生きていくなんてわけないよ

ディズニーファン向け娯楽ブログ

実写版『リトル・マーメイド』の「存在意義」とは。私の偏見すら越えていく。

Sponsored Link

【メーカー特典あり】リトル・マーメイド (オリジナル・サウンドトラック(日本語版))(特典:クリアファイル付)

 

偉そうに差別や偏見をなくそうだの、ずっと言っていたけど、もちろん私にも偏見がある。

人は誰しも偏見や差別心があるということに気づかされる映画の代表格といえば『ズートピア』だが、それはまた別の話。

私が持っていた偏見はまた少し特殊といえば特殊で、今回の映画が「ロブ・マーシャル監督作品である」「オリジナルや続編ではなくリメイク」ということで、期待値がかなり低かった。

実際そういう部分ももちろんあって「今年いちばんの最高傑作!」というほどの出来でもないのだけど、僕自身彼の作品をもう少し丁寧に見てもいいのかな、という気持ちになった。

 

というわけで、実写版『リトル・マーメイド』の感想です。

目次

ディズニー実写版リメイクの傾向

ディズニー実写版リメイクの傾向は大きく分けて2種類に分けられる。

  1. リメイク元のディズニーアニメを忠実に再現したもの
  2. リメイク元のディズニーアニメを大幅に改変したもの

まぁ、そりゃそうだ、っていう感じなんだが、

1にあたる作品は『シンデレラ』『美女と野獣』『アラジン』『ピノキオ』などで、

2にあたる作品は『マレフィセント』『ジャングル・ブック』『ダンボ』『ムーラン』『クルエラ』などである。

(現時点で実写版『ライオンキング』『わんわん物語』『ピーターパン&ウェンディ』などが未見であることを許してほしい)

 

そもそも私にとって2の作品の方が高評価しがちな傾向にある。(『マレフィセント』は例外、と太字で記載しておく)良くも悪くも、リメイク元の作品を大きく変えるという挑戦をしたことを私は評価し、新しい世界や価値観をストーリーの破綻なく見せつけることができてこそリメイクの意味があると思ってしまうからだ。

 

1にあたる作品も、決して低評価ではない。それはリメイク元の作品が素晴らしいからという当然の理由もあるが、本筋は変わらないにしろ、付加された要素や背景描写が繊細であればあるほど物語に深みを与えることができ、その変化を見つけること楽しいからである。

とはいえ「そもそもリメイク元が面白い」というのは制作上大きなハンデをもらっているということで、だからこそ「本当に作る意味があったのか?」ということを考えがちだし、リメイク元よりも尺が長くなる分の飽きさせないテンポ感であったり、メッセージがより明確に伝わってくるか、というところは比較的シビアに判断する傾向にある。

 

そして本作『リトル・マーメイド』の立ち位置は1にあたる。

 

ロブ・マーシャル監督とディズニー

私がロブ・マーシャル監督作品と出会ったのは2014年の『イントゥ・ザ・ウッズ』である。

豪華俳優陣により映画化された、米国で大人気のミュージカル作品。

ディズニーがディズニー自身でおとぎ話のキャラクターたちを描きなおす、ということで非常に楽しみであった。

上映開始後も、プロローグの楽曲「イントゥ・ザ・ウッズ」の圧倒的な歌唱がかなり魅力的であり、惹きつけられた。細々とした展開も要素要素でいえば面白い。しかしながら各々に展開させたストーリーをうまくまとめることができたとはいえないまま、散漫にエンディングに帰着しており「結局これはなんだったの?」という感想だけが残る作品となっていた。キャストや楽曲がいい分、勿体無い。ジョニー・デップの無駄遣い。

 

そして『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』である。

 

『パイレーツ』の本編とも言える3部作を終え、スピンオフとして登場した本作。

(結果的に今では5部作ということになっているけど、今後また変わるかもね)

これは2011年の作品で『イントゥ・ザ・ウッズ』より前の作品だが、私は公開からかなり遅れて見ることとなった。

 

『パイレーツ・オブ・カリビアン』の魅力は、複数のキャラクターたちがそれぞれの思惑を持ち、それを隠しながら他のキャラクターに交渉を仕掛け、交渉されたキャラクターもまた別の思惑を持ち・・・という複雑に絡みあった駆け引きと戦闘、裏切り、ひっくり返る敵と味方、という展開がスリリングで魅力的なシリーズである。

