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真実だから色褪せない『美女と野獣』の素晴らしさ。

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美女と野獣 (吹替版)

東京ディズニーリゾートに『美女と野獣』をテーマにしたアトラクションが登場し、運良く先日の旅行中に体験することが叶ったために、個人的に完全なる『美女と野獣』ブームが来ている。

 

当初東京ディズニーリゾートのこの新エリアが発表された時、

比較的新しめの映画ではなく、今後もさらなる展開を控えているマーベルやスターウォーズをテーマとしたエリアではなく、

25年近く前(大規模開発発表当時)の作品である『美女と野獣』をテーマにエリアを作るなんて、なんて陳腐な発想なんだ!と思ってしまったのが正直なところ。

 

だが、実際に大規模開発を終えて現れた新エリアやアトラクションをまざまざと目にし、そこで流れる音楽に身を浸した後は、やはり不朽の名作だからこその存在感、説得力を感じざるをえなかった。

 

ディズニーアニメーション史において名作は数々存在するが、そのなかでも『美女と野獣』は超名作の部類である。人によっては最高傑作とも言えるだろう。

 

オリジナルアニメーション版が公開されてから30年になろうという今、

今更すぎるかと思うが、今回はこの『美女と野獣』を振り返ろうと思う。

 

なぜか?単に今私の中でブームだから。

 

目次

 

実写を超えたアニメーション

『美女と野獣』はアニメーション作品として史上初めて、アカデミー賞「作品賞」にノミネートされた作品である。

作品賞は「その年の最も素晴らしい映画(と米国アカデミー協会が考える)作品」に与えられる賞であり、当然のごとくノミネート作品は実写作品が主である。

数々の実写作品を抑えて「その年の最も素晴らし映画候補」の5本に選ばれたのが1991年のアニメーション版『美女と野獣』である。

最終的に作品賞の受賞は叶わなかったが、『美女と野獣』からディズニーアニメーションを、そしてアニメーションそのものを評価する軸が変わったと言ってもいい。

実写作品に負けず劣らずの、大人の鑑賞にも耐えうる良質なクオリティ。

『美女と野獣』はそんな衝撃を与えた作品なのである。

 

当時まだアカデミー賞には「長編アニメーション部門」がなく、「短編アニメーション部門」ではディズニー作品は数々の賞を受賞していた。

その後『ライオン・キング』や『アラジン』などの登場と、『トイ・ストーリー』などを作ったピクサーの作品の登場により、アカデミー賞には新たに「長編アニメーション部門」が追加され、「その年最も素晴らしい長編アニメーション作品」はそこで日の目を見ることとなった。(余談だがピクサーの『カールじいさんの空飛ぶ家』はアニメーション作品としては『美女と野獣』以来2度目のアカデミー賞作品賞にノミネートされている)

 

珠玉のミュージカル楽曲たち

先日ディズニー+で公開されたドキュメンタリー『ハワード -ディズニー音楽に込めた物語-』で語られたように、本作は企画段階では全くパッとしない作品だったところを、『リトル・マーメイド』でアカデミー賞歌曲賞を受賞したコンビ、ハワード・アシュマンとアラン・メンケンの2人によるテコ入れで大幅な変化をもたらし完成に至っている。

特にハワード・アシュマンは作詞家でもあり、ブロードウェイミュージカルの脚本家でもある。HIVにより体調を悪化させ、死の淵にいながらも強力なディレクションで『美女と野獣』を最高のミュージカル映画に仕立て上げる。

