2000年代のウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ作品は商業的にはかなり苦戦していた、いわゆる「暗黒期」と呼ばれていた時代である。だが、奇妙で面白い作品がたくさん産まれたという点では、かなり豊作の時代だったように思う。
いつか「パッとしないけど愛おしい〜」で紹介したように、
今回紹介する『ラマになった王様』も、奇妙で、泣けて、笑えて、ものすごくふざけていて、それでいて誰かの胸にざっくりと風穴を開けるような切なさを孕んだ作品でもある。
『ラマ王』、再評価してみないか。
目次
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- ディズニー初の「主人公がヴィラン」な映画
- ヴィランな主人公を産んだ「保護者不在」の背景
- 気持ち悪いほどに優しい「父親代理」
- コメディ要素との絶妙なバランス
- あと一歩、踏み込んで欲しかった
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ディズニー初の「主人公がヴィラン」な映画
WDAS作品は数あれど、この作品ほど主人公がヴィランの性質をもつ映画はないだろう。
それは、『アラジン』や『ロビン・フッド』や『塔の上のラプンツェル』のフリン・ライダーのように「盗賊」という犯罪者要素を持つキャラクターという意味ではない。
主人公クスコは王様であり、そのオープニングからもわかるようにヒーロー、そしてアイドル的な存在として周囲からの支持を主張している。
だが実際のところは完全なる恐怖政治で、自らの権力を恣意的に濫用し、誰からも非難・批判されることなくわがまま放題の私利私欲全開な傍若無人ぶりを発揮してきた。
作品のテイストとして1番近いのが、
こともあろうか傑作として評価の高い『美女と野獣』になるだろう。この作品は『ラマ王』とは真反対ともいえるシリアスな作品だし、ベルの父モーリスを不法侵入で投獄したりはするが、ぶつかっただけの老人を窓から放り投げたりする理不尽さはない。
しかもこれまで「悪役」な性質を持った主人公たちは比較的「根は素直」であったが、クスコの場合は「性根が悪い」と言ってもいい。
パチャとのやり取りの中だんだんとその考え方を変えては行くが、事あるごとに自分勝手に物事を解釈し、平気で嘘をつき自分を助けてくれる存在であるはずのパチャを厄介者として見捨てようとする。
この作品がこれまでのWDAS作品と異なりコメディ要素を全面に押し出しているのも、ある種主人公クスコのヴィラン性を覆い隠すためという部分も大きいような気がする。
しかしコメディにすればするほど、クスコのヴィラン性はより強調されていく。
レストランのシーンを思い出せば、クスコの文句によりシェフが仕事を放棄し、クロンクが厨房に立つことになるのだが、そのシェフ・クロンクに注文を繰り返すクスコと本来のヴィラン・イズマの描写は、(注文内容こそまったくの逆だが)全く同じ行動をとっているのだ。
完全なるギャグの描写ではあるが、彼ら二人の一般市民に対する行動は、冒頭からほぼ一致していると言っていい。
ヴィランな主人公を産んだ「保護者不在」の背景
ついぞ映画では語られることはないが、この映画は「保護者の不在」により生み出されたモンスター主人公の物語であるとも言える。
主人公クスコは若くして自身が王様であることを語るが、その他の家族のことは一切語ることがない。
冒頭に一瞬だけ映る赤子時代の描写から、彼が生まれながらにしての王様待遇により、人の気持ちを考えられないわがまま放題の人間に育ってしまったのは明白である。
そしてこの王様待遇は、当然ながら愛ゆえにの行動ではない。
王様の機嫌を損ねないよう、なんとかやり過ごすため。自身の首を守るための行動である。
道を曲がることすらも受け入れず、クスコが向かう先に道を作る。
そこまで過保護でありながら、イズマによって彼の死が告げられたあとも悲しみにくれるのはクロンクくらいで、あとはみな平常運転。
それでもクスコは自分が、「王様だから愛されている」
だからわがままも、命令も押し通せると思い込んでいる。
生命を維持する、もしくはそれ以上の厚遇を与えてくれる存在は、クスコにはたくさんいる。だが、彼に「愛」や「教育」を与える存在としての「保護者」は存在しないのである。
「愛される」ことを履き違え、「愛すること」を知らないクスコの、ある意味でこれは「真実の愛」の物語であるとも言える。
気持ち悪いほどに優しい「父親代理」
2000年代暗黒期のWDAS作品が、興収はひとまずおいておいてその内容を高く評価されるのが、そのほとんどの作品が「疑似家族」をテーマとした作品であるからだ。
(ギリ90年代だが)『ターザン』『ダイナソー』『リロ・アンド・スティッチ』『トレジャー・プラネット』『ブラザー・ベア』『ルイスと未来泥棒』などである。
そして、この『ラマになった王様』もこの代表格と言えるだろう。
「保護者の不在」により、まるでヴィランのように鬼畜に育ってしまった主人公クスコ
にとって、はじめて「愛と教育」を与える存在がパチャである。夢小説とかBLの話ではない。
パチャは『ラマになった王様』での最重要人物とも言える脇役であるにも関わらず、この全編コメディのふざけ倒した作品の中で、「パパとママはこれからイチャつくけど・・・」以外は、ほぼボケることがない。
