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『白雪姫』が描く生きた感情表現。悪に打ち勝つのは、愛と人間らしさ。

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白雪姫 (字幕版)

1937年、すべての始まりとも言える世界初の長編カラーアニメーション映画が誕生する。

ウォルト・ディズニー制作『白雪姫』(原題:Snow White and the Seven Dwarfs)である。

 

目次

 

すべての長編アニメーション映画の元祖

『白雪姫』は世界中の様々なアニメーションの元祖である。

それまでもディズニーのアニメーションは高い評価を受けてきたが、本作は世界初の長編カラーアニメーションであるし、80年近くの時を経た現代でもいまだに色褪せない魅力と技術力が詰まっているのがわかる。

 

白雪姫をはじめとする人間のキャラクターたちはそれ以後のディズニーアニメ作品と比べてもアニメ色を控えた写実的なデザインで、かつ1930年代にして実写と見まごうほどの滑らかな動きを見せる。

一方で、動物たち、7人の小びと、女王が魔女に変身するシーン、森の中をさまようシーンなどは表現力に満ち溢れ、時にはコミカルに、時には恐ろしく、とアニメーションとしての魅力も損なっていない。

 

白雪姫が森に迷い、動物たちに連れられて初めて小びとたちの家に向かうシーンなどは、白雪姫が動くだけではなく、画面いっぱいにいる数十匹の動物たちが、同時にそれぞれ違うスピードで、違う動きをする。

もともとは一枚の絵でしかないアニメーションが、このような動きをすることの複雑さは理解できるだろう。

当然であるが、当時はコンピュータもなく、すべて手描きで作られたアニメーションだ。

低予算アニメーションでは、一つのシーンの中でメインのキャラクターだけが動き、他のキャラクターは背景のように動きがない、動きはあるが同じ動きを繰り返し「動きがある」という印象だけを与える、またひどい時はキャラクターの口元だけしか動かないようなアニメーションもある。

その方が簡単で、時間もお金もかからない。そのようなアニメーションは世の中に溢れている。

しかしウォルト・ディズニーは、まだ誰も踏み込んだことのない「長編アニメーション映画」というジャンルに足を踏み込むにあたって、そのような妥協を一切選ばなかった。

それが公開前に「ディズニーの道楽」として批判を受けていたこの『白雪姫』が、公開後にその素晴らしさを評価された理由でもある。

ただアニメーションを、長編かつカラーで作るというのではなく、その当時にできる最高の作品を、最高のクオリティで提供したのだ。

いまディズニーという会社が存在するのも、ピクサーやジブリやドリームワークスやイルミネーション、世界各国の様々なアニメーション会社が高いクオリティで競い合っているのも、全ては元祖である作品が始まりにして最高傑作であったからだろう。

 

果たしてテーマは「真実の愛」だろうか

ディズニー長編アニメーションの第一作目にして、ディズニー初のプリンセス、そしてディズニーにおいてここから80年近く語られるテーマとなる「真実の愛のキス」の始まりの映画である。

 

一方で本作における「真実の愛」はその役割の大きさの割にはあまりにも割かれている時間が短い。

白雪姫とプリンス・チャーミングの逢瀬を描くシーンは序盤の一瞬のみで、そのあとはエンディングのキスのシーンまで、彼らが顔をあわせることはない。

二人が確実に両想いであることもわかるし、白雪姫がプリンス・チャーミングのことを思いながら「いつか王子様が」を歌うシーンは、『白雪姫』のなかでも屈指の名シーンである。

また、『白雪姫』における「真実の愛のキス」はウォルトの創作であり原作にはない。

映画を盛り上げるための演出として、幼い王女と王子のキスのシーンを持ってくるのはいいが、どう見ても序盤のあのシーンが初対面&唯一の対面シーンだろうと思えるなかで、この展開の早さは彼らの「愛」の深さを理解するにはどうしても時間が足りなく思う。もっと段階を踏ませてくれ。

アニメーションの出来ははるかに素晴らしいものであるが、ストーリーには改善の余地があるような気がするのも本作の特徴である。

 

製作陣が本作のテーマをどこまで考えて考えていたかは定かではないが、「真実の愛」を軸に考えるとどうも物語がブレてしまうような気がしてくる。

そこで私は、本作は「愛」よりももっと大きな範囲で「感情」を描いた物語であると考えたい。

本作には様々な「感情」と、それに伴う「行動」が描かれている。

そしてそれが人間らしい振る舞いを見せれば見せるほど「善」に、人間らしさを捨てていくほど「悪」に揺れ動いていく。

 

「動く感情」の7人の小びと

本作の英語タイトルは「Snow White and the Seven Dwarfs」(白雪姫と7人の小びと)である。ウォルト・ディズニーはこのタイトルと、「小びとたちを魅力的に描くこと」に非常にこだわったと言われている。