これまでもディズニーアニメーションはミュージカル要素を取り入れた作品を作って来たが、『美女と野獣』ではより本格的なミュージカルに挑戦した。

『ひとりぼっちの晩餐会(Be Our Guest)』と『強いぞ、ガストン(Gaston)』の楽しさと、『夜襲の歌(The Mob Song)』

『ひとりぼっちの晩餐会(Be Our Guest)』と『強いぞ、ガストン(Gaston)』の2曲は、誰もが好きな楽曲だろう。

余談だが私はその昔、劇団四季版『美女と野獣』のこの2曲で楽しすぎて感動して泣いてしまったことがある。

この2曲がもたらすのはどちらも「意外性」である。

おどろおどろしく不気味な野獣の城だが、『ひとりぼっちの晩餐会』を歌うルミエールら召使いたちは非常に愉快で、親切で優しい。

ベルが魔法を解く鍵であるという下心があったとはいえ、主人に禁じられているにも関わらず、彼女をゲストとして迎え、最高級のもてなしを行う。

いや、ベルが魔法を解くかどうかなどはきっと関係ない。野獣に見つかるのが遅ければ、きっとモーリスにも彼らは晩餐会を行なっていただろう。

それくらいルミエールをはじめとする召使いたちは人が良い。人が良いからこそ、野獣を甘やかして、ああいう人物にしてしまったのだろうという背景まで感じ取れる。

そしてこの曲は彼らが魔法で家財にされてしまってからの長い年月をも感じさせる。

 

また『強いぞ、ガストン』も本来卑劣なヴィランであるはずのガストンを、人気者の憎めない奴という気持ちにさせる、非常に楽しい楽曲である。

ガストンのサイドキックであるル・フゥがメインとなり歌うこの歌は非常にコミカルであるが、ガストンの魅力が存分に詰まっており、ヴィランとしての彼を矮小化させてしまう。

だがこの曲はある意味で本当のヴィランソングではない。

「ガストンは憎めなくて楽しい奴だ」と意図的に思わせるのは、観客である我々に少なからず「村人」としての視点を与えるためだろう。

 

『強いぞ、ガストン』で歌われているのは彼の表層の部分だけである。

その裏で彼はベルを妻にするための計画を企て、ベルの恋心を知った時には野獣を殺す意思を持ったヴィランへと変貌する。

だとすれば、真の意味でのヴィランソングは『夜襲の歌(The Mob Song)』だ。

そして「村人」は我々観客の中にいる。

我々観客は野獣の心の優しさや、ベルとの出会いによる変化に触れることができたが、もしそうではなかったら?

ハンサムで村のヒーローであるガストンと、頭のおかしな発明家の娘のベルの言葉のどちらを信じるだろうか?

 

『朝の風景(Belle)』と『愛の芽生え(Something There)』に詰まる情報量

90分しかない持ち時間で、オープニングから7分近くある音楽が流れるようなアニメは、前代未聞だろう。

『朝の風景(Belle)』はまさに台詞部分も含めると約7分の長尺のオープニングである。

この曲でディズニーは物語の主人公であるベルの性格、村の中での立ち位置、村人たちのベルへ抱いている印象、彼女が村で抱いている不満と夢(ウィッシュソング)、そしてヴィランであるガストンの性格や野望をベルと比較しながらテンポよくわかりやすく描き切る。

 

村人たちのベルへ抱いている印象は「美人だが変なやつ」というなかなかひどいものであり、彼らがベルという人物を上辺だけでしか理解していないことが伺い知れる。

同じようにヴィランのガストンに対しての印象は「マッチョでハンサム」という見た目の評価の一点突破。村人たちは物語終盤『夜襲の歌』のシーンで、ベルの話を聞かず、見た目の恐ろしい野獣へ敵意をむき出しにすることへ理由づけにもなっている。

多くのディズニーミュージカルでウィッシュソングは物語の中盤にあるが、本作『美女と野獣』はベルと野獣の実質ダブル主人公であるし、二人の気持ちの変化を丁寧に描くにはこれくらいの展開の速さも必要だったのだろう。そしてそれは非常に上手く作用しており、『朝の風景(リプライズ)』でより印象づけられる。

そして、歌のクライマックスのアニメーションも素晴らしい。

人々が歌いながら村を行き交うなかで、「There must be more than this provincial life!」と、ベルが自身の夢を叫びながらぐるっと村を見渡すシーンは、その複雑性、アングル、ウィッシュソングにおける重要性の高さなどを考えても、ほんの一瞬ではあるがかなりの名シーンだと思う。