それが『生命の泉』は登場人物が比較的少ないということもあってか、そこの魅力がかなり削がれている印象があるほか、途中ジャック・スパロウとバルボッサが「普通に仲がいいだけ」みたいなシーンがあり、それはそれで和むものの、違和感が拭えない。

 

その他『メリー・ポピンズ リターンズ』という傑作もあるものの、この作品は「リメイク」という立場ながらも前作の『メリーポピンズ』のストーリーを丁寧になぞるような展開と骨子を用意しており、前述した「挑戦」や「新しい世界・価値観」という点において大きな印象は感じられなかったのも正直なところである。

 

ロブ・マーシャル監督作品を全て見たわけではないものの、特徴として「複数のキャラクターが異なる思惑を巡らせ絡み合う」ような特徴を持つ作品が苦手なのではないか?という印象がある。

そういう意味では『リトル・マーメイド』は、物語が非常にシンプルで、ロブ・マーシャルの得意な分野だろう、だがそれはおそらく「1.リメイク元のディズニーアニメを忠実に再現したもの」になるだろうという大前提があるということだし、しかもそれは私が高く評価する部分ではない・・・だって原作が素晴らしくて失敗のしようがないのだから・・・、というこっちが立てばあっちが立たないようなジレンマがあった。

 

ささやかに深く、ツボを突いてくる

実写『リトル・マーメイド』冒頭、ロブ・マーシャル監督が提示したのはなんとハンス・クリスチャン・アンデルゼン原作「人魚姫」の一文の引用であった。

 

「だが人魚には涙が流せない。だから余計に辛かった」

 

冒頭から、胸がギュッと掴まれるようなセンチメンタルな一文である。エモい。

ただ、余計に気が引きしまった。「この程度でこの映画を高評価してはいけない、だがこれは、エモい」

 

ロブ・マーシャル監督はこういう、さりげなくファンの心を突いてくる演出がうまいと思う時がある。『メリーポピンズ リターンズ』で登場する、『メリーポピンズ』に登場した数々のプロップス。そして『生命の泉』に登場する「ポンセ・デ・レオンの船」のベッドルームのシーンが、海外ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」にあるシーンに酷似していたり、だ。

また「人間のせいで母が死んだ」設定は『リトル・マーメイド3』から、アリエルとアースラが姪と叔母の関係(トリトンの妹)であるという設定はミュージカル版からの引用である。

 

アニメ版『リトル・マーメイド』のアリエル声優ジョディ・ベンソンのカメオは「あるだろうな」と思ったらしっかりあった上に、それが「カミスキー」を手渡すシーンだったのは胸熱である。

 

また、アリエルとエリックが村を散策しているときに、アリエルが花を食べるシーンは、おそらく本作より前にディズニーアニメの『リトル・マーメイド』のオマージュを多く盛り込んだDC/ワーナーの『アクアマン』に対するアンサーのようにも取れた。

アクアマン [Blu-ray]

アクアマン [Blu-ray]

  • ジェイソン・モモア
Amazon

www.sun-ahhyo.info

付加された「エリック王子」の人物像

ディズニーアニメーションのプリンセス映画において「王子」の背景がしっかりと描かれた作品はそこまで多くはない。『美女と野獣』はダブル主人公とも言えるし、『アラジン』は王子(となるアラジン)が主人公であるから、彼らの背景により迫っていたのは当然だ、と『プリンセスと魔法のキス』や『塔の上のラプンツェル』くらいだろうか。

エリック王子はアニメ版『リトル・マーメイド』でも比較的活躍するキャラクターではあるけど、実写版ではより彼のバックグラウンドに迫る描写が付加されている。

 

彼もまた、自国の城という狭い世界に囚われていると感じ、まだ見ぬ外の世界に憧れる存在であるのだ。

 

アリエルとエリックが出会ってから、彼らは映画終盤まで言葉を交わすことがない。

アリエルがエリックを助けた少女であるという断定要素が「彼女の歌声」である以上、言葉を奪われたアリエルに、エリックが恋に落ちるのは「アリエルの溢れる魅力に気づく」というプロセスが必要で、それはアニメ版でも描かれていた。

 

だが、エリック自身が「冒険に憧れを抱いている」ことや「ありとあらゆるものを収集する癖がある」というところが、言葉を交わせなくとも彼らを近づける要素となる。

 

そもそもアニメ版で人間の世界に憧れたアリエルが、「人間になれた」から、めでたしめでたしで、そのまま大人しくお城で生活するのだろうか?という疑問があった。

 