ウォルトとアニメーターたちは、原作では個性も名前もなく、さほど重要視されていなかった小人たちそれぞれに個性と役割を与えた。

せんせい(Doc)、おこりんぼ(Grumpy)、ごきげん(Happy)、くしゃみ(Sneezy)、ねぼすけ(Sleepy)、てれすけ (Bushful)、おとぼけ(Dopey)

 

7人の小人は「小びと(Dwarf)」というだけあって、人間とは異なるが人間らしさの塊のようなキャラクターである。そしてそれぞれが感情を指し示す名前と個性を持っている。

くしゃみとせんせいは若干仲間はずれ感があるが、映画の中でくしゃみがもたらす間抜け感は実に人間らしく場を和ます役割を買っているし、せんせいは(映画の中でせんせいらしい働きはほぼしないが)人間が人間らしく生きるには欠かせない「知識」や「知恵」を表しているとしたら、と考えたい。

 

『白雪姫』という映画において彼らがもたらす笑いや癒し、安心感は視聴者を釘付けにする魅力を持っている。

彼らが初登場する「ハイホー」のシーンから、彼らの写っているシーンには笑いが絶えない。女王の存在を忘れさせる、白雪姫が感じている安堵感にも似たその「楽しさ」は、女王のシーンとの明らかな対比である。

何より、本作でヴィランを追い詰めるのは王子様ではなく、彼ら小びとたちなのだ。

 

度が過ぎた恐怖演出

『白雪姫』にはもう一つ特徴がある。

ディズニーアニメーションのなかでも随一と言っていいほど、恐怖演出に力を入れているのだ。

 

そもそも「魔法の鏡」というファンタジーなアイテムが、ウォルト・ディズニーの手にかかるとあそこまで不気味なものに豹変する。

魔法の鏡にかける女王の呼びかけも

鏡の中に閉じ込められた男、宇宙かなたの暗闇から出ておいで。ふきすさぶ風にのって」

と。鏡そのものではなく、「鏡の中に閉じ込められた男」に問いかけている・・・。それだけでこの男は何者なのか、なぜ閉じこめられているのかという想像がより恐怖を掻き立てる。

白雪姫の美しさを妬んだ女王は白の猟師に白雪姫殺害を依頼するが「殺した証拠に白雪姫の心臓を箱に入れて持ってこい」という。怖過ぎないか。

 

そして森へ連れ出した猟師の、今にも「白雪姫を殺す!女王の命令だ、やらねば!」と思っていそうな、あの目。完全にイっている。

殺されることは免れたが、もう城へは戻れない白雪姫が逃げ出すシーンの、森の描写。あれがトラウマな人たちも数多くいるだろう。

白雪姫の数々の恐怖シーンは、実に容赦がないのだ。

 

「恐怖」もまた、人間らしい感情の一つである。

森の中を走りさまよう白雪姫は、周囲にある木々ですらも、自らを襲い脅かす存在に見えてしまう。

恐怖を感じたとき、もしくはそのあとにどういう行動をとるのかで、人の善悪は大きく変わっていく。恐怖を感じ、疑心暗鬼になり、恐怖に打ち勝つために逆に人に恐怖を与える存在となってしまう場合だってある。

 

白雪姫はどう行動したかというと、呼吸を整え、森の動物たち取り乱したことを謝り、友情を育むのである。

 

「怒り」すら味方につける優しさ

7人の小びとの一人に、おこりんぼ(Grumpy)というキャラクターがいる。

劇中終始しかめっ面をして、つまらないことに怒っているキャラクターだ。下手すると、理由もなく怒っている。

 

他人の怒りとは基本的には関わりたくないものだ。

それでも白雪姫は、7人の小人の中でなにかとおこりんぼを気にかける。

寝る前のお祈りで「おこりんぼに好かれますように」と願掛け、彼の名前入りのグースベリーパイを焼く。

 

仕事に行く前「誰も家に入れるな!」というおこりんぼに対し、「私を心配してくれているの?」と受け入れる。

 

常にイライラと怒りをたぎらせる彼に対し、白雪姫は純粋無垢な優しさと愛で受け止める。それによりおこりんぼ自身の考え方や行動も変化し、

最後には彼が率先して「姫があぶない!」と白雪姫のために行動を起こすようになる。

 

「嫉妬」に狂わされる女王

「嫉妬」もまた、人間らしい感情の一つである。

『白雪姫』において嫉妬の感情を見せるのはヴィランである女王だけだ。

 