その直後のガストンが「Just watch, I'm going to make Belle my wife!」と自身の欲望を叫ぶのも良い対比になっている。

 

ミュージカルでよく使われる手法で『朝の風景』(リプライズも含め)と『愛の芽生え(Something there)』では同じメロディを繰り返し用いることで観客に強い印象を与えている。1回しか見たことがない映画なのに、何度も耳にすることで物語中盤ですでに懐かしく感じる構造の妙があるのだ。

 

歌詞にも注目してみると『朝の風景』ではベルが噴水の前で本を読みながら歌うシーンにおいて

 

Oh, isn't this amazing?
It's my favorite part because you'll see
Here's where she meets Prince Charming
But she won't discover that it's him till chapter three

 

ああ、素敵じゃない?

ここが私のお気に入りなの、見て

ここで彼女は運命の王子様と出会っているの

でも彼女は第3章までそれに気づかないのよ

 

という歌詞が存在する。

『愛の芽生え』では同じメロディでこの歌詞である

 

New, and a bit alarming
Who'd have ever thought that this could be?
True, that he's no Prince Charming
But there's something in him that I simply didn't see

 

新鮮で、ちょっと驚いてる

こんなことになるなんて、誰が想像できた?

もちろん、彼は運命の王子様じゃない

でも目に見えない何かが彼の中にあるの

(英詞は意訳しています)

 

この2曲はこの同じメロディで呼応し、繋がっている。

『朝の風景』でベルが読んでいた本はまさに『美女と野獣』のストーリーと重ねあわせることができる(本屋のシーンで「変身した王子様(Prince in disguise)」という言葉もある)し、パート的に第2章に当たるであろう『愛の芽生え』の時点では野獣をまだ「運命の王子様」と確信を持っていないというのも同じだ。

 

つまらない田舎の村で、本の世界に憧れを抱いていたベルが、物語のような現実と出会い胸を高鳴らせている。『愛の芽生え』は野獣側の(行動も含めた)変化とともに、ベルの微妙な心の動き、そして「夢が現実に近づいている」印象を与える。

 

『朝の風景』と『愛の芽生え』の2曲に詰め込まれた情報量の多さと、観客への印象付けの効果はとてつもないと思う。

 

シンプルで普遍的な『美女と野獣(Beauty and the Beast)』

映画『美女と野獣』の名シーンといえば誰もが、その名も『美女と野獣(Beauty and the Beast)』という楽曲が流れる、ボールルームでのシーンを思い浮かべるだろう。

ディズニーアニメーション映画として初めて本格的にCGが導入され、ボールルームや黄金に輝くシャンデリアなどがCGで作られ、その背景を手描きアニメーションのベルと野獣がシームレスにダンスを繰り広げる。

当時の技術的にも、映画の歴史的にも、とてつもなく素晴らしいシーンだし、私自身も大好きなシーンだ。

 

この曲は彼らの心境の変化を表現した歌詞もあるにはあるが、前述した『朝の風景』や『愛の芽生え』の2曲に比べ圧倒的に情報量が少ない。翻訳しようにも非常に抽象的な歌詞でもある。

それでも、歌詞を細かに紐解いてくると、この歌の伝えたかったメッセージが見えてくるような気がしてくる。

 

歌が盛り上がる場面での歌詞は

Ever just the same
Ever a surprise
Ever as before
Ever just as sure
As the sun will rise

 

これまでと同じ

いつだって驚くべきこと

以前のようにずっと

これからも太陽が昇るように確実

Ever a surpriseの訳が難しいが、Everを繰り返したり、太陽が昇ることの法則を比喩に用いることで確実に普遍性のことを歌っている。

「Certain as the sun / Rising in the east」=「東から太陽が昇るように確かなこと」とだめ押しもある。

 