本作実写版のエンディングは、アニメ版と同じく「船と海」で終わる。

だが「結婚式」という王位継承や家庭といったイメージではなく、恋に落ちた二人が、人魚の世界とも、エリックの王国とも別れを告げて、自分達だけの新たな旅立ちを始めるという「解放」が象徴されている。

 

新たな、そして待ってました!の新曲

アニメ版『リトル・マーメイド』の地味に惜しいところは、アリエルの歌唱曲が「パート・オブ・ユア・ワールド」しかないところだった。

これに気づいたのは『ディズニー・オン・クラシック リトル・マーメイド・イン・コンサート』を観に行った時で、せっかくオリジナル声優のジョディ・ベンソンが来日もしてくれたのに、ソロで歌う曲が「パート・オブ・ユア・ワールド」1曲しかなかったのだ。(映画版では一応、「リプライズ」もあるけど)

 

歌唱シーンが少なければ、せっかく歌姫のハリー・ベイリーをキャスティングしたのに映画としての魅力が半減してしまう。

それを回避するためか、実写版では「パート・オブ・ユア・ワールド」のほか、セバスチャンの歌う「アンダー・ザ・シー」のコーラス、そして新曲「フォー・ザ・ファースト・タイム」と出番が増える。

特に「フォー・ザ・ファースト・タイム」は名曲だ。アリエルが声を奪われた後、という異様なシチュエーションだからこそ、アリエルの「心の声」として、現実世界で突然歌い出す違和感をあっさりとクリアしている(クリアする必要はないけど)上に、人間になった彼女の好奇心や恐れを見事なまでに描いている。

 

エリック王子も自身の思いを打ち明ける「ウィッシュソング」とも言える曲「ワイルド・アンチャーテッド・ウォーターズ」を披露するし、何より待っていたのはスカットルとセバスチャンの歌う「スカットルバット」だ。

 

実写版『リトル・マーメイド』が発表された際、オリジナル版の作曲家アラン・メンケンのほかリン=マニュエル・ミランダが参加することが発表された。

ミランダは『モアナと伝説の海』『ミラベルと魔法だらけの家』の楽曲やディズニー+配信中の舞台『ハミルトン』やワーナーの『イン・ザ・ハイツ』に参加している。

しっとりと聴かせる楽曲のみならず、早口言葉的・いわゆるラップ調のスピード感のある曲を作るところが特徴である。(『モアナ』の「ユア・ウェルカム」も日本語吹き替え版ではその勢いが殺されているが、英語版はラップパートがある)

 

本作でセバスチャンを演じたダヴィード・ディグスは『ハミルトン』に出演しているし、スカットルを演じたオークワフィナはもともとラッパーである。

これは「ラップソングがあるな」と、いやでも期待せざるを得ない。するとやはり期待に答えてくれた。

 

余談だがオークワフィナが出演した『クレイジー・リッチ!』には主人公の真っ赤な服装を「セバスチャンみたい」といじるシーンが存在する。

アリエルを黒人にする意味はあったのか?

私の結論から言えば「『意味がない』ことに『意味がある』」だ。

 

ディズニーは近年「生きていることに大きな意味がなくたっていい」「生きているだけで生命は尊い」というメッセージを送り続けている。

ピクサーの『ソウルフル・ワールド』、ディズニーの『ミラベルと魔法だらけの家』などがその代表格だ。

また同じくディズニーの『ストレンジワールド』やマーベルの『エターナルズ』で散見された感想に、こういうものがよくある。

 

「無理やり多様性が詰め込まれている」

 

黒人やアジア人、同性愛者等が登場する作品でよく出てくる感想だ。

「無理やり多様性を入れる」って何?

そもそも、これまでの作品が無理やりも何も、白人しかオーディションを受けることが許されなかったり、本来は白人も黒人も住んでいるコミュニティに「無理やり」白人だけしか住んでいないような演出がされていたのに?