嫉妬という感情は、人間ならば誰しもが抱きうる当然の感情である。

そしてまたこれも当然ながら「その後にどのような行動をとるか」が善悪の分かれ目となる。

自らが「この世で最も美しい存在」であることにこだわり、その座を奪った義理の娘の白雪姫を殺すことを企む。

たとえ嫉妬という人間らしい感情から行動がスタートしていようとも、あまりに度がすぎると人間らしさはどんどん失われていく。

 

あろうことか、「この世で最も美しくなるため」が本来の目的であったのにも関わらず、いつの間にか「白雪姫を殺すこと」が目的になり、その結果あえて自ら「醜い老婆」に変身してしまうのだ。本末転倒も甚だしい。

 

「魔術を使って変身する」という行為は、明らかな「人間らしさ」からの逸脱だ。

狂気に満ちた、そのおどろおどろしい変身シーンからもそれは明らかだろう。

「魔法で変身する」のであれば、フェアリーゴッドマザーのように「杖をひと振り」という表現でもよかったはずだ。だがウォルト・ディズニーはあえて、人智を超えた薬剤の調合と、苦しみ悶えながら変身するシーンを描いた。

感情に支配され、度を越した人間がどうなるのかという恐ろしさが存分に描かれている。女王は人間らしさを捨て、ただ目的のためだけに人を殺す魔女になる。

 

また女王は、白雪姫や他のキャラクターと対比になるかのように、怒りや嫉妬という感情を抱えていながらも表情の変化に乏しい。

怒りや嫉妬のような負の感情に囚われている女王は、配下に命令できる立場にありながらも信頼を勝ち得ておらず猟師に裏切られる。だからこそ彼女は最終的に一人で行動しなくてはならない。

魔女となった後の姿では、常に張り付いたような笑顔を見せてはいるが、そこに「喜び」の感情はなく、ただ不気味な狂気があるだけだ。

 

悪に打ち勝つのは

「アニメーション」(Animation)という言葉はラテン語で「魂」を意味するAnimaが由来である。

「生命のないものに、命を吹き込み動かす」ということを意味する。

 

ただ動きをつけるだけでも、アニメーションと呼べないことはないだろう。

それでもウォルト・ディズニーはキャラクターたちの感情にこだわり、

リアルに動き回り、喜び、歌い踊る、時には恐れ、怒りもする表現を追求した。

それができたからこそ、人々はスクリーンに映る白雪姫を、本当にそこにいる、生きた人間であるかのように感じ取れたのだ。

 

ウォルト・ディズニーのこのスピリットは今なお、ディズニー映画に継承されている。

ストーリーには奥行きが増し、表現の幅は広がり、アニメーションは手描きからCGへと移行したが、CGに移行したからこそ、見た目がリアルでもキャラクターの感情表現がリアルでないと途端に嘘くさくなってしまう。

ピクサーの『インサイド・ヘッド』では『白雪姫』の7人の小びとたちをなぞらえるような、感情を擬人化したキャラクターが活動する物語も生まれている。

 

繰り返しになるが、『白雪姫』には様々な感情がキャラクターの行動として、時にはキャラクターそのものとして表現されている。

喜びや楽しさだけでなく、怒りや恐怖や、嫉妬のような負の感情でさえも、誰もが抱えうる感情であり、物事の善悪は「そこからどう行動するか」に反映されている。

白雪姫と女王の行動、そして感情表現から生まれる周囲との人間関係は、その明らかな差である。

 

白雪姫をはじめとする仲間たちが「悪」である女王に打ち勝ったのは、

白雪姫が中心となり「喜び」「楽しみ」を共有し、友情を育み、「恐怖」や「悲しみ」に負けず自らを奮い立たせ、「怒り」の感情ですら優しさと愛で包み込み味方にしたからだろう。

 

映画『白雪姫』のいいところは、それを説教臭く説くのではなく

物語の中で楽しく、自然と教えてくれることだ。

何も考えずに見ても、白雪姫と女王には大きな違いがあることがわかる。

意味がわからないくらい極端な森での恐怖シーンと、なんでもないような歌と音楽で楽しく歌い踊るシーンですら、印象的に心に残る。

白雪姫は歌い踊り、仲間を作り、楽しそうだが、女王は表情もなく、暗く、自ら苦しい変身の術を選び、美しさを求めるはずが老婆に化けてしまう。

 

原作にはない、ウォルトが追加した「真実の愛のキス」によって目覚めるストーリーも、魔女の否定する「愛」が人間らしい感情の一つに含まれるのなら、白雪姫の純粋さや優しさや豊かな感情表現が生み出した結果が「愛」であるのなら、「白雪姫を抱きかかえた時に毒りんごのかけらが口からこぼれ落ちたから」という、もっともらしい理由よりもよっぽど意味があると思う。

 

 

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