また、この曲で印象的に繰り返されるのは「〜as〜」の形式である。

「Tale as old as time」「Tune as old as song」「Song as old as rhyme」=「時間のように古い物語」「音楽のように古い旋律」「韻詩のように古い歌」といった具合か。

比喩が多いため直訳は困難だが「old」は「ever」と同じ印象を与えるために繰り返されているのだろう。やはりここでも普遍性だ。

 

そして、最後にここに並べられるのが映画タイトルの『美女と野獣(Beauty and the Beast)』なのだから、この曲の持つメッセージ性は強烈なのだ。

 

誰もがありえないと、不釣り合いだと思う「美女」と「野獣」の恋の組み合わせを、普遍的なレベルに持っていく。

昔から、どこにでもある、どこにでも起きうる、何もおかしなことはない。と。

 

作詞家のハワード・アシュマンが同性愛者であることを知っていると、この曲に込められたメッセージはより強烈に、違った響きに聞こえるだろう。

 

本作は前述の第64回アカデミー賞で歌曲賞を受賞している。

作詞家のハワード・アシュマンは本作の制作途中で心不全で亡くなっており、彼はエイズによる死者として初めてアカデミー賞を受賞した人物となった。

 

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ドラマ的演出

個人的に、非常にグッとくるシーンがある。

それが物語序盤の終わり頃「ベルが西の塔にある野獣の部屋で魔法の薔薇を見つけるシーン」だ。

 

このシーンは、ベルがルミエール・コグスワースの2人と離れてから、野獣が登場するまでの間でセリフが全くなく、ベルのため息や声にならない声と、音楽だけが流れる。

そのセリフなしの1分半ほどの間でベルは切り裂かれた野獣の人間時代の肖像画を見つける。

 

これまでのディズニーアニメーションは、比較的セリフ、もしくは歌で状況を説明するシーンが多かった。(一部アニメーションにはセリフも歌もないがあまりにも抽象的すぎて理解が追いつかないというシーンもあるが)

このシーンは沈黙とベルの表情への「寄り」だけで全てを伝えようとするドラマ的な演出が使われている。

 

破れた部分を手で持ち上げ、ベルはその人物像を見るが、画面は怪訝そうなベル表情に切り替わる。

観客はプロローグのシーンで野獣が自らこの肖像画を切り裂くシーンを見ているため、これが野獣の本当の姿であることを知っているが、ベルがこのシーンで野獣の本当の姿に気づいてはいない。気づいていたとして、現に今彼は「野獣」だ。(しかもまだベルに心を許していない)

 

ベルはクライマックスで変身した野獣の正体に訝しげに見つめ、人間に戻った野獣の瞳を見つめることで全てを理解する。

 

「野獣は人間に戻るべきではなかった」なんて、ある意味では薄っぺらい

 物語のクライマックス、真実の愛を手に入れた野獣は魔法が解けて元の人間の姿に戻る。(人間になった野獣は「アダム」と呼ばれていたみたいな話が昔はあったが現在は公式に否定されている、が今はとりあえず関係のない話)

 

この「人間野獣」に愛着がない人々が(製作したディズニーのスタッフ含め)世の中に非常に多いため、時折「野獣は人間に戻るべきではなかった論」が巷には多く出回っている。

 

『美女と野獣』の根底に流れているテーマは「人を見かけで判断しない」なのは、この映画を見ればある程度は理解できるだろう。

ベルは様々な出来事を経て、野蛮な外見によらず、野獣の人間性に好意を抱いたのだから、そんな野獣がもとのイケメン王子に戻るのはテーマの根底が歪むような気がするのはなんとなくわかる。

人間野獣ではない野獣の方に愛着があるのもすごくわかる。

 

だが冷静に考えてみれば「人を外見で判断しない」というのは、そもそも美しいからといって中身まで美しいかどうか、という話でもあるのだ。

本作のヴィランのガストンがまさにそうだろう。

 