それくらい大真面目で、純粋で愚直で、ちょっと引くぐらいイイ奴なのがパチャである。
クスコから「村をリゾートにするから出ていって、その後君らがどこに住むか?興味ないね」というようなことを言われても、せっかく命を助けた後に悪態をつかれても、約束の固い握手を交わした後に裏切られ「いやこれは前足だから握手じゃないし」みたいなことを言われても、必死の警告を無視されても、なぜかクスコを見限ることができない。なぜか「誰にだって優しい心がある」と信じている。
絶対クスコに関わらないほうが身のためなのに、どうしても放っておけない。
いい人すぎてちょっとやばい奴だ。
しかし、彼の行動により、クスコは徐々に考え方を改めていく。
クスコ自身は「ひどいことをしている」という自覚はなかったに違いない。
「王様だから当然のこと」だと。
それでも、自分をラマにした犯人だと疑ってかかっている男が、なぜか自分に優しくしてくれているのは不思議でしょうがなかったのかもしれない。
少なくとも、ラマになってしまった彼には頼れる人はパチャだけだ。
どんなひどい仕打ちをしても、なぜかそばにいてくれる彼に、クスコは父親のような存在感を感じるようになっていったのだろう。
コメディ要素との絶妙なバランス
そんな、見る人の心にグサッと突き刺さるさりげない一瞬の要素を持ちながらも、『ラマになった王様』はコメディ色全開で成り立っている。
シリアスな空気は皆無で、従来のディズニーアニメーションとは大きく異なるTVシリーズのカートゥーン作品のようなギャグの応酬、時代考証も無視、第三の壁を破るメタ的要素も活用された作品である。
雰囲気としては『ライオン・キング』や『ヘラクレス』のようなテイストでもあるが、それらとも大きく異なる、後にも先にも唯一無二と言えるWDAS作品だ。根強いファンがいるのもよくわかる。
同情の余地のある憎めないヴィラン
ヴィランのイズマとクロンクのコンビも秀逸である。
イズマのキャラクターは歴代のヴィランとは程遠い、凶悪さをあまり感じられない憎めない存在だ。
主人公を追い出し王になるという流れは『ライオン・キング』のスカーのようでありながらそこまでの狡猾さもカリスマ性もない。
クスコを殺し自身が女王となることを目論み、実際に成功しかけるが、そもそも彼女を復讐の鬼にしたのはクスコ自身でもある。
クスコがイズマをクビにするシーンの、クスコの外見disはギャグとして描かれてはいるが、風貌を揶揄するのが憚られる現代ではイズマに同情さえしてしまう。
これはやはり、物語冒頭におけるクスコの性格が凶悪だからこそだ。
クロンクは「ディズニープリンセス」
またヴィランのサイドキックながらとてつもない存在感を発揮しているのがイズマのボディーガードのクロンクである。
映画内随一のおとぼけポジションで、ヴィランながらも本気でクスコを殺すことは考えていない気が弱く優しく、大男だけどお料理が大好きでリス語が話せるというキャラクターだ。『ピーター・パン』におけるミスター・スミーのような立ち位置で、悪役には不要だろうと思えるようなスペックを兼ね備えており、そのギャップがそのままギャグにとして成り立っている。
このクロンク、映画内で筋肉モリモリ大男の暴力的側面を一切出さないのがすごいのである。
前述の通りの、従来ならば「女性的」とも言えるスペックを、恥ずかしげもなく素直に、思うがままに表現する。
よく考えてみてほしい。気が優しくお料理が好きで、子供の面倒見がよく、動物とおしゃべりできるキャラクターといえば、従来のディズニーキャラクターであれば白雪姫、シンデレラ・・・と「ディズニープリンセス」が担っていた立ち位置である。
これは製作陣からしてみれば、当初はギャグのつもりだったのかもしれない。
だが、視点を変えてみればこのクロンクは非常に先進的なキャラクターのようにも思えてくる。
現代では彼のような特技や趣味を持つ男性を笑うほうが野暮だとすら思える。
もちろん、彼はコメディリリーフに違いはないのだが、
いわゆるホモソーシャルノリになかなかついていけない私のような人間からすれば
改めてこの作品を見るとクロンクという存在に、勇気づけられたりもするのだ。
あと一歩、踏み込んで欲しかった
『ラマになった王様』の主題は、ドタバタコメディの皮をかぶった、クスコとパチャの疑似家族的人間ドラマである。
ドタバタコメディに見えるからこそ、ある程度「こういうもんか」と説明不足とも思えるラフな感情の揺れ動きも許容できる。
それでもやはり違和感を感じるのは、「なぜクスコがここまで凶悪な性格になってしまったのか」や「なぜパチャはここまでクスコに肩入れできるのか」という、結構メインテーマのそれこそ本質の部分だったりする。
正直、前述した「保護者不在説」は私の想像の範囲内でしかないし、
パチャが異様なまでに性善説で行動するのはやはり気持ち悪い。
ガワがコメディだからこそ、描くところをきちんと描かないと嘘くさかったり照れくさかったりするチープなドラマになってしまうし、『ラマになった王様』にも若干その気はあると思う。
WDAS内でも類を見ないほど異質の作品で、皆に愛され、存分にコメディの良さを表現できた作品だ。それでいて、刺さる部分もある、紛れもない良作。
でもあと一歩で、この作品は90年代第二次黄金期にもひけを取らない傑作になり得たんじゃないかなとも思う。