 

無理やりも何も、保守的な人がどれだけ否定しようが、多様性は今この世界に存在している。

それをごく当然に映画に取り込んだだけ。

もしくは「無理やりに」でも入れなければ、白人ばかりの映画になって、あなたたちのような人たちが増えてしまうからだ。

 

実際、ディズニーでは同性愛者のシーンを上層部によって「無理やり削除されていた」という経緯も存在する。

jp.ign.com

ディズニーばかりが取り沙汰されるが、各映画会社がこぞって多様性を尊重する描写を多く取り込んでいるのは、政治的に正しさ(ポリティカル・コレクトネス)だけでなく、それがマーケティング的な意味合いも含めて適正だと判断されているからだろう。

 

「意味がなくては存在してはいけない」のであれば、

私や、この画面の向こう側のあなただって、存在意義が危うくなる。

それは映画でだってそうだ。「役柄」でなく「肌の色」でそれを言われてしまうならばなおさらだ。

 

「意味がなくても存在していい」

 

これは本作がアニメ版と大きくストーリーが変わらなかったこととも深く関係しているだろう。

 

ハリー・ベイリーがアリエルを演じるに至った経緯は、確実に彼女の歌声が映画において重要な役割を果たすと判断されたからだろう。

もちろん、マーケティング的な意味合いも込めて「黒人のアリエルを起用したい」という意図もあったに違いないし、それを否定はしない。だがそれは「人気の白人歌手をアリエルに起用したい」という思惑となんら変わりがない。

 

アニメ版『リトル・マーメイド』を愛する人が、自身の強い思い入れから見た目の異なるリメイク版のキャラクターを忌避したくなる気持ちもわからないでもない。

『美女と野獣』のエマ・ワトソンはベルにぴったりな配役だったから、余計にそう感じるかもしれない。

 

「自分の期待していた作品ではなかった」という感想に対して私は別に文句もないのだが、「アリエルが黒人だなんておかしい」という反応には私ははっきりと異を唱えたい。

多様性はどこの世界にも存在していて、それは人魚の世界でも同じ。

ヒレが魚のトリトンの、妹のアースラはタコだったりする(肌は紫)。

アリエルの姉たち(もちろん他の人魚たちも)も、白人も、ラテン系も、アジア系も存在する。

 

そもそもこの作品はファンタジーだ。

実際に存在しない「人魚」の人種について、論理的に語るというのは不可能だ。

 

これからを担う子供達へ

小さな子供がアニメ版『リトル・マーメイド』に初めて触れると、この世界には白人しか存在しなくて、現実世界とかけ離れていると感じるかもしれない。

だが、実写版に触れることで、あり得ないようなファンタジーの人魚の世界も、より身近に感じられるだろう。

 

いままでプリンセスといえば白人が主だったディズニーの世界において、『プリンセスと魔法のキス』のティアナの他に新たな選択肢が増えるのは、子供達にとっては嬉しく、刺激的なことだろう。

 

「子供達の世界は平和な世界だ」と言ったのはウォルト・ディズニーの言葉だったか、そこから「イッツ・ア・スモールワールド」というアトラクションが生まれた。

偏見や差別のない世界を生み出すためには、無垢な子供達がどんな作品に触れて学んでいくか、現実世界を認識していくかにかかっている。

 

一部の人たちが「アリエルが黒人なんて変だ」「人魚が黒人なんて変だ」と感じるように、幼い頃から実写版『リトル・マーメイド』に触れた子供達はきっと「どんな肌の色の人だって人魚になれる」と感じるだろう。

 

総じて、ディズニー映画として100点

さて、いろいろと書いたがまだ書ききれていないことでいえば、正直今作で一番名演を見せていたのはメリッサ・マッカーシーで、アニメ版の再現度でいえばやはり彼女が完璧だったように思う。

ハビエル・バルデムも繊細な演技で見事トリトンを演じてみせた。冒頭の「人魚には涙がない」は本作ではトリトンの気持ちだったんじゃないか?と思うほどに。

 

最高の歌、演出も洗練されていて、ハッピーエンド。

総じてディズニー映画として100点の作品が生まれたと思う。

 

私個人としては冒頭に述べた「リメイク元を忠実に再現した作品」という点で、「やっぱり見たことある作品だな・・・」という気持ちが最後まで拭えなかったことが少し残念でもあるし、大きく期待を超えなかった部分もある。本作に関しては「あえて忠実に」したような意図も少なからず感じるのだ。だからこそ細かな違いが焼きつくように印象に残る。

 

とりあえず「ロブ・マーシャル監督の作るディズニー作品だから」と斜に構えて見てしまうのは良くないな、とも思いましたので反省。

 

また観に行きたいですね。

 

 

おすすめ記事

www.sun-ahhyo.info

www.sun-ahhyo.info

www.sun-ahhyo.info