彼はハンサムで、マッチョで、村中の人気者であるが、粗野で、横暴で、目的のために手段を選ばない人間だった。

 

ならばイケメン王子になった人間野獣も、見た目は美しく変化したが、中身が心やさしき野獣のままなのであれば、そこに生まれたベルとの愛は真実の愛に違いはないはずだろう。

 

「ありのままの自分」を推奨するのだったら野獣の外見でもいいじゃないとも思わなくもないが、そもそも人の外見に他人がどうこう言う事自体が間違いであり、美容整形よろしく、人が外見を変えようとする事自体は他人が文句をつけたり否定するべきではないはずだ。

野獣の場合、魔法で野獣に変えられたわけで、人間の姿こそが「ありのままの自分」だし。

 

野獣の成長物語

『美女と野獣』のはベルと野獣のダブル主人公である。

物語自体はベルが主導になり動かしていくが、「心の成長」という観点で言うと野獣こそが主人公と言ってもいい。

 

野獣とガストンは、そもそもの始まりとしては非常に似たような人物である。

人間時代の野獣もハンサムであったし、王子であるからして人々の人気者、甘やかされ贅沢三昧で、しかも人が困っていようと見た目のみすぼらしさで切り捨てる横暴な人物だ。序盤のモーリスやベルに対しての接し方も、癇癪の起こし方も、擁護できないほどに激しい。

 

そして、野獣にされてしまった後ですら、野獣は人を外見で判断している。

ベルを夕食に誘った後彼女を待つシーンで彼は

「Oh, it's no use. She's so beautiful and I'm...Well, look at me!!(お手上げだ、あの子は美人だが・・・私を見ろ!!)」

と叫ぶ。

彼女が美人であるから、自分が「野獣の見た目であるから」不釣り合いであり、受け入れられないと信じきっているのだ。

 

これはガストンが、「自分がハンサムであるからベルが自分を好くはずだ」、そして「ハンサムな自分には美人の妻がふさわしい」と考えていることと、本質的には違わない。

 

そして、そもそも野獣はベルを心から好きになるという以前に、この時点では「人間の姿に戻るためチャンスを逃すまいとしている」だけなのである。

だからこそ「命令」という形でベルを夕食に従わせようとする。

 

森の中での狼との死闘、そしてその手当の中でのベルとの「本音」での語り合い、そして、彼女の言葉と優しさを素直に受け入れたことが、野獣の「真実の愛」への第一歩のスタートである。

 

やがて野獣はベルの「父親への思い」を理解し、自分が本当の姿に戻ることよりも彼女を解放することを選び、

クライマックスではガストンと昔の自分を重ね合わせ、崖に突き落とすこともできたガストンを生かす決断をする。

「この男はかつての自分だ、自分が変われたのだから、もしかしたらこの男も・・・」と野獣はそう思ったのだろうと推測する。

このシーンもまた、セリフではなく野獣の表情とプロローグと同じ音楽を流すという演出だけで観客に想像させるつくりになっている。

 

何度見ても面白い

好きなディズニー映画を聞かれた時に『美女と野獣』を挙げることはあまりない私だが、まぁこんだけたくさん語ろうと思えば語れるくらいには好きなようである。

 

この記事を書くにあたって改めて繰り返し見たのだが、やはり何度見ても面白いし、色褪せない素晴らしさが詰まっている作品だ。

 

実写版『美女と野獣』も現代的な視点を新たに取り入れ、『強いぞ、ガストン』のお蔵入り部分も収録し、アラン・メンケン作曲の新曲まで入れて非常にウェルメイドな作りで良かったのだが、それらを加味してもオリジナルの魅力には勝てないなと思ってしまう。

 

おそらく誰に勧めても間違いないし、制作から30年経とうとしている今でもケチのつけようがない最高傑作の一つであるこの『美女と野獣』。

東京ディズニーランドの新エリアに行かれる前には是非とも見返してみてほしい。

美女と野獣 オリジナル・サウンドトラック 英語版+日本語版
 

 

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