車上生活を続けるために経済社会との接続が必要で、そしてAmazonのような大企業の搾取の対象となる。
『ノマドランド』のすごいところは、このように生きるノマド民たちを、実際に連れて来て演じさせたことだ。
彼らのほとんどは現実でも映画のような車上生活を行なっており、劇中と同じ名前でエンドロールで名前が記されている。
そして、そのノマド民たちと寸分も違和感なく溶け込んでいるファーン役のフランシス・マクドーマンドの演技が素晴らしい。
ノマド民としてはベテランの彼らよりも、ちょっと遅れてこの生活をし始めた新参者という役回りがリアルだ。
自ら選んだはずのこの生活に「振り回されている」戸惑い、先行きへの不安、目の奥に潜む悲しみが、観客をファーンと同じ心理的状況へと引き込む。
喪失を埋める旅
主人公ファーンは、愛する夫、そして夫と結婚してから長く住んだエンパイアという街の思い出を引きずりながら、その喪失を埋めるように車上生活を続けている。
彼女がエンパイアで教員をしていた時の教え子一家に「困った時はうちにきてね」と言われたり、実の妹や、同じノマド民として出会ったデイヴに「一緒に住まないか」と誘われるなど、遊牧民をやめるタイミングは何度もあった。
それでも彼女は、どこかに定住することを拒み続ける。
一つは、定住することで再び社会と繋がってしまうからだろう。
社会とつながるということは、「車上生活」よりも、より継続的に搾取と貧困の世界に取り込まれることでもある。ファーンから家を奪った経済の世界に、再び彼女を連れ戻す結果となる。
これは彼女自身よりも、彼女が出会ったノマド・コミュニティの人々がより強く抱いている考えに近いと思う。
彼らは、定住生活よりも少ない消費リスクで生きていけるために、仕方なく、もしくはあえて車上生活を選んでいるが、そこには消費社会への反発と、自然とともに生きることへの理想も少なからず含まれている。
ファーンが車上生活を続けるもう一つの理由は、どこにも彼女の居場所を見つけられていないからなのではないか。
私は、彼女が喪失を埋めるだけの、確固たる「幸せ」のようなものが、映画を観終わった後でさえ感じることができなかった。
この映画には、最初から最後まで、主人公ファーンの先行きの不安と、消えようのない悲しみのムードがまとわりついている。
広大で美しい大自然に触れ、癒しを求める彼女が、どれだけ心を洗い自然と一体化しようと試みても、やはり自分の居場所が見つからない、そう行った類の悲しみが、重く重く感じられる映画だ。
車上生活や、大自然に身を委ねる生活は、悲しみを癒すためのひとつの手段に過ぎないし、それが正解でない場合も多分にある。
喪失はそう簡単に埋まらない。定住することも、車上生活を続けることも、どちらがファーンにとっての正解かはこの映画では描かれない。
何かを成し遂げたわけでもない、状況は明るくなっていない。
それでも、映画で描かれた一年間を経て、彼女は最後にエンパイアに残してきた思い出の品々と決別する。
これはノマドを続けながらも、心理的に縛られていたエンパイアという「居場所」との別れだ。
彼女の本来の居場所は、失ってもなおエンパイアにある。
だからこそ、彼女は結婚指輪を外さないし、真夜中に思い出の写真を見つめ、割れてしまった思い出のお皿を接着剤で修復するのだろう。
ファーンの決意の真相は、映画では語られない。
映画の後、ノマドを続けるのか、どこかに定住するのか。答えはわからない。
それでもここから、やっと彼女の旅はスタートするのだろう。
最後に
この映画は車上生活の過酷さを浮き彫りにすることで、車上生活を羨む我々の理想を打ち砕かんとする。
その一方で、やはり「ノマドっていいなぁ」と思わせるような、大自然の美しさや、気ままな日々の生活に憧れを抱かせる要素も持っている。
繰り返すが、それでも私は『ノマドランド』にあまり癒しを感じられなかった。
フランシス・マクドーマンドの演技に引き寄せられ、映画を曇り空のように覆っている、ファーンの悲しみばかりがまとわりついていたからだ。
そして車上生活を通して彼女自身が浄化されているようには到底感じられなかったから。
『ノマドランド』の持つ社会風刺と、ファーンの「救われなさ」は同一直線上にあるもので、この映画はこれらの要素を絶妙なバランスで描き出している。
「ノマド生活の素晴らしさ」と「現実」、ファーンの「新たな友人との触れ合い」と「埋まらないかつての悲しみ」の両方を表裏一体として映し出す。
新たな居場所を求める旅に出るためには、縛られている居場所と決別しなくてはいけない。
貨幣や仕事から解放されることを願うノマドの民もまた、ノマドをするためには社会や経済とつながりを持たなくてはいけない。
彼らが救われるためにはどうすればいいのかを、我々程度が考えても、彼らは苦しみながらも名目上「ノマドであること」に誇りを持って生きている。
ファーンが消費社会を批判すれば、消費社会に生きる人々は「君のような生活をできる人ばかりではない」と、車上生活を「特権」として羨んだりもすれば、「よくこんなところに住めるな」と軽蔑したりもする。
「ノマド」は遊牧民で、「ランド」は土地だ。
これもまた矛盾した、一方で表裏一体ともいえる2つの言葉のように感じる。
そんな様々な表裏一体の両面を、そのままを映し出したような。
美しいけど混沌としている。そんな映画だった。
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